第3話 魔王クロノス
真冬だというのに、体中から汗が噴き出していた。
「伊吹、ここです」
岩肌に巨大な洞穴がぽっかりと口を開いている。その入口から漏れ出す風は、鋭利な刃物で刺すように冷たい。ゴツゴツとした岩肌はどこか幾何学的で異様さを醸し出している。
グルルル……ゴゥ……キィィィ……。
洞窟から漏れ聞こえる異様な音は、断続的に響き渡っていた。
それは、この世に存在してはならない魔物の咆哮。
危険だ、と本能が訴える。
しかし、恐怖は微塵もない。
「シャドウ・ホークは、確かにこの中に入って行きました」
「ああ」
この中に、瑠香がいる。
「ステイタスウィンドウ」
アリアはそう詠唱して、宙を睨みつける。
「やはり、深層部は魔王城」
「え?」
「ここは、深層部がステイタスウィンドウに映らないのです」
「それはどういう……?」
「強い魔力で結界が張られているという事だと、今気付きました」
アリアの声はいつになく低く、震えている。それは恐れではなく、魔王の圧倒的な存在感に対する本能的な反応だった。
「クソ! やっぱりここにいるのか。クロノス……!」
「しかし、どうして瑠香ちゃんをさらったのでしょうか?」
「わからない。わからないから行くしかない! ブレイブソーーーーード!!!」
気合を入れるかのように聖剣を手繰り寄せ、握りしめた。
瑠香はどれだけの恐怖に襲われているだろうか。
どれだけ心細いだろうか。
泣いてはいないだろうか。
そんな事を思うと、胸が張り裂けそうになる。
「瑠香ーーーーー!! 必ず助けるからな!」
「私も一緒に」
「いや、アリアは外を見張っててくれ。このダンジョンはすでにブレイクしている。モンスターが外に出る可能性もある。これ以上、被害を増やしたくない」
「でも、伊吹……」
「俺は大丈夫! この中にどんなモンスターが待ち構えてるのかも履修済みだ。ドラゴンまでは余裕。問題はクロノス一匹だけだ。クロノスを取り逃がしてしまったのは俺だからな。俺がこの手で決着をつける」
「わかりました。伊吹……くれぐれも無事で! 必ず無事で戻って……」
アリアは涙ぐんだ。
「わかった。もしかしたら、俺が内部で暴れる事によってモンスターが出て来る可能性がある。協会に連絡して、警備の強化をお願いしてくれ」
「わかりました」
「使える冒険者たちにも、援助要請をお願いしてくれ」
「わかりました」
「行って来る」
俺を待ち構える闇の口へと、飛び込んだ。
・・・・
Side—魔王クロノス
黒く淀んだ空気が支配する広間。
そこに漂うのは不吉な静寂と、床を這うように蠢く漆黒の霧。
闇を切り裂く音とともに、巨大なシャドウ・ホークがその翼を広げ、鋭い爪で掴んだ少女を宙に放った。
引力に逆らうように浮遊しながらゆっくりと地に降りる幼女。
まるで壊れた人形のように動かない。その幼い体が床に触れると、霧が一瞬たじろぐかのように揺らめき、広間全体の重苦しい気配がさらに濃くなった。
その濃霧の中心に立つ影。
漆黒のスーツにネクタイ。銀縁のメガネの奥で細めた目をギラリと光らせた。
魔王クロノス。
彼の姿は、伊吹と瑠香の父、そのものだった。
しかし、かつて家族の中心だったその温かい眼差しは、今や冷酷な光を宿し、顔には得体の知れない威圧感が漂っている。
礼服をまとったその姿は異様なほど整然としており、人間の範疇を逸脱した存在感を放っている。
「……まだ、生きているんだろうな?」
クロノスは瑠香を見下ろし、低い声で呟いた。
シャドウ・ホークは鋭い鳴き声を上げ、クロノスの言葉に首肯した。
父――クロノスの右上には、禍々しい闇の塊が浮かんでいる。
「血を分けた子……。魔王様、いよいよ覚醒の時です」
闇の塊は冷静沈着な声でそう言った。
直径50センチほど。
名をウィスプ・アークという。
戦略参謀であり、魔王の右腕である。
クロノスの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
その時だ。
「ととーー……」
僅かに意識を取り戻した瑠香が、朦朧とした視線を父に、否、クロノスに向けた。
「とりあえず、殺しておくか」
クロノスは瑠香の頭部目がけて指先を向けた。
「魔王様、お言葉ですが勇者の弱点でもあるこの幼女を、今殺してしまうのはもったいない」
ウィスプ・アークは禍々しい光を放ちながら、そう提言した。
「なるほど。それもそうだ」
クロノスはゆっくりと床に片膝をつき、瑠香の小さな顔を指でなぞる。そこに慈悲は一切なかった。
「私は闘うべき相手がいなければ、ただの器だ。この力を完全に解き放つには、敵が必要だ。そう――『勇者』が」
瑠香はその言葉の意味を理解していない。
虚ろな目に映るのは、絶対的な信頼を寄せている父なのだから。
天井近くの影が渦を巻き始め、紫色の稲妻がその中心で踊る。
「そして今、私はようやくその条件を得た。伊吹――お前が勇者となり、私に挑む存在となったのだ。」
クロノスの瞳が燃えるように輝く。
魔王が世界を支配しうるに相当する力を覚醒するには、圧倒的な存在が必要であった。
いわゆるパズルのピース。
この世に誕生した絶対的力を持つ勇者こそ、最後のパズルのピースとなる。
しかし、覚醒にはもう一つ必要な要素がある。血を分けた者を、この手で葬ることだ。
瑠香を殺し、次は伊吹を――。
血を分けた子を絶つことで、魔王として完全に目覚める。それが魔王の宿命。
そして、この世界を闇に染める真の力を得るのだ。
クロノスはシャドウ・ホークに命じるように目をやる。
「瑠香を祭壇へ運べ」
シャドウ・ホークは律儀に礼をした後、翼を広げた。
木の枝のような爪で、瑠香を再び掴み上げると、羽ばたきながら闇の霧に吸い込まれた。
「さあ、目覚めの時だ。勇者よ、立ち上がるがいい。あーっはっはっはっはっはっはっは……」
クロノスの高笑いが闇に反響する。
覚醒の時はもはや、魔王の手中であった。
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