11

 着いた先は全国チェーンのビジホだった。


「部屋は粗末ですがセキュリティは優秀です」


 チェックインし、ルームサービスでパスタを二人分注文して食べた。部屋のシャワーを順番に浴びた。小さなテーブルを挟んで冷たい飲み物を飲んだ。私は普通のビールだが、事務局長はノンアルのビールを選んだ。


「普通の飲まないの?」


「いざという時のため、アルコールはちょっと」


「明日はどこへ?」


「ご友人のもとへ行きます」


「会えるの?」


「会わなければなりません。手遅れになる前に」


 事務局長がテレビをつけてニュースを見始めた。彼女がテレビを見るのを見るのは初めてだった。別荘でも、彼女が在宅の際は、テレビは必ず消えていた。


「テレビとか見るんだね」


「意外ですか?」


「うん意外。テレビ嫌いそう」


「バラエティやドラマは嫌いですよ」


「どうして?」


「あの作り物っぽいのが肌に合わないんですよ。バラエティのひな壇のオーバーリアクションとか、ドラマの演出とか」


「バラエティは分かるけど、ドラマのってたとえばどんな?」


「刑事ものでも法廷ものでもなんでもいいんですけど、役者が五人くらいずらっと横にまっすぐ並んでこっちに歩いてくるシーンとか」


「ああ、なぜかスローモーションでね」


「あれって絶対通行の邪魔じゃないですか。あのカメラを異常に意識した演出が嫌で」


「なんか分かるかも」と私は笑った。


 ちょうど時計の長針が真上を示す直前だったので、ニュースはすぐに終わってしまった。そして事務局長が憎んでいるドラマが始まったので、私はテレビを消した。チャンネルを変えてもどうせ五十歩百歩であることは明白だ。


 ベッドに腰かける事務局長がスマホでYouTubeを見始めた。私がその様子をじっと見つめているのに気づいた彼女は、私を手招きして、ベッドの隣に座らせた。


「スマホ見ていいの?」


「もういいです。情報の菜食主義は終わりで構いません」


「私はもう用済み?」


「指導者としての役割を降り、次の役割に移ろうとしているのです。我々にはあなたが必要です」


 我々、か。

 

 人を篭絡するのに慣れた男の低く重い声がスマホから響いてくる。映っているのは、Yがターミナル駅の前でマイクを持って声を張り上げる様子だった。


「先日、社会学者のN氏がおっしゃったように、カゲナシにはある共通点があります。僕はN氏のように慎ましい性格の持ち主ではないのでハッキリ申し上げます。カゲナシは障碍者手帳の所有者、つまり『手帳持ち』の割合が多いのです。それも、身体的な障害ではなく、精神障害によるものです。統合失調症、うつ病、ADHD、中には薬物依存やアルコール依存といった自業自得としかいいようのない人たちもいます。現在政府が発表しているカゲナシの確認数は約九千人です。そしてなんと、そのうちの約10%が『手帳持ち』なのです! 十人に一人ですよ! いま現在確定しているだけで! これが偶然と言えますか? ……日本人の三十人に一人が何らかの精神障害を患っているといいます。これは軽度のADHDも含みます。三十人に一人です。3%ちょいです。カゲナシの『手帳持ち』の割合は10%です。3%と10%。この差は偶然という言葉で片づけることはできません。障碍者手帳は、公共交通機関の運賃割引、携帯電話料金の割引、博物館や美術館などの公共施設の入場料割引、医療費の助成、福祉手当の支給などなど、さまざまな補助を受けることができます。そして言うまでもなく、その財源は我々『普通の日本人』の税金です!」


 私と事務局長はYの動画を中断し、かわいい動物の動画を見て小さく笑い合った。動画鑑賞を切り上げた後は喋りまくった。ほとんど世の中に対する悪口だった。喋り過ぎて軽い酸欠になって顔の表面がぴりぴりと痺れた。


 だんだんと会話の間隔が長くなっていき、やがて事務局長の頭がこくりこくりと揺れ始めた。そしてついに目を閉じて項垂れてしまった。


 私は事務局長の体をそっと倒し、仰向けで寝かせた。でもベッドの縁に腰かける体勢だったので、体はベッドを横断する形になってしまい、足は枠の外に飛び出してしまう。私は彼女の足を持ち上げて動かし、ベッドにきちんと収まるよう方向を整えた。事務局長は明らかに目を覚ましていたが、何も言わずにじっと身を任せていた。


 私は部屋の照明を落として自分のベッドに潜りこんだ。霧のようなまどろみが脳の中心に向かって凝縮していき、点になって消えると、私は友人になっていた。友人は個室タイプの病室にいた。友人は何かを叫んだけど、すぐ目の前にいる数名の男女はちっとも反応してくれない。友人は叫び続ける。その叫びに気づかず、一人、また一人と病室を出て行ってしまう。やがてようやく一人の女が足を止め、こっちを振り返る。彼女は言った、「なんか音楽聞こえない?」。その声を聞きつけた男が戻ってきて、「音楽がなんだって?」と眉根を寄せた。「聞こえない? 音楽」「いや何も……あ!」男がこっちを指さし、「何かいなかったか? 影が見えた」と言った。「え、やだ、ゴキブリとか?」と女は不安げに言った。「気のせいかも」と男は言った。「そんなことより、代表を探さないと」と女は言うと、病室を出ていった。男はしばらく怪訝そうにこっちを凝視していたが、やがて女を追って消えた。友人も彼らの後を追おうとしたけど、壁に貼りついたように一歩も動けなかった。そして気づいた。友人には肉体が無かったのだ。


 事務局長に肩をゆすられて目覚めた時、部屋にはやや埃っぽい闇がみっちり詰まっていた。事務局長は人差し指を私の唇にぴしゃりと当て、広がりのあるまなざしで虚空を捉える。かなり集中しているのが分かった。実際に何かが見えているようだった。数十秒のあいだ、換気口が風を吸い込んでどこかへ運んでいく音だけが場を支配していた。


「近いです」と事務局長は言った。「すぐにここを出ます、支度を」


 私は「どうして?」なんてマヌケな質問はしなかった。備え付けのゆったりしたルームウェアを脱ぎ捨て、外着を身に着けた。

 

 嫌がらせのように明るくて誰もいない廊下を、私たちは早足で進んだ。非常口の緑の誘導灯がぼんやり灯っている防火扉を通り、外階段をけんけんけんけん下った。駐車場まで誰にも見咎められずにたどり着くことができた。こんなにも簡単に逃げ出せるのはホテルとしては欠陥なのか、あるいは安全性の証左なのか。


 ハンドルを握る事務局長の左手のアップルウォッチを見て、今が深夜の三時を回ったあたりであることを私は知った。女性は腕時計を右手につけるという謎の先入観がかつてあった気がするけど、あれはなんだったのだろうとふと思った。


 車載ホルダーにセットされた事務局長のスマホに着信があった。事務局長はハンズフリーで通話に応じた。相手は〈影の輪〉の幹部の女で、友人が病室から消えてしまったことを報告した。


 通話を終えると、事務局長は「大変なことになりました」と声を落とした。


「根拠はないんだけど」と私は言った。「友人は、住んでる街に戻ってる気がする」


「〈影の輪〉の本部もご友人の街にありますし、可能性は高そうですね」


 街から出るのを「逃げ」だと感じた友人自身が、決意表明を打ち立てるように、住み慣れた街に本部を構えることを決めたのだ。


 やがて車はトンネルに入る。くすんだ闇と橙色の照明が交互に事務局長の横顔を撫でていく。驚くほど長いトンネルを出ると夜が明けていた。道沿いのガードレールの向こうに、今まさに目を覚まそうとしている盆地が朝霧を抱き込んで広がっていた。いつの間にか車は山を上っていたようだった。遠回りのように感じるが、追っ手を撒くための作戦なのだろう。


「なんで福音派のやつらは私を追ってくるんだろう?」と私は言った。「あいつらは私の代わりを見つけたんだし、もう用済みでしょ私は?」


「用済みだからです。すでに連中にとってあなたは邪魔者なんです」


「どうして? カゲナシ製造機は多いに越したことはない。なんで減らそうとするの?」


「ぼんやりしたイメージでしか説明できないのがもどかしいのですが」と前置きしてから、事務局長は話し始めた。「指導者は音源なんです。その音源は極めて可聴域の狭い音を発します。素質のある人間はその音を聞き取り、理解し、獲得し、カゲナシとして目覚めます。ですが、ひとつの音に耳が慣れると、別の音を聞き取れなくなる。我々はそう考えています。Xの音を聞き取れる人間は、いわばX型のカゲナシになります。しかし福音派は、福音派型のカゲナシを一人でも多く増やしたいのでしょう」


「結局ただの派閥争いじゃん。カゲナシ同士でいがみ合って、くだらない」


「おっしゃるとおりです。実にくだらない。一致団結すべき時に内ゲバなんて。結局カゲナシもただの人間です」


 カゲナシは影を持つ普通の人間と何も変わらない。それは友人がずっと世間に向かって叫び続けてきたことだった。でも、ここまで何も変わらないなんてあんまりだ。

「こんなのはどう? 私たちはもうカゲナシを生み出さないって約束するんだよ。そうすれば、福音派が私を狙う理由はなくなるじゃん?」


「すでにその申し出は試しました」


「で、この有様と?」


「ええ。まるで言葉が通じていないようでした」


 山道の急なカーブを曲がるたびに、私は事務局長の運転の荒さを、体のふり幅で思い知ることになった。頂上に迫ったあたりに展望台があり、そこで休憩を挟むことになった。


 事務局長が自販機で飲み物を買ってくれた。私はコーラ、事務局長はコーヒー。木の手すりにもたれて、焦点の曖昧な視線を眼下の盆地に注いだ。盆地に溜まった朝霧は朝焼けに映えて金色に輝き、その向こうに広がる町並みは雲の上の天国のようだ。

「ねえ、消えた影はどこに行くのかな?」と私は言った。


「考えたこともありませんでした。煙のようにただ消えるのでは?」


「でも、煙だって薄く散らばって空気に溶けて見えなくなってるだけで、完全に消えるわけじゃないよね。粒子として留まって、たとえば喫煙所の壁に黄ばみとして残り続けたりもする」


「影も同じだと?」


「いや、そういうわけじゃ……。そもそも影が消えるということ自体が物理法則に反してるわけだし」


「しかし考えてみれば不思議ですね。影はどこへ消えるのか、ええ、不思議です」事務局長はコーヒーをぐっと呷り、缶を手すりの丸太の支柱の上に置いた。くんっと乾いた音が散った。すでに中身が空のようだった。「心当たりはありませんか?」


「え?」私は事務局長の横顔を見た。地面と壁には決して影を落とさないカゲナシの顔には、しかし、朝焼けを受けてくっきりと美しい陰影が出来上がっている。「心当たり?」


「なんでもありません。忘れてください」事務局長はかぶりを振り、「ところで、これは言うべきかどうか迷っていたのですが」と続けた。


「なに?」


「どうやら、カゲナシの行方不明者が続出しているようなのです」


「え……?」


「そして、どうも行方不明者の多くは、あなたの音源を聞き取ったカゲナシたちのようなのです」


「まさか、福音派のしわざ?」


「ところが犯罪の線は薄いそうで、自主的に姿を消したとしか考えられないパターンがほとんどのようなのです」


「なにそれ、家出?」


「詳細は分かりかねます。ひとまずお耳に入れておこうと思いまして」


 ゴミ箱に空き缶を放り込んで、私たちは車に乗って旅を再開した。山を下り、車通りがまばらな二車線道路を走った。まだ眠りから覚めていない片側アーケードに入る。私の目は自然と、そこを歩く人間一人一人に影があるかを確かめていた。東から鋭い角度で飛び込んでくる陽光に、アーケードの下を歩く人々は否応なく検閲を受ける。


 熱心に影をチェックしているわけだけど、仮にカゲナシを見つけたとしても私は何かアクションを起こすつもりは毛頭なかった。ただチェックするだけ。チェックすること自体が目的だった。通行人の服装を眺めるよりも不毛な作業だった。服装は少なくとも参考にできる。影は参考にすらできない。


 片側アーケードの終点は交差点になっていて、そこに差し掛かる寸前、右の道路から自動車が信号を無視して進入してきた。とても見通しの悪い交差点だったので、角にある美容室の壁から車がにゅっと生えてきたみたいだった。事務局長は急ブレーキを踏み、続けてはっと息を吸い込んだ。ブレーキを踏むのと息を吸い込む順序が逆ではないかと思ったが、進入してきた自動車が古ぼけた黒いベンツなのを認識して、一転、納得した。ベンツは交差点でふてぶてしく停止し、飛び散るクラクションを物ともせず、私たちの行く手を阻んでいた。


 事務局長は舌打ちを飛ばすと、ギアをバックに入れ、上体をひねってリアガラス越しに道路を睨んだ。幸いにも後続車はなかった。片手でハンドルを操作して車を後退させる。アーケードにケツをつっこんで強引に方向転換し、来た道を引き返した。ルームミラーを見ると、ベンツが小さく張り付いていた。事務局長はアクセルを強く踏み込んだ。曲がり角のたびに左折した。あまりにも左折だらけなので元の場所に戻ってしまうのではないかと思ったけど、景色はすっかり見慣れないものに変わっていた。それでもルームミラーの中には見慣れたベンツが変わらぬ大きさで収まっていた。


「時間の問題です。おそらく連中の中に、私の〈音〉をすっかり覚えている者がいるのでしょう。どこに隠れても無駄なようです」


「うん」と私は言ったけど、本当は「まさか」と答えたかった。事務局長が何を考えているのか、手に取るように分かったから、私はその言葉を否定して彼女のシナリオに待ったをかけたかった。でも彼女の心はもう決まっているようだった。


「ほどなく繁華街に入ります。そこで折を見てあなたを降ろします。人に紛れて逃げてください。どこかでタクシーを捕まえて、ご友人の街へ向かってください」


 事務局長は正面を見たまま、左手で助手席のグローブボックスを開けると、中から真っ赤な皮財布を取り出した。彼女は原色系のアイテムを所有できない呪いにかかっているものと思っていた私に、その派手な財布の登場はちょっとした驚きと、そして親愛の情をもたらした。


「現金は大して入っていませんが、べつに警察に追われているわけではありませんのでカードを使って構いません」


 事務局長は財布を私に押し付けてグローブボックスを閉じ、独り言のようにクレカの暗証番号を呟いた。いったいなんの偶然か、その四桁の番号は私の誕生日とドンピシャだった。


「待って。私一人で逃げたとして、私の〈音〉を追われたらどうしようもない」


 財布をしっかり受け取りつつも、私は反論した。反論はしたぞと、後々自分に言い訳できるようにするための、形だけの反論だった。


「大丈夫です、連中はあなたと接する機会はさほど多くありませんでした。あなたの〈音〉を聞き取れる者は、連中の中にはいないはずです」


「あなたはどうするの?」


「時間を稼ぎます」


「そうじゃなくて」いらつく。伝わらない。いらつく。「捕まったらどうするの?」


「連中は私なんて眼中にありません。あくまで連中が狙っているのはX、あなたです。だからまあ、私はちょっとした尋問を受けて、それでもしかしたら組織を追い出されるかもしれませんが、直接的な危害を加えられるようなことはないでしょう」


「嘘だ。あいつらのあなたに対する悪意は強烈だ。〈音〉を聞き取れなくてもそれくらいは分かる」


「私は捕まりません」


 事務局長はルームミラーに三日月型の目を反射させ、私の目に送り込んできた。私は彼女のまなざしで胸がいっぱいになり、息ができなくなった。


「あなたに囮になってもらうなんて……」ようやく、私はそれだけを言った。


「ちょうどいいです」事務局長は軽々と答えた。「囮は死ぬまでに一度やってみたかったんですよ」


 右折すると四車線道路になり、左右にだんだんとビルやコンビニや飲食店が増え始めた。歩道を歩く人間の密度も高まっていき、個性が個人から集団へと引き渡されていく。これから自分があの中に溶けていくのだと思うと、不安と同時に安心もした。

キャップとサングラスとマスクを身に着けて、私は来たるべき時に備えた。キャップは事務局長がふだんかぶっているものを借りた。ほのかに彼女の香りがする。


 サイドミラーに映った自分の顔を見て、私はそっとマスクを外した。マスクは無いほうが自然に個性を隠匿できる気がした。


「最初の交差点を左に曲がったらすぐに降りて目の前のビルに駆け込んでください」


「また会いに来てくれるよね?」


「もちろん。私はあなたの〈音〉だけを聞き取れるようになりたい。心からそう思います。そのために、またあなたを探し出します」


 私はシートベルトを外し、ドアレバーを握って左折を待った。緊張で乱れたハンドルさばきを拾って、私の体は右に傾く。傾いた体が垂直に返る力を殺さず、私は勢いよくドアを開けて外に飛び出した。


 その後の街までの道のりは定かでない。車を飛び出したら、もうそこが友人の街だったかのように、つなぎの記憶が抜け落ちている。でもタクシーは一度も使わず、バスと電車を乗り継いだことは確かだった。知らない誰かと車内で二人きりになるのは恐ろしかった。唯一思い出せるのは、電車内で小太りの男が小さなリストバンドで顔や首や脇までをも熱心に拭いている光景だけだった。


 街からは日の光が引き、影が建物の壁を這い上がり、それを叩き落とそうとするかのように人工の明かりが灯されている。汗と酒と疲労が沈殿して空気を淀ませている。


 さっきから私の耳には音楽が聞こえ続けていた。それを辿って私は歩き続けていた。


 スマホも腕時計もないので正確な時刻は分からないけど、闇の濃度と静けさから察するに、今はたぶん零時ちょい前だろう。事務局長とホテルを出たのが夜明け前だったので、ほとんど丸一日起きていることになる。


 私は住宅街の十字路に差し掛かった。車が一台通れるくらいの細道が交わる十字路だ。それぞれの角に街灯があるので、中央に立つと前後左右の四方から光を受ける形になる。


 似たような十字路を私は知っていた。その場所で私は、十字の影を見たのだった。その記憶が二年前から這い出してきて、現在と二重写しになった。そして異変に気づいた。


 私はカゲナシだ。地面に影は落ちるはずがない。にもかかわらず、私の足元からは影がのびていた。正面と右手の道へ向かって、影がL字にのびている。


 L字……? 光源はしっかりと四方に設置されている。影ができるなら十字を描くはずだ。


 十字路には私しかいない。L字はやはり私の影と考えるしかない。試しに手をあげてみると、L字も手をあげた。


 私は影を取り戻していた。ただし、半分だけ。残りの半分は依然として空白を地面に落としている。L字の空白。


 と、L字の影とL字の空白が私に唐突に閃きをもたらした。先代のXが〈大いなる正午〉の施設からある日突然姿を消したのは、影を取り戻したからなのだ。もうここにはいられないと悟り、Xは施設から立ち去ったのだ。X本人の口から直接語られたストーリーのように、その想像は一瞬で私の中で確信を広げた。


 空気の震えを皮膚が拾い、私は左手の道に視線を投げた。細く長く暗い道が奥へ奥へと続いている。そこから音がのびてきて、私の皮膚に触れる。鳥肌が足先から頭のてっぺんに向かってざわりと立ち上がる。


 顔のようなものが近づいてくる。目はヘッドライトだった。明かりは消されているので眠っているようでもあるが、鋭い意識が私に突き刺さるのを確かに感じる。のろのろと徐行する黒い車体の輪郭が、街灯にあぶり出されていく。その薄汚れたベンツは、闇から這い出してくる得体の知れない怪物のようだった。


 進むか退くか。右か左か。


 私は目を閉じて、耳を澄ませる。音楽は鳴り続けている。


〈了〉

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大いなる正午 汐見舜一 @shiomichi4040

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