第13話 決別の夜

 池田屋事件から数日が経ち、京の街には今なお血生臭い空気が漂っていた。新選組による強襲で多くの志士たちが斬り伏せられた。その中で、伊藤博文は事件の直前に茶屋で過ごしていた自身の選択を反芻していた。彼が池田屋に加わらなかったことへの後悔はない。むしろ、事件を機に、ますます自身の進むべき道が明確になりつつあった。


 京の西陣にある長州藩の密会場所に向かう道すがら、伊藤は重い足取りで歩いていた。激動の幕末、志士たちが一丸となって戦っているようでいて、実際にはその思惑はそれぞれ異なっていた。彼自身、尊王攘夷という言葉に隠された脆弱さを感じ始めていた。


 密会場所に到着すると、前原一誠をはじめとする長州藩の志士たちが集まっていた。池田屋で犠牲になった仲間たちの怒りと悲しみが場の空気を重くしている。


「博文、来てくれたか」と前原が重い声で言った。「今、我々はどうするべきかを話し合っている。京での攘夷の戦は終わらぬ。だが、仲間が次々と失われている現状、何らかの大きな決断をせねばならぬ」


 伊藤は黙って皆の話を聞き、次第に自分の胸に抱く思いが、これまでの活動方針と決定的に異なることを感じていた。彼は攘夷を掲げ、外国勢力を排除しようとする勢いよりも、開国と改革を通じて国を強くする道を模索していた。


「伊藤、お前はどう考える?」と前原が問いかける。


 伊藤はゆっくりと顔を上げ、仲間たちの目を一つずつ見ていった。そして、静かに口を開いた。


「池田屋の犠牲者たちのことを思うと、無念は理解できる。だが、我々が真に目指すべきは、ただ攘夷を叫ぶだけではない。世界は既に動いている。列強と対等に渡り合うためには、我ら自身が強く、そして賢くならねばならぬ」


 その言葉に場は静まり返った。長州藩の志士たちの多くは激昂し、伊藤の発言に驚愕した。


「何を言う、伊藤!我々はこの地で攘夷を果たすために戦っているのだぞ!異国の者たちを排除し、我が国を守るために!」と、一人の志士が声を荒げた。


 伊藤はその声を受け流すように続けた。「我らが本当に守るべきは、この国そのものだ。異国と戦うことが全てではない。幕府が滅び、異国を排斥するだけでは、次の時代には通じぬ。新しい国の形を模索しなければならぬのだ」


 前原が眉をひそめた。「伊藤、まさかお前、幕府と手を組む気ではあるまいな?」


「いや、幕府もまた滅びの道を歩んでいる。だが、その崩壊を喜ぶだけでは未来は見えてこない。我々は、我が国を外から守るだけではなく、内からも変えていく必要があるのだ」


 伊藤の発言に、密会場の空気は重く張り詰めた。彼の思想がこれまでの尊王攘夷から離れ、次なるステージを見据えていることを感じ取った仲間たちは、その意味に戸惑いと不安を隠せなかった。


 やがて、前原が重い声で言った。「伊藤、お前の道は…我らとは違うようだな」


 伊藤は静かにうなずき、決別を覚悟した。「そうだ、前原。我は、我が信じる道を進む。だが、我々の目指す未来が交わる時が来るかもしれぬ。その時まで、どうか無事でいてくれ」


 伊藤は一礼し、その場を後にした。彼は長州藩の仲間たちとの決別を胸に、次の大きな時代の波へと身を投じていく。彼が選んだのは、闘争を超えた改革の道であり、それは後に明治維新へと続く長い旅路の始まりであった。


 夜風が京の街を吹き抜ける中、伊藤博文は新たな決意を胸に歩み出した。池田屋で流れた血の記憶と、長州藩の仲間たちとの別れが、彼の背中を強く押していた。幕末の嵐の中で、彼が見据えるのは、日本という国の未来そのものであった。


 前原一誠は天保5年(1834年)3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。


天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。 安政6年(1859年)に松陰が処刑された後は長崎で洋学を修め、さらに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。


 文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。


 維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。


 やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年?)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処されたとされる。享年43(満42歳没)。


彼の辞世の詩として伝えられるのは、


「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。」

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