第21話 新しい風

 ★植木枝盛

 土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)に生まれる。8歳から習字を学ぶ。藩校致道館に学び、明治6年(1873年)には土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。


 明治六年政変(征韓論政変)に触発されて上京を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道溯原』を読む。明治8年(1875年)、19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い、明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。自ら修文会を組織して奥宮荘子会(奥宮慥斎)にも参加する。明治8年(1875年)から『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書を始め、明治9年(1876年)3月15日、投書『猿人君主』(『郵便報知』2月15日)のために、讒謗律による筆禍事件で5月13日まで2ヶ月入獄する。キリスト教に興味を持ち始め、耶蘇教会に通う。10月、『思想論』などを書く。


 明治10年(1877年)、板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社が創立され、機関紙『土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。明治11年(1878年)4月29日、愛国社再興のために四国、中国地方に遊説に出発。8月、『尊人説』を執筆。12月、頭山満に招聘され福岡に向かい、向陽義塾の開校式に出席して演説した。1879年4月福岡で、6月大阪で、『民権自由論』刊行。11月5日、高知立志社での演説が集会条例にふれ、以後同趣旨の演説を禁止され、12月27日解禁。


『愛国志林』(のち『愛国新誌』)の主筆として論陣を張り、明治14年(1881年)に私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。この草案は、ジョン・ロックの影響が大きいと思われる。11月1日、酒税増税に反対し、1882年5月1日を期して大阪に酒屋会議を開く旨の檄文を発表。


 明治15年(1882年)4月8日、板垣の岐阜遭難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪・中江兆民・田中耕造・田口卯吉・末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当。板垣外遊をめぐる内紛のためのちに分裂。明治17年(1884年)、東海・北陸地方を遊説して帰郷。代言人試験に遅刻してあきらめる。 『土陽新聞』明治18年(1885年)9月20日-10月11日に、「貧民論」を発表。 明治19年(1886年)、高知県会議員に当選。明治21年(1888年)、大阪に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと知り合う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属し、大隈重信の条約改正問題を攻撃するため、福澤諭吉・寺島宗則・副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。


 愛国公党設立に尽力し、明治23年(1890年)の帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。明治24年(1891年)2月24日、板垣や栗原亮一らとの意見の違いから立憲自由党を脱党、愛国公党(土佐派)系を率いる。8月、富士山に登山。


明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。墓地は青山霊園にある。

 

岩倉使節団の会議がさらに進行する中、ドイツの憲法や法制度に関する議論が激しさを増していた。その時、植木枝盛が部屋に入ってくる。彼を演じる松坂桃李の表情には、若いながらも知的で鋭い熱意が漂っていた。彼は、自由民権運動のリーダーとして、常に国民の権利と自由を守ることを強く訴えてきた。



 植木は岩倉に向かって深く一礼し、すぐに自分の考えを述べ始める。


植木:「ドイツの制度は、確かに中央集権的で強固な国家を築き上げています。しかし、国家の強さは決して圧政によって築かれるべきではありません。**ジャン=ジャック・ルソー**の言葉にもあるように、"人間は自由なものとして生まれたが、至る所で鎖につながれている"。我々が目指すべきは、国民一人ひとりが自由を享受しつつも、国家全体の調和を保つ社会です」


その言葉に対し、大久保利通が腕を組んで反論する。


大久保:「確かに、自由は重要だ。しかし、自由だけを追求しても国家がまとまらなければ、外敵に対して弱体化する危険がある。今こそ、我々は国を一つにまとめる力を持つ必要があるのではないか?」


植木は静かにうなずきながらも、自らの信念を崩さない。


植木:「そうかもしれません。しかし、国家の力が強まる中で、個々人の声がかき消されては意味がありません。**ジョン・スチュアート・ミル**も言っています、'自由は進歩の基盤であり、社会の発展は個人の自由な意見と行動によって推進される'と。日本にとって必要なのは、強力な政府と自由な国民のバランスです」


松坂桃李が演じる植木の熱意は、使節団全員に伝わり、室内に緊張と期待が入り混じった空気が漂う。岩倉具視はそんな植木の姿を見つめ、彼の言葉を重く受け止める。


岩倉:「植木君の言う通りだ。我々が日本に帰国した際には、国民の権利を尊重しつつも、国としてのまとまりを失わないように、慎重に制度を設計する必要があるだろう」


こうして、会議はさらに熱を帯び、植木枝盛の情熱と知性が議論に新たな視点を加えた。ドイツでの滞在は、使節団にとって国家の未来を考える重要な時間となり、その後の明治政府の改革に大きな影響を与えることとなった。


 岩倉の言葉が静かに室内に響いたあと、一瞬の静寂が訪れる。その沈黙を破ったのは、西郷従道の低く落ち着いた声だった。彼は、厳格でありながらも実務的な視点を持つ、現実主義者として知られている。


西郷従道(ウルフアロン):「しかし、制度設計の話になると、我々が帰国してからの現実を見据える必要がある。果たして、ドイツのような強固な国家体制をそのまま日本に導入できるだろうか?今の我々の国情を考えると、欧米の制度を参考にするのはよいが、それをそのまま真似るのは危険かもしれん」


彼の指摘に、使節団のメンバーたちは深く頷く。ドイツの憲法や法制度に学ぶべき点は多いが、日本独自の風土や文化を無視してはならないという点は、全員が同意していた。


そんな中、伊藤博文が立ち上がる。彼は西郷の意見を尊重しながらも、議論をさらに進めるために新たな視点を持ち込もうとしていた。


伊藤博文:「確かに、西郷君の言う通りだ。日本は独自の歴史と文化を持っている。だが、その一方で、我々はすでに時代の大きな波に飲み込まれている。列強諸国に対抗するためにも、国をまとめる強力な憲法が必要なのは明白だ。ただ、その過程で、国民の自由をどのように保障するかが我々の課題となる」


植木は伊藤の発言に耳を傾けた後、再び発言の機会を得ると、少し微笑みながら話し始めた。


植木:「そうです。ドイツの制度がすべてではありません。しかし、私が訴えたいのは、国民が国家に従属するのではなく、国民こそが国家の主権者であるということです。国が強大であることは大事ですが、その基盤となるのは、国民一人ひとりの自立した意思と自由な思考です。我々はこれからの日本を、単なる権力の集積ではなく、国民と国家がともに成長し、共存するような国にしていく必要があると思います」


その言葉に、使節団全体が静かに耳を傾けていた。若い植木の熱意に満ちた主張は、しっかりと彼らの心に届いていた。


会議は続き、使節団のメンバーたちはそれぞれの意見を出し合いながら、未来の日本についての議論を深めていった。ドイツから学ぶべき点と、日本独自の道を模索する姿勢のバランスが、今まさに問われているのだ。


数時間後、会議が一段落すると、植木は窓の外に目をやった。遠くに広がるドイツの街並みを眺めながら、彼の心には一つの決意があった。これからの日本の未来を切り拓くために、彼はどんな逆風にも立ち向かう覚悟を固めていた。


松坂桃李が演じる植木のその表情には、若さの中にも揺るぎない意志が浮かび上がり、視聴者の心に深い印象を残すのだった。


翌日、使節団はドイツの法学者との公式な会談に臨むこととなった。そこでも、植木は自らの信念を貫き、議論に積極的に参加する。その姿勢は、彼の将来の日本における自由民権運動のリーダーとしての資質を垣間見せるものであった。


やがて、彼の言葉は使節団のみならず、明治政府の未来にも大きな影響を与えていくこととなる──。


 西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、旧字体:西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の政治家。最終階級は元帥海軍大将、陸軍中将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている。薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限、現在の鹿児島市加治屋町)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。


文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。


文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。


 明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した。「従道」は諱であり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。


1869年(明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。


1871年(明治4年)7月、陸軍少将となる。


1873年(明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。


1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。


隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。


明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。


1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。


1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。


甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。


内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。


西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。


1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。


1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)8月5日には侯爵に陞爵(しょうしゃく)し、貴族院侯爵議員に就任した。


1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。


1902年(明治35年)7月18日、胃癌のため目黒の自邸で薨去。享年60(59歳没)。当初青山霊園に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。

 

 

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