第20話 岩倉使節団
「諸君、我々が立ち向かうべきは、新しい時代の到来です」
伊藤博文は力強い口調で言葉を続けた。彼の声は静寂に包まれた貴族院の議場に響き渡った。彼はこれから日本が歩むべき道について、明確なビジョンを示すつもりだった。
「我々はもはや、過去の封建的な価値観にしがみついてはなりません。中央集権体制を強化し、天皇を中心に団結することで、強固な国家を築く必要があります」
彼の目は一点を見据え、静かに聴衆を見渡した。伊藤の言葉は、単なる政治的な主張ではなく、彼自身の信念と未来への決意を表していた。
「また、国際社会との協調も避けては通れません。我々は鎖国を捨て、世界との交わりを広げるべきです。これにより、我が国は技術や知識を吸収し、さらなる発展を遂げることができるでしょう」
彼の言葉には熱意がこもっており、聴衆の多くはその情熱に引き込まれていった。彼はまた、「兵庫論」の中でも強調していた国民の平等権についても言及し、すべての国民が同じ権利を持つ社会を築くことが重要だと訴えた。
「諸君、我々の目指すべきは、封建制度を廃し、すべての国民が平等に権利を持ち、自由に活動できる社会です。これが、新しい日本の未来を築くための礎となるのです」
演説が進むにつれ、伊藤はさらに熱を帯びた。彼の中で渦巻いていたお仲との思い出も、今は彼の決意を支える一因となっていた。
「私は、この国の未来において、かつて愛した者たち、そしてこれからの世代のためにも、我々は進むべき道をしっかりと選ばなければなりません」
最後に、彼は深く一礼し、演説を締めくくった。
「共に、この日本を築き上げていきましょう」
議場には静寂が一瞬訪れた後、大きな拍手が鳴り響いた。伊藤博文の演説は、多くの人々に新しい時代の幕開けを予感させ、彼のリーダーシップを再確認させるものだった。
岩倉使節団の副使として明治4年(1871年)に渡米した伊藤博文は、サンフランシスコにて「日の丸演説」を行い、アメリカの聴衆の前で日本の新たな国際的な立場を力強く訴えた。この演説は現地で大きな反響を呼び、日本とアメリカの関係強化に貢献した。
明治6年(1873年)に至り、伊藤はドイツのベルリンに渡った。ドイツ帝国の中心で、彼はその皇帝ヴィルヘルム1世に謁見する栄誉を受けた。荘厳な宮殿の中、緊張しつつも冷静に皇帝の前で頭を垂れる伊藤の姿は、まさに日本代表としての気品に満ちていた。
その後、伊藤はビスマルクとの面会に臨んだ。彼はビスマルクの「鉄血政策」に興味を持ち、その政治哲学を深く学ぼうと決意していた。会見の場には静寂が漂い、ビスマルクが厚い書類を机に置き、伊藤の方を見た。
「伊藤博文殿、お会いできて光栄です」ビスマルクの目は鋭く、だがその声には思いがけない穏やかさがあった。
「こちらこそ、ビスマルク殿」伊藤は微笑を返し、続けた。「貴国が成し遂げた統一と、鉄血政策による改革は、我が日本にとっても大いに学ぶべきものです。特に、国家の中央集権化について、貴殿のご見解を賜りたい」
ビスマルクは顎に手を当て、少し考え込むように目を細めた後、重々しく答えた。「我々がドイツ統一を達成できたのは、冷酷なまでに国家の利益を最優先したからだ。我が鉄血政策は、戦争と外交、そして国内改革を一つの道具として扱った。だが、それが全ての国家に当てはまるわけではない」
「どういうことでしょうか?」伊藤は身を乗り出し、その言葉の奥を探ろうとした。
ビスマルクは微かに笑みを浮かべながら答えた。「貴国はまだ発展途上にあり、外部の圧力を受ける機会も多いだろう。しかし、すぐに武力や強権に頼ることは、日本のような若い国にとって致命的な結果を招くことがある。中央集権化は重要だが、時には柔軟性が必要だ。状況を見極め、時に譲歩することも一つの戦術だ」
伊藤はその言葉を深く胸に刻んだ。ビスマルクが国家利益を最優先にしながらも、単に強硬手段を取るだけではなく、慎重に戦術を選んでいることを悟った。
「貴殿のお考え、肝に銘じます」伊藤はしっかりとした口調で応えた。「日本も今、世界の中で自らの位置を確立する時期にあります。我が国に必要なのは、内外の脅威に対抗しつつも、無理に敵を作らないこと。そうおっしゃりたいのですね」
「その通りだ、伊藤博文殿」ビスマルクは頷いた。「だが、忘れてはならぬ。外交は巧みな詐術の場でもある。信頼しすぎるな。そして、常に自国の利害を最優先に考えよ」
伊藤はその日、ビスマルクとの会見を通じて、ただ強力な中央集権を作り上げるだけでなく、内外のバランスを保ちながら慎重に国家運営を進める重要性を理解した。この出会いは、後に日本が進む道筋に大きな影響を与えることになるのだった。
岩倉具視(中村雅俊)は公卿・堀河康親の次男として京都で生誕。母は勧修寺経逸の娘・吉子。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉(いわきち)」と呼ばれた。朝廷に仕える儒学者・伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかったという。
嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる。
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上洛。関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。
岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。九条尚忠は病と称して参内を辞退した。しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、九条は明日返答する旨を岩倉に伝えた。岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。
3月20日、堀田正睦は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。
列参から2日後の3月14日、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。その内容は、
日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)
条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策などを記している。しかし一方で単純攘夷は否定し、
相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。
米国は将来的には同盟国になる可能性がある。
国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。
として、そのため仙台藩や薩摩藩などの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。
安政5年(1858年)6月19日、大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結。27日、老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々に不平等条約を締結。さらに抗議した前・水戸藩主徳川斉昭や福井藩主松平慶永(春嶽)らを7月5日に謹慎処分に処した。孝明天皇は8月8日に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した(戊午の密勅)。このため、幕府は10月18日に水戸藩士・鵜飼吉左衛門を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧(安政の大獄)を発動した。
岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。 そのため、京都所司代・酒井忠義(風間トオル)や伏見奉行・内藤正縄(里見浩太朗)などと会談し、彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説いた。この後、岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとっている。
岩倉具視は酒井忠義と意気投合した後、幕府との関係を修復するため、さらなる努力を続けた。彼は、朝廷と幕府の対立が深まれば、国家全体に大きな混乱がもたらされることを痛感しており、そのような事態を避けるために両者の橋渡し役として奔走した。
岩倉は特に、幕府が朝廷の権威を尊重しつつも、自らの統治基盤を強固にするための方策を探ることが必要だと考えていた。彼は酒井忠義や内藤正縄との会談の内容を慎重に朝廷内で共有し、天皇や公家たちに対しても、幕府との対立を避けるために柔軟な態度を取るよう説得を試みた。
その一方で、岩倉は幕府内部の動向にも注視し、特に大老・井伊直弼の強硬な手段による安政の大獄の影響が、さらに朝廷との関係を悪化させる可能性があることを危惧していた。井伊の政策に対しては批判的な立場をとりつつ、幕府の中で穏健派の支持を集めようとした。
このような状況の中、岩倉は自らの立場を巧みに調整し、朝廷と幕府の対立を少しでも和らげるために、時に幕府寄りの姿勢を示しながらも、内心では両者の調和を目指して動いていた。彼の努力によって、しばらくの間、朝廷と幕府の関係は表面上の安定を保つことができたが、井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)をきっかけに、状況は急速に変化し始めた。
岩倉はこの変化を敏感に察知し、新たな政治局面に備えて、さらなる戦略を練る必要に迫られた。彼は再び朝廷内での影響力を強め、次なる動きを計画する中で、自らの信念を貫こうとしていた。
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