第28話 紀尾井坂の変

 1878年、伊藤博文(柳葉敏郎)は日本の近代化を推進する中心人物として、国内外の様々な出来事に直面していた。この時期は、伊藤の政治活動における重要な転換点であり、彼が直面する新しい課題と機会が、日本の未来を形作る上で大きな影響を与えていた。


### **1月9日** - **ウンベルト1世の即位**


この日、イタリアではウンベルト1世が新しい国王として即位した。伊藤博文は日本の国際的地位の向上に向けて、各国との外交関係を強化する必要性を感じていた。明治政府はヨーロッパ諸国と同等の条約を結び、日本を世界の一員として認めさせるために努力を続けていた。イタリアもまた、日本にとって新しい貿易相手国としての可能性を持っていた。伊藤は、このような国際的な出来事にも敏感に反応し、外交交渉の場で日本の権益を守るべく動いていた。


### **1月11日** - **伊豆諸島の移管と札幌丘珠事件**


この日、伊豆諸島が静岡県から東京府に移管された。伊藤博文は日本の中央集権体制を強化するため、地方行政の再編成にも力を入れていた。伊豆諸島の移管はその一環であり、東京府における行政の拡大を通じて、政府の統治力を強化する狙いがあった。


同時期に、北海道で起こった**札幌丘珠事件**も政府の注意を引いた。これは、屯田兵の不満が爆発した暴動であり、地方における不安定な状況を象徴する事件だった。伊藤はこの事件を注視し、政府が全国的な治安維持に対してどのような対策を講じるべきかを検討していた。彼は屯田兵制度の改善や地方行政の改革を進めるため、各地の状況を把握し、必要な措置を講じるよう政府内で調整を行った。


### **1月24日** - **駒場農学校の開校**


農業は日本の経済基盤の一つであり、伊藤は近代的な農業技術の導入を重視していた。この日、駒場農学校が新宿から移転して開校し、日本の農業教育の中心として機能し始めた。伊藤は日本の農業を近代化し、農業生産性を向上させるため、こうした教育機関の発展に期待を寄せていた。彼は、駒場農学校の成功が、日本全体の農業改革に繋がると信じていた。


### **2月19日** - **エジソンの蓄音機特許取得**


一方、世界ではトーマス・エジソンが蓄音機の特許を取得し、科学技術の発展が進んでいた。伊藤はこうした海外の技術革新に注目し、日本における工業化と技術導入の可能性を模索していた。彼は日本が欧米の技術を取り入れ、産業の近代化を進めることが国の発展に不可欠であると確信していた。


### **3月1日** - **昌平橋鉄橋の開通**


この日、日本初のアスファルト舗装が施された昌平橋鉄橋が開通した。鉄道網の拡大は、日本の経済発展にとって非常に重要であり、伊藤博文はその推進役を担っていた。鉄道が国内の物流を円滑にし、産業革命を後押しするものであると理解していた伊藤は、この開通を日本の進歩の象徴として捉えていた。


### **3月12日** - **東京商法会議所の設立**


伊藤は経済政策にも関心を持ち、特に商工業の発展を促進するための政策を打ち出していた。この日、東京商法会議所(後の東京商工会議所)が設立され、商業活動の拡大と国際貿易の発展が期待された。伊藤は、商法会議所を通じて企業家精神を育て、経済的な自立を推進するための枠組みを整えていった。


### **3月25日** - **電信中央局の開業**


また、通信インフラの整備も伊藤の重要な関心事だった。この日、電信中央局の開業式が行われ、全国規模での電信網の拡充が進んだ。伊藤は、情報の迅速な伝達が近代国家の発展に不可欠であると考え、通信技術の発展に力を注いでいた。


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 5月14日早朝、大久保利通(役所広司)は福島県令山吉盛典(堺正章)の帰県の挨拶を受けている。 その話は2時間近くにおよび、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。


 午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発した。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かった。同行していたのは御者の中村太郎(モロ師岡)と従者の芳松(荒川良々)であった。ところが、午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷(現在の参議院清水谷議員宿舎前)において暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。まず芳松が襲われるが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めた。日本刀で馬の足を切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰の中村太郎を刺殺した。馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとしたが、島田らは両方の扉を塞ぎ、大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数にあたる8箇所は頭部に対するものであった(頭部は右側頭部1、後頭部2、額1、鼻下1、左顎下1、首両横各1、その他は右肩1、右腕1、右手甲2、左腕1、左手甲1、右腰1、左足膝1)。事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た前島密(長江英和『金田一少年の事件簿 悲報島殺人事件』『ケイゾク』)が「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。


 刺客の島田(安田顕)らは刀を捨て大久保に一礼をして撤収し、同日、大久保の罪五事と他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した。


 明治11年5月14日早朝、福島県令山吉盛典が大久保利通の自邸に到着し、挨拶を交わす。


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**大久保利通:**

「福島の状況はいかがですか?地域の開発にはまだ課題が多いと聞いています」


**山吉盛典:**

「その通りです。しかし、政府の方針を理解している方々も増えてきています。星3つ!」


**大久保利通:**

「実は、三十年計画について考えています。最初の十年を戊辰戦争に費やし、次の十年は内治整理や殖産興業に注力したいと思っています」


 山吉が辞去しようとする。


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 午前8時、大久保は赤坂仮皇居へ向かう馬車に乗り込む。


**大久保利通:**

「今日の天皇との謁見では重要な案件を報告します」


(午前8時30分ごろ、紀尾井町で暗殺者たちが襲いかかる。)


**芳松:**

「大久保様、何かおかしい…!」


(暗殺者たちが馬車に襲いかかる。)


**大久保利通:**

「無礼者!何の真似だ!」


(引きずり降ろされ、大久保は斬殺される。)


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 事件直後、前島密が現場に駆けつける。


**前島密:**

「大久保さん…何があったのですか」


(大久保の遺体を見つめる。)


**前島密:**

「肉飛び骨砕け、脳が微動するとは…これは何という惨状だ」


(決意を固める。)


**前島密:**

「この暗殺者たちは許さない。日本を守るために立ち上がろう」


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 ### 事件前後の伊藤博文


1888年5月14日、伊藤博文は平穏な日常を送っていた。しかし、大久保利通からの手紙が届いたことで、その日常は一変する。手紙には「今から私は直ぐ参朝するから貴君も直ぐ来て下さい」とあり、何気ない言葉の裏には切迫した状況が潜んでいた。伊藤は、その手紙が大久保の絶筆であることを後に理解することになる。


 その朝、伊藤は赤坂から参内する途中、まさに大久保が暗殺されたという衝撃のニュースに直面する。紀尾井坂を越え、内閣に到着した彼は、信じられない現実に打ちひしがれる。「凶変を知っているか。今、大久保公が殺された」と告げられたとき、彼の胸に広がったのは計り知れない悲しみと驚愕であった。


「意外なことで誠に残念千万の次第であった」との言葉は、彼の心の痛みを物語っている。大久保が果たしていた役割と、その死がもたらす影響を思うと、伊藤の中に広がる不安は否応なく膨らんでいく。


### 大久保の葬儀


 事件の翌日、5月15日、大久保に正二位右大臣が追贈され、慰霊式が行われた。17日には大久保と御者の中村の葬儀が執り行われ、伊藤はその一部始終を見守る。葬儀には1,200名近くが集まり、費用は4,500円余りという、近代日本史上初の国葬級葬儀となった。この壮大な儀式は、大久保の影響力を物語っていた。


 伊藤の心の中には、友の死による深い喪失感とともに、これからの政治の行く先についての不安が渦巻いていた。大久保の存在がもはや手の届かないところに去った今、伊藤は新たな責任を背負うこととなる。彼の心には、大久保の意志を継いでいくという決意が芽生え、その後の行動に大きな影響を与えることになる。


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### 事件の捜査


大久保利通の暗殺事件は、政府と警察にとって重大な衝撃となった。捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に依頼されて斬奸状を各新聞社に投稿した者など、30名が逮捕された。彼らの多くは、事件を聞いて快哉を叫び、手紙を国許に送っていた。中でも、投稿した内容が各紙に黙殺されたことは、暗殺の社会的反響を如実に物語っていた。「朝野新聞」は5月15日に要旨を短く紹介したが、即日発行停止を命じられた。


### 処罰


政府は暗殺犯を「国事犯」として扱い、特別な裁判制度を設けた。大審院の中に臨時裁判所を開設し、太政官の決裁によって運営されたこの裁判所では、司法卿によって任命された玉乃世履判事らが、速やかに判決案を作成した。判決は7月25日に下され、6名は斬罪に処されることとなった。斬奸状を起草した陸は終身禁錮刑を受けたが、1889年に発布された大日本帝国憲法により特赦を受け、釈放された。


### 大久保の遺した借金の補填


事件の背後には、大久保が公金を私財に肥やしたとの指摘があったが、実際には彼は公費で行うべき公共事業を私財で賄っていた。彼の死後、8,000円もの借金が残ったことは、遺族にとって痛手であった。政府は、大久保の遺族が困窮することを避けるため、彼が生前に鹿児島県庁に寄付した金額を回収し、さらには募金を集めて遺族を支えることを決定した。


### 明治政府の石川県に対する分割処置


暗殺事件を受けて、明治政府は石川県に警戒心を抱くようになった。事件の実行犯たちの出身地である石川県は、当時の旧越中国全域や旧越前国の大半を含む大県であった。このため、政府は石川県の影響力を削減するために、1881年に旧越前国を福井県に、1883年には旧越中国を富山県に分割した。


### 贈右大臣大久保公哀悼碑


事件から10年後の1888年、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らの手により「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立された。この碑は、大久保の功績とその死を悼むためのものであり、歴史の中に彼の存在を刻む重要な証となった。


### 暗殺一味の松田秀彦のその後


暗殺計画に関与した松田秀彦は、事件後に服役し、その後は出獄して大日本武徳会の武道家として名を馳せた。彼の名声は、暗殺事件の陰でひっそりと生き続けることとなったが、彼自身の人生もまた、事件の影響を受けていた。


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