瞑想セミナー以外の時間は自由に使える。会社勤めの時の私からしたら夢のような状況だが、〈下界〉に行くのが許されていないうえにスマホも使えないので、初めのうちは休日なのに苦しいという業の深いジレンマに陥った。それでも本を読むようになってからは、休日を有意義に過ごせるようになった。今まで読書なんてろくすっぽしてこなかった私だけど、それしかやることがないので渋々手を出すとあっという間にハマった。アバウトにリクエストすると事務局長がおあつらえ向きな本をたくさん買ってきてくれた。読書だけでなくゲームも許されており(オフラインのコンシューマーゲームに限る)、事務局長はPS5とSwitchを買い与えてくれたが、バイオハザードとポケモンの新作をざっとプレイして以来触っていない。それほどまでに読書に熱中していた。


 〈下界〉は、カゲナシの急増に混乱しているようだった。瞑想セミナーとは別のキッカケでもカゲナシが生まれることを、カゲナシの増加のスピードは示していた。海外でもカゲナシの存在が確認されたそうだ。

蝉が鳴きやみ、木々が紅葉で赤らみ、雪が降り、山桜が咲いて散り、また蝉が鳴き始めていた。


 私は起床すると、洗面台を兼ねたキッチンで顔を洗い、歯を磨いてからログハウスを出た。生まれたての光線が目を焼いた。額に手で庇をつくり、目を細めた。視線を足元に落とすと、芝にまとわりつく無数の清冽な朝露が、生まれたての朝日を分け合っていた。


「おはようございます」事務局長が隣のログハウスのドアを開け、五段のステップを下りてきた。「もうすぐで一年ですね。ここでの生活には慣れましたでしょうか?」

私は一日一日を自力で潜り抜けた手ごたえがまるで無かった。時間に引きずられているだけだった。


「とりあえずそろそろ〈下界〉に行きたいです」と私は答えた。「友人に会いたいし、スタバの新作も気になります」


 カゲナシが激増した〈下界〉では、もう私が槍玉に挙げられることもないだろう。本音を言うと施設から出て行きたかった。しかし一方で「まだその時ではない」と、はやる気持ちを制する声も私の中で小さく響いていた。


「〈下界〉に行くのは危険です」


「例の反カゲナシ団体のせいで?」


「それもあります」


 カゲナシ排除の旗印を掲げる市民団体が次々と発足していることは、事務局長から聞いていた。とるに足らない団体がほとんどではあるが、〈ムーンライト〉だけは無視するわけにはいかなかった。度重なる外国人差別発言で芸能界を追われた元俳優・Yが代表を務め、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していた。Yはもともと右派からは絶大な支持を集める人物だったことに加え、三ヶ月前に息子を轢き逃げで失っていて、その犯人がカゲナシだった。同情票が追い風になっていた。ある点で被害者であることは、ある点で加害者になることを暗黙的に許される。世間はカゲナシという怪異への恐怖の着地点を〈ムーンライト〉に見出し、日々SNSで賞賛の書き込みを続けていた。カゲナシ排除を煽るデモ活動も行われ、保守系の政治家や作家やタレントが遠回しに賛同の意を表明していた。


「危険なのはそうでしょうけど、私も実際に〈下界〉の状況を見てみたいです」


 ジャブみたいな探り合いが続いた。何を言ったか記憶にないくらい空っぽな会話だった。会話の最中、Tシャツに歯磨き粉が付着しているのに気づいて、手でこすると粉っぽく薄く掠れて、ペーストだろうと歯磨き粉は「粉」なのだと実感したのだけは覚えている。


 結局、私の機嫌を損ねるくらいならと、事務局長はしぶしぶ承諾してくれた。会話の中身でなく、会話の長さが功を奏した形だった。典型的なダメなディベートだった。


「ところで」と、私は事務局長の翻意を阻止するように素早く続けた。「昨日会いに行ってくれたんですよね、友人に。元気そうでしたか?」


 〈下界〉で暮らす友人の様子も、事務局長を通じて知るしかなかった。なんせ私はスマホを没収されているのだから。


「お変わりないようでした。今回もたくさんお話を聞かせていただいたので、また後ほど」


「ひとつだけ、犬の名前のこと、あの答えだけ今知りたいです。気になり始めると頭を離れない性質で」


「犬を飼ったことはないとおっしゃっていました」


 事務局長が本当に友人に会って話をしてくれているのか確信を得るため、私はたまにダミーの質問を預けるのだ。


「あれ? なんか車みたいな名前の犬を飼ってたはずなんですけど」


「しかし確かに犬を飼ったことはないと言って笑っていましたよ? 猫なら飼ったことあるそうです。名前はエスティマ」


「ああそうだ猫でした。別の友達とごっちゃになっちゃって」


事務局長は口の端に微笑を過らせ(この一年で少し表情が豊かになった)、それから「金銭面も特に問題ないそうです」と、資金援助が十全かつ滞りないことをアピールした。


 友人への資金援助は、私がここで働くことへの対価として要求したもののひとつだ。頑なに現金での支給にこだわる怪しさに目を瞑れば、〈大いなる正午〉の友人への資金援助に不満はなかった。


 午前中に私はヘアカットをしてもらった。美容師のカゲナシがここへ定例会議のために時たまやってくるので、タイミングが合うとタダで髪を切ってくれる。トリートメントまでやってくれる。しかもあっちから「切ります」と申し出てくれる。そして切った髪を一房愛おしそうに和紙で包んで懐に入れる。毎回リアクションに困る。

昼食を済ませたあと、私は〈下界〉に連れていってもらうため、車に乗り込んだ。ベンツではなく、スズキの灰色の軽自動車だった。初めて見る青年が運転席に乗り込んだ。事務局長はその青年をボディガードだと私に紹介した。確かに背が高くて肩幅もあり、頼もしく見える。


 事務局長が忘れ物をしたと言って助手席を離れたとき、青年はルームミラーの中で愛想良く「お供できて光栄です」と目尻を下げて沈黙を追い払った。


「いえ、そんな……。今日はよろしくお願いします」


「ここは退屈でしょう?」と青年は笑った。


「静かでいいところだと思います」嘘にはならない答えを私は返した。「私、人混み苦手で、電車とかでよく吐きそうになってました。電車がないっていうのは、ここの美点です」


「分かります。僕は人混みそのものもそうですが、それよりも、人混みによって生じる性質が苦手でした」


「性質?」


「その日、花火大会があったんですよ」あたかも『その日』が周知の事柄かのように、青年は言った。「僕は友達に会いに行くために電車に乗っていました。車内には浴衣姿のカップルが大勢いました。そのカップルたちは、降りる駅がまちまちでした。『あれ? 今日だけで何ヶ所も花火大会があるのかな?』と思いました。でも夜友達とご飯食べながらTwitterいじってると、今日開催される花火大会は一ヶ所だけだと分かりました。打ち上げ会場そばの写真があって、とても人間が呼吸できるような環境には見えませんでした。そこでようやく理解したんです。電車でカップルが降りる駅がまちまちだったのは、みんな知恵を絞って穴場の鑑賞スポットに散っていたからなんだと」


 話はそれで終わりのようだった。なるほどそれであなたは人混みが嫌いなのですねと素直にリアクションできるエピソードではなかった。でもなんとなく彼の気持ちは分かる気がした。


 事務局長が「お待たせしました」と助手席に戻ってきた。

 花火か、と私は思った。最後に行ったのは、友人と二人でだった。空を飛ぶヘリコプターを指さして「報道かな?」と私が呟くと「空で花火鑑賞する金持ちだよ」と友人が教えてくれた。私は周囲で歓声をあげるカップルや家族を見て、金持ちになんてなるもんじゃないなと思った。


「続けていけそうですか?」


 事務局長がこっちを振り向いて言った。最初なんの話か分からなかった。まだ頭の中では花火があがり、ヘリが夜空をハエのように鬱陶しく飛んで景観を損ねていた。花火がヘリに直撃して大爆発を起こす妄想をして笑いだしそうになる私に友人が「今のはモンスターボールの形だね」と言ってはしゃいでいた。


 続けていけそうですか? ああ、ここでの生活をってことね。私は「なんとか」と答えた。事務局長は満足そうに口角を上げ、前に向き直った。


 車がゆっくりと動き出した。サイドガラスに、去年施設に連れてこられた時と同じ光景が、去年とは逆の順序で切り取られて後方に捨てられていく。


 山を下りて一時間もせずに車は止まり、サイドブレーキをかける音が旅の空気にピリオドを打った。


「休憩ですか?」私はサイドガラスの外を覗き込みながら尋ねた。コインパーキングのようだった。


「いえ到着です」後ろめたいことを誤魔化す人間が往々にしてそうするように、事務局長は不自然な即答をした。


「友人の家に行きたいのですが」そうしてもらえると思っていた。


「スケジュール的にちょっと厳しくてですね」


 呆れるほど白々しい言い訳だったが、この先行われるであろう応酬が予言みたいに脳裏に去来し、私は疲労を前借りして勝手に疲れてしまった。


 五秒間の沈黙が車内で育ち、それをもって了承とした事務局長が「行きましょう」と言ってドアを開けて外に出た。


 押し潰すように低い灰色の雲が果てしなく続いていた。いつ雨が降ってもおかしくなかった。たぶん天気が悪いから私の〈下界〉行きは許されたのだろう。カゲナシにとって、曇りの日の昼間が一番出歩きやすい。日が弱く、街灯も点いていないからだ。みんな一様に影ができないので、カゲナシであることがバレにくい。


 歩くにつれて、背の高いビルに曇り空が閉ざされていった。私はライトカラーサングラスとキャップで変装しているが、すれ違う人々の引っかくような視線を断続的に感じた。


「どうかリラックスしてください」と事務局長が耳打ちした。


 なるほど、私はリラックスを求められるくらいには挙動不審だったようだ。ひとまず視線を正面に固定すると、肌に感じるざわつきはぐっと減った。

 

 電動キックボードに乗った男に追い抜かれた。片手にハンディファン、もう片手に櫛を持って前髪をとかしながら歩く女と肩をぶつけそうになった。


「なんか普通ですね」と私は事務局長に向かって言った。「もっと、こう、カゲナシがリンチされてたり、集団で言い争ってたり、デモやってたりするものだと」


「リンチも言い争いもデモもあります。いま目の前で起きていないだけです」


 買い物してパンケーキ食べてスタバの新作を飲んで、散歩をしていると大きな自然公園にたどり着いた。公園の遊歩道を歩いている最中、ふと目を上に向けると、木々の向こうに高層ビルが林立しているのが見えた。その光景はなぜか、以前友人と一緒に大型プール施設へ遊びに行った時の記憶を、私に呼び起こさせた。ウォータースライダーの階段を上がっていくと施設の外が見渡せるのだが、その光景が、施設内の都会的な喧騒とは真逆のド田舎だった。河川が穏やかに流れていて、釣りをする大人が何人か見えた。水遊びをする子供もいた。果てしなく長くのびるアスファルト道路には、車はたった一台しか走っていなかった。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。都内の郊外のプール施設だった。内と外の境界について考えるともなく考えているうちに、私たちの番になり、長く曲がりくねったウォータースライダーを滑って下のプールにドボンし、私の思索は水しぶきと共に弾け散った。


 自然公園の木々から覗く高層ビルと、プール施設の外に広がる田舎風景。この二つの光景は、私の中で不思議なくらい親密に結びついた。


 散歩を終えてコインパーキングに戻ると、ぐしゃりと潰されたオーガニックコーヒーの紙パックが車のボンネットに置いてあった。あえてオーガニックを選ぶ人間が環境への配慮をゴミと一緒にかなぐり捨てている様は味わい深いものがあり、写真に収めれば芸術作品になりそうだった。


 私の貴重な外出の記憶の最後には、この紙パックがピリオドのように黒々と打たれている。

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