***


「アティオイ」とは、彼らの言葉で「正しい人間」という意味なのだそうだ。そして「ピィティシ」は「外国人」や「部外者」という意味のようで、父はアティオイ族のみんなからそう呼ばれていた。「ピィティシ」という言葉には他にも、「無知な者」「間違った生き方」といったネガティブなニュアンスも含まれているようだと、父はだんだんと感じ始める。


 アティオイ族はみんな友好的だったけど、心が通じ合う感覚はまるでなかった。その一番の理由はやはり、共通の言語を持たないからだろう。アティオイ族の言葉は、相変わらず父には音楽にしか聞こえなかった。「歌」ではなく、「音楽」なのだ。うまく言えないけど、とにかく「音楽」だった。


 アティオイ語に接続詞や助詞が存在しないことは、宣教師の前任者によって突き止められていた。ひたすら単語と単語が繋がって「音楽」は形成されていく。単語の繋がりで想像し、文脈を読み、そして解釈するしかない。あとは慣れだ。人間は慣れるものだ。やがて父は、漠然とではあるけど「音楽」の意図を読み取れるようになっていった。まさにこれが「言語ゲーム」だと、父は大学時代の哲学の講義を思い出してほほ笑んだ。


 アティオイ族の村に来てからおそらく三ヶ月が経っていた。確証はなかった。カレンダーも節句の祭りもないので、月日の流れをうまく捉えられないのだ。


 狩りができれば仲間と認めてもらえるだろうかと、弓矢の扱いを教わったこともあった。講師を引き受けてくれた男は「見て覚えろ」とばかりに、父を狩りに連れ出した。男は葉っぱを丸めた笛で小鳥の鳴き声を真似て親鳥を呼んだ。そして彼は樹上を指さした。そこには大きなオウムがいた。父は借りた弓矢をひき、放った。矢は一メートルも進まず、倒れこむように力なく地面に落ちた。男は何も言わず、いつものように笑っていた。かと思うと表情を引き締め、今度は自ら樹上に矢を放った。矢は約束でもしていたかのようにオウムに突き刺さった。しばらく弓が刺さったままオウムは枝の上で粘っていたが、やがて地面に落ちた。瀕死のオウムが羽をぱたっぱたっと動かしているのを見ると言いようのない哀愁がこみ上げてきてしまい、自分に狩りは無理だと父は早くも諦めた。


 しばらく経って、父は一人の少年と友達になることができた。十歳前後と思しき、美しい顔立ちの男の子だった。もちろん彼には名前があるが、例によって父はうまく名を聞き取れず苦労した。ある時は「ィーアイ」に聞こえ、ある時は「イイーァイ」に聞こえ、ある時は「ィイアェ」に聞こえ、と、軍の暗号みたいにコロコロ名前が変わって聞こえた。後で知ったことだが、アティオイ族は本当に気分次第でコロコロ名前を変えるそうだ。とはいえ、「ィーアイ」あるいは「イイーァイ」あるいは「ィイアェ」あるいは……の少年の場合は、父の耳の問題だったことは間違いない。


 困難を極めるリスニングに対し、スピーキングはさほど苦にならなかった。というのも、アティオイ族の真似をして鼻歌のように声を出すと、不思議と少年に意図が伝わったからだ。アティオイ語の本質は、発音ではなくメロディなのだと、この時父は実感として知った。


 父は少年を「ィーアイ」表記でイメージすることにした。


 ィーアイはよく父をジャングルに連れ出した。手を引っ張って「ピィティシ。見ろ」とどこかを指さす。大抵は何を指さしているのか分からなかったけど、一度彼の示す先にジャガーを見つけた時は肝を潰した。樹上の猿に石を投げてからかうのがィーアイお気に入りの遊びだった。数時間もジャングルにいると、父は掛け値なしに百ヶ所くらい蚊やマダニに刺された。マラリア予防薬を服用しているとはいえ心配だった。対してィーアイはほとんど虫に刺されなかった。アティオイ族の人々は汗をあまりかかないので、虫を寄せつけないのだ。


 ジャングルの散策中にゲリラ豪雨に見舞われたある時、ィーアイが枝で骨組みを作り、ヤシの葉を屋根にして即席の宿をあっという間に作ってくれた。大きな雨粒が屋根を叩く音を聞きながらじっとしていると、ィーアイは眠ってしまった。父も眠りたかったが、猛獣に寝込みを襲われたら終わりなので努めて目覚めていた。雨なので猛獣もお休みしていそうではあるが油断はできない。アティオイ族は超ショートスリーパーで、夜も二、三時間しか眠らない。ィーアイは昼寝から十分足らずで目覚めた。そして何かを語り始めた。アティオイ語を聞き取るのはやはり難しい。しかし何度も聞き直すうちに、どうやら彼がつい今しがた見た夢について語っているようだと分かった。聞き取れた単語を繋ぎ合わせて想像で補完すると、どうやら「ジャガーと闘い勝利した」という内容のようだった。興味深いことに、ィーアイは、それを夢ではなく、まるで本当にあったことのように語るのだった。アティオイ族にとって夢は、目覚めている時と地続きの現実なのだということを、村で暮らすうちに父はだんだんと理解していくことになる。アティオイ族は夢を特別視しないのだ。現実と夢を区別しない。ただ目の前にあること、見たこと、体験したこととして処理する。夢は短い現実で、現実は長い夢なのだ。


 ィーアイは「精霊」と言って立ち止まり、ぼうと木々の奥を見つめることがよくあった。アティオイ族の人々は、日常的に精霊を見る。幻覚剤で酩酊状態になったシャーマンが精霊と交信する他の部族の例は知っていたが、アティオイ族は全くのシラフで、しかもみんなが精霊と遭遇する。頻繁に誰かが「精霊。いる」と父に教えてくれるのだが、父はいまだかつて精霊を目撃できた試しはなかった。誰か一人にだけ見えているなら幻覚という言葉で片づけられるが、十人も二十人もが微動だにせず立ち尽くし、一斉に一点を凝視しているあの異様な光景を一度でも目にすれば、オカルトだと切り捨てることはできなくなる。宣教師は「神は信じないのに精霊は見えるとはね」と嘲笑っていた。


 父は生まれてこの方、一度も子供が欲しいと思ったことはなかった。結婚すら、自由を束縛する呪いだと思っていた。そんな彼の心が、ィーアイと触れ合っているうちに変化していった。なんともまあ月並みでつまらない筋書きだが、人間の心なんてそんなものだろう。


 ィーアイと友好を深めたことで、父はアティオイ族の人々にいよいよ受け入れられたようだった。宣教師のように利用価値があるわけでもないのに、アティオイ族の人々は父を村から一向に追い出そうとはしなかった。一年が経過していた。


 今この瞬間だけを見つめるアティオイ族の生き方に、父はすっかり感化されていた。ここでは男も女も、子供も大人も、狩りの上手な者も下手な者も、みんなが公平に差別なく生きられる。差別どころか、そもそも区別がされない。ユートピアと呼ぶにはあまりに過酷な環境ではあるけど、過酷ゆえに美しく、尊い。ずっとここで暮らしていければいいのにと本気で思った。ピィティシではなく、アティオイとして。


 小屋の外で腰を下ろし、宇宙をぎゅっと凝縮したような夜空を父は見上げていた。天の川がはっきりとひかれていた。何度見ても飽きない、あまりに美しい光景だった。


「なあ日本人」


 小屋の中から、宣教師が父に声をかけてきた。


 父はうんざりした気持ちで小屋の中に戻り、ハンモックに腰かけた。


「なんだ?」


「お前は女を抱かなくて平気なのか?」


 静かな夜を邪魔してまで聞きたかったことがそれかと、父は怒りよりもむしろ哀れみを覚えた。


「そういう気にはならないな。もともと淡白なんだそういうことには」


 父は適当にあしらおうとするも、忌々しいことに宣教師は酔っていた。ハンモックに倒れるように寝そべると、ウィスキーの瓶を傾けた。


「ほんともったいない。ここじゃヤりたい放題なのにな」


「なんだって?」


「アティオイ族にはいい女がいっぱいだろ」


「そういう目的で僕はここに来たわけじゃない。ちょっと黙ってくれないか?」


「お前と仲良しのガキ、あいつもほんとそそるよ」


「ィーアイは男だ」


「ここじゃ男と女を区別する言葉はない」


「なあ、あんたちょっと飲みすぎじゃないか?」


「俺はさ、この村に来る前は、ここからずっと東の別の村にいたんだ。そこに住んでいるのもいわゆる少数民族だ。アティオイ族とは正反対の剣呑な連中で、俺は一度殺されかけたよ」


「何かやらかしたのか?」


「大したことじゃない。少女とやった」


「少女? まさか子供と?」


「そうだ。でもべつに珍しいことじゃない。連中は性に奔放で、十歳やそこらで平気で出産する蛮族だ。とはいえ、俺みたいなガイジンに仲間を犯されちゃ黙っちゃいない」


「殺されちまえばよかったんだ」


「ははは! でも俺はこうして生きている。神は俺を見放さなかった」


 聞いてもいないのに、宣教師は当時のことを嬉々として語り始めた。こいつの祖国では、捕まっていない凶悪犯がバーなんかで武勇伝を吹聴して御用になる例は少なくないそうだが、なるほど、目の前の卑劣漢もその類らしい。


「大人たちは酒を振舞って眠らせたよ。少女にも飲ませた」


 そのようにして宣教師は幾度となく下劣な行為に及んだ。黄金を探してアマゾンに入るガリンペイロというならず者たちによるレイプや殺人が相次いでいることは知っていたが、仮にも宣教師を名乗る男がそこまで魂を穢すことができるなんて、父の想像の枠外だった。


「でな、デキちまって、生まれたんだよ、肌の白いガキがな。白いといっても俺みたいに純粋な白さじゃないがね。連中は、生まれた子供を育てるか、天に帰すかを母親が決める。肌の白いガキは結局、野に放置された。言うまでもなく鳥や動物や虫に食われて三日もすれば跡形もなくなる。それが連中の『天に帰す』ということなんだ。肉体は自然に帰り、魂は天に帰る。赤ん坊をシロアリの巣につめて、体を食わせてから巣ごと燃やす部族もいるんで、それに比べりゃ幾分かマイルドに死ねてよかったよ俺の息子は」


「父親がお前だと気づかれたんだな?」


「そりゃ肌の色を見れば一目瞭然だ。少女の父親は、はっきりと俺を撃ち殺すと言った。奴ら、土人のくせに普通にショットガン持ってるんだよ。俺はすぐに荷物をまとめてずらかった。生きた心地がしなかったよ」


 失敗談を語って悦に入るのは自称成功者にありがちな傾向だが、この宣教師が成功者であるはずはなかった。こいつは生まれてきたことが失敗だったのだ。


「その点、アティオイ族は楽だ。夫婦というシステムはないし、生まれた子供も『みんなの子供』だ。所有欲や独占欲が生まれず、庇護欲も生まれない。『みんなの子供』が汚されたらそりゃ怒りはするが、かといって復讐するほどではない。いいか日本人、庇護欲の両親は所有欲と独占欲なんだ」


「お前はただの小児性愛者だ。宣教師なんて嘘っぱちじゃないか」


「小児性愛者であることと宣教師であることは矛盾しないぜ」


「お前はアティオイ族の子供を犯すためだけにここに留まっているのか? それだけの理由で?」


「それだけとは言ってくれるね! いったいここ以外のどこに、好き勝手に子供を犯して罰を受けない社会がある? 俺の祖国なんて特に小児性愛者に厳しいんだ。人権なんてない。バレたら即牢屋行き。下手すりゃ一生出られない。俺はひと月もガキを抱かなかったら発狂しちまうよ。水がないと人が生きられないのと同じさ。俺はここでしか生きられない。褐色肌のガキは、俺にとっちゃ最上級の水なんだ」


「言っちゃなんだが、なぜマナウスで娼婦を買おうという発想にならないんだ?」


 忌々しいことではあるが、当時この国では、子供の娼婦が珍しくなかった。体を売らないと生きていけない十歳そこらの少女が、小児性愛者に暴力的に犯されていた。


「まず第一に」と宣教師は言った。「HIVに感染したくない。エイズだけはごめんだ。人々にゲイだと後ろ指さされるからな。人だけじゃなくて、神にも軽蔑される」


 現代人の感覚だとうまく想像できないが、当時アメリカではエイズ患者に対する偏見と差別が熾烈を極めていた。


「第二に、金を介在させると、『水』の鮮度がぐんと落ちるからだ。その感覚はお前にも分かるだろ日本人? 愛は金で買えない。逆説的に、金で買うとそれは愛でなくなる。愛のないファックってのは、干からびていて、ひどく味気ない。一抹の潤いももたらしてくれない」


「レイプが愛だと? 笑わせるな。お前は頭がどうかしている」


「愛だよ」宣教師は断言する。「その理由を説明してやってもいいんだが、日本人の『アイ』とアメリカ人の『LOVE』には埋めがたい溝がある。そして本質的に言語というものは、完璧な翻訳は不可能なんだ。だから悲しいことに、現世でお前が俺のロジックを理解するのは不可能だ。人間ってのは、母語の檻の中でしか思考できねぇからな」


 清潔で居心地よく、温度も湿度も自在に調整できて、怪我すれば車で迎えにきて病院まで運んでくれて、微妙に味の異なる食事に一喜一憂できる文明社会を捨ててまで、宣教師はこの常に死と隣り合わせの密林にしがみついている。子供を犯したい、ただそれだけの理由で。


「お前はくそだ!」


 父は叫んで、衝動的に小屋を飛び出してジャングルへ踏み込んでいった。怒りで脳はオーバーヒートしていたが、足は自然と安全なルートを選択し、「広場」に彼を運んでいた。「広場」は父が個人的にそう呼んでいるだけだ。よくそこでィーアイとゴムボールでキャッチボールをしている。


 開けた頭上に、満月が見えた。木々の枝葉からこぼれた月光が、「広場」の外周の影をギザギザに縁どっていた。鳥や獣の鳴き声にまじり、やがて人の足音が漂ってきた。アティオイ族の人々は足音を立てないので、父はよく背後から声をかけられると飛び上がって驚いたものだが、どういうわけかこの時は、足音が父の鼓膜にはっきりとした刺激を与えたのだった。


 隠れる必要なんてないのに、父は反射的に木々の奥に後退して、身を潜めて様子をうかがった。果たして、「広場」にやってきたのはィーアイだった。彼は中央に立ち、あたりをゆっくりと見回し始めた。視線が自分の潜んでいるあたりでぴたりと止まるのではないかと、父は思わず息を詰めた。でもィーアイの視線は父を素通りして、最終的に父に横顔を見せる位置で静止した。そしてィーアイは「音楽」を奏で始めた。声帯を振動させることで奏でられる音楽。精霊に語りかけているのだろう。

なんて美しい光景だろうかと、父は息を呑んだ。月明かりを浴び、深緑を湛える広大なジャングルに抱かれる美少年。おまけに精霊と対話までしている。およそこの世の光景とは思えなかった。その現場に自分がいるという事実に身震いした。


「え」


 こみ上げる涙の快楽で緩んだ頬が、にわかに引きつった。父は気づいたのだ。


 影がない……。


 月明かりを浴びるィーアイは、影を伴っていなかった。顔や体の凹凸は美しい陰影を纏っているのに、「広場」の地面には影が落ちていない。


 ィーアイこそが精霊なのではないか? 父は今すぐ「広場」に躍り出て、跪きたい衝動に駆られた。もちろんそんな無粋な真似はせず、彼はおぼつかない足取りで来た道を引き返し小屋に戻った。


 小屋に宣教師はいなかった。彼のハンモックには人型の空洞がぽっかりあいていて、「奴はついさっき出ていったよ」と告げていた。出入口から吹き込んだ生ぬるい風がハンモックを揺らすと、人型は空気に溶けて消えた。


 二時間くらい経って、宣教師は帰ってきた。父は「広場」で目撃した神々しい光景の興奮が冷めやらず、それでも睡魔との距離を徐々に縮め始めたところだった。宣教師の「聞けよ日本人!」の怒鳴り声でまどろみが一瞬で破られ、睡魔はその隙間を通って一目散に逃げだした。


 心に余裕ができていたおかげか、父は「懺悔なら聞いてやる」と平板に返すことができた。


「懺悔します神父様!」


 宣教師は酒臭い息で叫んで父のハンモックのもとに跪き、両手を組み合わせた。なぜか甲高い声を出し、女を演じていた。懺悔はカトリックの伝統で、確かこいつはプロテスタントを自称していたはずだが、なんてどうでもいいことを父は考えた。

「私はこっそり日本人の後をつけました。そしてィーアイというくそ美しい素っ裸の少年に出会いました。私は我慢できませんでした……」


 父はハンモックから飛び降り、宣教師を突き飛ばし、「広場」に走った。誰もいなかった。ここで起きたかもしれないことの痕跡を探そうと、父は地面を這いずり回った。草木と虫と石しか見当たらない。ィーアイの住む家に行って本人に会えば真相を確かめられるし、なんならそれしか方法はないのだけど、父にはふだんから最も確実な方法を後回しにしてしまう癖があった。さんざん虫に刺されたあと、ようやく父はィーアイの家へ向かった。


 どんな基準と法則で分けられたのか定かでない「今の家族」の三人が(アティオイ族は、学校の席替えのように、一緒に住む人間をコロコロ変える)、火床を囲んでいた。ィーアイは不在だった。


 突然やってきた父に、大人たちは酒をすすめた。カシャーサの瓶が二本置いてある。宣教師が街から持ち帰った土産だろう。彼らは酩酊のせいで、いつもと違う、溶けるような笑顔を帯びていた。文明化の押しつけを拒否し続けているアティオイ族の人々が、文明人の作った安酒で酔っぱらう様は物悲しかった。


 父は酒を断りおいとますると、家々を訪ねて回った。村全ての家を回ったけどィーアイは見つからなかった。そこで父はほとんど確信的にィーアイは「広場」にいると思った。


 ィーアイの死体は「広場」から十メートルほど離れたブラジルナッツの木の根元にあった。うつ伏せに倒れ、手錠によって後ろで手を拘束されていた。後頭部が叩き割られ、黒髪が血で固まっていた。肛門にも出血の跡が見られた。そばには、血の付着した棍棒が落ちていた。


 アティオイ族には、「死」を意味する言葉がない。少なくとも発見されていない。彼らは死者に対して「アボーギィーハ」という言葉を用いることがしばしばあるが、これは「道を進む」とか「崖を上る」といった意味で使われることがほとんどの単語である。包括的に言えば、「アボーギィーハ」は「次へ進む」といった意味合いの言葉だろうか。つまり彼らにとって「死」は、ひとつの前向きな変化でしかないのだ。どこまでも死に対してクールで、そして寛容だ。


 どうやら自分はアティオイにはなれないようだ。どこまで行っても自分はピィティシなのだと、燃え滾る怒りを見つめながら父は思った。


 父は棍棒を拾い、小屋へ走った。そのまま立ち止まらずに棍棒を振り抜いて宣教師の頭を叩き割るつもりでいた。でも宣教師はすでに姿を消していた。缶詰の山も薬品も酒もハンモックも、綺麗さっぱり消えていた。


 父はィーアイの「今の家族」の家によろよろと向かった。大人たちは酔いつぶれていた。アティオイ族は酒に弱い。カシャーサはまだ一本残っていた。父はそれを呷り、深い穴に突き落とされるように眠った。


 翌朝、父は悪夢にうなされて飛び起きた。夢の内容はすぐに忘れたけど、蛇が登場したことと、ィーアイが登場しなかったことは確かだった。昨夜酔いつぶれていたメンツの姿はすでになかった。


 父はィーアイの死体のある場所へ向かった。昨夜は混乱し過ぎて冷静な判断ができなかったが、今はやるべきことがはっきり分かった。ィーアイを埋葬してあげないといけない。


 だが、ィーアイの死体は消えていた。誰かが見つけてどこかへ運んだのだろうか? それにしては状況が奇妙だった。ィーアイの両手を拘束していた手錠が地面に落ちているのだが、ロックは外されておらず、破壊された形跡もなかった。死体が動物や鳥に食われた形跡もない。跡形もなく、死体だけが消えていた。まるでィーアイの体がさーっと水蒸気になり、空へ消えてしまったかのようだった。


 父が川の入り江に向かったのは、特に理由はなかった。考え事をしながら歩いていたら、そこにたどり着いていた。

 モーターボートの上に、宣教師が仰向けに倒れていた。ひと目で死んでいると分かった。


 父はその一ヶ月後、日本へ帰国した。三年後に結婚し、その二年後に私が生まれた。


 幼い私に向かって父は言った。「平和な世界って、どんなものだと思う?」


 言うまでもなく、私は何も言わなかった。


「俺はこう思うよ」父は私の頭を撫でた。「人間は一人残らず消え去って、代わりに音楽が絶えず飛びかっている、そんな世界」


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