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父は、アマゾンのジャングルに住む「アティオイ族」という少数民族の村に滞在した経験を持つ。それは私が生まれる五年以上前のことだと、彼は言い訳するように付け加えた。私の生後だと何か不都合でもあるかのような物言いだった。
ジャングルの奥で文明化を拒否し続ける少数民族と接触を図ろうとした父の動機は、ひとえに、その言語だった。アティオイ族は「右」と「左」にあたる単語も、「男」と「女」にあたる単語も有していない。1、2、3……と数を表す言葉もないし、「全部」「多い」「一部」等の数量詞も持たない。色を示す言葉もない。彼らの人生に、それらの「差」は不要なのだ。その言語、というより、その言語が作り出す世界観に、父は心を惹かれた。なぜそれほどまでに彼が言語というものに拘ったのかは知らない。もはや知る由もない。
アティオイ族に接触した日本人は過去にもいた。ドキュメンタリー番組の制作のためにテレビの取材班が村を訪ねたことがあるのだ。その取材班の一人として現地に入ったディレクターの男と、父は交友があった。そもそもその人物がきっかけで、父はアティオイ族を知ったのだった。
父はディレクターの男に、アティオイ族に会いたい旨を話した。ディレクターの男は父に「英語は問題なかったよね?」と確認してきた。
英語? まさかアマゾンの少数民族が英語を話すわけはなかろうと父は首をかしげた。
「今まさに、アティオイ族の村にアメリカ人の知り合いが仕事で滞在してるんだ。そいつが助手を熱望していてね」とディレクターの男は言った。
「助手、ですか。何を手伝えばいいのでしょう?」
「プロテスタントの宣教師なんだ、そいつ」
「アマゾンの少数民族の村に、宣教師、ですか?」父は面食らって言った。
「大昔から西洋人が変わらずやってきたことだよ。文明化の押しつけ。イエスの教えを説いて、ジャングルに教会でも建てるつもりなのかもしれないね」
「アティオイ族という少数民族を教化することで、西洋人に何のメリットがあるのでしょうか?」
「さあ、分からない。西洋人の考えることはさっぱりだよ。でもこれだけは分かる。アティオイ族を教化するなんて、世界中の誰にも不可能だ」
父はほっとした。文化の破壊に手を貸すのはごめんだったからだ。
「ぜひ助手として僕を推薦してください」
「無給だけど、大丈夫?」とディレクターの男は苦笑した。「申し訳ないね。でも、FUNAI(国立先住民保護財団)の許可を得るには、その男の助手として送り込むくらいしか作戦が思いつかなくてね」
父は一も二もなく「構いません。ぜひ行かせてほしいです」と頭を下げた。
父は現地入りする数ヶ月前から、狂犬病、A型肝炎、B型肝炎、黄熱病、腸チフス、破傷風などのワクチンを逐次打って準備を整えた。そしていよいよ出発。アメリカ経由でリオデジャネイロに行き、そこから国内線でマナウスに飛んだ。半信半疑だったのだが、話に聞いていたとおり、アマゾン川の船着場で二名の助っ人が父を待っていてくれた。一人はFUNAIの職員で、もう一人は護衛だった。護衛の男は、腰のホルスターには拳銃を、肩からはライフルをぶら下げていた。驚くべきことに、彼は現役のブラジル陸軍の兵士だった。面食らう父を見て、FUNAIの男が「最近、川沿いの集落がイゾラド(未知の先住民)に襲撃されましてね。用心せねばなりません」と英語で説明してくれた。
文明人の集落が襲撃される事件は、父も聞いたことがあった。不法な伐採によって先住民たちが森の住処を追われ、文明人との予期せぬ遭遇で暴力を行使してしまう。そんな悲しい出来事が起きていると。
「ジャパンのVIPにもしものことがあったら、我が国の沽券にかかわります」と、護衛の男が言った。彼も英語を話せるようだった。そして案外気さくそうで、父の緊張は少しほぐれた。「人間だけでなく、野生動物に襲われる可能性もありますしね」
父は彼らのモーターボートに乗り、茶色く濁ったアマゾン川を上流に向かって進んだ。「川」といっても、対岸が地平線に埋まってほとんど見えないほど川幅は広く、スケールは紛れもなく海だった。それは父が知っている「川」では到底なかった。彼は「川」という単語のアップデートを余儀なくされた。ピンク色のイルカが泳いでいるのを見て、「イルカ」と「海」についての認識も再構築せざるをえなかった。この言葉の概念の破壊と再生は、父に不思議な快感と高揚をもたらした。
「あなたたちは、アティオイ族の言葉が分かるのですか?」父は分かり切ったことを、交流のためだけに尋ねた。
当然「いや、全く分かりません」と二人は笑った。「アティオイ族の言葉を十分に理解できる人間は、文明社会には一人たりとも存在しませんよ」
そう、一人たりとも存在しないのだ。だから通訳は意味を成さないし、そもそも存在しない。では言葉による意思疎通は不可能なのかといえばそうでもなく、彼らの中にごく少人数ではあるが、ポルトガル語の単語をいくつか分かる者がいると、ディレクターの男から聞いていた。ゆえに父はボートの上でも暇さえあればポルトガル語の参考書を熱心に睨んでいた。分からない点は二人に尋ねると親切に教えてくれた。
支流へ、そしてその支流へと移動し、川の名前が目まぐるしく移ろっていく。補給と休憩を繰り返し、目的地までは三日かかった。入り江で船を降り、じゃぼじゃぼと水の中を歩いて陸へ上がった。いよいよジャングルに踏み込んでいく。空気は強烈な湿り気を帯び、立ち込める熱帯の草花の香りで父は頭がくらくらした。歩くたびに足が軽く沈み込み、柔らかな土の感触が靴底を通して伝わってくる。
人の通行によって、細い道が自然と出来上がっていた。父たちは縦一列でそこを進んで行った。村は川沿いにあり、ボートからのアクセスは良好だった。マチェーテを振り回して草木をかき分けて何十キロも歩く必要がないのはありがたいけど、少し物足りない気もした。村に近づくと、褐色の肌をした大勢の男女がぞろぞろと歩み寄ってきた。犬も数匹駆け寄ってきた。彼らは武器を装備していなかったが、出し抜けの未知との遭遇に父は肝を潰した。
しかし拍子抜けするほど、その人々は好意的だった。FUNAIの男が身振り手振りを交え、彼らとコミュニケーションを取り始めた。言葉は通じないけど、大まかな意思は通じているようだった。
アティオイ族の人々の口から繰り出されるものが、言語だとは父には到底思えなかった。鼻歌か叫びにしか聞こえなかった。
アティオイ族の人々はとにかく笑っていた。何がおかしいのか、すぐに声をあげて笑った。父もつられて笑った。なぜか笑って初めて、本当に自分は日本の裏側の、緑の楽園にやって来たのだと実感した。
本当に、やって来てしまったのだ。
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