第6話 野球回からシリアスへ
バッターボックスに立っても、不思議と緊張はなかった。
ちょっと眩しいくらいに日差しが私をじっくりと捉えている。透き通る空を一瞥して、私は軽く体を伸ばす。そしてスパイクで軽く土を払って足元を均した。バットを地面に向かって伸ばして、立ち位置を調節する。よし……完璧だ。一八・四四メートル先に視線を向け、ゆっくりと息を吐いた。
さぁ、ここだ。
三点ビハインド。二アウト満塁。長打が出れば同点、ホームランならお釣りなしの逆転。まさに試合の山場である。ピンチだけど、これ以上ないくらいのチャンスだ。
打たなければいけない。ここで打てなければヒーローではない。でも、打てば一気にヒーローになれる。だから、私は打つしかない。それ以外の選択肢なんて頭の中にありはしない。それが正しいヒーローの在り方だと思うから。
ベンチの声援が、スタンドの応援が耳に響く。まるで映画のワンシーンのようだ。みんなの声がBGMのように私を包み込んでくれる。
ヤバい、楽しい。
一世一代の大場面なのに、心はただ白熱していた。怖がって、足がすくむ理由だけ探していたってしょうがない。どうせ走り出すしかないのだから立ち止まって考えていても意味がないんだ。
ピッチャーがロジンを叩く。白い粉が宙を漂う。グリップをギュッと握りしめて、ゆっくりと深呼吸をした。
──ああ、野球の時間だ。
*
コウコウ球場のスタンドに腰掛け、私はカブカブと水筒に入った麦茶を飲み込む。なんと驚くことに、今日私は野球観戦をしにきたのだ。
私の人生において、こんな日が訪れるだなんて全く思いもしなかった。現地でスポーツ観戦なんて、私から限りなくほぼ遠い行いだと思う。正直なところ、インドアという言葉は私という存在から生まれたのではないかと思えるほどにインドアな私は、やはりここにいることも億劫以外の何者でもない。しかし、人生というのは苦難の在庫一掃セールであるので、来るしかなかったというのがその実である。
「なぁさや、結局打ったらどっちに走り出すのが正解なんだ?」
「一塁側です」
「一塁ってどっちだよ」
「捕手から見て右です」
「何だよ、ホシュって」
「……あなた、何しにきたんですか?」
私の右隣に腰掛けたさやランはいつもの如くしょうもない言い合いをしていた。門部ランは困ったように眉を八の字にすると、反抗の意思なのか隠元さやの頬をむにぃっと掴んだ。
「……いたいです。なにするんですか」
「うるさい。野球分かんないんだって……優しくしてくれよ」
「はいはい、全部教えてあげますから手離してください」
「……うん」
門部ランはしおらしく呟いた。
──ああ、私なんでこんなところにいるんだ。
何が楽しくて休日にわざわざこんなところまでやってきて、隣の陽キャカップルのイチャイチャを眺めなきゃいけないのか。クソが。世の中理不尽だ。
怒りを込めて水筒をあおる。あっ、麦茶なくなっちゃった。試合これからなのに……。
水筒片手に絶望している私をよそに、隠元さやは鞄から大きなタッパーを取り出した。蓋を開けて門部ランに差し出す。
「おにぎり握ってきました。一緒に食べましょう」
「おっ、気が利くな。……えっと、これ具は何だ?」
「こっちが豆腐で、こっちがきくらげです。残りは寒天ですね」
考えうる限り最悪の具。
ほぼ味のないやつばっかじゃん。どうやって米食うんだよ。
「一個だけ明太子が入っています。探してください」
何だよそのくじ引きみたいなシステム。全部明太子にしなよ、結局明太子が一番美味いんだから。
並べられた終わっているおにぎりに、門部ランも流石に渋い顔をしていたが、恋人が作ったものということで蔑ろにはできないのか、おにぎりを一つ手に取ってそれを恐る恐る咥えた。
「……うわ、寒天だ」
「どう、美味しいですか?」
「え……あ、ああ美味い……かも」
……可哀想に。
そりゃ恋人が作ったものに不味いなんて言えないよ。そういう刑罰じゃん。
「美味しいわけないでしょ、ふざけているんですか? 適当なこと言わないでください」
「ふざけんなよお前」
バカ理不尽だ。どの選択肢選んでもバッドエンドじゃねぇか。最初から美味いの用意しろよ。
「……けほっ、けほっ。……ヤバい、なんか咳が」
「不味すぎるものを食べたせいでしょう。向こうに自販機があったので、何か買ってきますよ」
「あ……ありがとう……けほっ」
冷静になると別に何もありがとうではなく、普通に隠元さやのせいなのだが、不調の体ではそんなことにも気がつけないらしい。
苦しむ恋人とは対照的に、涼しい顔をして隠元さやはその場を後にする。残されたのは青い顔をしているギャルと、年中暗い顔の陰キャである。
「あぁ……死にそう。一度くらいまともなもん作ってこいよ」
あの人、毎度こんなの持ってきてるのか? よく付き合ってられるな。まぁそれだけ愛があるという話なのだろう。ギャルの方が一途というのはありがちな設定だな。
「うぅ……なんかお腹痛くなってきた」
「だ、大丈、夫……で、すか?」
私がビクビクしながら声を掛けると、門部ランは顔を引き攣らして飛び跳ねた。
「う、うわっ! ……ああ、横山か。いたのか」
ずっといたが。隣で律儀にツッコんでたが。というか三人で一緒に席に着いただろうが、何忘れてんだよ。
「いやごめんいたな、ずっと。そうだな……お前も宙音応援に来たんだもんな。なんか、宙音と仲良いんだっけ」
「い、い……いや、な、仲いい、わけじゃ……」
「……あっそう」
別に多分、仲が良いわけではないと思う。高波宙音が優しいだけだ。
門部ランは苦笑いをすると、自分が立ち上がっていたことを思い出したのか再び私の隣に腰掛けた。……そして訪れるしばしの沈黙。
肩と肩が触れそうな距離ではあるが、心の距離はこの球場を一周させてもまだ足りないくらいに遠いので、二人きりになると気まずいことこの上ない。
「横山は野球分かんの?」
「き、基本のルー、ル、くらい、なら」
「へー、あたしは全然野球見ないからさぁ、からっきしで。野球好きなのか?」
「い、いや……好、きって、わけ、じゃ」
「ふーん」
……ダメだ。空気が終わってる。これならまださやランのイチャつきを見せつけられている方がマシだったな。門部ランといえどいつまでも私と二人きりというのは流石に厳しいものがあるようで、退屈そうにネイルを眺め始めてしまった。
きついな、ちょっと暇すぎるし他の観客でも眺めるか。基本は生徒の親御さんみたいなのが多いけれど、たまに私達みたいな高校生が何人かで応援に来ているようだ。
あ、あそこの人服すごい。グレーのショート丈に黒の丈の長いレイヤードスカート。しかも片脚だけ大胆に出してる。スタイル良くないと出来ないやつだ。服はモノトーンで纏めているけれど、髪色がヘアカラーがイエローのメッシュだからそれがアクセントになってる。
オシャレだ。あんな子が一人で野球見にくるんだな。私もあんな風になれれば門部ランと会話できるのだろうか。ちょっと悲しくなってきた。
「あ、おにぎり食べるか?」
「……いらないです」
「……だよな」
この気まずい雰囲気は隠元さやが戻ってくるまで続き、彼女が何故かおしるこを買ってきたことで、結局は門部ランがキレながら自販機へと走ることになったのであった。ちなみに、門部ランは私の分もお茶を買ってきてくれた。気絶した私を助けてくれた時といい、優しい子ではあるらしい。
*
そもそも、私がこんな目に遭うことになったのは一昨日の出来事が発端である。お昼休み、私はどうにかして高波宙音に話しかけられないかと頭を走らせていたし、ひと言の勇気が足りずに話しかけるには至らないという状況であった。
バンッと教室の扉が開かれた。
「──高波さん、助けて! 野球部廃部になっちゃう!」
まさしく、それがきっかけであった。
やってきたのは隣のクラスの三崎という女子生徒だ。女子野球部に所属していてポニーテールの活発そうな子である、つまり私とは合わなそうなタイプの子だと思ってくれれば良い。
「廃部って何があったの?」
三崎を自分の前の席に座らせて、高波宙音は心配そうに事情を窺う。覗き込む瞳は揺れていて、彼女が心から三崎を案じているのがよく分かる。
「実はね……今朝顧問の先生から言われたんだけど」
三崎が語ったのは要約するとこういう内容である。まず前提としてウチの高校の女子野球部はめちゃくちゃ弱小である。創立以来一勝もしていないらしいし、私なんかはこの瞬間まで部の存在すら知らなかったくらいに弱小である。
それでも部員も九人いたし、勝てないなりにそれなりに楽しくやってきたらしい。しかし、その日常は続かなかった。部長兼キャプテン、エースで四番を務めていた生徒がなんと退部したのだ。どうやら野球ではなくゲートボールを極めたくなったとか何とか言ってアメリカへ留学したらしい。ゲートボールは日本発祥だからアメリカに行く意味も分からないがとにかくそういうことなのだ。
まぁ部員が八人になってしまっても活動ができないわけじゃない。試合になれば校内から助っ人を借りてくれば良いし、別に部
を存続させることくらいはできる──と、部員たちが楽観視していた矢先である。
あまりに弱く、部員の数もままならない。そんな女子野球部の状況をよく思わなかったのか、校長により、次の練習試合で勝つことができなければ部は廃部とすることが決まったのである。
ふむ……なるほど。
話に耳を傾けていたのか、側に腰掛けていた隠元さやがポツリと呟く。
「漫画みたいな話ですね」
うわっ言いやがった。
私は言わないようにしてたのに。側から見たらスポーツ漫画みたいだなってなるけど、本人たちは真剣に悩んでそうだから言わなかったのに。
「ちょっと、真面目な話なんだよ!」
「いやでも、実際そうでしょ。負けたら廃部って現実で聞かないですよ。というか現実の場合だと絶対勝てませんよ。一回も勝ったことないんですから」
「さや!」
すごいなこの人。みんなが思ってるけど決して言わないこと普通に言うじゃん。道徳の授業、赤点だったんじゃないか?
「ううん、高波さん大丈夫。隠元さんの言ってることは本当だから。このままじゃ勝てない」
まぁ部員も一人足りないしな。適当に他の運動部から借りたとしても厳しい戦いにはなるだろう。
だが、そんな実情など知らないかのように三崎さんは目を輝かせて机を叩いた。
「でも! 高波さんの力があれば、話は別だよ!」
「えっ、私!?」
「当たり前だよ! 高波さんがいれば百人力だよ! 阪神タイガースくらいには勝てる」
絶対、勝てません。
「え、でも私なんかじゃ……」
「何を言いますか! 五〇メートル走三・四二秒! ボール投げ二三七メートル! シャトルラン六四八三回! 人間離れしたこの数々の記録、高波さんがいれば廃部回避間違いなしだよ」
えっぐ、化け物じゃん。ギャグ漫画でもねぇんだぞ。阪神くらいなら勝てるぞ。
「いやーたまたまだよ」
そこまでいくとたまたまの方が怖いな。ドーピングしまくって狙いに狙って出した記録だった方がまだマシだよ。
「そんなことない! 高波さんの力があれば、全国も夢じゃない。お願い協力して、もう高波さんしか頼れる人がいないの!」
どさくさに紛れて高波宙音の力で全国まで行こうとしてるじゃねぇか。
「お願いだよー高波さんー、野球部無くなっちゃうよー」
……とはいえ、私がこんなところでブツブツと呟いていたとしてもその後の展開は分かり切っているのである。高波宙音は正義感を煮詰めたみたいな人間だし、クラスのドブ陰キャにすら優しいのだ。どうなるのかなんて明らかだ。
高波宙音がバンッと机を叩いて立ち上がる。教室に注ぐ風がその髪を揺らして、爛々と輝く瞳を惜しげもなく披露させた。真っ直ぐな表情がただ見惚れるほど美しい。
蛍光灯に照らされ、ただ果敢に高波宙音は笑う。
「──私に任せて。絶対に廃部になんてさせない!」
「おおっ、高波さんカッコいい! マジ感謝だよ!」
三崎がはしゃいで飛び跳ねる。抱きつかれた高波宙音は照れくさそうに微笑んだ。
こうして、高波宙音は野球をすることになったのである。
*
それから二日経ち、私たちはやはりコウコウ球場にいた。
「なぁ、相手の高校はどこなんだ?」
「トナリマチ高校ですね。秋季大会は県ベスト四だったみたいです」
「なるほど……厳しい戦いになりそうだな」
なにせ一度も勝ったことがないんだから
な、高波宙音がいるにせよ、まぁキツイだろう。隠元さやの言うとおり、流石に生半可な相手ではないようで、グラウンドではトナリマチの生徒が守備練習をしているけれど、みんな普通に身長二メートルくらいある。私とか一撃殴られただけで死ぬ。なんで県ベスト四の奴らですらそんなにタッパがあるんだよ。
「……デケェな。一番デカいやつなんてハルクの実写役で出られそうなくらいムキムキだしな。金属バットでも折っちゃいそうだな」
「しかしも手の大きさに合うグローブなくて素手でやってますよ。ホントに女子高生ですかあの人」
……高波宙音、勝てるんだろうか。
ちょっと心配になってきたな。いや、彼女のことだろうからもちろん全力で戦うんだろうが、でも不安なものは不安である。
一昨日、高波宙音は帰り際に私のところへやって来てこそこそと囁いた。
『試合、もし良かったら応援に来てほしい。明後日、コウコウ球場で、朝の九時からだから……』
『い、行きます』
『ありがとう、絶対勝つから』
頼まれてしまえば私に断るという選択肢はない。高波宙音としてはまぁ出来るだけ応援が多い方が良いというだけなのだろうけれど、私としてはほんの少し浮かれる気持ちもあった。 もっとも、球場に着くや否やさやランと遭遇し、流れで一緒になってしまったため一気に気分はダダ下がりだったわけだが。門部ランも私なんかに話しかけてこなくても良かったのに。
普通に気まずい。
「……あれですね、三人だと気まずいですね」
「お、おい! なんてこと言うんだお前!」
「本当のことですよ。横山さんも気まずいって思ってますよ」
「い、いやそんなことないって! な? 私は思ってないし、横山もそんなことないよな?」
「わ、わ、私……は」
「自分のなり考えてください。金髪ギャルがそんな必死そうにしてたら、逆に怖いでしょう。横山さんの顔真っ青ですよ」
「誰のせいで弁明してると思ってんだよ。いやマジで、私はみんなで見れたら楽しいからさ、ほらおにぎり食うか?」
……はぁ、最悪だ。そしておにぎりは食わない。
そうこうしている間に球場にサイレンが響く。試合が始まろうとしていた。ユニフォームを着て、グラウンドに立つ高波宙音を見ていると──何故だろう、ほんの少し胸が痛いような気がした。
珍しく日差しを大量に浴びたせいだろうか。
*
──来てくれたんだ。嬉しいな。
スタンドにチラリと目をやって、そして一度瞑目した。さや、ランと並んで彼女の姿が見えた。それだけほんの少しだけ胸が熱くなるのは何故なのだろう。仲良くなりたいのに上手く距離を縮めることができない、その自分の不甲斐なさを少しでも解消することのできた満足感か……あるいは。
今日は四番センターでの出場だ。一回表、トナリマチ高校もまだ調子が上がっていないのか、三者凡退だった。そのまま、彼女たちが上がり切るまでに先制点をもぎ取りたいところだ。
一回裏、私たちの攻撃。相手先発が立ち上がり、制球に苦しんだところを上手く見極めて、一番の一宮さんがまず四球で出塁。二番の二村さんは三振に倒れたけれど、三番の三崎さんが進塁打を放つ。これで……二アウト二塁。
──私の番だ。
負けられない戦い。負けたら女子野球部が廃部になってしまう。三崎さんに頼まれている。私は私を頼って来てくれた人には答えたい。ちっぽけな私がせめて出来ることといったら目の前の人に手を差し伸べることくらいだから。
ヒーローになると誓った。タケル君がゼリーを貪り、クラスのみんなが泣いていたあの時に、そう誓った。本当なら、世界中のみんなが笑顔でいられるべきだと思う。でも私の力では難しいことばかりだから、私の周りにいる人くらいにはゼリーを差し出していたい。
軽くバットを振って、打席に立つ。うん、体の状態は悪くない。
相手の投手、球凄速さんは速球派でストレート主体の配球が特徴の選手だ。二村さんもストレートに振り遅れて空振りしていた。でも見たところ、ちょっと球が高めに浮く癖がある。
だから……。
初球、投げた。やっぱりストレート、速い、でも予想通り。少し甘く入ったところを一心に──振り切る。
キィーンとバットが音を立てた。ボールが高く上がる。私は駆け出す。よし……いける。
打ち上がった白球は外野の頭を超えてそのままフェンスに直撃。外野手がクッション処理をしている間に、私は一塁を蹴る。そしてセカンドランナーの一宮さんも三塁を回った。ホームに突っ込む、大丈夫返球はない。私もゆっくりと二塁ベースを踏んだ。
──先制のタイムリーツーベースヒットだ。
ベンチが、スタンドが、球場全体が沸く。私を腕を大きく上げてベンチを鼓舞した。スコアボードに刻まれた数字、〇対一。いける、勝てる。
さややランの側で俯きがちにこちらを見ている少女を盗み見る。点を取れたことはもちろん嬉しい。でもそれと同時に、彼女が見ているときにこうやってヒットを打てたことが、本当に私を充足させてくれた。どうしてだろう、何故観客のみんなではなく、彼女だけにそう思うのだろう。分からない。でも、今はただ試合に集中していたい。
私は彼女に向かって精一杯のピースサインを送った。
*
「さぁ始まりました。コウコウ高校対トナリマチ高校の一戦。実況は私天野、解説は宮島さんでお送りしております。さぁ、初回高波が見事タイムリーツーベースを放ち、得点を一対〇としています。宮島さん、高波のバッティングいかがでしたか?」
「そうですねぇ、いやぁ高波さん素晴らしいですね。本当素晴らしいですね。なんかすごいボールも飛びました」
「抽象的なコメントありがとうございます」
何度目だろうか、天野だよ。分かるだろうが、俺はコウコウ球場に来ている。目的はもちろん女子野球部の存亡をこの目で確かめる
──ことではなく高波と横山の観察である。きもいだろ、知ってる。
でもな、俺だってプレーする高波と応援する横山という構図を作るためそれなりに苦労しているのだ。普通に考えて、部長がゲートボールやりにアメリカ留学って意味分からんすぎるだろ。
「ねぇ、このおっさん誰?」
額の汗をハンカチで拭いながら隣に腰掛ける鹿間が気だるげに言い放った。視線の先は自身の寂しい頭をそっと撫でてグラウンドを凝視する宮島さんである。
「彼は宮島さんだ。今日の試合の解説に来てもらった」
「それは分かってる。何してる人なの? 学生野球とか社会人野球とかどっかで指導者してんの」
「失礼だな……ウチの高校の近くにバッティングセンターがあるだろ?」
「ああ、あるね。よく野球部が占領してるよ」
「宮島さんは、あそこで見ず知らずの子供に話しかけて勝手に打撃指導をしている方だ」
「うわ、一番ダルいタイプの不審者だった」
なんてこと言うんだコイツ。せっかく来てもらったのに。
「お前可愛いいからって何言っても良いと思ってんのか? あんま人生舐めない方がいいぞ」
「なにお前」
「まぁまぁ、天野さん。顔が可愛いからいいじゃないですか。こんなに可愛いのに男性ってところがそそりますね」
「宮島さんがそうおっしゃるなら……この辺にしといてやる」
「……そいつ絶対ヤバい奴だから今すぐ追い出した方がいいよ」
鹿間は青ざめて少し俺たちから距離を取る。なるほど、可愛いから許してやるか。野球に戻ろう。
「──さて宮島さん、トナリマチ高校の先発、球凄速についてはいかがですか?」
「そうですね。かなり球が速いですね」
「なるほど、ありがとうございます」
「ねぇ、そいつに訊いた意味あった?」
「多分三〇〇キロくらい出てますよ」
「あー、そんなに出てますかぁ」
「出てるわけないでしょ。そいつ野球知らないんじゃないの?」
ダメだ、鹿間が失礼極まりないことしか言わない。日々子供達に野球を教えてあげている宮島さんが野球を知らないわけないだろ。
「ところで宮島さん、野球は何人でやるスポーツですか?」
「一五人ですね」
「……なるほど。ではどうやったら点が入りますか?」
「相手側のインゴールにボールを付けたらトライで五点入りますね」
「……なるほど。では好きな野球選手は誰ですか?」
「私は五郎丸の熱烈なファンでして──」
「──こいつラグビー好きかよ。おい天野こいつやっぱ野球知らないよ。もう帰らせよう」
「……さて、二回表、トナリマチ高校の攻撃に入ります」
「あ、実況に戻んなって!」
俺は鹿間を無視しながら、視線をさりげなく横山の方へと向けた。相変わらず俯きがちで、ろくに声援もあげられていないようだ。
なぁ……横山、高波はすごいな。
今の打席、すごかったな。あんな簡単にヒット打っちゃうんだもん。俺ですらちょっと憧れちゃったよ。
横山、お前はどうだ? 何を思った?
ここからじゃお前の顔はハッキリと見えないけれど、なんとなく予想が付くよ。高波、すごいもんな。お前は高波と同じようにはすごくないもんな。
なぁ横山……野球って面白いだろ? 一応団体競技だけど投手と打者の対決って側面が強いからな、結局打席では個人競技だ。
だからだろうか。──誰かと本当の意味で向き合いたいのなら、きっと野球は最も相応しい競技の一つだろう。
*
そのピースサインは誰に向けられたものだったのだろうか。方向は私の方だった気がするけれど、多分隣にいるさやランにだろう。でも、そんなこと気にならないくらいに。
──ああ、カッコいい。
助けてと言われて助っ人で出場して、そのまま先制タイムリー。漫画の主人公じゃん。チームメイトに祝福されて、門部ランも声を張り上げていて、マジで世界の中心だ。
分かりきっていることだけど、高波宙音は本当にすごいんだ。
ああ……手が震える。
「おおーすげぇ! なんか打ったよな!」
「はい、タイムリーツーベースですよ」
「なんだよそれ!」
「……はぁ、点が入ったんですよ」
「マジかよ、すげーじゃん! 宙音ーすげーぞ!」
「一回ちゃんとルール調べましょう。九回までこの調子はキツいです」
二人の会話に突っ込むことができないほど、高波宙音に目を奪われていた。私の声は彼女に届くのだろうか。私の小さくて掠れた声は高波宙音に届いてくれるのだろうか。でも数十メートル離れていて、そんな遠くに聞こえるくらいの大声を出すのは恥ずかしくて、やっぱり声援を上げることができない。
バックネット裏にいる私には、セカンドベースはとても遠い。
*
三回に一点を取られ追い付かれたけれど、四回に私はまた適時打を放って再びリード、でも続く五回にトナリマチ高校はまた一点を取り追いついて来た。スコアボードには四つの「1」が刻まれ、そしてスコアは二対二。
──六回表。トナリマチ高校の攻撃だ。
私はセンターからマウンドをじっと見つめる。ピッチャーの吸盤さんも少し疲労が見えてきているのか、肩で息をしているように見える。でも、ウチの高校は向こうと違って人がいない。ワンナウトでも吸盤さんに稼いでもらうしかない。
「はぁ……頑張らないと」
弱音は吐きたくない。でも、ついそんなことを口にしてしまう。点をとっても追いつかれ、さっきのイニングは三者凡退だった。どうしても流れが悪い。
コウコウ高校女子野球部はどうしたって弱小だ。そういうものの見方は好きではないけれど、やはり舐めてかかられるし県の強豪のトナリマチ高校からしたら負けるなんてあり得ない相手だ。その相手とせった試合をしていれば向こうもムキになってくる。そうして、相手の流れになる。
……だから、この回は何をしてでも無失点で抑えたいのだ。
この回、トナリマチ高校は二番からの攻撃だ。まず先頭が初球をライト前に運んでノーアウト一塁。そして次の打者、疲労からか制球が定まらずストレートの四球。ノーアウトランナー二塁一塁。そしてネクストバッターズサークルには……。
球場が低い声を鳴らす。間違いなく、彼女がトナリマチ高校のキーパーソン。そして、圧倒的体格から放たれるパワーある打球は県下に知れ渡っている。トナリマチ高校の四番──ハルク川さんだ。
ここまで二打席はどちらも空振り三振。彼女としてもストレスが溜まっているはずだ。バットを振るその風切り音が、あり得ないことだけれどセンターに立つ私の元へも届きそうなほどだ。
……勝負所だ。
ここでハルク川さんを三振やゲッツーに打ち取ることができれば次の打席、相当守りやすくなる。ヒットを打たれランナーを返されてしまえば、この試合初めて勝ち越されることになる。
息を吸う。そしてゆっくり吐く。大丈夫、負けない。内野に転がったボールも全て拾ってやるくらいの気持ちでその場で軽く跳ねた。
「さぁいこう!」
声を出して自分を、チームを鼓舞する。
気持ちで負けたら終わりだ。どうやっても、相手は強い。だからまずは絶対に勝つんだって、気持ちから昂らせないと。
ハルク川さんがバッターボックスに立つ。キャッチャーのサインに頷いて、ゆっくりと一球目、吸盤さんが投げる。大きく外に外れた、これはボール。二球目外角低めにストレート、いいところに決まったと思ったけれど審判の手は上がらない、これもボール。ツーボールノーストライク。
先程の打席と合わせて、これで六球連続ボールだ。良くない、やっぱり疲労は隠せない。
三球目、肩で息をする吸盤さんが投げたカーブはど真ん中へ甘く入っていく。
──いかれる。
私は考えるより先に後ろへ走っていた。デカいのが来る。なんとしても取りたい──でも、ダメだ、もう遅い。
ハルク川さんはその溢れんばかりのパワーでバットを振り抜く。初回に私が出したものよりも何倍も大きな打球音が球場全体を支配する。
白球が、空の雲よりも高く舞ったような気がした。
私がどれだけ走っても追いつけないような速度で、ボールがフェンスの奥へと吸い込まれていく。打球がゴンッと鈍い音を立ててスコアボードに激突した。
──勝ち越しの、スリーランホームランだ。
スタンドからの溢れんばかりの熱狂がフィールドに注がれる。
「くそっ……ちょっとヤバいかも」
センターのフェンスギリギリのところからではどうしたってバックネット裏の観客のことはよく見えない。でもきっとずっと応援してくれているはずだ。
まだ、終わってない。私は空を見上げる。
スコアボードには「5」という数字が、確かに刻まれていた。
*
ハッキリ言ってしまえば、試合状況は最悪だった。結局コウコウは八回までに追加点を取ることができない。
そして頼みの九回裏、三点ビハインド、八番から攻撃。先頭打者が空振り三振でワンナウト走者なし。続く吸盤もサードゴロでツーアウトに。絶望的な状況である。
「三点差か……あとアウトカウント一つ。流石に厳しくはあるな」
「ええ、次の打者は一番ですが、空音に回すのは難しそうですね。」
「ああ、でも球凄速も球数が一二〇に差し掛かろうとしている。スタミナ的にも辛くなってくるはずだ。あの速球が脅威とはいえ、力を入れすぎてコースを外すこともそれなりにある。しっかりとボールを見極めていけば、絶対に勝てない勝負でもない。チャンスで今日当たってる宙音に回せればかなり大きい」
すごい……気がつけば門部ランがめっちゃルール覚えてる。最初はキャッチャーの存在すら分かってなかったのに。まぁ隠元さやがすごい嫌そうな顔でずっと教えてたもんな。
「……あなたさっきやっと三ストライクで三振ということ理解したばかりなのによくそんな知ったようなこと言えますね」
「うるせぇ、いいだろ。やっと分かってきて楽しいんだよ」
相変わらずなさやランを含め、私たちはコウコウを応援しているけれど、球場はハッキリ言えばトナリマチが勝っただろうという空気だ。客観的に言えば私もそう思う。でも、ここには高波宙音がいる。私も違い誰にも愛されているあの子がいる。何が起きるかなんて簡単には分からない。
一宮が打席に立つ。今日は初回に四球で塁に出たきりノーヒットだ。でも、ここは何がなんでも塁に出なければいけない。ツーアウト走者なし、塁に出られなければゲームセットだ。
「いけるか?」
「いくしかないですよ」
振らないと始まらない、ツーストライクと追い込まれた一宮は、球凄速のボールに喰らいつくようにバットを振った。だが完全に振らされたバッティングで、打球は上がらず三遊間に転がっていく。
「ダメか? ……いや、深い!」
ボテボテの当たりだけど、転がるのは三遊間のちょうど間。ショートが捕球するが、かなり深い位置。走者は全力疾走している……これは間に合わない。
「よし、ショート投げられない!」
門部ランが叫ぶ。
よし、これでツーアウト一塁。
続く二番打者、初球を振らされセカンド真正面のゴロを放つ。ダメかと思ったがセカンドがこの打球を弾き、なんとか捕球して投げるも一塁かろうじてセーフ。これでツーアウト二塁一塁。
「おっ、これもしかして流れ来たんじゃないのか?」
門部ランが言う通り、流れはコウコウ側に来ているようであった。二者連続討ち取ったようなあたりでどちらもセーフ。三点差あるとはいえ得点圏にランナーを背負った形になる。球凄速もイライラしているようで続く三番打者にスリーワンから僅かに外れたボールを投げそのまま四球を与える。
ゲームセット間近のところから、なんとツーアウト満塁だ。点差はあるとはいえ、分からない展開になった。
──そしてなにより、次の打者は。
「そ、宙音! おい、これはいけるぞ!」
「確かにチャンス出てきましたね!」
ネクストバッターズサークルから、高波宙音がゆっくりと歩き出す。
球場が一気に沸く。当たり前だ。高波宙音は今日三打数三安打二打点の大活躍。まさにコウコウのキーパーソン。高波宙音の存在で、弱小の下剋上が一気に現実味を帯びる。
──本当にヒーローになれるの?
コウコウ球場にいる全ての人が高波宙音を見ている。当たり前だ。試合の山場、誰だって注目するに決まっている。でも、周りの熱に反比例するように私の感情は少しずつ冷めていった。
なんだが……取り残されたような気がする。
門部ランは叫んでいる。隠元さやですら顔を赤くして興奮を隠せていない。高波宙音はすごい人だから、みんな注目する。別に私だけじゃない、彼女に見惚れているのは私以外にもいくらでもいる。
私は数多くいるこのスタンドの人間の一人に過ぎないのだ。
別に友達ってわけじゃない。こうやって球場を熱くする高波宙音と、こんな場面ですら盛り上がることのできない私との差は大きい、対等に、友達になれるわけがない。
──本当にヒーローになってしまうの?
九回裏、ツーアウト満塁。
高波宙音がバッターボックスに立った。
*
バッターボックスに立っても、不思議と緊張はなかった。
今更緊張したってしょうがない。打てるか打てないか、結論なんてそれしかないし、ここで焦ったところで結果は変わらないのだ。
……グリップを握る手に力が籠る。ここで打てれば一気にヒーローだ。ピッチャーが投球モーションに入った。そろそろ来る。
あの日に誓った。もう誰も悲しませない。私がみんなを笑顔にしたい。あの時食べられなかったゼリーへの気持ちはいつまでも消えない。でも、それがあるから私は今日もがむしゃらに走ることができる。
球凄速さんが投げる球──やっぱりストレート。速い、でもいける、きっと打てる。目を見開く、ただ目の前のボールに神経を注ぐ。
ねぇ……あなたは今見てくれているの? だとしたらカッコいいところ見せたいよね。
──バットを振り抜く。
一瞬、世界が無音になった。そして一拍遅れて金属音と球場を燃える歓声が一気に空気を飲み込んだ。
ボールは高く打ち上がった。
*
ボールが打ち上がった時、ほんの一瞬だけ世界が無音になった気がした。私と、高波宙音と、あのボールしか世界に存在しないような気がした。
ボールは高くそして遠くに伸びる。
白球が空を駆ける。私たちはただそれを追っている。その行方に視線を奪われただ祈りを込める。
みんなそのボールがフェンスを超えることを望んだだろう。そして、サヨナラホームランにチームが、球場が歓喜に包まれる姿を皆その瞬間に想像しただろう。
でも、ボールは思いの外伸びなかった。風のせいだろうか。あるいはバットの芯を少し外していたのだろうか。分からない、ただ打球はフェンスを前に緩やかに失速した。秒速九・八平方センチメートルの力に負け、どんどん地面へと落下していく。
後一〇センチでも打球が伸びれば……そんな想像すら無慈悲だと言わんばかりに、ボールは中堅手のグローブの中に吸い込まれるように落ちていった。
──スリーアウト。試合終了。
球場がどよめく。
二対五。トナリマチ高校の勝ち、つまりコウコウ高校女子野球部は負けたのだった。
サイレンが鳴る。「悔しいけどよくやった」というようなさやランの声が聞こえてくる。でも私はそんなありきたりな言葉を吐く言葉を吐くことはできなかった。ただ、フェンス側で名残惜しそうに空を見上げる彼女を見つめる。
ここからはその表情は分からない。……ああ、どうしてだろう。
ボールがグローブに収まった瞬間、少しホッとしてしまったのだ。
*
試合終了後、さやランはそのまま球場を後にした。高波宙音に声を掛けなくてもいいのかと思ったが、別に明日学校で会えるし、試合に負けた後に何を言われても嘘くさいだろうからとのことだった。
まぁあの二人らしい。隠元さやの誰に対しても淡白な感じと、門部ランの実はちゃんと優しい感じ、なるほどあの三人はキチンと人間関係を築けているらしい。
……私はどうなのだろう。
特に何かをするあてもなく、球場の周りをぶらついていた。もしかしたら高波宙音は女子野球部の面々とすでに帰ってしまったかもしれない。でも、高波宙音を探したかった。
落ち込んでいるのだろうか。負けてしまったから女子野球部は廃部だ。やっぱり落ち込まないわけがない。でも高波宙音のことだから、それを抑えて笑顔を見せているのかもしれない。分からない。分からないのは、私が高波宙音のことを結局よく知らないということなのかもしれない。
もう帰ろう。……そう思った時だった。
高波宙音が出てくるのが目に入った。多分三〇メートルくらい離れている。私は二階入り口へと上がる階段の裏にいるから、多分向こうは私に気がついていない。
声を掛けようか……いやでも高波宙音に届くくらいの大きな声は陰キャの鑑である私には出せないし……。
悩んで、思い切って駆け出そうと足を振り出した時だった。
「──一体、どのツラ下げて声を掛けるの?」
冷たい声だった。ビクッと震えながら私は声の方を振り返る。それは、球場にいたイエローメッシュの脚出しお姉さんだった。
正面で見るととても綺麗な人だな、そう思いながら私はぼんやりと彼女の言葉に耳を傾けていた。
「彼女と自分とを比べて惨めになるあなたが……一体どんな顔して彼女を慰めるの?」
その日、私は高波宙音に声を掛けられなかった。
*
待望のシリアス展開になりそうなところで、俺が一旦オチをつけておこう。試合に負けたら廃部になるという女子野球部だが、試合を見ていた校長はトナリマチ高校相手に激戦を演じたことに感動したため、廃部は取り消しになった。な、いいオチだろ?
なお、部長はまだアメリカでゲートボールをしているようである。
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百合は触れるな、水をやれ 七草夜月 @7kusa
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