第2話

3


櫂は先を急ぐ。

受付は簡素であり、UIROの社名がモダンな感じで印字されている他は、受付電話と来客用のスツールが数個、申し訳程度に観葉植物が置かれているのみであった。

フロア全体は契約の影響で照明は落ち、電子機器は全て機能を停止している。明かりはエレベーターホールの窓から薄く差し込むビル灯りのみであった。

受付の左右には真っ直ぐ通路が伸びており、等間隔にセキュリティドアが設けられている。

櫂はケミカルライトを数本折り5mおきに投げた。ライトの周辺が青や緑の蛍光色で照らされ、周囲の状況が露わになる。

スツールの上に一本のちぎれた指が転がっていた。おそらく人差し指だろうか、白く細長い指はネイルも整えられている。指の周囲には小さな血溜まりができていた。

壁には這ったような血痕があり、通路の奥へと続いている。奥に向かうにつれ血痕は多くなっていた。パンプスは脱ぎ捨てられ、肉片が壁に張り付いている。

櫂は通路の奥を凝視する。

受付から数十メートル先、最も遠く投げたケミカルライトの奥の扉が開いていた。上部の蝶番は歪んだ外れており、扉の中央は巨大なハンマーで叩いたかのように歪な窪みがいくつもある。

グロックを構え、一歩踏み出した時、激しい頭痛が櫂を襲った。

頭蓋骨の内側から鐘をならし、眼球の奥の視神経を真っ赤に熱した鉄棒で焼かれるような痛みだった。櫂は膝から崩れ落ちうずくまる。胃が激しく痙攣し嘔吐する。

涙が溢れ、口は締まりを無くして獣のように涎を垂らす。

—くそっ。今日はなんか変だ……。

任務で身体の不調を覚えたことはあった。いや、それは当たり前の状況であった。

通常、人が契約の影響下に置かれると悪寒や手足の震えが起き、扁桃体の活動が過敏な人、いわゆる霊感のある人では心拍数の上昇や幻覚等が起こる。櫂のような『ウラ』に所属し、黒子やニワトリとして活動する者はより鋭敏に契約の影響を受けるよう扁桃体に生体インプラントを埋め込んでいる。とりわけ黒子は契約の履行現場に立ち会い、流動する状況に対応できるよう脳に埋め込まれているインプラントの数も多く、身体の不調は強く出る。

それでも今回の任務の影響は櫂が経験したことのないものだった。

櫂は震える脚で立ち上がり、再度グロックを構える。

できるだけ深く呼吸をし、ゆっくりと慎重に歩みを進める。

降り続く灰は雪に変わっていた。

—桜隠し。澪が好きだった景色。

櫂は雪化粧をした満開の桜並木の中を歩く。

少し上り坂になっており左に曲がっている。

坂の先にはこじんまりとしたお寺がある。算空寺。澪の生家であり、櫂が育った家でもある。

境内で小学生の澪が呼んでいる。

櫂が褒めた白いワンピースをいつも着ている。

「櫂くん!櫂くん!」

澪は櫂の袖を掴み、本堂脇を周り庫裏の前へ連れて行く。

「なんか変だよ!ほら、玄関に血がいっぱい!櫂くん見てきて」

小さな体で櫂を目一杯押す。

「わかった、行くから。澪はそこで待ってな。」

「うん、気をつけてね。」

—思いっきり背中を押しておきながら何を言ってるだか。

櫂はゆっくりと玄関に足を踏み入れる。正方形の天然石を敷き詰めた玄関床は血溜まりを作っており、無造作に転がった澪のお気に入りの黄色いサンダルや住職の草履、革靴を濡らしていた。

血は廊下の奥、左手の客間に続いている。

手が震え、呼吸が早くなる。鼻をつく血の匂いは客間に近づくほど濃く重くなった。

震える手を襖にかける。全身から汗が滴る。

櫂は意を決する。

勢いよく襖を開け銃を構える。

六畳ほどの畳敷の客間の中央に、血溜まりの源があった。頭は禿げあがり一つ目、一本の腕と足、体は痩せこけ鼠色の体毛が生えている爺。

爺は白いワンピースの少女の首筋に齧り付き、口の回りを赤黒く染め肉を頬張っている。

澪だった。首の肉は抉れ頸椎が露出し、頭部はごろんと胸部に載っている。

櫂は目の前の光景に目眩を起こした。気管がみっちりと合わさったかのように息が詰まる。手と足が大きく震え立っているのが精一杯だった。

「はっ……んはっ」

陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせ細い呼吸を繰り返す。

澪と目が合った。

「櫂くん、助けて」

川に落ちたボールを取ってと懇願するような、あどけなさのある声色だった。

—撃たないと。

櫂は朦朧とする意識の中、震える手で爺に照準を定める。

2発発砲する。

消音された発砲音がする。銃弾は畳に2つの穴を開けた。

爺は素早く飛び退く。襖を倒し隣室へ姿を消し、一瞬の間の後、障子を破り廊下へ転がり出て櫂に飛びつく。櫂の顔面を掴み、膝で蹴り上げる。細く皮と骨ばかりの腕からは想像もつかない握力であった。櫂の頭蓋骨が軋む。膝で蹴り上げられる度に鈍い衝撃が胴を揺らす。

手首を返して3発。うち2発が爺の顎下から頭頂部と眼球上部を貫く。

膝蹴りは止むが、腕はまだ櫂の顔面を握り潰そうとしている。櫂は爺の腕を掴み振り解こうとするが離れない。壁にぶつけて押し倒し転がり回る。

爺の指が顔面の肉に食い込み鮮血が流れる。

澪の姿が脳裏に浮かぶ。悲しさと無力感が心を覆い理性を遠くに隠す。

「うおおおおおおおお」

櫂は爺の馬乗りになり、頭部があるであろう場所に無我夢中で引き金を引く。

櫂は泣いていた。




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