第15話 飛び出せ!博文
功山寺挙兵の勝利により、正義派は長州藩の政権を奪取し、藩内は一時的に安定を取り戻した。しかし、伊藤博文の胸中には新たな決意が芽生えていた。彼はこの勝利が最終目的ではないことを理解していた。日本全体が動乱の渦中にあり、幕府と薩摩・長州連合軍との間で決定的な戦いが迫っていた。
高杉晋作と井上馨が未来への道を模索する中、伊藤は再び外国との交渉に携わることを決意した。彼の目は、国内の争いを超えて、日本を国際社会に導くための新しい道を探していた。
「これからの日本には、世界を見据えた外交が必要だ。攘夷だけでは未来はない…」
伊藤は独り言のように呟きながら、藩の使者として再び海を越える決意を固めた。彼が目指すのは、外国と共に歩む新しい日本の未来だった。
その頃、井上馨は治療を終え、戦場から一歩引いていた。だが、彼もまた伊藤と同じ思いを抱いていた。二人は戦後の長州で再会し、未来について熱く語り合った。
「これからは幕府との戦いだけでなく、もっと大きな目標がある。日本を開かれた国にし、未来を切り拓くためには、世界との交渉が不可欠だ」と伊藤。
井上も同意してうなずいた。「攘夷を掲げていた時代は終わった。今こそ、日本の未来を考えるときだ。俺たちは、それをやり遂げるために生き残ったんだ」
二人はその場で固く握手を交わした。彼らの前には、幕末の日本を導く大きな責任が待っていた。
その後、伊藤博文は外国への使節として再び旅立ち、幕末の混乱を背景に、開国と近代化を進めるための重要な役割を果たすことになる。彼はヨーロッパ諸国との交渉において、国際的な視点から日本の進むべき道を模索し続けた。
伊藤博文は再び海を越えて、外交という新たな戦いに挑むこととなった。長州藩内での政権奪取や一時的な安定は、彼にとって最終目標ではなく、日本を近代化へと導くための一つのステップに過ぎなかった。幕末の動乱は続いていたが、伊藤の目は国内の対立を越え、広い視野で国際社会との関係を築くことに向けられていた。
彼が目指したのは、単なる開国ではなく、世界に通用する国家としての日本の位置づけを確立することだった。彼はヨーロッパに渡り、各国の政治体制や経済システムを学び、日本に適した改革を模索した。彼にとって、外国との交渉は日本の独立を守るための重要な手段であり、攘夷思想に固執していては未来は切り拓けないという強い信念を持っていた。
同時に、井上馨もまた日本の将来を憂い、国内の安定と近代化に尽力した。井上は伊藤と共に、国内の藩や武士たちが国際社会での日本の地位を認識し、内向きの政治から脱却する必要性を説いた。彼らは共に、薩長同盟を軸に日本全体の改革を進め、維新の大業を成し遂げるための指導者として、重要な役割を果たすことになる。
伊藤の外交的な成功は、日本における不平等条約の改正や、列強との友好的な関係を築くための基礎を固める上で大きな意義を持った。また、彼の経験は、後の明治政府における内閣制度の確立や、憲法制定の議論にも繋がり、日本が近代国家としての礎を築く上で欠かせないものであった。
その後、幕府との最終決戦が近づく中で、伊藤や井上のような志士たちは、単なる武力闘争を超えた「新しい国づくり」のためのビジョンを共有し、その実現に向けて邁進していった。幕末の動乱を経て、彼らの努力は明治維新という形で結実し、日本は列強諸国と肩を並べる近代国家へと歩みを進めていくこととなる。
伊藤博文の海外渡航を説明するには、当時の情勢や彼が目指したビジョンを考えると、彼の旅は日本の未来を見据えた重要な一歩でした。幕末の混乱が続く中、伊藤は国内の争いにとどまらず、世界に目を向ける必要性を強く感じました。彼の目的は、単なる攘夷や開国ではなく、近代国家として日本を国際社会に導くことでした。
伊藤の旅は、いわば「世界の車窓から」見た日本の進むべき道を探るものでもありました。列強諸国の政治体制や経済システムを学び、日本に適した改革を模索する中で、彼は世界の広さと日本が置かれた位置を再認識しました。風に乗って流れる新しい思想や、異国の文化に触れながら、伊藤は日本が独立を保ちつつ国際社会での地位を築くための外交の重要性を確信しました。
彼にとって、風景はただの風景ではなく、改革へのインスピレーションを与えるものであり、外国との交渉は、単に日本を守るための防衛策ではなく、新しい未来を築くための手段だったのです。このようにして、伊藤は日本を世界に通用する国へと導く道筋を描きながら、その足跡を後世に残していきました。
今回は井上馨について記す。
太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。
本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多に改名した。
維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。一度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で、同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にもかかわらず絶大な存在感を示した。
外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らにいたって現れてきていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであり、国内での影響力と同じ尺度で評価することは適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていたために、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていたことがうかがい知れる。
実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は、岩倉使節団出発前夜の明治4年11月11日、送別会の席で井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている(佐々木高行の日記より)。尾去沢銅山事件に代表されるように、実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。
井上は三井財閥、藤田組などを通して第一国立銀行設立、三井物産創業、三池炭鉱事業の開始、台湾銀行、台湾製糖会社の設立、児島湾干拓事業、洞海湾拡張事業などを手がけ、石炭輸出による外貨獲得、日本の近代化を推し進めた。また、各財閥に家憲を制定して同族間の結束を固めることを強調、藤田家憲は明治9年、三井家憲は明治33年、貝島家憲は明治42年にそれぞれ制定、井上の尽力で3家は日本経済を支える財閥に発展した。
仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸ら多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている。
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