第18話 哀愁

 1868年、兵庫の地に新たに赴任した伊藤博文は、初めて目にした福原遊郭の一角に佇む千崎屋に心を奪われました。千崎弥五平(ラサール石井)の娘、お仲(橋本環奈)の美しさに加え、その気品と優しさに、伊藤は頻繁に店を訪れるようになり、やがて二人は深い関係を結ぶようになりました。


 歴史の舞台裏で、激動の時代を駆け抜ける男たちの影には、ひっそりと支える女性たちがいました。お仲もまた、伊藤の心の支えとなる存在でした。彼女の笑顔に触れるたび、政治の荒波に揉まれる日々の疲れが癒されるのを伊藤は感じていたのです。


 だが、そんな甘い日々に影を落としたのは、伊藤の正妻、お梅(山本舞香)の存在でした。伊藤の女遊びに寛大だったお梅も、お仲との関係には耐えられず、夫の心を取り戻すために策を講じます。お梅の怒りは静かな炎となり、彼女はその炎を胸に秘め、冷静に行動を始めました。


 お梅は伊藤の盟友、井上馨に頼み、お仲を兵庫県内の巡査との結婚へと導く計画を進めます。井上もまた、伊藤の将来を案じ、その策に同意しました。こうして、お仲は突然、伊藤のもとから引き離され、別の人生を歩むこととなったのです。


 その後、伊藤はお仲を思い続けながらも、彼女を取り戻すことはできませんでした。お梅の計略は見事に功を奏し、伊藤の心に残るのは、失われた恋の儚さだけでした。


 千崎屋の灯火が消えゆく頃、お仲の面影は伊藤の胸に深く刻まれ、二度と消えることはありませんでした。それは、一国の宰相として歴史に名を残す伊藤博文であっても、避けることのできない人間の弱さと、切り離すことのできない情熱の物語でした。


 千崎屋の薄暗い座敷にて、伊藤博文(山崎賢人)は静かに酒を口に運んでいた。彼の前に座るお仲は、いつものように微笑みを浮かべながら、伊藤を見つめていた。


「博文様、今日は少し疲れていらっしゃるように見えますね」とお仲が穏やかに声をかけた。


「……ああ、そうかもしれない。政治の世界は厳しいものだ。敵も味方も、一瞬で入れ替わる…それに、思うように事が運ばぬことも多い」と伊藤はため息をつく。


お仲は伊藤の杯に新たな酒を注ぎ、優しく言った。「でも、こうしてここにいらっしゃる間だけでも、少しは気を楽にしてください。私は、博文様の心が安らぐ場所でありたいのです」


伊藤はしばし黙り、静かにお仲の顔を見つめた。彼女の美しさだけでなく、その心根の優しさに、伊藤は何度も救われてきた。だが、その瞬間、彼の胸に重くのしかかるものがあった。


「お仲……私の心は、お前を想うことで満たされている。だが、私はお前に何もしてやれぬ。お梅も、お前との関係に気づいている…お前をこのまま巻き込むわけにはいかない」


お仲の微笑みが一瞬だけ揺らいだ。だが、すぐにその顔にはまた穏やかな表情が戻った。


「私は、博文様がいらっしゃるだけで十分です。たとえどんな形であっても、あなたのおそばにいられることが幸せです。お梅様のことも存じ上げておりますが、それでも私は…」


その時、座敷の襖が静かに開かれ、井上馨(瀬戸康史)が姿を現した。井上は真剣な表情で伊藤に近づき、低い声で告げる。


「博文、すまないが話がある」


伊藤は顔をしかめつつも、井上を座らせた。「馨、今は…」


「すまないが、急を要する話だ」と井上はさらに声を潜めた。「お仲さんのことだ。お梅様が動き出している。お仲さんを県内の巡査と結婚させる手はずが整えられた。これ以上、君とお仲さんを近づけるわけにはいかない、と」


伊藤の表情が硬くなり、拳を握りしめた。「お梅が……そんなことを……」


お仲は静かに井上の言葉を聞いていた。彼女の顔には、微かな悲しみが浮かんでいたが、それを見せないように努めた。


「博文様……」お仲はかすれた声で伊藤に呼びかけた。「私は、大丈夫です。もしそれが私の運命ならば、それを受け入れます。ただ、あなたの負担にはなりたくありません」


 伊藤は震える声で言った。「お仲……私が何もできぬばかりに、お前をこんな目に遭わせるとは……」


お仲は静かに首を振り、伊藤の手にそっと触れた。「どうか、自分を責めないでください。私はあなたに出会えて、本当に幸せでした。それだけで十分です」


井上は静かに立ち上がり、「博文、ここで君が何か行動を起こせば、全てが崩れる。今は耐える時だ」と告げ、襖を閉めた。


その夜、伊藤とお仲は言葉少なに、ただ互いの存在を感じながら過ごした。やがて、彼女が遠くへ行ってしまうことを悟りながら、伊藤は彼女の手を強く握りしめ、心の中で別れを告げた。


**数日後**、千崎屋を訪れることのなかった伊藤は、遠くからお仲の新たな出発を見届けた。彼女の笑顔は、決して彼の心から消えることはなかった。


 お仲が兵庫の巡査と結婚することになったその日、伊藤は遠くからその姿を見守っていた。艶やかな白無垢に身を包んだお仲の姿は、まるで彼の心に深く刻まれた美しい記憶の一部のようだった。伊藤の胸には、彼女を失う喪失感と、それでも彼女の幸せを願う複雑な感情が交錯していた。


式が終わり、参列者たちが次々と帰り支度をする中、伊藤は人混みの中からふと井上馨が近づいてくるのを見た。


「博文……」井上は静かに声をかけたが、伊藤は応じず、ただ黙っていた。


「これでよかったんだ。君も、彼女も、これから新しい道を歩むべきなんだ」と井上は続けた。


伊藤は井上を一瞥し、重い口を開いた。「わかっている。だが、私の心は、お仲を忘れることなどできないだろう。彼女がいなくなったこの寂しさは、どうにもならない」


井上はため息をつき、肩を落とした。「君は大きなことを成し遂げなければならない男だ。個人の感情に振り回されてはならない。お仲さんだって、それを望んでいるはずだ」


伊藤は無言のまま、目を閉じた。お仲の笑顔が浮かんでは消える。彼女の優しい声、繊細な仕草、そして彼を癒してくれた数々の思い出が、彼の中で渦を巻いていた。


**数か月後――東京にて**

伊藤は政務に追われ、日々を忙しく過ごしていた。だが、その合間にふと心をよぎるのは、やはりお仲の面影だった。お梅とは表向きには夫婦としての生活を続けていたが、心の奥には決して満たされない空虚感があった。


ある夜、遅くまで仕事をしていた伊藤のもとに、井上が訪れた。彼は手に一通の書簡を持っていた。


「博文、これを……」


伊藤は井上から手紙を受け取り、封を開けた。そこにはお仲の筆跡で、短い言葉が綴られていた。


「博文様、私は元気で過ごしています。新しい生活にも少しずつ慣れ、今は小さな幸せを見つけながら過ごしています。博文様が健康で、ますますご活躍されることを、心からお祈りしています。お仲」


その一文を読み終えた瞬間、伊藤は思わず手紙を握りしめ、机に伏せた。涙が一粒、手紙の上に落ちる。


「お仲……」


井上は黙って立ち尽くし、伊藤の肩にそっと手を置いた。「彼女は君を責めてはいない。むしろ、君のためを思ってのことだ。だから、君も前を向いて進まなければならない」


伊藤は静かにうなずいたが、その胸にはお仲への想いが消えることなく、深く根を下ろしていた。


**数年後――再び兵庫へ**

時が過ぎ、伊藤は兵庫を訪れることとなった。政務の一環であり、重要な会合が行われる土地だったが、伊藤はどうしてもその土地にお仲の痕跡を探さずにはいられなかった。


巡査としての夫と暮らしているはずのお仲が、どこかで幸せにしているのだろうかと、ふと立ち寄った町並みを歩きながら思い返した。彼がふと立ち止まったのは、かつての千崎屋の跡地だった。遊郭としての輝きはすっかり消え、廃れた建物が残っていた。


伊藤はじっとその場所を見つめ、心の中でそっと別れを告げた。「お仲、お前が幸せでいるなら、それでいい。それが私にとっても、唯一の救いだ」


風が吹き抜け、かつての彼女の笑顔が脳裏をよぎる。伊藤は静かに微笑み、再び歩き出した。その先に待つ、まだ見ぬ未来へ向かって。

 ★植木枝盛、1873年から登場

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