第36話 1889、黒田内閣の死闘

 伊藤博文(柳葉敏郎)は大日本帝国憲法の制定に専念するため総理を辞して初代枢密院議長に転じることになり、後任には薩摩閥の中心的存在のひとりで農商務大臣として閣内にあった黒田清隆(西田敏行)を推奏した。黒田は自分が務めていた農商務大臣を逓信大臣の榎本武揚(三田村邦彦)に兼務させたほかは、全閣僚を留任させて新内閣を発足させた(農商務大臣には後に井上馨を専任)。


 黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等条約の改正を実現することであった。


 大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日(1889年(明治22年)2月12日)、黒田は鹿鳴館で開催された午餐会の席上において「超然主義演説」を行って政党との徹底対決の姿勢を示したが、その一方で立憲改進党前総裁(実質は党首)で外務大臣の大隈重信(石丸幹二)を留任させて条約改正の任にあたらせた。また文部大臣の森有礼(柄本明)の暗殺後、榎本武揚が文部大臣に移動して空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎(羽生善治)を充てて、同運動を骨抜きにすることで自由民権諸派の団結を阻止した。また条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見えた。


 しかし外務省が用意した改正草案に妥協案として「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、蜂の巣を突いたような大騒動となった。一旦解体したはずの大同団結運動が今度は板垣退助(筧利夫)を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した。黒田は大隈を擁護したが、条約改正交渉は中断に追い込まれた。そこへ来て10月18日には、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に国家主義団体玄洋社団員来島恒喜が爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという椿事が発生した。進退窮まった黒田は1週間後の25日、大隈を除く全閣僚の辞表を提出した。


 黒田内閣は、憲法制定後の混乱に直面していた。ある日の鹿鳴館、黒田は懇親会の席上で、閣僚たちを集めていた。


「皆さん、自由民権運動の動向は気になるところですが、我々は冷静に対処しなければなりません。」黒田は緊張した面持ちで言った。


「しかし、黒田さん。大隈外相が怪我をしたことで、政局が不安定になっています。」榎本武揚が心配そうに応じる。


「それに、妥協案の騒動で大同団結運動が再燃したのは痛手です。国民の不満が高まっています。」後藤象二郎が言葉を続ける。


「私たちが強硬に出れば、逆に火に油を注ぐことになるかもしれません。まずは現状を維持することが肝心です。」黒田は冷静に判断を下そうとした。


その時、山縣有朋が口を開いた。「我々は大隈を擁護し続けるべきです。条約改正が成功しなければ、国際的な立場が揺らぎます。」


「だが、妥協案には反対する声が多い。国民の信任を得るためにも、まずは対話が必要では?」井上馨が提案する。


「私も同意見です。対話の中で我々の立場を明確にし、政府の一体感を示すことが重要です。」後藤が補足した。


黒田は一瞬黙り込み、思考を巡らせた。「分かりました。今後の方針を皆で話し合い、国民の不安を取り除く策を考えましょう。」


その後、黒田は各閣僚との協議を続け、国民の信頼を得るための具体策を模索していくことを決意した。


数日後、黒田は大隈を訪ねた。大隈は病室で静かに療養していた。


「大隈さん、私たちはあなたの意見を尊重し続けます。条約改正の進展には、あなたの知恵が不可欠です。」黒田が言うと、大隈は微笑みながら答えた。


「私も国のために戦いたい。しかし、私の傷が重荷になっているのではと心配です。」


「あなたの経験があれば、必ずや国民に希望を与えられるはずです。共に乗り越えましょう。」


こうして、黒田内閣はさらなる試練を乗り越えるために団結を固め、時折交わされる言葉の中に希望を見出そうとしていた。しかし、外部の動乱は彼らの未来をさらに不透明にしていた。


 黒田内閣が混乱に陥る中、伊藤博文は静かに状況を見守っていた。彼は、かつての同僚たちが直面する困難に心を痛めながらも、自身の役割を模索していた。


ある日の午後、伊藤は自宅で思索にふけっていた。すると、突然、訪問者があった。黒田が息を切らせて現れた。


「伊藤さん、相談があります。政局が混乱し、国民の不安が高まっています。私たちはどう対処すべきか、あなたの知恵が必要です。」


伊藤は静かに考えを巡らせ、「現状を打破するためには、まず国民に信頼を取り戻す必要があります。私たちが本気で対話を行い、自由民権運動の声に耳を傾ける姿勢を示すことが肝心です。」


黒田は頷いた。「確かに、その姿勢が求められています。しかし、どうすれば具体的な行動に移せるでしょうか?」


「まずは、地方の有力者たちとの連携を強化し、彼らを通じて国民の声を集めることが重要です。特に、農村部の意見を無視することはできません。」伊藤は言葉を続けた。


数日後、伊藤は全国各地の有力者を招集し、彼らとの会議を開くことを決定した。会議には、黒田や榎本も参加し、国民の懸念を直接聞くことを目的としていた。


会議当日、伊藤は参加者に向かって熱心に語り始めた。「皆様、我々は今、国の未来に向けた大きな岐路に立っています。自由民権運動の声を無視することはできません。私たちは、彼らと対話し、共に未来を築く必要があります。」


参加者たちの中から、若い農民代表が立ち上がった。「私たちは、ただ声を上げるだけではなく、実際に変革を求めています。私たちの意見が政治に反映されることを望んでいます。」


伊藤はその言葉に頷き、力強く応じた。「その通りです。私たちが歩むべき道は、対話と信頼の上に築かれるものです。政府は国民のために存在します。共に未来を創りましょう。」


会議は続き、さまざまな意見が交わされた。伊藤の言葉は徐々に参加者の心を動かし、彼らの信頼を取り戻す兆しが見え始めた。


その後、伊藤は黒田と再び会い、進捗を報告した。「地方の有力者たちとの連携が進み、国民の声を聞く体制が整いました。これを機に、自由民権運動との対話を進める必要があります。」


黒田は安心した様子で答えた。「あなたの努力が実を結び始めたようですね。このまま進めていきましょう。」


しかし、外部からの圧力や不満が高まる中、伊藤はさらなる挑戦が待ち受けていることを予感していた。彼は、国を守るために自らの信念を貫き通す決意を固めるのだった。


1889年

7月28日 - 熊本地震。


8月11日 - 甲武鉄道の立川 - 八王子間開通。

8月26日

江戸開府三百年祭。

英国で児童虐待防止法 (Children's Charter) 成立。

十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害。


9月9日 - 和仏法律学校(東京仏学校と東京法学校が合併)。

9月20日 - 日本生命保険開業。

9月23日 - 任天堂骨牌(後の任天堂)創立(山内房治郎)。

9月24日 - 第1回国際度量衡総会(CGPM)開催( - 9月28日)(メートル原器・キログラム原器制定)。

9月28日 - 関西学院(後の関西学院大学)創立。


10月4日 - 日本法律学校設立。

10月6日 - パリでムーラン・ルージュ開業。

10月7日 - 海軍旗章条例(旭日旗が軍艦旗となる)。

10月18日 - 大隈重信外相が爆裂弾による襲撃を受け右脚を失う。

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