第十八話 死に場所があれば、悪くはなかった


 ——ディミトリは勝利を確信していた。


(避ける技術は素晴らしいが……いつまでも保つものでもあるまい)


 戦いとは、いかに相手より先に致命傷を与えるかだ。

 自分の腕が吹っ飛ばされたとしても、相手の首を捻じ切れればそれでいいのだ。

 先に致命傷を与えた方が勝つ。

 逆に考えると、自分が致命傷を負わなければ、敗北はぐっと遠くなる。

 その点、『東洋の死神』はディミトリが知る誰よりも優れていた。

 これで決まる、と思った一手が決まらない。木の葉が差し出した手のひらをひらりと避けるように、のらりくらりと回避されてしまう。

 神がかった対応能力だと、喝采してもいいくらいだ。


 だが、それだけだ。

 ディミトリの【硬質化】は対物ライフルすら跳ね返し、異形の一撃すらも無効化する絶対の鎧。

 『東洋の死神』にこれを突破できる手段はない。

 更に向こうは、ディミトリでも外すのに苦難しそうな拘束具を強引に破壊した影響で、左手が使えない。

 両の指からは常に血が滴っており、もはや感覚も消失しているのではないかと思うほど。

 先程の戦闘によって右の手のひらも銃弾で貫かれ、今や物を握るのも怪しいだろう。

 つまりディミトリは、相手の消耗を待つだけでいい。

 そうすれば遠くない未来、向こうに限界が来るのだから。


 卑怯? いいや、そんなことはない。

 必要なのは勝利のみで、その過程など些細なものだ。

 敗北した死人が卑怯だ姑息だと喚き立てるわけもなく、第三者がそれを論ずる資格もない。


(まぁ……ナギヤ・キサラギはそんなことを思う性格でもないだろうが)

 

 『東洋の死神』と殺り合えることはディミトリを高揚させたが、それはそれ。

 仕事で必要なのは結果だ。個人的感情など、丸めてゴミ箱に捨てる程度のものでしかない。

 自身を鼓舞することも闘争心に身を任せることもせず、淡々と対象を殺すためのプロセスを実行する。

 それはある意味では如月凪也と似ていて、ある意味では決定的に違っていた。


「……ッ!」


 ディミトリのフックに、如月凪也は大袈裟に下がる。

 床に落ちているサバイバルナイフを拾おうとしているが——十メートルもない距離など、リベレーターにとっては一瞬で詰められる。

 接近してワンツー、と見せかけてミドルキック。


 如月凪也のしゃがんだ頭に、ディミトリの大鎌のような一撃が迫る。

 初めて使った足技に、彼はしかし反応してみせた。

 足の軌道にナイフの刃が乗せられる。

 蹴りの威力が高いほどに、ナイフの刃が足に食い込む逆転の一手。


 ——だが、【硬質化】させた足の前ではあまりにも無力だ。


 ナイフごと、蹴り砕く。


「がッ……!」


 如月凪也は吹っ飛んだ。

 バウンドしながら床を転がり、彼が殺した男の死体にぶつかって止まる。


「…………、」


 しかし、ディミトリに殺した感触はなかった。

 頭蓋ではない別のものを砕いた感触が残っていた。


(あの一瞬で左腕を差し込んだのか!)


 確かに、左手は彼自身で砕いていたが、左腕は動かせるはず。

 とはいえあの刹那でクッション代わりに利用してのけるとは。

 正しく神速の反応と言っていい。


 それでも、だ。

 直撃すれば異形の肉体すら爆散させるディミトリの蹴りを受けたのだ。

 こと生存能力において随一の性能を誇る【硬質化】だが、当然攻撃にも使える。

 生身の拳と、鋼鉄の塊では、どちらの威力が高いかは歴然。例え異能力で肉体を強化していたとしても、凄まじい衝撃に脳がシェイクされて意識は簡単に吹っ飛ぶだろう。


 そう。


 意識なんて簡単に吹っ飛ぶはず、なのだ。


 だが。


 それでも。


 如月凪也は————


 ————立ち上がる。


「…………信じられない」


 ディミトリの戦慄を含んだ呟きは、耳に入らなかったらしい。

 如月凪也はいつの間にか拾っていた警棒を右手に持って、無言で構える。逆手持ちなのは、彼の癖だろうか。

 既に満身創痍だ。返り血もあるだろうが全身が血に塗れ、左腕は明らかに変な方向へ折れ曲がり、皮膚を突き破って骨が出ている。


 それでも、藍色の瞳には強い光があった。静かで、決して波立つことのない水面のような。

 どこか無機質でありながら、決然としたものが宿る深い瞳。


 表情は苦痛に歪むことすらなく。

 死にかけとは思えない……いや、むしろ死人がするような全ての筋肉が抜け落ちた表情。

 戦いが始まった時からずっと、この男はそんな顔をしていた。


「…………っ」


 圧倒的有利であるはずのディミトリをして、思わず唾を飲み込んでしまう何かがそこにはあった。


 なるほど、と幾つもの激戦区を生き抜いた黒人の傭兵は思う。

 これが、『東洋の死神』か。

 話だけで聞いていたものが、腑に落ちた。言語化できない納得がそこにはあった。


「もはや限界だろう。諦めたらどうだ?」


「……このくらいは、慣れたもんさ」


 その言葉で、ディミトリは如月凪也の辿ってきた地獄の半生の断片を垣間見た。

 全身に血を滴らせて、指は筋肉の繊維すら見えて、左腕は骨が皮膚を突き破っている。常人なら気が狂いかねない重傷でも、苦悶の声一つ上げずにそんなことを言ってのける人生は、どれほどのものだったのだろうか。


「…………死にたくないから、などとは言わないだろう」


「死に場所があれば、悪くはなかった」


 如月凪也はそれだけ答えた。

 ディミトリは深く頷く。


「そうだな」


 ——どうして、そこまでするのか。

 そんな言外の問いへの答えだ。

 種類は違えど地獄を潜り抜けてきた共感がそこにはあった。


 ディミトリにとって、生はもはや惰性だ。

 隊の仲間は死んだ。その中にいた、愛する人諸共。

 死んだ原因は異形で、だけどそもそもは自分たちを肉壁扱いした人間の傲慢で。

 ひとしきり暴れた後は、何もかもどうでもよくなった。

 生にしがみつくほどの未練はないが、自分で死ぬのは面倒だ。でも木端に殺されるのは納得いかない。

 だから、死に場所を求めた。

 闘争の果てに、『これなら仕方ない』と諦められる死地を求めた。

 それは、日本に来た今でも変わらない。

 ぬるま湯のような平和に、むしろその欲求は強くなるばかりだった。


「『東洋の死神』になら、殺されてもいいと思った」


 ディミトリの本音だった。

 だが、『東洋の死神』を殺すことにもディミトリは手を抜くつもりはなかった。

 もし殺せたのなら、また死に場所を求めて惰性で生きる日々が続くだけ。

 それだけの話。


 きっと、如月凪也にとっても同じはずだった。

 死ぬために生きていた。それで良かったと思っていた。


「少し前の俺なら、似たようなことを考えてたかもしれないな。だけど今は違う」


 だけど死にかけの少年は、それは過去の話であったと否定する。


「悪いが、俺はあんたに殺されてもいいとは微塵も思ってねえよ」


「……彼女か」


「ああ」


 未だ律儀に目を閉じて耳を塞いでいる少女へと、如月凪也は一瞬だけ視線を移す。

 その瞬間だけ、年相応の少年のような柔らかさがあった。

 数秒、ディミトリが戦いを忘れてぽかんとしてしまうほどに、その一瞬の変化は大きかった。


「君は、そんな顔もするんだな」


「あ? どんな顔だよ」


「……いや、なんでもない」


 ディミトリは拳を構えた。

 いつまでも、無駄話をするわけにはいかない。

 消耗戦を仕掛ければ勝てると思っていたが、この男は飢えれば飢えるほどの獰猛さを増す餓狼のように、死にかけであればあるほどパフォーマスが上がる類のようだった。

 確信があった。


 守りたい女がいるだけで、男という生き物は無限に強くなれるのだから。

 かつてのディミトリがそうであったように。


「そろそろ、終わりにしようか」


「そうだな」


 短くディミトリが告げれば、如月凪也が応じ。

 これ以上の言葉は蛇足だった。


「ッ!」


「……!」


 何度目かの接近。先手はディミトリ。

 今度は軌道を変えた左のアッパー。戦いの師に『時代が違えばボクシング世界チャンピオンも狙えた』と言わしめた、瞬きよりも早いはずのそれ。


 しかし。


 空振った。


「!?」


 僅かに首を傾けただけ。如月凪也は完璧に拳の軌道を見切っていた。

 今までとは違う、最小限の回避。


(読まれた……? いや違う、これはそんなものじゃない…………!!)


 され始めている。

 一手ごとへの対処ではない。ディミトリ自身の癖や傾向を掴まれている。


 じゃんけんに例えると、ギリギリまで相手の手や筋肉を見て次の手を読むのではなく、相手が次何を出すかを手を出す前に理解する行為。

 それの行き着く先は、フェイントやズルすらも通じない、相手の次の行動を知った上で自身の手を選択できる、完全な後出しじゃんけんだ。


 要するに。


 時間をかけるほどに、ディミトリの手は通じなくなっていく。いずれは全てを攻略され、完全に無力化される。

 ディミトリとて、似たようなことはしていた。

 しかし——如月凪也のそれは、速度と精度があまりにも段違いだった。

 ぞわりとディミトリの背筋が粟立つ。


(なんとしても、ここで殺す……!)


 今まで隠していた、最高速の右ストレート。

 最短最速の拳。今までの回避のタイミングでは、ワンテンポ絶対に間に合わずに直撃する必勝の一発。



 初めて見るはずのそれに、如月凪也が呟いた。

 言葉の前に彼は身体を僅かにずらしていた。それだけでディミトリの必殺だったはずの拳は空を切る。


「!?」


 拳を引き戻すよりも早く。ディミトリが次手を打つよりも速く。

 左目に何かが飛んできた。


「ぐ、ぅッ!!」


 当たる。ディミトリは仰け反る。

 直前で見えたものは、血で汚れたボタンだった。


(指で弾いた!? だがこの程度では————)


 上向かされた視界に、警棒が見えた。

 如月凪也が振り上げていた。

 それは既に空気を裂いて、ディミトリの脳天へと振り下ろされている。


「……!」


 当たればその先は死。

 目前に迫るそれに——ディミトリは臆しない。

 意志が現実に追いつけば、異能の発動は思いのままなのだから。


(【硬質化】!)


 死地を乗り越えた経験が、ディミトリの【硬質化】を間に合わせる。

 それだけではない。

 如月凪也のカウンターに、更なるカウンターを合わせに身体は動く。

 選んだのは——首への掴み。

 首を骨ごと握り潰す。確殺の一撃。


「……!」


「ッ!」


 如月凪也の振り下ろした警棒は、【硬質化】によって無双の防御を得たディミトリの頭に砕かれ、破片を撒き散らす。

 それらが宙に落ちるよりも先に——ディミトリの黒い右手が、如月凪也の首を掴んだ。


 そして。


 両者の時が、一瞬だけ止まったように静止して。


「ご、ぼ……ぁ」


 口から血が混じった泡を吐いたのは、ディミトリだった。

 彼の胸には、心臓を貫くように折れた警棒が刺さっていた。





 今すぐにぶっ倒れて意識を吹っ飛ばしたい気分だった。

 痛みはもうあまり感じていない。ただひたすらに眠い。ニコチンよりも睡眠が欲しいなんて、日本こっちに来て初めてである。

 とはいえ、安易にそうするわけにもいかない。天上さんが待っている。

 だが…………まぁ、その前に死に行く奴を見送るくらいは、してやるか。


「……いつから…………気づいていた?」


 掠れた声で聞いてきたディミトリ。


 俺の首はまだ掴まれたままだが、既に力は抜けている。

 心臓を折れた警棒でぶち抜いたのだから、意識があるだけでも驚きに値する。


 思うに、奴の身体を硬質化させる固有能力オリジン——端的に【硬質化】は、欠点が二つあった。


「違和感は最初からあったさ。ってな」


 口の端から血を垂れ流しながら、その通りだと言いたげにディミトリは笑った。


 一対一で俺と戦いたいから、なんて理由ではないだろう。

 俺に殺されるならそれでも良かった、と口では言いつつ、ディミトリの戦い方は冷静かつ堅実だった。

 軍人の戦い方、と言えばいいのだろうか。勝利するまでの道筋を描き、卑怯だろうが姑息だろうが必要ならばそれを忠実に実行する一人の戦士。

 そんな手合いが、私情を優先するはずもない。

 となれば、仲間が全員死んでから戦う方が勝てる見込みが大きかったから、と考えるのが妥当だ。

 では、なぜそう考えたか。


「危惧したんだろ。固有能力オリジンの欠点が仲間のせいでバレるかもしれないって」


「…………彼らは未熟だった。それだけで君には見抜かれるだろうと思った」


 それが理由だった。

 全身を常に固有能力オリジンで固められるなら、乱戦に乗じて俺を殺しに来れば良かったのだから。


 そして、固有能力オリジン——というより異能力は全て、自分の意思が源泉となる。

 異能の元となる、マナと呼ばれる『未知のエネルギー』とやらは、感情や意思に反応するらしい。

 んで、感情とか意思ってのは当然ながら意識外のものには働かないわけで。


 何が言いたいかと言えば、自動で発動する固有能力オリジンは存在しないということ。

 要は、攻撃に反応して自動で【硬質化】が発動するってのはあり得ないのだ。

 これが欠点の一つ目。異能そのものの制約ではあるが、『認識外の攻撃は防げない』ということ。


 もちろん、ディミトリが例外の可能性もゼロではない。

 だがそれは、仲間が全員死んだ後に戦い始めた事実から否定した。


 そしてもう一つ。

 これはあくまで俺の勘なのだが、


固有能力オリジンで硬くした部位は、動かせなくなるのか?」


 どちらかと言えば、ディミトリが隠したかったのはこちらだろう。


「……あぁ」


「全身を硬くすることもできるが、そうすると動けなくなるってことか」


「この短時間で……そこまで見抜かれる、とはね…………」


 それがこの固有能力オリジンの最大の欠点だった。

 動けなくなるということは、背後が見えなくなるということ。

 全身を【硬質化】させてしまうと、背後に回られるだけで詰みだ。

 だから使えなかった。


 警棒を【硬質化】させた部位に叩いて折り、それを認識外の急所にブッ刺す。

 ディミトリの固有能力オリジンを見て、奴の股下を通った時くらいには描き始めていた勝ち筋。

 雑に言えば、【硬質化】の絶対防御を利用した不意打ちだ。


 しかし、全身を【硬質化】させられた場合の対処が思い付かず、実行に踏み切れなかった。

 戦っている内にこの欠点の可能性に思い至って、決意したのだ。


「……なぜ、気づいた?」


「もし全身を【硬質化】しても動けるなら、最も強い戦い方はレスリングや柔道のような組み付きだろう? インファイトに固執する理由があるとしたらこれかなってくらいの勘だよ」


 とはいえ、本人のスタイルと言われればそれまでだった。

 だから勘の域を出なかったのだ。


「まぁ、タックル系も一切使ってこなかったからな。それで多少の自信が持てたか」


「…………はは。流石、だ」


 俺の首を掴んでいた手が離れる。とうに力は入っていなくて、それを支えに立っていたらしい。

 くたびれた老人のような仕草で、ディミトリは壁を背に座った。


 貫通した警棒から滝のように流れていた血は、既に細くなっていた。


「……、」


 ディミトリが座った壁の近くに、黒い袋を見つける。

 車に乗せられた時、没収された俺の私物だ。

 これ幸いとタバコを取り出し、火を点ける。


 強めに吸って、肺へと煙を叩き込む。

 いつもよりも喉にグッとくる感覚。ニコチンが何よりも沁みた。


「……一本、もらえるか?」


「仕方ねえな」


 辞世の一服とあらば、寛容にもなるというものだ。

 腕をあげる気力も残ってなさそうだったので、咥えさせて火を点けてやる。

 着火したタバコの、ほんの僅か先が灯った。


「…………美味いな」


 既にか細い声で、ディミトリは呟いた。


「だろう?」


「……ああ。とても……良い。君には、届かなかったが……」


「…………、」


「死に場所と、しては…………最上、だ」


「そうか」


「…………イーシャ……今、から…………お前の————」


 ぽろり、とディミトリの口からタバコがこぼれる。

 彼自身の作った血だまりに落ちた。


 最期に呼んでいたのは、きっと大切な人だったのだろう。

 どうか安らかに。


「向こうで、会えるといいな」


 煙を吐き出しながら、そう呟いて。

 俺は首を撫でる。

 触ってわかるほどに、はっきりと手形が残っていた。


「……ほとんど届いてたっつの。ほんの一瞬お前が早ければ死んでたのはこっちだ」


 ディミトリの口が緩んだように見えたのは、気のせいか。

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