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 事務局長の別荘で、空気のように五日間を過ごした。ネットに繋がる端末は無いし(おそらく意図的に隠されている)、外出は禁止されているので(ウッドデッキに出ることすら許されない)、やることといえば読書とテレビくらいだ(テレビはいいらしい)。特にここ三日間は、輪をかけて無味無臭だった。読書どころか、食事すらろくにする気にならなかった。


 私はソファで目を閉じて、友人に思いを馳せた。三日前、友人は国会議事堂前で抗議集会を開催した。主催者発表八万人、警察発表五万人の特大の集会だった。東京だけでなく、各地で同時多発的に人々が声をあげた。そのほとんどは影を持つ普通の人たちだった。


 私の顔がプリントされたTシャツを着る者も多かったようで、私としては顔から火が出る思いなのだが、実際〈ムーンライト〉をはじめとする反カゲナシ団体によって多くのTシャツが燃やされたそうだ。苦笑。


 お立ち台の上で友人はマイクを握り、聴衆に訴えかけた。元来あがり症であまり話がうまくない友人だが、人々のTシャツ上でほほ笑む私の顔を見ると勇気が湧いてきた。実際、私はTシャツ視点で友人の雄姿をこの目で見守っていた気がする。全方位から間欠的に舞い上がる賛同の声と拍手をこの耳で拾っていた気がする。


 死亡説すら囁かれる伝説的な存在となってしまっている私を、友人は「普通の人間」と称し、思い出話を交えてスピーチした。「カゲナシはあなたたちと同じ人間です」という主張を、切り口を変えて何度も何重にも人々の頭に塗りたくっていった。それが友人のスタイルだった。「そうだ!」と賛同の声があちこちで飛び散る。拍手が夏の低い曇天に届きそうなほど空高く舞い上がる。


 地上の雲行きが変わったのは、重く黒く膨らんだ雲からこぼれ落ちた生ぬるい雨粒が人々の頬を打ち、目線を空に向けさせたあたりだった。可聴域の網が怒声と悲鳴を捉え始めた。それは近づいて膨らんでいく。お立ち台に立っていた友人は、その異変を俯瞰できた。戦国時代みたいに、Yを先頭に〈ムーンライト〉の隊列が群衆の間を割って切り込んできていた。警備の警官隊は見て見ぬふりを決め込んでいる。やがて友人はYと対峙する。自然と人がはけて、二人を中心に円形のスペースが出来上がる。「こんなにもぞろぞろと、人様に迷惑をかけて恥ずかしくないのか君たちは」とYが芝居がかったしぐさで言った。彼の背後でわざわざハンディカムを構えている男がいるので、実際に後で編集して芝居に仕上げるつもりなのだろう。


「ただの集会ですよ」と友人は涼しい顔で応じた。「許可も得ています。集会の自由。表現の自由です。ふだんあなた方が自分らのヘイトスピーチの弁明によく使うワードだから初耳ではないでしょう?」


 皮肉で皮肉を洗うラリーがひとしきり続いたあと、Yは強引に仕切り直し、カゲナシがいかに国益を損ねているかをセンセーショナルに語った。さすがは元俳優だけあって、まるで偉人の伝記映画のような迫力を感じさせた。しかし友人は冷静に対応した。政府の非情な無策が、コストプッシュインフレ、理不尽な解雇、有能なカゲナシの海外移住、外資系企業の日本撤退――そういった悲劇を招いたのだと胸を張って主張した。Yは口の端に笑みを過らせただけで、言葉を挟んではこなかった。好きなだけ喚くがいいさという余裕が滲んでいた。


「そして」と友人は続けた。「先ほどあなたがおっしゃった、凶悪犯罪の増加。殺人・強盗・放火・強制性交等の凶悪犯罪についてですが、カゲナシとの関連性を示すデータは一切ありません。むしろあなた方はカゲナシの犯罪率の低さにこそ注目するべきです」友人は言葉を切り、支持者の塊に「ボード、手元にありますか?」と尋ねる。テレビ取材向けに、カゲナシの犯罪率の低さ示すグラフのボードを用意しておいたのだ。友人はそれを支持者から受け取ると、〈ムーンライト〉の連中ではなく、さっきからこっちに熱視線とカメラを向けているマスコミに向けて説明を始めた。友人の態度に憤慨した〈ムーンライト〉の一部が罵詈雑言を飛ばし始めた。Yはそんな仲間たちに自制を呼びかけたが、怒りでぬらぬらと脂ぎった憎しみについた火はそう容易く収まらない。Yは友人の存在すら忘れて仲間の騒乱に向かって「静かにしろ!」と何度も怒鳴りつけた。「醜態を晒すなら今すぐ帰れ!」


 負の感情の感染は敵味方を問わないと相場が決まっている。すぐに友人の支持者たちも拳を振り上げて、どんなに汚い言葉で相手を罵倒できるかを競い合い始めた。Yと同じように、友人も仲間たちに自制を求めたが焼け石に水だった。やがて小競り合いが始まり、それは掴み合い、殴り合いへと誘爆していった。さすがに警官隊が「どいてどいて」と人をかき分けて突き進んできた。友人はお立ち台の上で狼狽える。


「落ち着いてください!」と自制を求めるだけで、気の利いた解決策がまるで閃かない。一騎打ちのためにぽっかり空いていたスペースは群衆によって閉じられ、総大将二人は飲み込まれてしまう。友人がバランスを崩してお立ち台から滑り落ちる寸前、ターンッと鋭い音が鳴った。それは群衆の耳に不穏な粘り気を残して宙に吸い込まれた。一瞬の沈黙が下り、鋭い悲鳴がひとつあがった。悲鳴は悲鳴を引き連れ、騒乱へと突き進んでいった。「救急車!」と誰かが叫んだ。支持者に抱きかかえられてぐったりする友人の白いTシャツの右胸には、ぽつんと赤い染みができていた。「撃たれた!」と誰かが叫んだ。「代表が警察に撃たれた!」「ほんとに警察か!?」「代表!」「ざけんな撃った奴どいつだよマジ殺すかんな!」「救急車!」「おい大丈夫か!」「電話!」「おい意識はあるか!」「やべぇ息してねぇよ!」「馬鹿してるよ心臓も動いてる早く救急車ァ!」


 銃声は想像していたよりもずっと簡潔で味気なかった。映画やゲームで聞いていたそれとは違って、全然間延びせず、タイヤでもパンクしたような破裂音が点として宙に打たれただけだった。


 左の二の腕がぎゅっと握られるのを感じ、私はまどろみから現実に引き戻された。私は入眠の際に手を握りしめる癖があり、腕組みをした格好で眠ると手が二の腕を握りしめて、その刺激でまどろみが解けてしまうのだ。


 友人を撃ったのは誰なのか? 依然として判明していない。警察は懸命に捜査しているそうだが、これといった発表はされていない。

 友人は生きている。それを私は分かっている。でも具体的な怪我の具合は分からない。私の心は不安と安心の間を行ったり来たりして、どこにも行けない。


 ウッドデッキに面した掃き出し窓には、遮光カーテンが隙間なくひかれているが、外がもう藍色に沈んでいることを私は肌で感じ取っていた。今日という一日も無色で塗りつぶされそうだった。


 事務局長が紫陽花の階段をのぼってくるのが分かった。見えないし聞こえないけど、私はそれを感じ取ることができる。やがて玄関ドアに鍵が差し込まれる音が廊下を突き抜けて、私の耳に飛び込んできた。すぐに激しくドアが引き開けられる音が追いついてきた。思っていたより慌ただしい帰宅に、私は虚をつかれる。事務局長は土足のまま駆けてきて、ひと目で汗だくと分かる顔を私に近づけ、両手で肩をつかんできた。今朝はしっかり固まっていた香水のにおいがほぐれて、その隙間に汗のにおいが入り込んでいた。手汗がしっとりと私のTシャツを湿らせる。その格好のまま、ミントガムの香りが残る官能的な吐息を彼女は十秒かけて整えようとした。十秒ではとても整えきれないほど彼女の息は切れていたが、これ以上は待てないと無理に喋り始めた。


「すぐに、ここを出ます。街へ、行きます」


〈下界〉ではなく「街」と彼女は言った。


 私は街になんて行きたくなかった。でも不満を表明するより早く、事務局長は私の腕を乱暴に掴んで立ち上がらせると、取るものも取りあえず外へ引っ張っていった。聞き分けのないやつだと思われたくないし、抗議したところで時間稼ぎにしかならないことを私は分かっていたので、外に出たらもう逆らわなかった。


 空き地を突っ切って紫陽花の階段を駆け下り、車に乗った。ベンツでもスズキの軽自動車でもなく、初めて見る日産の真っ白なSUVだった。もちろん〈下界〉で暮らしていたころは毎日のようにどこかで見ていたのだろうけど、いちいち車種なんて意識しなかったから、ついさっき発表された新型車と言われても信じてしまうほど新鮮に感じられた。人は意識の手が届く範囲のものしか心に貯めておけないのだと私は理解した。


 事務局長のはやる気持ちがそのままアクセルペダルに重くのしかかり、車は明らかに法定速度を超えて走った。


「何があったのか聞いてもいい?」と私は尋ねた。


「狙われています」


「私が?」


「はい」


「福音派に?」


「はい」


 そんなことだろうとは思った。分かっていた。知っていた。だから尋ねたのは自分のためというよりは、むしろ事務局長のためだった。言うべきことは一秒でも早く言ってしまったほうが幸せだ。


「〈下界〉へ行くって言ってたけど……」


「街です」と事務局長はおっかぶせてきた。


「街へ行くと言ってたけど」と私は言い直す。「私の危機は結局何も変わらないのでは? 敵が福音派の連中から街の人間に変わるだけで」


「今はあなたの味方も多いです。大丈夫です」


「でも政府はカゲナシを助けようとしない、そうでしょ? 大元の枠組みが私を弾き出そうとしている。日本ほど酷くないにせよ、海外もカゲナシに寛容とは言えない。世界中のどこにも、カゲナシの居場所はない。少なくとも、日の当たる表舞台には」


 いつの間にかタメ口になっている自分に、私は不思議な満足感を覚えた。


「今はそうです。でも変わります、いずれ」


「〈大いなる正午〉の目的って世界の変革?」


「変革の手助け、という表現が穏当かと」


 禅問答の気配を察した私は口を閉じた。

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