第37話 山縣内閣発足

10月25日 - 黒田内閣総辞職(三條暫定内閣)。


11月2日 - 米国でノースダコタが39番目の、サウスダコタが40番目の州となる。

11月3日 - 嘉仁親王が立太子礼を行う。

11月8日 - 米国でモンタナが41番目の州となる。

11月11日 - 米国でワシントンが42番目の州となる。

11月14日 - 婦人記者ネリー・ブライが80日間世界一周に出発(翌年1月25日に72日間余で帰着)。

11月15日 - 東京湾汽船(後の東海汽船)設立。

11月20日 - グスタフ・マーラー交響曲第1番(初稿)初演(ハンガリー国立歌劇場)。

11月21日 - 歌舞伎座開場。

11月23日 - 最初のジュークボックスが登場(サンフランシスコ)。


12月1日 - 手彫切手、この日限りで使用禁止。

12月21日 - 九州鉄道の博多 - 千歳川間開通。

12月24日 - 第1次山縣内閣成立。

12月28日 – 世界初のインターアーバントラムが、アメリカ合衆国、オハイオ州のニューアーク - グランビル・ストリート駅に開通。

日本麦酒目黒工場(現恵比寿)完成。

1889年、伊藤博文は大日本帝国憲法の制定に尽力し、総理大臣を辞任して初代枢密院議長に就任した。黒田清隆内閣が自由民権運動や不平等条約改正に苦しむ中、彼はその動向を注視していた。


**10月25日 - 黒田内閣総辞職**


黒田内閣の崩壊後、伊藤は再び政局に目を向ける。彼は自らの経験をもとに、政治の安定を図るために次の内閣の構築に関与することを決意した。


「この国は新たなリーダーシップを必要としています。」伊藤は、枢密院の会議で他の閣僚たちに語りかけた。「我々が方向性を示さなければ、混乱が続くでしょう。」


彼の言葉に賛同する者も多く、政界では新内閣の設立に向けての動きが始まる。伊藤は特に、次の総理大臣にふさわしい人物を見極めるための情報収集に力を入れた。


**11月初旬**


伊藤は地方を訪れ、各地の有力者や民衆の意見を吸い上げることに注力した。彼は地方の声を反映させることで、次期内閣の政策に対する信頼を取り戻すべく努力した。


「我々が国民の声を無視しては、進むべき道を見失う。」伊藤は地方の集会で熱心に語った。「あなた方の意見こそが、この国を動かす力です。」


**12月 - 新内閣成立**


12月に入ると、山縣有朋が第1次山縣内閣を組閣した。伊藤は彼を支える形で内閣の政策形成に影響を与えつつ、自身の役割を模索した。


「山縣内閣は、我々の理念を受け継ぐものでなければなりません。」伊藤は山縣に対して語りかけた。「国民との対話を大切にし、彼らの期待に応える内閣であってほしい。」


伊藤はその後も、枢密院議長として憲法の運用に関する重要な助言を行い、政治の安定と改革を目指して邁進していくのだった。彼は政治家としての使命感を強く持ち、国の未来に対する責任を感じながら日々を過ごした。


 1889年、日本の政治情勢は大きく変化していた。伊藤博文は山縣内閣の運営に不満を抱き、その崩壊を画策する動きに出た。


### 1月〜4月

この期間、伊藤は自らの影響力を強めるために、様々な政治家や有力者と接触を図っていた。特に、自由民権運動の波が高まる中で、彼は民意を掌握しようと努力していた。例えば、國民新聞の創刊や、金鵄勲章の制定など、国民の関心を引く出来事を利用し、次期内閣のリーダーシップを模索していた。


### 5月〜6月

伊藤は、国内外の情勢を見極めながら、山縣内閣の政策に対する反発を組織し始める。国際的な出来事、特に米国での州の増加や社会運動の動向を踏まえ、日本国内でも新たな改革が必要であると主張し、内閣の立ち位置を批判する材料とした。


### 7月

第1回衆議院議員総選挙の結果を受け、伊藤は政治の動きに敏感に反応し、支持基盤を強化するための策を講じる。選挙の結果を分析し、山縣内閣の弱点を突くための計画を進めていた。


### 10月〜12月

伊藤は、刑事訴訟法の公布や教育勅語の発布を利用し、山縣内閣が国民の期待に応えられていないことを強調し、内閣の崩壊を促す世論を形成していく。特に、帝国議会や新たな法律の動きに対して、彼の影響力を誇示し、政界での存在感を高めていた。


このように、伊藤博文は山縣内閣を潰すための画策を練り続け、国の政治情勢を自らの手に取り戻そうと奮闘していた。彼の動きは、政治的な駆け引きと策略に満ちたものであり、次の政権を担うための準備を着実に進めていた。


 伊藤博文は、ホテルの一室で愛人に山縣有朋について説明し始めた。愛人は令和ってとこからタイムスリップしてきた。


「彼の影響力は計り知れない。彼は軍人出身で、初代内閣総理大臣として、日本の近代化に大きく貢献したんだ。特に、彼は陸軍の近代化や国防政策の整備に力を入れた。


 彼の政策は時には厳しく、独自の考え方を貫くことが多かったが、そのために多くの支持を集めた。彼の政治手腕は、権力を握る者としての威厳を感じさせるものだったよ。


 さらに、山縣は後の政治家たちにも大きな影響を与え、特に彼の後を継ぐ者たちには彼の教えが色濃く残っている。彼との対立も多かったが、それがまた日本の政治を活性化させる一因となったんだ」


 愛人は興味深く聞き入り、伊藤の言葉に頷きながら、山縣の存在の大きさを感じ取った。

 伊藤博文は、山縣有朋の生い立ちについても愛人に語り始めた。


「山縣有朋は1838年、長州藩(現在の山口県)で生まれたんだ。彼は元々、下級武士の家に育った。生まれは決して恵まれたものではなかったが、彼の勤勉さと強い意志が彼を後の大物へと押し上げたんだ。


 若い頃の彼は、学問や武術に励みながら、長州藩の動乱期に武士としての使命を全うした。特に、幕末の時代には尊王攘夷運動に参加し、藩内での影響力を高めていった。やがて、彼は戊辰戦争にも参戦し、新政府軍として活躍することになる。


 明治維新後は、彼の軍事的な手腕が評価されて、陸軍の創設やその近代化に深く関わった。山縣は軍人でありながらも、政治家としての道を歩み始め、内閣制度の確立にも尽力したんだ」


 愛人は山縣有朋がどのようにして明治の中心人物となったかを聞き、彼の強い精神力や時代を生き抜く力に感銘を受けた様子だった。

伊藤博文は続けた。


「山縣の生い立ちが彼の性格や政治スタイルに大きな影響を与えたんだ。彼は自らの経験から、国の安定と発展には強力な軍隊が不可欠だと考えていた。だからこそ、陸軍の強化に全力を尽くしたし、海外視察にも積極的だった。彼の目指す日本は、他国と対等に渡り合える国だったんだ。


しかし、彼の強い姿勢には批判も多かった。特に、彼の統治方法は時に独裁的だと言われ、政敵との対立も激しかった。彼は自分の信念を貫くためには、どんな手段も辞さない姿勢を持っていたから、その結果、彼は政治的孤立を招くこともあったんだ。」


愛人はその言葉を噛みしめるように聞き、山縣の複雑な人物像に思いを馳せた。


「それでも、彼は日本の近代化の礎を築いた一人だ。彼の影響力は後の世代にも引き継がれ、彼がいなければ今日の日本は存在しなかったかもしれない。そう考えると、彼の人生はただの権力争いの結果だけではなく、日本の未来を形作る壮大な物語なんだ。」


伊藤の語りに、愛人は感動し、山縣有朋の歴史的な役割の重要性を改めて感じた。

 

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