第12話 池田屋騒動

 幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷(尊攘)・勤王などの各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動していた。会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊攘派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。


 5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。


 元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性も高い。


 これにより、尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うとみた新選組は、会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案。5日夕刻、会津藩の援軍を待たず単独で三条〜四条方面の捜索を開始した。

 **背景:** 1864年6月5日、池田屋の一室。攘夷志士たちが会合を開いている最中、新選組が襲撃の準備を進めている。部屋の中では、攘夷志士のリーダーである桂小五郎とその仲間たちが、幕府の圧力に対抗する計画について熱心に話し合っている。


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**桂小五郎(鈴木亮平):** 「我々の計画が成功すれば、この国の未来は変わる。今こそ行動に移さねばならない」


**宮部鼎蔵:(温水洋一)** 「しかし、昨日の情報では、幕府の手勢が動き出したという噂もあります。もし我々が今夜ここにいることが知られているのなら、危険です」


 肥後国益城郡田代村(熊本県上益城郡御船町)に生まれる。医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となる。山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、林桜園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰と知り合い、嘉永3年(1850年)、東北旅行に同行する。松陰と鼎蔵は嘉永4年(1851年)、山鹿素水に学んでいる。文久元年(1861年)には肥後勤王党に参加する。文久2年(1862年)には清河八郎も宮部を訪ね肥後に来ている。その後、京都で活動する。文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、元治元年(1864年)には再び京都へ潜伏し、古高俊太郎のところに寄宿する。


 元治元年(1864年)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。享年45。明治24年(1891年)に従四位を贈られている。


 **桂小五郎:** 「それも承知している。しかし、我々の存在を知られていたとしても、ここを動かない限り意味がない。たとえ困難があろうとも、最後までやり遂げる覚悟が必要だ」


**宮部鼎蔵** 「桂さん、もしもの場合に備えて、ここから脱出するための計画も立てておくべきです」


**桂小五郎:** 「その通りだ。出口の確保を忘れてはいけない。皆、万全の準備をしておくように」


(突然、部屋の外で騒ぎが聞こえる)


**北添佶磨(野村周平)** 「これはただの風の音ではない!外に何か起きている!」


 北添 佶磨(天保6年(1835年) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。佶麿(よしまろ)、源五郎とも。変名は本山七郎。池田屋事件の「階段落ち」で知られる。


 土佐藩高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男で、西田可蔵の弟。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。


 開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)、本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学ぶ。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共に奥州や蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。なお、この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。


その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにもかかわらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって斬殺されたと思われていたが、近年の研究によって自刃して果てたことが判明している。享年30。


明治24年(1891年)、従四位を贈られた。


(ドアが激しく叩かれ、続いて新選組の隊士たちが突入してくる)


**土方歳三(西島秀俊):** 「皆さん、こちらは新選組だ!この場にいる者全員、動くな!」


**桂小五郎:** 「うわっ、新選組だ!皆、構えろ!」


**北添佶磨** 「どうする?このままでは押しつぶされる!」


**桂小五郎:** 「計画通り、出口から脱出するんだ!」


(激しい戦闘が繰り広げられ、新選組と攘夷志士たちの間で混乱が起こる。桂小五郎が仲間たちと共に脱出しようとするが、道は塞がれている)


**桂小五郎:** 「くそ、出口が封鎖されている!どうする?」


*北添佶磨** 「こちらに隠れる場所がある!急いで!」


(桂小五郎とその仲間たちは、隠れる場所に退避し、新選組の襲撃から逃れようとするが、混乱と戦闘の中で大きな損害を受ける)


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 池田屋事件(1864年6月5日)の頃、伊藤博文は長州藩士として活動していましたが、池田屋事件には直接関与していません。池田屋事件は、新選組が京都で尊王攘夷派の志士たちを襲撃した事件で、討幕を目指す勢力に大きな打撃を与えました。


伊藤博文は、この事件が起こる前後の時期に長州藩の重要な役割を担っていましたが、池田屋事件の当日、彼は現場にいませんでした。彼の活動は、池田屋事件後に長州藩が直面する困難な局面に向けての対応に繋がっていきます。


事件が起きた直後、幕府は尊王攘夷派に対する取り締まりを強化し、長州藩は京都から排除され、後に禁門の変(蛤御門の変)や第一次長州征伐が発生しました。伊藤博文もこの時期、長州藩の志士として幕府との対立に深く関わり、特に禁門の変後の長州藩の動きにおいて重要な役割を果たしました。


池田屋事件そのものには直接関わらなかったものの、この時期の伊藤博文は長州藩の外交・軍事面での対応を模索し、後に倒幕運動へと転じていく道を歩んでいます。


 池田屋の二階、薄暗い部屋に集まった長州を中心とする尊王攘夷派の志士たちは、密談を続けていた。彼らの顔には焦りと決意が交錯し、幕府打倒の計画を詰めようとしていた。その時、外で激しい足音が響き、志士たちの顔に緊張が走った。


「新選組だ……!」


静けさを破るように飛び込んできた知らせ。志士たちは一瞬の迷いもなく刀に手をかけ、闘志を漲らせた。彼らにとって、この闘いはただの戦いではなく、幕府を打倒し、新しい時代を切り開くための命を賭けた戦いだった。


玄関が激しく破られる音がし、すぐに新選組の隊士たちが突入してきた。沖田総司(林遣都)が先陣を切り、疾風のような動きで斬りかかるが、長州側の志士もただでは引かない。剣術の達人である吉田稔麿(工藤阿須加)が沖田の刃を見事に受け止め、火花を散らしながら押し返す。彼の動きは鋭く、速やかに反撃へ転じた。


「幕府の犬どもめ!」


 吉田の叫びが空気を震わせる。彼の刃は速く、相手の隙を狙って襲いかかる。だが、沖田の技量はそれを上回り、一瞬の隙をついて吉田の脇腹に鋭い一撃を加えた。血が飛び散るが、吉田はなおも退かず、最後の力を振り絞って沖田に斬りかかる。


 一方、部屋の反対側では、久坂玄瑞が槍を持ち構え、新選組の隊士たちを次々に迎え撃っていた。彼の目には覚悟があり、長州の未来を背負っていた。槍の鋭い突きが一人、また一人と新選組の隊士を倒していく。


「この命、長州のために捧げる!」


 久坂の叫びが響き、彼の槍が敵を貫く。だが、敵は次々と押し寄せる。近藤勇(藤本隆宏)が指揮を執り、隊士たちは少しずつ包囲を狭めていった。


突然、斎藤一(本郷奏多)が現れ、冷徹な目で久坂を狙いすました。二人の間で刃が交わされ、火花が散る。斎藤の剣は無駄のない一撃で、正確に久坂の槍を避けながら接近してきた。久坂もまた必死に応戦するが、やがて斎藤の鋭い斬撃が彼の胸を捕えた。


 長州側の志士たちは次第に追い詰められていく。藤堂平助(町田啓太)もまた、剣を振るいながら次々に志士を斬り伏せ、冷静に戦局を見極めていた。


 一人、また一人と倒れる志士たち。しかし、彼らの目にはまだ、未来への希望が宿っていた。幕府打倒の夢を胸に、倒れていく仲間を見つめながら、彼らは最後まで刀を手に戦い続けた。


 1864年、池田屋事件の前夜、若き伊藤博文は京都の一角にある小さな茶屋に身を潜めていた。彼は当時、長州藩の過激な尊王攘夷派に属し、幕府との対立が深まる中で、多くの志士たちと共に活動を行っていた。しかし、その心には複雑な思いがあった。攘夷を掲げつつも、海外列強の動きを冷静に見つめ、単なる鎖国や排外では日本が時代に取り残されることを感じ取っていたからだ。


その晩、博文は幼馴染であり、同じく志士として活動する前原一誠(満島真之介)と酒を交わしていた。


「伊藤、攘夷の志は揺るがぬか?」と前原が問いかける。


伊藤は杯を口に運びながら、微かに眉をひそめた。「攘夷は当然だ。だが、それだけではこの国は守れぬ。世界はすでに動いている。我らが日本も、幕府だけではなく、列強とも向き合わねばならぬ時が来る」


前原はやや驚いた顔を見せた。「伊藤、お前がそんなことを言うとはな…我らは幕府を打倒し、天皇を中心とした国を築くのが使命ではないのか?」


伊藤は静かに前原を見つめ返す。「そうだ。だが、攘夷だけが我々の道ではない。開国し、国を強くすることで、初めて我らの未来は守れる」


その言葉に、前原は言葉を失った。池田屋で激しい行動を起こそうとしている仲間たちとは、伊藤の考えが少しずつ異なり始めていることを悟ったのだ。


その夜、伊藤は池田屋には向かわなかった。彼の中で、ただ幕府を倒すことだけが目的ではなく、日本という国全体を考える必要があるという思いが強まっていた。しかし、池田屋では彼の仲間たちが新選組によって襲撃され、多くの志士が斬り捨てられたことを後に知る。


「伊藤、あの時お前が池田屋にいれば…」と、共に活動していた者たちが嘆いた。だが伊藤は、別の道を進む決意を固めていた。攘夷運動の激化を目の当たりにしつつも、彼は密かに開国派の志士たちとも接触を始めていた。


数日後、京都の町並みを歩きながら、伊藤は遠くに広がる空を見上げた。彼の胸には、新しい日本を作り上げるための強い意志が渦巻いていた。これから先、彼が何を成すべきかはまだはっきりしていない。しかし、池田屋事件を経て伊藤博文の心に芽生えた「変革の必要性」が、彼を後の日本の礎を築く存在へと成長させていくのであった。



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