403 Forbidden:Nirvana

千川 翔太郎

第一章 庭火

1


その日、ニワトリが啼いた。


政府要人付きが啼くのはおよそ3年ぶりだった。

2024年6月16日午後15時28分。厚生労働大臣 田川邦弘付のニワトリは田川控室の真下で待機していた。市民ホールの空き会議室。長机とパイプ椅子、使いこまれたホワイトボードのある部屋で、静かに息を整える。パイプ椅子に浅く座り背筋を伸ばす。机にはアナログとデジタルの腕時計を一本ずつおき、左手には生体センサーを内蔵したスマートウォッチをつけている。

梅雨の晴れ間、湿った空気がゆっくりとカーテンを押して流れ込んでくる。

ニワトリに悪寒が走る。アナログ時計の長針は15時27分15秒と18秒の間を何度も行き来し、デジタル時計は文字化けしている。

蛍光灯は激しく明滅し、そして息絶える。

心拍数は170を上回り、下水は膝下まで迫ってきていた。

何者かの呪契による幻覚だとわかっていても、汚物と生活排水、重く甘い腐臭はニワトリを締め付けた。

ただ一声、啼き声をあげる。

それは産声であり、また断末魔であった。


2


同日午後21時03分。

湯木櫂は東京都港区虎ノ門の細い坂道を自転車で登っていた。オンライン配達サービスのバックを背負い、安いクロスバイクを蹴り回す。

日本の政治経済の中心地の一つでありながら、道は狭く坂が多い。

—この街に喜び勇んで住み着く富裕層はきっと図抜けた阿呆に違いない。

「金持ちは5m先に行くにも車を使うんだ」

櫂の心の中を察したかのように北浜が言う。

「その坂を登りきったところを右折、およそ170m直進したところにあるビルに標的がいる。」

北浜がわかりきっていることを言う。そういう男だった。

北浜尚文は宮内庁式部職副官長であり、櫂が所属する政府非公認組織通称『ウラ』の長でもある。

家族は奥さんと娘が1人。娘は米国に留学しているらしい。

櫂の育ての親の1人である。戸隠の児童養護施設にいた櫂を拾い、組織に引き込んだのはこの男だった。

坂を登りきり右折する。道は広くなり少し下っている。

「改めて今回の作戦を説明する。標的は新興IT企業 UIROのCEO 新庄孝之、42歳。柴田の情報より虎の台ヒルズのオフィスにいることが確認されている。」

「内調がなんでIT社長の情報を?」

「中露のヒューミント関連らしい」

—ハニトラ関係か。

櫂は深呼吸をし、膨らみはじめた下衆な想像を押し込め任務に集中する。

「もういいか?」

北浜はこういう男だ。

「本日15時28分。田川大臣付きのニワトリが啼いた。所沢の形代3体は全て破断されており、緊急で対抗契約を締結。”彼の存在”が提示した履行内容は田川を対象とする過去24時間に締結された呪契の無効化、我々の債務は新庄と田川大臣の愛犬あんことココアの殺害。制限時間は日付変更まで。」

「田川にも痛みを、か…。」

「大臣は自宅で愛犬と最後の時間を過ごしてる。成功させてやってくれ。」

櫂はビル正面に到着する。車寄せの脇を通り、コンビニ横に自転車を置く。

「入館は予算で契約を締結した。そのままオフィスを目指してくれ。櫂がエントランスへ入り次第履行され、28秒後に終了する。それまでにエレベーターに乗り標的を目指せ」

「ただの入館に予算を?」

「入館警備だけならここまでしないが、多数の一般人丸ごと対象としたかったからな。通常ならもっとスマートなやり方を考案するが緊急時だ。力技でいく」

エントランスへ足を踏み入れる。暖色の照明は小さな明滅の後、眠りにつく。エントランスには入館警備員、日に焼けて白いTシャツを羽織った成金とその女、着崩しているが仕立てのいいスーツを来た日本人とインド系のビジネスマンがいるが、誰も照明が消えたことに気がついていない。

悪寒と震えが櫂を襲う。黒い灰が降っている。

櫂は立ったまま意識を失っている一般人の脇を抜け足早にエレベーターへ乗り込む。一旦59階を目指す。

通信が回復し聞き慣れた声が届く。

「通過したみたいだな。」

「ああ」

櫂は震えを抑えながら答える。

エレベーターはスピードを上げ30階を過ぎる。

「今回の標的は何かしらの契約を締結し待ち構えてる可能性が高い。気を引き締めていけ」

静かに扉が開く。目の前の壁にはフロアの案内図がある。

櫂は素早く非常階段の位置を確認する。

周囲に人影はなく、薄暗い。非常階段を上る。

60階の扉の前に立つ。黒い灰が鼻先を掠める。

「やはり契約してる。今後通信が途切れる。」

「想定内だ。気…き締め…け……。」

北浜との通信が完全に途切れる。

悪寒と震えが再び櫂を覆う。灰は降り積もっている。扁桃体に埋め込んだインプラントが作動し、脳の各地に埋め込んだ仲間を起こす。感覚は研ぎ澄まされ、筋力のリミッターがはずれる。

櫂は背負っていたバッグからタクティカルベストとグロックを取り出し装着する。装弾数を確認し肘を曲げ胸前で構え、ドアノブをゆっくりと回す。ドア外の構造は59階の案内板で確認した。

頭の中でクリアするポイントをイメージする。

勢いよくドアを開け、イメージしたポイントに最短最速で銃口を構える。

幸い人はいない。

櫂は小さく安堵する。

—死体は増やしたくない。


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