山の施設で、一日、また一日とやり過ごし、ここでの二度目の夏を迎えていた。ここはエアコンが不要なくらい涼しかった。実際ログハウスにエアコンはついていない。


 窓の網戸から涼やかな夜風が流れ込み、私に快適な読書環境を提供してくれている。私は読書に熱中できる一種の才能があるようだが、いったん集中が切れるともうダメで、意識の束がほどけてへにゃへにゃになる。


 私は本を放ってベッドに仰向けに寝転がった。だんだんとぼんやりしてきて、意識が空気に溶けていく。それは風に運ばれ、窓から外に出て、山を下り、街へ到着し、友人の部屋に入った。そこは友人の過去だった。


 クリスマスを目前に控えたある深夜、友人は散歩に出かけた。私のリハビリに付き合っているうちに深夜の散歩にハマってしまったのだ。そして無職のため平日でも構わず外にくり出せた。水曜日だった。友人はいつものルートを歩いた。でも街灯の多い土手道は避け、土手を下りた河原沿いの遊歩道を歩いた。対岸の街灯の投げる光が、黒鉄色の水面に細長く橙色にのびていた。川は緩やかに曲がりくねりながら、街の光輝く地平線に吸い込まれていた。


 遊歩道にベンチが並び始め、友人は何の気なしに腰かけた。でも二分もせずにお尻にむずむずした疲労感が溜まり始めた。ベンチは奥行きが児童公園のブランコほどしかなく、しかも奥から手前に向かって傾いている。意図的な傾きだ。奥行きの狭さも意図的だ。よほどここに長居してほしくないようだった。友人は、デザイナーと自治体の希望を快く受け入れ、ベンチを立ってまた歩き始めた。「みんなの憩いの広場」と記された看板が目に入った。どうやら自分は「みんな」には含まれないようだと友人は思った。


 川にかかるコンクリート橋の下には、夜でもはっきり分かるほど濃い影が溜まっていた。橋脚のたもとに段ボールハウスがひとつだけ建っているのを見て取り、友人は引き返そうと踵を返した。直後に刺すような痛みを目に覚え、目を瞑って顔をそむけ、顔の前に両手をかざした。


 恐る恐る目を開けると、ぼんやりしたクリーム色の輪っかが見えた。その輪っかは黒い人型の手元を中心にして広がっていた。


 どうやら自分は懐中電灯で顔を照らされているようだと友人は理解した。職質か、なるほど確かにこんな時間にうろついていては怪しまれるのも無理はないと納得しかけた矢先、ぱち、ぱち、ぱち、と小さなスイッチ音が舞って、光の輪っかが二個、三個、四個、ぱち、五個、と不気味なリズムで増えていった。


 目はすぐに明るさに慣れた。黒い人型からシルエットがはがれ、懐中電灯を持った五人の男女が浮かび上がってきた。先頭に立つ男が懐中電灯を下に向け、「あんた、影できないね」と声を興奮に震わせて言った。


 事態を悟った友人が弁解するより早く、女が「天誅!」と叫んだ。それを合図に他の面々も「天誅!」「天誅!」「天誅!」「天誅!」と続いた。想像どおり、連中は〈ムーンライト〉のメンバーだった。連中が「パトロール」と称して夜警を始めたのを、友人はネットニュースで知っていた。夜道を歩く人間を懐中電灯で照らして影を確かめ、カゲナシと分かれば「天誅!」と叫んで襲い掛かるのだと。「天誅!」はなんかのアニメのヒロインの決め台詞だ。理由は定かでないが〈ムーンライト〉のメンバーにはアニメオタクが多く、自然な(?)成り行きで「天誅!」が掛け声として定着していた。


 あっけにとられる友人を、五人の男女は蹂躙した。誰が最初に飛び掛かってきたかとか、誰が素手で誰が武器を持っていたかとかのディテールは記憶にない。とにかく蹂躙された。五つの享楽が混じり合い、ひとつの暴力として体に去来した。それは分別不可能だった。女が蹴ろうが男が殴ろうが、それは十把一絡げに「暴力」として体に蓄積された。暴力と暴力の合間には罵倒があった。そのどれもが「カゲナシに人権はない」といった意味の言葉だった。体に感じる痛みよりも心に感じる軋みのほうが、友人にとっては印象的だった。ああそうか自分は人間ではないのかと不思議な浮遊感に襲われた。その浮遊感は、這う這うの体で遠くへ逃れようとする友人の手足から地面の感触を奪い取った。友人は体を丸めて衝撃と罵倒に耐えるだけの肉塊になった。


 突如「おい!」と野太い声が響いた。すると暴力と罵倒がぴたりとやんだ。靴のゴム底がアスファルトをキッとこする音で、五人のうちの誰かが駆け出すのが分かった。その誰かに誰かが、その誰かに誰かが続くのも分かった。足音が遠ざかって点になって消えても、体に刻まれた痛みに悶えて友人は顔を上げることができなかった。


「おい」と野太い声が降ってきた。友人は呻くように「はい」とだけ答えた。


「立てるか?」


「はい」


「あいつらなんなんだ?」


「……」


「立てるか?」


 透明な漬物石でも背負っているかのような重みを押しのけてなんとか立ち上がると、友人は目の前の人物を見上げた。二メートル近い背丈の大男だった。向こうの橋脚のたもとの段ボールハウスがうっすら発光していて、大男がそこから這い出てきたのだと合点がいった。


「すみません」と友人は頭を下げた。それだけの動作で全身がねじ切られるように痛んで呻き声が漏れた。


「病院行けよ」とだけ平板な声で言うと、大男は友人に背を向けて段ボールハウスに向かって歩き出した。


 痛みを抱えての帰り道は、行きの百倍長く感じられた。電柱のたびに寄りかかって休んだ。なんとか帰宅すると、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。すぐに眠りと気絶の隙間に運ばれた。夢の中で友人は小鳥になっていた。いや、厳密に言うと、友人の視点は小鳥の一人称ではなく、小鳥の背後に影のようにぴったりと寄り添う、透明な何者かとしての三人称だった。友人は自分の姿は見えないが、唇に桜の花びらを一枚くっつけていることが感覚で分かった。花びらをつけた状態で口笛を吹くと、小鳥を意のままに操れた。小鳥が障害物にぶつかりそうになるとぴゅーと鳴らして急旋回させ、天敵の気配を察知すればぴゅいーんと鳴らして枝葉に身を隠させた。そして常に地上から銃口が向けられているのを、一貫して友人は感じ取っていた。小鳥が死ねば友人も死ぬ、そんなシンプルな一体性が夢を満たしていた。口笛を吹くたびに、唇にくっついている花びらが破けないか心配になった。なんせ、これが無いと小鳥を操ることができないのだから。


 花びらが破れるより前に友人は目を覚ました。昨夜の記憶が集まってきて、一拍遅れて体の痛みが目を覚ました。苦労の末に服を脱いで浴室に入ると、体に赤黒い斑点を無数に浮かばせた誰かが同時に鏡に入り込んだ。友人が驚愕で身を引くと、その誰かも倣った。鏡の中の人物は、顔だけはほとんど無傷だった。シャワーで体を流すと、固まっていた血が溶け出して、繊維強化プラスチックの白い床に赤透明の流れを作った。バスタオルで体を拭くと赤いシミがいくつもついた。清潔で暖かい服を身につけ、暖房をつけ、リビングでワイドショーをぼんやり眺めた。相変わらずカゲナシの話題で盛り上がっていた。不思議なことに、海外ではカゲナシについて議論する際、テレビのゲストで呼ばれるのは専ら物理学の専門家なのだが、日本だけはなぜか医学の専門家が引っ張りだこだった。「原因は不明です」という結論を言わせるためだけに実に様々な分野の医師が消費されていた。


 YouTubeもカゲナシに関する動画で溢れていた。Yのチャンネルが大人気だった。友人は自虐的な気持ちに背中をつつかれ、Yの最新の動画を再生した。茶の間に流れたら場が凍ること請け合いの萌え系ソシャゲの十五秒CMがまず流れた。その十五秒間は十五秒とは思えないほど長く感じられた。ようやく本編が始まる。うすら寒いオープニングと前置きはシークバーをクリックして飛ばす。ちょっと飛ばし過ぎたが問題ないだろう。「――影とはそれだけ大切なものなのです。木漏れ日の安らぎも、夏の日陰での休息も、子供を喜ばせる影絵も、レンブラントの素晴らしい芸術の数々も、影という概念が無ければ存在しなかった……(中略)……カゲナシには、その影がないのです。人を人たらしめる影がない! なにも僕は彼らをエイリアン扱いしているわけではありません。ただ、普通の人間と『違う』ことは紛れもない事実です。この『違う』ということが重要なんです。そして忘れてはならないのは、『差別』と『区別』は全くの別モノだということで……(中略)……皆さん、影ができないというのがどういうことか、もう一度よく考えてみてください。いいですか、影ができないというのはすなわち、光が透過しているということです。紫外線だけが透過するなら肌に優しいだけで済むでしょうけど――ああここ笑うところです(笑)――、しかし影が全く落ちないということは、言うまでもなく可視光線も通り抜けているということなんです。ですが本来なら光が透過するなら影はおろか、肉体も肉眼では捉えられないはずなんですよね。とても中途半端だと思いませんか? 透過しているのかしていないのか、どっちつかずですよね。つまりですね、カゲナシの肉体の変異は、今はまだ途中なのかもしれない、そう僕は思うんですよ。消えたのは、今はまだ影だけ。でもいずれ、肉体すらも透明になるかもしれません。透明人間の誕生です。さあ、透明になった人間が何を始めるか? 想像するだけで恐ろしくはありませんか?」


 友人は動画を停止した。ため息をつく。そして私に会いたくなった。しかし電話もLINEも通じない。私が山の施設に旅立ってから、このとき既に四ヶ月以上が経っていた。


 ぼけっとしているよりはマシかと、友人はまた違う動画を見始めた。世の中の都市伝説を面白おかしく紹介する芸風で人気を博しているタレントのチャンネルだ。


「――カゲナシはいわゆる新人類なのかもしれません……(中略)……これは諸説あるうちのひとつの見解に過ぎませんが、約四万年前までユーラシアに住んでいたネアンデルタール人は、喉頭の発達が不十分で、明瞭な音声を発することが出来ず、言葉でのコミュニケーションは不可能だった、という説があります。一方、ホモ・サピエンスは音声をつくる器官の発達が高度で、言語を獲得していました。だからこそ、ネアンデルタール人に比べてフィジカル面で劣っていたホモ・サピエンスが絶滅せずに生き残ることができた。言語によって、仲間の心情を察して仲間割れを事前に防ぎ、安全な抜け道や狩場の情報を共有し、知識を継承して技術を発展させることもできた。言語コミュニケーションは、集団の力を最大化したのです。言語が生存競争を勝ち抜く武器になったわけですね。さて、カゲナシの話に戻りますが、カゲナシは仲間同士でテレパシーのように情報を交換できるという噂が――あくまで噂だという点に留意してください――そんな話があるわけです。もしそれが本当なら、彼らは新しい言語を獲得したといえるのではないでしょうか。音声言語も視覚言語も超えた、全く新しい言語、それを彼らは獲得したのではないか? そしてそれは、生存競争を勝ち抜くためにこしらえられた新しい武器なのではないかと僕は考える次第で――」


 翌日、〈ムーンライト〉のリンチから自分を助けてくれた大男が焼死体になって発見されたことを、友人はTwitterのタイムラインに流れてきたネット記事で知った。段ボールハウスごと燃やされたようだった。大男の身元は割れていて、彼はミャンマーにルーツを持つ在日二世で、暴力団の元構成員とのことだ。記事コメント欄もTwitterのリプ欄も、外国人は日本から出て行けといった意味合いの言葉であふれていた。在日外国人全体への空想じみた憎しみや、なぜか難民に対する誹謗中傷の書き込みもあった。それらの多くは「殺人はいけないことだが」という意味の一応の予防線が張ってあって、それが却って言葉を白々しくしていた。友人はよろよろとトイレに向かい、便器に吐いた。それから友人はアボカドばかり食べるようになった。食欲が無いけど食べないといけない、という時はいつもそうなる。「アボカドは栄養がやばいからそれさえ食べておけば死なない」と昔聞いた眉唾な話を鵜呑みにしているためだ。いつどこで誰から聞いたかは覚えていない。シチュエーションの記憶はごっそり抜け落ち、アボカドだけが意識にふわりと浮いていた。


 年を越して少しして、事務局長が家を訪ねてきた。私が友人の様子を見てきてほしいとお願いしたのだった。「お困りのことはありませんか」と尋ねる事務局長に、友人は私に会いたいと縋るように言った。


 私も友人に会いたかった。久々に飲みたかった。人の話を平気で遮るけど必ずその後に「それで?」と話の続きを促してくれる友人の改まったまなざしが懐かしかった。ふだんは上品だけど酔うと途端に所作が砕けて、平気で直箸で料理を摘まむようになる友人がひどく恋しかった。


「申し訳ありませんが、できかねます」


「なぜです?」


「XにはXの役割があり……」そこで事務局長は、私がXという名で呼ばれていることを端的に説明し、憮然とする友人に構わず続けた。

「電話やLINEもできません。今はとても大切な時期なのです。Xの精神を乱すわけにはいきません」


言葉の端々から、私がなにやら得体の知れない事態に組み込まれていることを友人は感じ取っていたが、さほど心配しなかった。むしろ今の私には得体の知れない事態こそが必要なのだとすら感じた。


 事務局長は、友人への経済支援を約束し、それが二代目X、つまり私の要望であることを言い添えた。それを聞いた友人の心は決まった。すでに野心は育っていた。


 友人は、経済支援のおかげで以降も働かずに済んだ。その浮いた時間で、カゲナシの権利向上を訴える市民団体〈影の輪〉を立ち上げた。〈影の輪〉はデモや街頭スピーチはもちろんのこと、フリマやアート展なんかも開催して世間の耳目を集めている。私の手元には、アート展「ペルソナ」の作品カタログがある。収録されているのは、油絵、イラスト、切り絵、版画、彫刻など実に様々だ。そのどれもがカゲナシの作であると、カタログ冒頭の「ごあいさつ」にはある。世間の人間、特に評論家気取りは「ペルソナ」の作品にひねくれた賛辞を送った。「色彩にそこはかとなく表れる影無き者ゆえの虚無感」「内向的なタッチで暴力性を覆い隠した時限爆弾のような作品」「日常に潜んだ非日常があぶり出されている。しかしカゲナシにとってそれらは純然たる日常でしかないのだ」「鬱屈した闇の上澄みをすくい取ったような……」などなど……。苦笑するほかない。ネタバラシをすると、実は「ペルソナ」に出品されたのは全て、カゲナシではない普通の人間の手による作品だったのだ。カゲナシ迫害に心を痛める、心ある市民の作品だ。


 こうして友人は、勝手な先入観がいかに人間の認知を歪めるかを世間に示して見せた。友人はYouTubeでそのことを挙げ「影がなかろうと、我々カゲナシは皆さまと同じ平凡な人間です。影を失った代わりにサイコキネシスや千里眼なんて獲得していないし、筋力が上がるわけでもない。芸術的才能に恵まれるわけでもない。平凡な人間です」


 その動画は、驚異的な再生回数を叩き出した。具体的な数字は忘れたけど、若いサブカル層に人気の覆面アーティストの一番のヒット曲が一年かけて稼いだ数字を僅か二週間で追い抜いたほどだ。英語と中国語と韓国語の字幕をつけたことによって、海外の視聴者も追い風となってくれたようだった。


 友人が〈下界〉で世間を騒がせているとき、私は静かにセミナー参加者たちにカゲナシの因子を植え付けていた。あるいは影の因子をはぎ取っていた。私としてはただ黙って目を瞑っているだけなので、セミナー参加者たちの体と心に何かを施している実感はまるでないのだが……。

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