翌日、さっそく友人は会社に退職の意を伝えた。もともと肌に合わない職場だったのだという。そして申し送りや残務処理を経て、翌月の末をもって退社となった。

私もすでに、どちらかというと「辞めさせられた」に近いニュアンスで会社を辞めていた。


 晴れて職無しになったカゲナシ二人だが、結局YouTube計画は空中分解し、「どうしようね?」という段階に後戻りしていた。


 私のスマホには、毎日ひっきりなしに取材やコラボの申し込みのメールが飛び込んでくる(当たり前のようにメアドは流出している)。私はそれらを自虐的な気持ちで楽しみつつスルーしていたのだが、今回は一通のメールに目がとまった。差出人は「大いなる正午」という組織だった。


 大いなる正午……?


 メールの件名には「カゲナシの正体を知りたくはありませんか?」とあった。カゲナシ本人でも知らないことを「知りたくはありませんか?」だと? 私は言いようのない興味をひかれた。


 「大いなる正午」をググってみると、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」という著書に関する情報ばかりが出てきた。その本に出てくるそうなのだ、「大いなる正午」という言葉が。人間が「超人」とやらに至る過渡期を表す言葉らしいのだが、はて、なんのことやら……。


 結局、「大いなる正午」という組織のホームページを見つけることはできなかった。そのことは、私を不安にさせるどころか、むしろ興味をより一層掻き立てる結果となった。


 あっちから会いにきてくれるそうだし、とりま会ってみても損はなかろうと私は思った。相談すると、友人も「いいんじゃね、どうせ暇だし」と乗り気だった。私を世間から隠匿しようと慎重だった友人はすでに消えていた。人間、大切なものを失うと人が変わる。FXで二千万の借金を抱えた大学時代の先輩を思い出す。財布に余裕がある時、先輩はちょっと信じられないくらいのケチだった。借金を抱えた後、先輩は失敗談を居酒屋で私にへらへら笑いながら話してくれた。居酒屋の会計は二人合わせて七千円ほどで、私は「私が出します」と気を遣ったのだが一蹴された。先輩は「二千万の借金があるんだよ。今さら七千円がなんだっての」と胸を張っていた。たぶん影は二千万円より大切なものなのだろうなと、私は他人事のように考えた。


 日を跨がずに承諾の返信を送った。五分も経たずに、都合のいい日時を第三希望まで教えてほしいとの、就活みたいなメールが返ってきた。つまらん意地で暇を隠す必要もないので、いつでも可、なんなら明日でもいいと返し、するとまたすぐに、では明日の十七時にお迎えに参りますので自宅で待機していてください、ときた。結局、現住所を尋ねられることなくやりとりは終わった。私は意地悪な気持ちで、あえてそれを指摘しなかった。


 果たして、翌日の十七時ちょうどに家のドアが叩かれた。べつにチャイムは壊れてないのに、来訪者は指の関節でこつこつと硬質な音を生み出し続ける。たぶん人差し指の第二関節だろうと思った。私と友人は来訪者を出迎えた。


 玄関先に立っていたのは、想像に反して女性だった。メールの文面に性別を判断できる要素は何ひとつなかったのに、なぜか来るのは男性だとばかり私は思っていた。

女性は黒いパンツスーツ姿だったが、頭にはキャップをかぶり、靴はスニーカーだった。帳尻を合わせるためだけにどちらも黒で統一しているように見えた。

彼女は腰を四十五度に折って「初めまして」と挨拶をした。そして名刺を差し出してきた。


 名刺には、組織名の「大いなる正午」と、氏名と、肩書きの「事務局長」のテキストだけが記されていた。電話番号もメールアドレスも、組織のロゴマークもなかった。紙は厚みとツヤがあり、それなりに高価であろうことがうかがえた。


「お迎えにあがりました」口をほとんど開かずに、隙間風のような声で事務局長は言った。


 お迎え、ということは、どうやら場所を移すつもりのようだ。そして事務局長の視線のベクトルから察するに、連れていかれるのは私だけのようだった。友人もそれを察しているようで、ちょっぴり心配するような、残念がるような、曖昧な表情を私に向けていた。


 しょうじき〈大いなる正午〉が本当に友人宅を訪ねてくるとは思っていなかった。期待はほとんど祈りに近く、それが成就されるとは考えていなかった。だから事務局長が「準備のほうはいかがですか?」と尋ねてきたとき、私はちょっと慌てた。準備なんてできちゃいない。とはいえスマホと財布をかばんにつっこめば、それで準備は終わった。用心のために包丁でも持っていこうかという考えが警戒心をかすめたが、事務局長の淀んだ大きな目が腕時計をさりげなく一瞥したのを見て、警戒心はたちまち徒労感に吸収された。


「参りましょう」と言って玄関を出ると、事務局長は外廊下を歩いていく。そしてエレベーターには見向きもせず、階段室へ入っていった。


 私と、見送ってくれるという友人は、彼女の背中に続いた。リハビリの深夜の散歩の甲斐もあり、膝の不調はすっかり回復していたので、私は階段での移動に異議を唱えるつもりはなかった。


 マンションのロビーを出ると、まだまだ沈む気配のない日差しに私は目を細めた。飛蚊症のうねうねが視界にすぃーっとフェードインしてきた。飛蚊症は硝子体に浮かぶゴミの影がちらつく症状だ。すると、硝子体に浮かぶゴミは体の一部ではなく、あくまで独立したモノという判定なのだろうか? 着ている服や握ったフォークの影すら消えるのに、硝子体に浮かぶゴミはセーフなのかよと、世界の性格の悪さを憎まずにはいられない。


 マンション前の路肩に、ベンツの黒いセダン車が停まっていた。エンジンはかかったままで、運転席には男がいた。彼は私たちを認めると、サイドガラス越しに小さくお辞儀をした。


 事務局長は後部座席のドアを開け、片手で私を中へと促した。車はだいぶん使い込まれていた。事務局長は助手席に座った。後部座席は私一人で広々と使えるようだった。半ドアを確かめるフリをしてドアハンドルを引いてみると、すんなり開いた。あえてロックは外しているようだ。逃げたいならご自由に、でもあなたはきっと逃げ出したりしない、そんな余裕がカーエアコンの冷風に乗って漂ってくる。


 私はシートベルトを締めて初めて、自分の置かれた状況に混乱した。組織の情報収集能力を誇示するという意味では、今回の来訪は極めて効果的だった。どこに隠れようと無駄だと突きつけられた。混乱は恐怖へとゆるやかに傾き初めていた。でもなんであれもう後戻りはできそうになかった。


 滑らかに車は発進した。窓枠に切り取られた街路樹が後ろに地滑りするのを見るまで、動いていることに気づかなかった。私の体と心はベンツで前へ前へ運ばれていく。道の角に車が消えるまで、友人はずっと歩道から手を振ってくれていた。私もリアガラス越しに手を振り続けていた。


 目隠しをされているわけでもないので、私はサイドガラスから外の景色を眺め、道順を記憶しようと努めた。でも見慣れた街並みも、慣れない古ぼけた高級車の窓を通すと急によそよそしく見え、うまく脳に馴染んでくれなかった。潔く諦めて頭をシートにもたせ、まっすぐ前を見ることにした。対向車が猛スピードですれ違っていくのを見るたびに、私は車の運転というものに実際的な恐怖を覚えた。こちらかあちらか、どちらかが気まぐれでちょいとハンドルを内側にきりさえすれば、双方ともに即死することになるのだ。考えるだけでみぞおちあたりがズンッとなって、手のひらに手汗の気配を感じた。何事も要領良くこなす人間が少なからず存在することは知っているが、要領悪くて気弱な人間も同じように平気な顔して車を運転している現実が、不思議でたまらなかった。そして運転免許を取得している自分に対して、なんだか他人めいた距離感を覚えた。


 私はルームミラーにつるされた小さな黒猫のぬいぐるみを眺めた。黒猫は透明なターンテーブルに乗っているかのように水平に右へ左へ半回転し、時たま私と目が合った。車は高速道路を一時間ほど走った。さらに一般道を一時間ほど走り続けると月光を映す海が見えたが、すぐに民家に塞がれた。工事の気配なんてまるで無いのに、民家と民家のあいだを抜ける細道に仮設トイレがひとつぽつんと置いてあって、信号待ちをしているとき、私はサイドガラス越しにそれをずっと眺めていた。


 カーオーディオからはラジオが流れ続けている。DJが「TikTokで話題沸騰!」と紹介し、アンニュイな曲が始まった。私はその曲を知っていた。もともとスウェーデンの楽曲なのだが、日本語でカバーされて、それがバズったのだ。


「これ、原曲と和訳、ぜんぜん意味違うんですよね」


 自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。車内で発した第一声が楽曲への愚痴なんて、あんまり印象も良くないだろう。


「嫌ですよね、そういうの」意外にも、事務局長は共感を示した。「翻訳すると、真意は絶対に伝わりません。特に歌はそうです」


「分かってもらえて嬉しいです」


「世界に言語がひとつだけなら、みんな嫌な思いをしなくて済むのに」事務局長は独り言のように言った。無口な人だと思っていたけど、案外お喋りのようだ。「世界にいくつの言語が存在するかご存じですか?」


 思わぬ地点に話がバウンドして戸惑いつつも、私はあてずっぽうで答えた。「百五十くらいですか?」


「約七千です」


「それはちょっと怖いですね」


「世界中の人間が、ひとつの歌を同じように正しく味わうには、まずはその七千の言語をひとつに統一する必要があると思いませんか?」


 私は「どうでしょう」と曖昧に答えた。


「七千の言語をひとつにすることは、心をひとつにすることにも繋がります。そんな世界って平和だと思いませんか?」


「どうでしょうか」今度は、私は明確に否定を滲ませて言った。「日本人はみんな同じ日本語で話してるけど、日本人ってぜんぜん心がひとつじゃないですよね」


 綺麗ごとにとりあえず反抗したくなる、私の悪い癖が出始めていた。


「おっしゃるとおりです」


 事務局長はあっさり引き下がった。


 私は拍子抜けし、やや強めに反論してしまったことを後悔した。なんでもいいから話題をふってほしかった。それに愛想よく応じて、さっきの無礼を帳消しにしたかった。でも事務局長はすっかり口を閉ざしてしまっていた。


 ぼんやり外を眺めながら、私は「七千か」と思った。そしてバベルの塔のエピソードをふと思い出した。バビロンに天まで届く塔を建てようとする傲慢な人々にキレた神様が、元々ひとつだった言語をバラバラにし、塔建設プロジェクトを頓挫させたのだという。だとすると、もし神様を説得することができれば、七千の言語をまたひとつに統一することができるかもしれない。そのためにはまず神様に会わないといけない。


 車は山道に入っていた。「お蕎麦」の看板を掲げた廃屋の脇の砂利道に入り、車は速度を落として進んだ。お尻に細かい振動を感じる。ルームミラーにつるされた小さな黒猫がぴょんぴょん跳ねる。木々の連なりが速度に溶けて滲んで、背後に送られていく。


 道の終わりが旅の終わりだった。視界が開けると、そこは周囲を森に囲まれた平地だった。短く刈り揃えられた芝が一面に敷かれ、そこを砂利道がゆるいカーブを描いてのびている。月明かりで砂利道は光って見えた。奥へ進んで駐車スペースで停車する。事務局長は肩越しに振り返って「お疲れ様でした」と言うと、シートベルトを外して車を降り、後部座席のドアを外から開けてくれた。


 目の前には、厩舎のように細長い平屋があった。等間隔に窓が並ぶ、意図的な「無個性」を感じさせる建物だ。


 ざっと見渡したところ、建物は複数あるようだった。長かったり短かったり、屋根が黄緑色だったり灰色だったりしたが、どれも一様にモルタル壁の同じ構造の平屋だった。平屋群から五十メートルくらい離れたところには、これまたやはり平屋のログハウスが四軒建っている。小さな建物で、倉庫のような趣すら感じるが、窓にカーテンがひかれていて外壁に排水管が張り付いているので、人が暮らすための建物なのだろう。


 実際、事務局長は私をログハウスのひとつに案内し、ここを自由に使ってほしいと言った。なんとなく分かっていたけど、今日は家に帰れそうになかった。

ひと息つく間もなく別の建物に連れて行かれた。目線の高さの窓とは別に、屋根の軒の下にもうひとつ窓がある。二階建てかと思ったけど中に入ると吹き抜けで、上の窓は明かり取りの用途らしかった。そこから月明かりが窓枠にくり抜かれて差し込んでいる。十字の格子窓なので、畳の床に金色の升目が落ちている。ちょうどWindowsのロゴみたいな形だ。照明は消えているが、月明かりだけで建物内を十分に見通せた。


「ここは瞑想ホールです」と事務局長は言った。「〈大いなる正午〉の前身が、ヴィパッサナー瞑想の発展と普及を目的に設立された非営利団体なので、その名残が散見されるのです。怪しげな場所に連れてこられてご不安でしょうが、どうかリラックスしていただければと思います」


 不安なんて友人のマンション近くに置いてきてしまっていたが、とりあえず肯定の笑みを浮かべておいた。


「この後お食事を提供させていただきますが、言うまでもなく、金銭を要求するようなことはありません」


「今も非営利団体なんですね」


「そのとおりです」


「その、えっと、ナントカ瞑想……。それはもうやっていないんですか?」


「実施しております。ただ、前身の団体の時のように有志を募ることはなくなりました。あくまで我々が選別した人間のみ参加が可能な、クローズドな催しとなっています」


 私は事務局長に続いて玄関で靴を脱ぎ、瞑想ホールの畳にあがった。黒いカバーがかけられたクッションが等間隔に……一、二、三、四、五、六、七、八、の、一、二、三、四、五、六、で、八かける六で四十八。四十八個並んでいる。

促され、私はクッションに腰かけた。事務局長は立ったまま話を続けた。


「本日お越しいただいたのは、ぜひとも、あなたに我々〈大いなる正午〉の一員になっていただきたいからです」


 なんだ、「カゲナシの正体を知りたくはありませんか?」なんて知ったようなことを言っておいて、結局は勧誘か。


 事務局長は淡々と続ける。「あなたは、日々きっと様々な人間の悪意に晒されていることでしょう。当然です、影のない人間なのですから。異端なのですから。今更言うことでもありませんが、人間は自分と違うものを恐れ、そして憎みます。そこで我々は、そういった悪意から身を守らなくてはなりません」


 我々、と私は思った。まるで事務局長まで影をなくしてしまったかのような物言いだとおかしくなって笑みを口元にのぼらせかけたが、すぐにその笑みは喉を通って腹に消えた。窓から差し込む月光を浴びる事務局長の足元には、影がなかったのだ。


「あなたも?」


「はい」


「どのようにして? 何かキッカケがあったのですか?」


 何かヒントを得られるかもしれないという期待と、仲間を見つけたという興奮から、私の声音に熱がこもる。


「変えられたのです。Xによって」


「X?」


「Xは影のない、いわゆるカゲナシでした。そのXと瞑想の時間を共有することで、おそらく私はカゲナシになりました。私だけではありません。Xと瞑想の時間を共有した者が一人、また一人と、次々とカゲナシ化していきました。Xは指導者のポジションに収まり、瞑想セミナーを通じてカゲナシをどんどん増やしていきました」


「組織的に、意図的にカゲナシを増やしたということですか?」


「そうです」


「なぜですか?」


「カゲナシは希望の光だからです」


「影がないだけの人間にいったい何を期待しているのですか?」


「いずれ分かります」

 事務局長は言外に、今は話せない、あるいは話したくないと告げていた。

「しかし昨年の大みそか。Xが行方をくらましました。杳として、Xの足取りは掴めません」事務局長の話は進んでいく。「Xの代わりに私が指導者としてセミナーを引き継ぎましたが、一人たりともカゲナシを生み出すことはできませんでした。Xが直接指導しないとダメなようでした。きっとXはオリジナルだったのです。自力で影を捨て去ることができた、オリジナル。瞑想セミナーで生み出されたコピーのカゲナシではなく」コピーという言葉の冷たさを誤魔化すように、事務局長は小さく咳払いをした。「だいたいの事情は呑み込んでいただけたでしょうか?」


「そのオリジナルとしての役割を、私に求めている。そういうことですか?」


「さようでございます」


 しょうじき言って、断る理由はなかった。私はカゲナシで、しかも世間に面が割れている。影を持つ普通の人間の社会で普通の生活を続けていくことはもうできそうにない。


 瞑想ホールの玄関扉が開き、人がぞくぞくと入ってきた。事務局長が「九時ですね」と呟いたので、どうやら人々は九時に瞑想ホールに集まることになっていたようだった。人々は靴を脱いで綺麗に並べ、畳にあがって前方左側から順にクッションに腰を下ろしていく。一人、また一人。私が座っているクッションを飛ばして、また一人。クッションが三分の一ほど埋まったところで、人間のストックが切れ、瞑想ホールの玄関扉は閉ざされた。


 唯一起立している事務局長が、ホール前方の一段高くなった板間にあがり、一同を見渡した。


「影を捨てた皆様」


 事務局長の第一声で、この連中がカゲナシであることを私は理解した。影を、失った、ではなく、捨てた、と彼女が表現したことは、私に小さな慰めをもたらした。

事務局長は、みんなに私を紹介した。「皆様ご存知のとおり」と言ったので、すでに私の身の上は知れ渡っているようだった。


 私にはよく分からない意識高そうな話を五分ちょい続け、最後に労いの言葉で場にピリオドを打ち、事務局長は解散を宣言した。すると、入ってきた人々が逆再生みたいに規則正しく立ち上がって瞑想ホールを出て行った。


「お食事は後ほどお持ちします。今日はゆっくり休んでください」


 そう言うと、事務局長は私をログハウスへと送り出した。その際に、スマホを没収されてしまった。


 外に出ても明暗の段差を感じず、瞑想ホールの中がいかに暗かったかを実感した。夜空は一面雲に覆われているが、雲の濃淡によって月明かりの滲み方にムラがある。ほとんど真っ黒な部分もあれば、そこだけ切り取って差し出せば昼間だと騙せるくらい輝いている部分もある。デコボコした夜空だった。


 ログハウスでスマホをいじろうとしたがついさっき没収されたことを思い出し舌打ちする。玄関扉がノックされ、開けると、知らない顔(さっき瞑想ホールにいた誰かだとは思うが)がバスケットを腕に下げて立っていた。知らない顔は無言でバスケットを差し出してきた。私がバスケットを受け取ると、知らない顔は踵を返しそそくさと闇に溶けていった。


 バスケットの中身は、ロールパンと、使い捨てカップに入ったミネストローネスープと、200mlの紙パック牛乳だった。ゲストだろうと特別扱いはしないぞという熱い意志を感じ取れる献立だ。


 翌朝、四時にキーンコーンカーンコーンと鐘の音が遠雷みたいに響いてきて、私はまどろみの薄膜の中で柔らかな目覚めを得たが、暴力的な眠気にあらがえず、ちゃんと目覚めたのは八時だった。玄関扉がノックされ、私がうめき声に近い返事をすると、昨夜食事を届けてくれた知らない顔が扉の隙間から顔をのぞかせた。そして目で「起きろ」と言った。私は目で「起きる」と答えた。知らない顔は頷きもせずに扉を閉めた。気配が一歩一歩遠ざかっていった。


 朝食の場所は昨夜事務局長から聞いていたので、私は〈弐番館〉に向かった。人の流れに乗ると自然と食堂にたどり着いた。食堂には言葉どころか呼吸すら転がっていなかった。死者みたいな、だけど目には不自然なほど活き活きした光を宿した連中が、黙々とセルフサービス形式で食事を盛りつけていた。たぶん食事中は喋っちゃダメというルールなのだろう。ここにいる連中は、昨夜瞑想ホールに集まっていた連中とはまた別の集団のようだった。ここにいる連中には影があるから。


 配膳台には白米、玄米、ライ麦パン、野菜スープ、味噌汁、冷ややっこ、筑前煮、そしてコーヒーと紅茶と牛乳と豆乳もあり、さすがにデザートは無かった。時刻はまだ午前八時を回ったばかりなのに、食堂にいる連中はすでにひと仕事終えてきたという空気を身にまとっている。午前四時に鐘の音が聞こえたのを思い出し、この連中は四時に起床していたのだなと合点した。


 空いているテーブル席に腰かけて、沈黙に肩まで浸かり、空腹を埋めるためだけに私は箸を動かす。

 食べ終えたのを見計らったように事務局長(相変わらず黒いパンツスーツと黒いキャップ姿だ)が目の前の席にやってきて「おはようございます」と言った。あ喋っていいんだと、優等生の万引き現場に出くわしてしまったような気持ちになった。

私は無言で首肯し、直後にその無愛想さは本意でないことを示すために口角を上げた。


「眠れましたか?」と事務局長が言葉を繋げてきたので、もういいやと思って「はい」と私は沈黙を破った。そして「疑問なんですけど、昨夜のカゲナシの人たちは、普段は影のある普通の人に混じって、普通に街で生活しているんですか?」と尋ねた。


「そのような人ももちろんいます」と、含みのある答えが返ってきた。


 この日は説明と見学だけだったが、翌日からは瞑想セミナーに参加することになった。私は名だけの「指導者」として、一日の大半を沈黙の中で過ごした。朝四時起きで、就寝は夜九時。十日で一セットの合宿形式のプログラムで、一日目から三日目がアーナパーナ瞑想、四日目から九日目が例のヴィパッサナー瞑想、最終日がメッターバーバナー瞑想という流れだった。しょうじきナントカ瞑想とナントカ瞑想の違いはさっぱり分からなかったし、分かりたいわけでもなかった。


 指導者は〈下界〉の情報を自発的に得るのを禁止されるそうで、それがスマホを没収された理由のようだった。ネットの添加物まみれの情報の毒に侵されると〈オリジナル〉としての役目に支障をきたすのだそうだ。ちょっとオカルトじみてきたな、などと、存在自体がオカルトである私が冷笑を浮かべるのは滑稽だろうか。


 セミナー参加者の目的は、カゲナシになることだ。言うまでもなく、参加者は私を除いてみんな影を持つ普通の人間である。この研修生らは、十日のあいだ言語によるコミュニケーションのみならず、アイコンタクトやボディランゲージといった非言語コミュニケーションも禁止される。拷問のひとつに数えてもよさそうな仕打ちだが、不満そうなのは一人もいなかった。


 自ら望んでカゲナシになりたがる連中の真意はまるで分からなかった。私の疑問と困惑を尻目に、研修生たちは次々とカゲナシデビューを果たし、施設から消えていった。


 最初、指導者の仕事はしんどいだろうと想像していたが、全くそんなことはなかった。第一に、〈下界〉の会社で働いていたときに比べて圧倒的に休日が多い。瞑想セミナーは多くても月に一度の開催で、私はセミナーの十日以外は全て休みなのだ。そして第二に、これが一番の理由なのだが、瞑想中は昔の記憶が蘇ってきて、夢に似た時間感覚の狂った世界に私の意識は連れて行かれてしまうのだ。なので気がついたらコマが終わっているのである。ひょっとしたら本当に、私は瞑想中は寝ているのかもしれない。


 まさに今も、記憶が過去から染み出してきて、私を足元からゆっくり包み込もうとしている……。



 ……影のない人間の話を、私は昔、父の口から聞いたことがあった。かなり昔だ。それを思い出す。思い出すというより、読まずにずっと引き出しに仕舞っておいた資料をいま改めて取り出して、一ページ一ページ繰っているような感覚だ。


 記憶があまりにも鮮明すぎて、むしろ私は記憶に自信が持てなくなってきた。なんせ、記憶の中の私はまだ二歳か三歳かの幼児なのだ。幼児期の記憶があるってだけでも眉唾感がぐっと増すのに、さらには父の口から語られた物語をきちんと理解して今日まで隠し持っていた、なんて誰かに話しても信じてはもらえまい。父だって、私が話を理解できるとは考えもしなかっただろう。彼はただ、壁打ちの壁として、私を選んだに過ぎない。もし犬でも飼っていたなら、聞き手はきっと犬になっていただろう……。

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