退屈でふり幅のない生活を二年近く続けてきて、もはや慣れというより諦めに近い脱力感に私は四六時中つきまとわれていた。白状すると、私は合計四回、施設から逃げ出そうと試みた。古ぼけたベンツとは別に、スズキの軽自動車がしょっちゅう出入りしていて、しかも停車中はキーが私を試すようにつけっぱになっていた。車を奪えばいつでも施設を出て友人に会いに行けた。でもそうしなかったのは、ひとつは〈下界〉で顔を晒すのが怖かったからだ(どうも私は未だに世間の人々の口の端に上る存在らしいのだ……)。もうひとつは、ここでの生活が心地よかったからだ。ここにいれば私は安全で、どころか神様のように大切にされた。夜陰に乗じて駐車スペースまでやってきても、そこから私は一歩も動くことができないのだった。


 そうして心地よい現状維持に腰を下ろし続けた。しかし〈大いなる正午〉という壁の内側にも不協和音が生まれ始めていた。いや、おそらく最初から鳴り響いていたのだ。それを聞き取れるまで、私の耳が組織に馴染んだということなのだろう。


 組織内には、大きく分けて二つの派閥があった。ひとつは、私を正当な指導者として認めるX派、もうひとつは私を一時的なツナギと見做してやがて本当の指導者が現れると期待する福音派。いずれにせよ、どちらの派閥にせよ、台風の目はこの私だった。X派は事務局長が、福音派は預言者の男が実質的に仕切っていた。


 この預言者の男というのは、三年前に〈大いなる正午〉に加入した新参者らしい(むろん私よりは先輩だ)。関西を拠点に活動していたスゴ腕占い師で、芸能人や実業家の太客も多く、その道では名が通っていた。そんな彼も、先代のXにカゲナシに変えられ、それを福音ととらえ、〈大いなる正午〉のメンバーになった。多くの占い師と違い、預言者の男は本気で神や霊を信じている。そして自分に霊力が宿っていると信じている。事務局長に言わせれば、それは「卓越したコールドリーディング技術がもたらす幻想」らしいのだが、すると預言者の男は自らの脳すらすっかりその話術で騙してしまっていることになり、方向性が違うだけで危険であることに変わりはなかった。事実、彼は多くの仲間を取りこんで福音派としてまとめ上げるまでになった。最初は「派閥争いのない組織などありえません」と余裕の事務局長だったが、ちょっと最近は看過できないレベルで福音派は増長し、暴走しているという。


 その暴走の決定的証拠が、いま私の目の前に転がっている。瞑想ホールの畳の上に、両手両足をガムテで巻かれて自由を奪われた一人の少女が寝かされている。彼女の両目は、涙の膜で薄暗い瞑想ホールの数少ない光の粒を寄せ集め、懸命に散らしている。


「笑えない冗談だと思っていましたが、まさか冗談ですらなかったとは」事務局長は少女を見下ろしながら、怒気ではち切れそうな声で言った。彼女の言葉の矛先は、壁にもたれて腕を組む預言者の男に向けられている。


「認識に相違があったのは不幸です」外国語の直訳みたいな喋り方で、預言者の男は応じた。「が、これ以上、〈下界〉でカゲナシが迫害されることを僕と仲間たちは望みません」


「私だって望んでいません」


「ではなぜ行動しないのです?」


「行動しています、隠密に。隠密だからこそ可視化はされない。我々は確実に目標に近づきつつあった。でもこれで台無しだッ!」


 事務局長は拳を振り上げるも、宙に着地点は存在せず、やむを得ずゆっくり下した。

 私は怯える少女を憮然と見つめながら、視線は先月の定例会議に繋がっていた。定例会議では、アンチカゲナシの急先鋒の衆議院議員・Tが〈影の輪〉解体に向けて本格的に動き出していることについて、喧々諤々の議論が交わされた。そこで預言者の男は「Tの孫娘を交渉のカードとして獲得するのは、〈影の輪〉を守るのに有効な手段です」と真顔で発言したのだ。真顔以外見たことがないが……。Tの孫娘への溺愛ぶりは、ネットリテラシーの欠片もない彼のTwitterとインスタでつまびらかにされていた。「ついでに文部科学大臣の孫も誘拐して、〈影の輪〉に宗教法人の資格を与えるよう要求してはどうでしょう?」と事務局長は皮肉った。「名案だと僕は思います」と預言者の男は真顔で応じていた。


「怪我はありませんか?」事務局長はしゃがんで少女に尋ねた。半袖ワンピースからのぞく少女の腕には、薄暗い中でもはっきりと分かる赤黒い痣が浮いていた。「痛みますか?」


 取り乱す事務局長を初めて見た。その様子を私はどこか他人事のように眺めていた。福音派の暴挙が私に大きな不利益をもたらすのは明らかなのに、むしろ私は喉元に歓声に似た熱すら感じた。


 少女は声をあげずに泣き続け、とても会話できそうになかった。


 事務局長は立ち上がり、私の手をつかむと外へ連れ出した。靴をうまくはけず踵をつぶしながら不安定に歩く私に構わず、事務局長は私の腕を引き続ける。芝生の上でたむろしていた四人の男女がこちらに気づき口をつぐんだ。初めて見る顔だが、妙にひっかかるギザギザの視線からしておそらく福音派の連中なのだろう。駐車スペースのベンツの運転席には男が座ってスマホをいじっており、私たちに気づくとサイドガラス越しに小さく会釈を送ってきた。


 事務局長はベンツを素通りし、数メートル離れた場所に停めてある軽自動車の運転席のドアを開けた。そして車内を乱暴に漁り始めた。パンツスーツに包まれた彼女のお尻が右に左に揺れる。予言者の男と取り巻きが駐車スペースまでやってきても、事務局長はまだ車内に体を突っ込んだままだった。


「探しているものはこれですか?」


 事務局長は慌てて運転席から上半身を引き抜いて、はずみで頭を屋根にぶつけて顔を歪めた。彼女の冷たい仮面がみるみる崩壊していく。昔の職場で、何かを隠すようにわざと飄々と振る舞っている同僚がいて、私は彼女に対して痛々しい気持ちを抱いていたのだが、事務局長も本質では彼女と変わらないのかもしれないと私は思い始めていた。しかし事務局長に対しては痛々しい気持ちは微塵も湧かず、愛おしさが募るだけだった。


 預言者の男は、車のキーを摘んで顔の前に掲げている。


「出かけます。鍵を返してください」事務局長は毅然と言った。


「僕たちはすでにXとは別のオリジナルを見つけています。その方には指導者の資質が十分に備わっています」預言者の男は鍵とは関係のない返事をした。「二代目Xには指導者の資質がありません。我々カゲナシを破滅へ導くまがい物です」


 預言者の男が語り終えるのを待たず、事務局長は彼の手からキーをひったくり、私に「乗ってください」と怒鳴った。そして彼女は落ちるように運転席に座ってエンジンをかけた。私が助手席に収まると、シートベルトを締めるのも待たずに彼女はアクセルを踏み込んだ。


 車内は熱っぽい沈黙で満たされていた。それは目的地に到着するまで冷めなかった。目的地までは一時間弱の道のりだった。山を下り、久々の平地の気圧に私は緊張した。車が森閑とした空き地に停まったとき、事務局長は「あなたを別の場所に移します」と言った。もうすでに移されているのですが、とは私は答えなかった。


 車から降りると、事務局長はジャケットの内ポケットからパケ袋を取り出し、それを私に手渡してきた。そして「背中にぶつけてくれませんか?」と言った。意味不明だったけど、事務局長はさっさと背中を向けてスタンバってしまったので、私はパケ袋を彼女の背中めがけて投げつけた。


「いえ、そうではなく」事務局長は苦笑を浮かべてこちらを振り返り、パケ袋を拾い上げた。そしてまた私に握らせた。「中身を投げてください」


 パケ袋の中身は塩だった。ああ、なるほど。気を取り直して、事務局長の背中に塩を投げつけた。


「ありがとうございます」


 事務局長は最後に自分で足元に塩をまき、パケ袋を内ポケットに戻した。


「なんか意外です」と私は言った。「あんまりこういうことしない人だと思ってました」


「けっこう迷信深いんですよ私」


 事務局長は、私を林の中へ導いた。じゃぁぁぁんじゃぁぁぁんとオスの蝉の求愛が降り注ぐ。周囲三百六十度、コピペしたように同じ光景が連なっている林の中を、事務局長は迷いない歩調で進んでいく。ごつごつした岩の切通しを潜り抜けると小川が姿を現した。それまで小川のせせらぎは蝉の喧噪に覆い隠されていたが、目で存在を確認すると急に耳が音を拾い始めるのが不思議だった。辻褄を合わせるために音響の神様が大急ぎでミキサーのツマミを調整したみたいだった。事務局長は長い脚で小川を飛び越え、私のほうを振り向き、片手を差し出した。ずいぶんと鈍くさいやつだと思われているようで気に入らないが、実際私は飛び越える際にバランスを崩して事務局長の手に縋ることになった。


 林を抜けると唐突に石の階段が出現した。階段は所々欠けていて、断面に苔がむしている。事務局長の背中に続いてのぼっていく。左右の植え込みには、階段をのぞき込むように青色の紫陽花が咲き乱れている。


 階段の頂上から鼠色の三角形がせり上がってきて、その下に四角形も現れて家の形になる。階段をのぼり終えると、切り開かれた空き地を進んでいく。今朝未明に降ったらしいにわか雨で地面はぬかるんでいて、二人分の足跡が私たちの背後にじっとりと配置されていく。


 事務局長はモルタルの平屋の玄関ドアの鍵を開けて、「少々お待ちを」と言い残して中に消えた。家の中から掃除機の吸引音がする。そこにガゴッガゴッと何かにぶつかる音が時折混じる。掃き出し窓沿いにせり出したウッドデッキに腰かけ、私は山の稜線を目でなぞって暇を潰した。事務局長が「お待たせしました」と玄関ドアを開けて私を中に招き入れた時にはすでに、「少々」とは言いがたい時間によって太陽が山の向こうに押し込まれていた。

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