小さな違和感、大きな謎

「このタクシーチケット使えるかい?」



 後部座席に座った男性が、つなぎのポケットからごそごそと財布を取り出し、くたびれたタクシーチケットを私に差し出す。その表情にはどこか焦りと安堵が入り混じったようなものが浮かんでいる。



「ええ、大丈夫ですよ」と私が答えると、客はふうっと息をつき、背中をシートに深く預けた。



 外はうだるような暑さだが、タクシーの中はエアコンで快適な温度を保っている。だが、冷たい空気が流れるにもかかわらず、客の顔にはまだ少し汗がにじんでいた。



「実はね、さっき財布をなくしかけたんだ。近所の定食屋で昼飯を食べようとしていた時に気づいたんだよ。財布がないことに」



 男はポツリポツリと話し始める。「それで、あちこち慌てて探し回ったんだが、なんとか見つかったんだよ。でも、どうもおかしいんだ」



「おかしいとは?」



 私はバックミラー越しに彼の顔を見つめ、続きを促す。



「それが、千円札だけがなくなっていてね」男は困ったように眉をしかめる。



「一万円札はそのままだったんだけど、なぜか千円札だけがなくなって、代わりに小銭が増えていたんだ。しかも、前よりも財布が重くなっていたような気がするんだ」



「なるほど、それはおかしな話ですね」私は頷きながら答える。「一万円札が残っていて、千円札だけがなくなるなんて普通じゃありません。逆なら分かりますが」



 ふと、ある考えが思い浮かぶ。



「もしかしてですが、財布を拾ったのは自販機のそばでは?」私は直感的にそう口にしていた。



 男は驚いたように目を見開いた。



「おいおい、あんた超能力者でもないのに、なんでそれが分かるんだ?」



「いえ、推測ですよ。自販機は千円札しか使えませんよね? だから、拾った人がその千円札で飲み物を買ったのかもしれません。そして、お釣りを戻していったんじゃないでしょうか」



 男はしばらく考え込んでいたが、やがて納得したように手をポンと叩いた。



「なるほど、そういうことか。お釣りを戻したってことは、悪意があったわけじゃないんだな」



「そうですね。その人は良心的だったのでしょう。大事なものは戻ってきたわけですし」私は再びハンドルに集中しながら答える。



 タクシーは静かに街を走り続ける。エアコンの音だけがかすかに響く中、外の景色が次々と移り変わる。通り過ぎるビルや人々の動きが、都会の喧騒を象徴しているようだ。私は男の話を反芻しながらも、次の言葉を慎重に選ぶ。



「それにしても、結果的には不幸中の幸いでしたね」私はふと思いつき、話を続けた。



「タクシーチケットが使えるとはいえ、もし財布がそのままなくなっていたら、もっと面倒なことになっていたかもしれません。特に、そのチケットが会社の支給品であるならば」



「おっしゃる通りだよ……」男はゾッとしたように身震いしていた。どうやら、会社の始末書が頭をよぎったらしい。



「タクシーチケットまでなくしてたら、本当に首が飛ぶところだったよ」



 私は少し脅かしすぎたかなと思いながらも、軽く笑って「結果オーライですよ」とフォローを入れた。男もそれに釣られて、ようやく笑みを浮かべた。



 それからしばらくは無言の時間が続いた。私は運転に集中し、男は窓の外をぼんやりと眺めていた。タクシーの外には、夏の日差しが強く照りつける街並みが広がっている。そんな景色をバックに、心の中に微かな違和感が芽生えた。



 目的地が近づいたときだった。私はふと、タクシーチケットに書かれた会社名に目を止めた。「林葬儀店」。だが、後部座席に座っている男は作業着姿。どう見ても葬儀屋の従業員には見えない。私の脳裏に疑念が浮かび上がる。



 チケットを確認しつつ、私は意を決して問いかけた。「あの、失礼ですが、このチケット……他の方からもらったものですか?」



 男は一瞬、動揺したように見えたが、すぐに笑顔を作りながら答えた。「ああ、そうだよ。友人が使わないって言うからもらったんだ。使い道がなかったみたいでね」



 私はその言葉に違和感を感じつつも、突っ込むかどうか迷った。しかし、運転手としての立場を考え、深く追及することはやめておいた。チケットは正規のものだし、目的地までもうすぐだ。



「そうですか、なるほど」私は軽く相槌を打つだけに留めた。



 タクシーは目的地に到着し、静かに停車する。男は財布からチケットを取り出し、私に渡してきた。それを受け取り、メーターを確認しながら精算の手続きを進めた。



「ありがとうございました。」私はチケットを処理し終えた後、男にお礼を述べた。男は深々と頭を下げてタクシーから降り、暑い夏の日差しの中、足早に去っていった。



 タクシーの中に再び静寂が訪れる。私はハンドルを握り直し、次の乗客を迎える準備をする。窓越しに見る街並みは、相変わらず灼熱の太陽に照らされているが、どこか心の中に冷たい風が吹き抜けたような気がした。



 「林葬儀店」と書かれたチケットを手に取り、再度その文字を眺めながら、私は微かに笑みを浮かべた。世の中にはまだまだ解けない謎があるものだな、と思いながらエンジンを再び始動させるのだった。

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