第二章 フラグクラッシュ

第1話 テイムポーション

 教室に戻ると、生徒たちの騒がしい声が耳を突いた。何やら盛り上がっているようだ。机や椅子が床に擦れる音に混じり、教室全体がひそひそざわざわと波打っている。

 その視線の先には、俺の隣の席。安藤浮羽がいる。

 浮羽が座っている椅子の隣には、ぴったり体を寄せている北条の姿があった。

 浮羽の髪を耳にかけ、そこに口を寄せる北条。

 そんな北条の口元に、自ら頬を寄せる浮羽。

 つまり、人目も憚らずいちゃついている。


 浮羽と隣同士の席になった時は、こんなラッキーが俺にも訪れるのか、なんてこれまでの不運な人生をリベンジしたかのような気持ちになったが、こうなったら地獄だな。

 やはり俺はとことんついてない。

 無理に目を反らしながら席についたが、二人の会話はイヤでも耳に入って来る。


「昨日は楽しかったね。君があんなに大胆だとは思わなかったよ」

 それに対して、浮羽は何も答えない。

 ただ、虚ろな目で脱力した体を北条に預けている様子。

 北条の唇は、浮羽の耳元に接触し、手はスカートの中に侵入する。


 ――やめろ!  


 心の中で叫んでも、届くはずもない。こんな時に呪符さえ発動しない。ここで光れば間違いなく、この二人の恋愛フラグをぶっ壊してやれるって言うのに。

 浮羽は僅かに口角を上げて、少し足を開いた。

 あんな浮羽を見たのは初めてだ。

 彼女は名前の通り、どこかふわふわとしていて、危なっかしくて目を離せないタイプだった。

 そういう所が男の庇護欲をそそり、誰もが浮羽を自分の物にしたがったのだ。高値の花というよりは、隙だらけでチョロそう。自分でも手が届きそうと男たちはみな勘違いしてしまう。

 しかし、浮羽はそう簡単じゃなかった。誰のものにもならなかったのだ。

『好きな人がいるの』

 という一言で、群がる男たちを袖にしていた。

 その好きな人とやらが、俺だったわけなんだけど。


 今、彼女の心にはもう、俺はいない。


「伊吹」

 心配そうなアリアの声が、少しだけ俺を現実逃避させる。

 さっきの悪態を、アリアは心配しているのだ。

 あれ以上に心を抉られる状況が、今目の前で起きている。

 先ほどのモヤモヤなど、取るに足らない幼稚な自己憐憫にすぎない。

 アリアの視線は浮羽たちと、俺を行き来している。

 そっと俺に耳を寄せて、こう言った。


「彼女はテイムポーションを飲まされているかもしれません」


「テイムポーション?」


「繁殖期のゴブリンの肝臓から抽出したポーションで、Cランク以下のモンスターなら弱体化させる効果があります。それを薄めて人間が摂取すると、媚薬になるのです」


「え? じゃあ、浮羽は……」


「冒険者協会で密かに出回っているので、北条さんが持っていたとしても不自然ではありません」


 ガタっと椅子を引き、俺は立ち上がった。

 浮羽はこいつに操られているんだ。汚いやつめ!

「貴様ー」

 俺は咄嗟に北条の胸倉を掴んで、拳を振り上げた。

「うっ」

 が、しかし――

 振り下ろせない。

 俺の手は背後からアリアに掴まれていた。


「なんだ、矢羽。やんのか?」

 北条が俺に胸倉を掴まれたまま立ち上がる。やれるもんならやってみろといった様相だ。

「適正なしの無能が、俺に逆らえるのか?」

 にへらと笑って俺を見下す北条。

 今ここで、こいつをぶっ飛ばすのは容易い。

 しかし――。

「矢羽ー、やめとけよ。返り討ちにあって痛い目見るだけだぞ」

 どこからともなくそんな声が飛んでくる。

「そうよそうよ、北条君に敵うはずないわ」

「おいおい、Sランクの冒険者に対して失礼な態度取るなよ」

 まるで全世界が北条の肩を持っているように思えて来る。

「やるならやれよ。やらないなら俺がお前をひねりつぶしてやろうか? あぁ~ん?」

 北条が憎たらしく顔を近づける。

 我慢の限界だ。

 俺はこいつをぶっ飛ばす!

 そう思った瞬間、アリアが毅然と北条の前に立ちはだかった。


「冒険者が一般市民と暴力沙汰を起こせば、その資格は剥奪されます。高校生であっても例外ではありません」

 アリアはリーンと鈴を打ったようは声で、北条にそう言い放った。

 北条は不満げに顔を歪めて、胸倉から俺の拳を振り払う。

 そんな喧騒に、浮羽は我関せずといった様子で、座ったまま虚ろな目を泳がせている。


「浮羽。矢羽に言ってやれ。俺とのセックスはどうだったか、教えてやれよ」

 クラス中に聴こえる声で、北条がそう言うと、浮羽はふらりと立ち上る。北条の肩にもたれかかり

「とっても……幸せな時間でした。北条君に抱かれて……浮羽はとっても、幸せでした」

 僅かに機能している呂律で、幸せでしたと何度も繰り返した。


 その瞬間、浮羽との3ヶ月間が走馬灯のように脳内に蘇り、灰となった。

 ざらざらと崩れ落ちて、腹の底から虚無感が沸き上がる。

 この現実から俺は3年間、異世界で目を背けてきただけだったんだ。

 向き合うのが怖かったのだ。

 たった3年では、全然薄れても癒えてもなく、全然どうでもよくもなかった。


 机の上に放り投げていたバッグを取った。

 そのまま迷いなく教室の扉へ向かう。


「伊吹!」

 アリアが追いかけてきたが、俺は振り向かなかった。

 逃げるようにしてその場を去った。



 家に帰り着くと、ちょうど、母が出かける所だった。

「あら、伊吹。もう帰って来たの?」

 時刻は11時を回ったところ。

 途中、公園をうろついたりしてみたが、どのシーンにも浮羽の思い出が散在していて壊れそうで、早めに帰って来た。

「あ、うん」

 胡麻化すように曖昧に頷いて、玄関をくぐった。

 そう言えば、召喚前に俺が知っていた母とは、少しどこかが違う気がする。

 父が亡くなってからの母は、いつも暗くて無理に笑っていて、苦しそうだった。

 しかし、今の母は堂々と背筋を伸ばして、太陽のように笑っている。

 苦労なんて知らないかのように肌はつやつやしていて、幸せそうだ。

 色々と問題はあるが、俺んちに限ってはこの状況は、好都合だったと言わざるを得ない。


「ちょうどよかったわ。伊吹、瑠香を保育園にお迎えに行ってほしいの」

「え? なんで俺が?」

「お母さん、町内会の役員だから、パレードの手伝いがあるのよ。テーブルにお金を置いてるから、パレードの会場で焼き鳥でも、クレープでも、好きな物を買って二人で食べて。屋台がたくさん出るわよ。お母さんは焼きそばコーナーにいるから」

「ああ、俺、パレード行かないけど」

「え? そう」

 母は不思議そうに、ぽかんと俺の顔を見た。

「瑠香の迎えなら行くよ。そのお金で昼飯買って食べさせればいいんだろ?」

「まぁ、そうしてくれると助かるわ」

「わかった」



 瑠香のお迎えは、嫌じゃない。

 むしろ、俺にとったら至福の時間と言っていい。

「あら、今日はお兄ちゃんのお迎え? 瑠香ちゃーん、お兄ちゃん来たわよ」

 先生に呼ばれて、遊んでいたおもちゃをほっぽって、瑠香が俺に飛びついてくる。

 この時ばかりは、ぎゅーと首元に抱き着いて、子供っぽさが全開になる。

「あれ? キモいって言わないの?」

 そう言って揶揄うと、恥ずかしそうに胸元に額を埋めた。

 そんな瑠香をここぞとばかりに抱きしめて、自分のものにする。

 柔らかい髪。むにむにのほっぺ。小さく不器用な手。

 何もかもが俺の胸の奥をくすぐった。


「よし、帰ろうか」

 先生に渡された荷物を持って、瑠香と手を繋いで園を後にする。


「おにぃ、今日はパレードかしら?」

 疑問形だが、これは、『今日はパレードよ!』 という確定事項だ。


「今日は、おにぃと、ガストン行くぞ。ガストンで瑠香の大好きなチーズハンバーグを食べよう」


「瑠香は、パレードでパンケーキが食べたいのかしら」


「パンケーキなんてないだろ」


「じゃあ、焼き鳥にしようかしら」


「パレードは行かない。ガストンでハンバーグにする」


「どうして?」


「どうしてもだ」


「イヤ!!!!!」


 瑠香は俺の手を振り払って、片足を上げ、バンっと地面に叩きつけた。


「かか(お母さん)がおにぃとパレード行きなさいって言ったーーー!!!」

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