第29話 明治十四年の政変
### 紀尾井坂の変後の伊藤博文の交流
大久保利通の暗殺事件は明治政府に衝撃を与え、政局は混乱の渦に巻き込まれていた。伊藤博文(柳葉敏郎)はこの危機的状況に対処するため、迅速に行動を開始した。
#### 明治天皇との密接な関係
伊藤は早速、明治天皇(阿部寛)に謁見し、暗殺事件の影響について報告を行った。天皇は深い悲しみを表しつつ、国の安定を重視する姿勢を示した。伊藤はこの機会を利用し、天皇の信任を得ることで、政局の安定に向けた道筋をつけることができた。彼は、「国のために尽力することが自らの使命である」と語り、天皇の期待に応えようと決意を新たにした。
#### 大隈重信との連携
次に伊藤が向かったのは、大隈重信(石丸幹二)のもとだった。彼とは以前から意見が対立していたものの、今は共に国を守るために力を合わせる必要があった。大隈は暗殺事件を受けての政治改革を提案し、伊藤もその意見に耳を傾ける。「この国を変えるには、我々の手で新しい政治体制を築かなければならない」と、大隈が語ると、伊藤は頷き、二人は新たな方向性を模索し始めた。
#### 岩倉具視との協力
さらに、伊藤は岩倉具視(中村雅俊)のもとを訪れた。岩倉は明治政府の重要な思想的支柱であり、彼の経験と知識は伊藤にとって不可欠であった。「国際的な局面も考慮しなければなりません」と岩倉が語ると、伊藤はその意見を真剣に受け止め、外国との交渉においても慎重に進めるべきだと再確認した。
#### 津田梅子との対話
政治だけでなく、教育の重要性も忘れてはならなかった。伊藤は津田梅子(天海祐希)を訪ね、女子教育の必要性について意見を交わした。津田は、教育が国を支える基盤であると力説し、「女性の教育を進めることが未来の日本を作る」と熱く語った。伊藤はその情熱に感銘を受け、教育改革の重要性を改めて認識した。
#### 黒田清隆との連携
最後に、伊藤は黒田清隆(西田敏行)と会合を持った。黒田は実務能力に長けており、彼の助言は政策の実行に不可欠であった。「この状況を打開するには、迅速かつ的確な判断が求められます」と黒田が言うと、伊藤はその言葉に強く共感した。二人は具体的な政策案を検討し、明治政府の新たな方向性を決定する重要な会議を重ねた。
同年1月9日 - 大蔵省商務局を設置。
また、同年高橋お伝が処刑された。
高橋 お伝(本名:でん、嘉永元年(1848年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、日本の殺人犯、女性死刑囚。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。戒名:榮傳信女。
嘉永元年(1848年)、上野国利根郡下牧村(現:群馬県利根郡みなかみ町)に高橋勘左衛門、きのの娘として生まれるが、同村の高橋九右衛門、はつの養女となった。お伝の生まれについては、きのは嫁入り時点で妊娠しており、実父は沼田藩家老広瀬半右衛門とする話がある。
慶応2年12月(1867年1月)、同郷の高橋浪之助と結婚し横浜へと移る。明治5年(1872年) 9月17日、浪之助が病死。明治9年(1876年)9月12日付「東京日日新聞」によればその後、小沢伊兵衛という者と神田仲町の秋元幸吉方に同居した。
以下の殺人事件の経緯は、お伝逮捕から間もない明治9年9月12日、13日付「東京日日新聞」による。
明治9年8月、お伝は小川市太郎と新富町で同棲していたが、田中甚三郎という者から10円を借金しており、催促を受け工面のため檜物町の古着屋後藤吉蔵に相談した。吉蔵は用立てると言いながら度々先延ばしにした。26日午後5時吉蔵はお伝に「今よりお前と何方へ行き添寝せん」など言いだし、お伝は「今夜こそ吉蔵は金を持っているだろう、ともかく彼の言葉に従って金を借りよう、応じなければ殺してでも金を手に入れよう」と思い剃刀を滞在先から持ち出し、吉蔵と人力車で浅草蔵前片町の旅人宿大谷三四郎方へ向かった。吉蔵とお伝は「中仙道熊谷宿の内山仙之助」と「女房のおまつ」と名乗り、2階で酌を交わし臥所に入ったが吉蔵は寝入ってしまった。お伝は明るくなってから金子の在処を尋ねたが吉蔵は「只今は持合せも無し」と答えたためこの上は殺して金を奪おうと思い、12時になり、寝ている吉蔵の上に乗り喉へ剃刀を突き立て、声を挙げるのを布団で塞ぎ殺害した。死骸は布団で覆い、以下の書置を書いた。
即日市ヶ谷監獄で死刑執行。八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された。遺体は警視庁第五病院で軍医の小山内建(小山内薫の父親)により解剖され、その一部(性器)の標本が衛生試験場に保存された。その後、東京大学医学部、戦時中には東京陸軍病院に渡ったとされるも、詳細は不明である。雑誌「ドルメン」昭和7年7月号で清野謙次はお伝の局部は膀胱及び腎臓の付着したまま酒精ホルマリンに漬けられていると述べ、測定値を発表している。
### 明治十二年の「教育議」と教育令発布
明治12年(1879年)9月、伊藤博文は教育の重要性を認識し、「教育議」を上奏した。この上奏は、国の発展に必要な人材を育成するための教育制度の確立を目指したものであり、彼は教育の普及が国家の基盤であると強く主張した。その結果、明治13年(1880年)には教育令が発布され、日本の教育制度の整備が始まることとなった。この教育令は、義務教育の導入を含む画期的な内容であり、伊藤の政策がいかに国家の未来を見据えていたかを示すものであった。
同年12月17日 - 臼井六郎による仇討ち事件(武士の仇討ちとして日本最後)。
### 臼井六郎の仇討ち事件
明治14年(1881年)12月17日、日本の歴史において最後の武士の仇討ち事件が発生した。この事件は、臼井六郎による復讐劇であり、当時の社会に深い衝撃を与えた。
#### 事件の背景
臼井六郎は、かつての武士階級に属し、家族を大切にする人物だった。しかし、彼の家族は敵対する藩士に襲撃され、無惨に命を奪われてしまった。明治維新により武士の時代は終わりを告げ、法治国家が成立したが、六郎は法の手に頼ることができなかった。彼の心には、復讐の念が燃え続けていた。
#### 復讐の決意
数年の時を経て、六郎はついに復讐の決意を固めた。彼は、敵である藩士を追跡し、計画的に行動を開始した。彼の行動は、法治の精神を重んじる新しい時代の流れに逆らうものであり、周囲からは非難の声も上がったが、六郎の心は揺らがなかった。
#### 仇討ちの実行
事件当日、六郎は敵の居所を突き止め、果敢に襲撃を仕掛けた。彼は見事に敵を討ち取ったが、その瞬間、彼の心には達成感と共に虚無感が広がった。武士としての名誉を取り戻したとはいえ、彼はすでに失ったものの大きさを実感していた。
#### 事件の影響
この仇討ち事件は、当時の社会において武士の伝統と新しい法治社会との葛藤を象徴するものであった。事件は新聞で報じられ、多くの人々がその経緯や背景について議論を交わした。国の法律が武士の心情と相反することを痛感させる事件となり、社会の変化を象徴する出来事として記憶されることとなった。
臼井六郎による仇討ち事件は、日本の武士制度の終焉を象徴する最後の抵抗であり、伝統と近代化の狭間で揺れる時代の一幕であった。この事件を通じて、明治時代の変革期における人々の心情と価値観の変化が浮き彫りとなったのである。
### 明治十四年の政変と立憲体制の模索
その後、明治14年(1881年)1月、伊藤は井上馨や大隈重信と共に、熱海で日本の立憲体制をどう作るかについての会談を行った。この会談では、憲法制定や国会開設について議論され、未来の日本の政治体制を模索する重要な機会となった。
しかし、大隈重信が急進的な構想を内密に提出し、独走するようになると、伊藤はこの動きに警戒感を抱くようになった。大隈の提案は、当時の保守的な政界からは受け入れられにくい内容であり、伊藤は政界の安定を維持するためには彼を排除する必要があると判断した。
### 大隈の下野と国会開設の約束
伊藤は、密かに工作を進め、大隈を政界から追放する計画を立てた。そして、10月14日、大隈が下野することとなり、伊藤の目的は果たされた。この出来事は、明治十四年の政変として歴史に刻まれた。
その後、伊藤は明治23年(1890年)に国会を開設することを約束し、日本の立憲体制の実現に向けた道筋を整えることとなった。これにより、伊藤の政治的手腕がいかに国家の方向性に影響を与えたかを示す重要な転機となった。
### 結び
このように、教育制度の整備から立憲体制の模索に至るまで、伊藤博文は国家の未来を見据えた施策を推進し続けた。彼の政治的な判断や策略は、明治政府の発展に大きく寄与し、日本の近代化の礎を築いていった。
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