第十六話 そうさ。知らなかったのか?
ディミトリ・クルツィオは壁にもたれかかったまま、目を閉じていた。
アジア西部から日本に流れ着いた、元軍人である。
彼は黒人で、特に差別が厳しい地域の生まれだった。
ディミトリに選択権はなく、軍人とは言うものの実情は体のいい肉壁。
それでも何とか生き残った。だが自分以外の部隊が全滅し、各地でその日暮らしの稼ぎを続けていたところを日本のとある企業に拾われた。
鍛え上げられた山のような巨体。タンクトップがはち切れそうなほど筋肉が盛り上がっている。
岩から削り出したような素肌には無数の傷があり、特に額から頬にかけて巨大な爪で引っ掻かれたような傷跡が目立つ。
明らかに浮いているその威容に、額から絶えず汗を流しながらもスーツの男が話しかけた。
「ディミトリ様、仲間が標的を確保したようです」
「ナギヤ・キサラギか」
「はい。ですが、その……」
何かを言い淀む様子に、ディミトリは嘆息した。
はっきり言えばいいものを。日本人は遠回しに伝えようとすることが多すぎる。
自分の姿に大袈裟なほど萎縮する様子も、ディミトリを苛立たせた。
「手は出さない。オオトリからの依頼だから。ワタシは必要な時に動く」
「ええ。それで、はい。お願いします」
「『東洋の死神』が素直に言うことを聞くとは思えないがね」
「は、え……? 『東洋の死神』とは?」
「知らないのか。確かニホンだと……トウヨウのシニガミ、だったか」
「いえ、聞いたことは……」
その部分だけ母国語だったからか、とディミトリは思ったが、目の前の日本人は本当に知らない様子だった。
ひょっとしたら彼は、日本よりアジア西部の方が有名なのかもしれない。少しだけ不憫に思った。
とはいえ、この男に教える必要も特に感じなかった。
何かを聞きたそうな素振りを無視して、部屋の中央へと歩く。
そこには、椅子に縛られた、彼らが言うには『ジッケンタイ』の少女がいる。
「お嬢さん」
声をかけても、反応はない。ずっと虚ろな目をしたまま下を向いている。
ディミトリは無視して続ける。
「お嬢さんがナギヤ・キサラギのガールフレンドかい?」
少女はぴくりと肩を震わせた。
顔を上げ、こちらに目を向ける。
その瞳の闇の深さに、ディミトリは一瞬だけ息を呑んだ。
まともな人間のする瞳ではない。
かつての仲間を思い出す。自分と同じような境遇にいた一人もこんな瞳をしていた。
そいつは武器も持たないまま異形にふらりと突っ込んで、死んだ。最期の瞬間、やっと解放されると言いたげに唇だけは笑っていたのを覚えている。
(ニホンに憧れた仲間も多かったが……やはり、どこも同じか)
思うところも、同情心もあったが、仕事に手を抜くつもりはない。
少女はゆっくりと口を開いた。
「…………如月くんを、知っているの?」
「名前だけ。彼は有名なリベレーターだよ」
「……リベレーター?」
「おお、すまない。ニホンだと……確か、イノウシャか? バケモノも似た意味と聞いたが」
「…………如月くんが」
少女は驚いた様子だった。
知らなかったのだろう。
「そしてワタシは、もしもの時に彼を殺すために派遣された」
「…………ッ!?」
少女を拘束するバンドが、大きく揺れた。
パイプ椅子がけたたましい音を立てる。
部屋にいる人間が一斉にこちらを見たが、ディミトリは気にするなと言いたげに手を振る。
「こっちにいる彼が、どれだけ暴れているかを知りたかったのだが……お嬢さんは、何も知らなそうだ。時間を取らせたね」
「……どうして、如月くんを……!!」
「詳しいことは他の人に聞いてくれ。ワタシは仕事だからね」
とはいえ、とディミトリは獰猛に笑う。
「彼ほどの男と戦えるかもしれないことが、とても楽しみなんだ」
「……やめて。如月くんを傷つけないで……!」
「彼がそれを望んでいたとしてもかい?」
「……どういう、こと?」
「死ぬために生きるということさ。死にたがりのお嬢さん」
「……ッ」
こんな瞳をしているのだ。心当たりがあるに違いなかった。
ただ、もう少女への興味は失せていた。ディミトリは背中を向ける。
——しかし、ナギヤ・キサラギが日本にいるとは。
いつの間にか彼の話を耳にしなくなったから、とうに死んだと思っていた。
破格の報酬に釣られて日本に来たが……まさかこんな、ぬるま湯のような国にいるとは予想外である。
名前からして日本に関係していることには察しがついていたものの。
話の種として適当に知っている名前を出してみれば、今回のターゲットと判明したのである。この時ばかりは、神を信じないディミトリをして超常の導きを感じたものだ。
伝え聞く彼の伝説は数多く、畏怖と恐怖を以て語られる若き死神。
そんな存在と、これから自分は殺し合うのだ。
願わくば、このあくびが出るほどの平和で彼が錆びていないように。
「頼むからがっかりさせないでくれ。『東洋の死神』」
自分と、これから来る男しか知らないであろう言語で、ディミトリはそう呟いた。
*
車に揺られて三十分ほどで、目的地に到着したらしく車が止まる。
発進してすぐに目隠しを付けられたから、ここがどの辺りなのか検討もつかなかった。
「降りろ」
言われるがままに降りると、膝のあたりを強く何かに押された。
たまらずその場に落ちるようにバランスを崩すと、尻が椅子のようなものに乗っかる。
どうやら俺は、車椅子に乗せられたらしい。
一言くらい言えよな。気の使えない奴らだ。
そのまま流れるように、前腕と膝下を車椅子に拘束される。
ひやりとした金属製の感触。かなり手が込んでいた。
車椅子を押されて、しばらく進む。
途中から建物に入ったのか、ドアの開閉音が何度か聞こえる。
「随分と長いな。地獄にでも連れて行ってるのか?」
「……精々囀るといい。すぐにそれもできなくしてやる」
食いしばった歯の隙間から出たような声が後ろから聞こえた。
よっぽど俺に恨みがあるらしい。この前の襲撃犯の同僚とかだろうか?
車椅子が止まった。
もう必要ないと思われたのか、目隠しを強引に外される。
かなり乱暴な手つきだったから、こめかみが爪に削られる。血が滲む感触。
ようやく戻った視界に広がったのは、開いた扉。
その向こうにある空間には、無機質な蛍光灯の光と、一面のコンクリート。地下駐車場を狭くしたような場所だ。
扉を抜けると、背後で重く閉まる音。
周りには仲間と思わしき奴らが十人ほど。その中で一際異彩を放つ黒人の大男が、こちらを見て歯を剥き出して笑った。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
彼らの中央には、パイプ椅子に拘束された天上さんがいた。
何だか久しぶりな気がする、闇すら呑み込みそうな黒の瞳と、目が合う。
「……如月くん!」
今までで一番、大きな声だった。
「天上さん。怪我はないか?」
「……わたしはだいじょうぶ。如月くんは?」
「俺も問題ない」
……とはいえ、これから何をされるやら。
憂鬱な気分になっていると、どこからかノイズの音。
『役者は揃ったようだな』
「……ぁ」
男の低い声が聞こえた。
どうやら、少し離れた場所に設置されたスピーカーが発信源らしい。
隣には大型のカメラが二台置いてあって、レンズが俺と天上さんに向けられている。
『さて、如月凪也君。君とは初めましてだね』
声には一欠片も親しみを感じなかった。
そんなことよりも、男の声を聞いた途端に、天上さんが暗闇に落ちるような声を漏らした方が気にかかった。
「お前は?」
『天上
「…………にん、ぎょう?」
『ああ。それは人工的に作られた命だからな。人形と呼ぶにはぴったりだろう?』
「ッ……、」
馬鹿にした風でもなく、さも当たり前のことを口にしたその様子に。
食いしばられた歯がひび割れた音がした。
こいつは。
こいつは、天上さんのことを、なんだと思っていやがる……ッ!!
天上さんを見る。
彼女の光を失った瞳は、俺を見ているようで、焦点が合っていなかった。
初めて屋上で出会った時のような、壊れきった深淵の瞳。
もしかして。
この、天上さんの父親を名乗る男が全ての——、
「それで……何が言いたい」
『一つ、解せなくてね』
クソ野郎は続ける。
『君や、君の事務所はなぜ、それを放置したんだ? それの価値や作られた目的はもう見当がついているだろう。潜在敵が聞くのはおかしな話だろうが、大きく動く気配も見せないものだから腑に落ちなくてね』
「………………………………、」
この男は、ダメだ。
存在していることにすら、虫唾が走る。
「お前には死んでもわからねえよ」
『そうか。それは残念だ』
爪の先ほどもそう思っていない口調だった。
『さて、本題——実験を始めよう』
通話越しにクソ野郎がそう言うと、黒服を着た男たちが天上さんを拘束するバンドをナイフで切っていく。
天上さんは瞬く間に自由の身になる。
だが、死んだ瞳のまま、動こうとはしなかった。
そんな天上さんに、一人が強引にバンドを切ったナイフを握らせた。
『おい、無能』
仮にも父親と名乗るのなら、決して向けてはいけない言葉。
天上さんは大きく身体を震わせる。長らく虐待を受けた子供のような反応。
それさえ見えているはずのクソ野郎は、頓着した様子もなく続ける。
『そのナイフで如月凪也を殺せ』
「………………え」
天上さんは焦点が合わない瞳でナイフを見て、次いで俺を見つめた。
脳が理解を拒んでショートを起こしたようにそこで止まる。
クソ野郎の命令が準備の合図だったのだろう。
傍らにいた男は俺の前に片膝をついて——俺の手を強引に開かせた。
たらり、と冷や汗が背筋を伝う。
これから起こることを、予感したがために。
数十秒ほどで、俺の両手は開かれたまま、器具で固定された。
車椅子の斜め前に、見せつけるように移動式のラックが置かれて、そこには大小異なるペンチや細長い針が大量に並んでいた。
『今から、如月凪也を拷問する。五分ごとに無能には一分だけチャンスをやろう。そこで如月凪也を殺せなければ、また五分拷問を再開する。その繰り返しだ』
「…………いや………………まって……!!」
『待たない。もしお前が無能じゃなくなれば、もしかしたら止まるかもしれんがな』
「…………そんなの……!!」
『あぁ、そうだった』
スピーカー越しのクソ野郎の声に。
明らかな嗜虐が混ざる。
『お前がそうやって無能なばかりに、何人も死んでいったものな』
「…………、」
『痛かっただろうなあ。お前が無能なものだから、死んだ奴らも結局無駄に苦しんだだけだった』
「…………っ」
『あいつらがあんな目に遭ったのも、如月凪也がこれから受ける苦しみも、全てはお前のせい。そんなこともわからないのか?』
「………………ぅ、あ」
天上さんは、手に持ったナイフを握り締め。
擦れ切って失われた表情のまま、つう、と涙を零した。
「ッ————!!」
その瞬間。
俺の中で。
形になれば世界を滅ぼせそうなほどの激情が、爆ぜた。
自分が自分ではなくなっていく感覚。
俺の意思を超えて暴れ出そうとする黒い衝動を握り潰しながら。
「もういい」
開かれた指を、強引に閉じようとする。指を固定する器具が皮膚に食い込む。
まだ動かない。今はあの枷によって異能が使えない。使えるのは純粋な筋肉だけ。
それがどうした。
『無駄だよ。君は大人しく拷問されていろ』
「うるせえ」
力を入れる。とうとう皮膚が裂けた。
剥き出しの筋肉に器具が触れる。
全身が総毛立つほどの激痛。
……だからなんだ?
行き場のない怒りが鎮まるには、あまりにも足りない。
『……君はもう少し、理性的だと思っていたのだがね』
「黙れよ」
どうして、こいつらは奪うのだ。
天上さんは、ようやくほんのりと緩んだ表情を見せてくれるようになって。
少しずつ、心を見せてくれるようになって。
こんな俺のために時間を割いてくれるようになって。
これからだ。
これからなのだ。
どれだけの時間を、お前らに傷つけられたと思っている。
どれだけの幸せを、お前らに奪われたと思っている。
「顔も見せない臆病者が、偉そうに喋るな」
天上さんは、幸せになるべきなんだ。
今まで奪われた分、うんといっぱい幸せになるべきなんだ。
もうこれ以上、彼女の心を曇らせる何かがあっちゃいけないんだ。
実験? 知るか。
無能? 人形? どこ見て言ってんだクソが。
全て天上さんのせい? てめえらのせいでしかねえだろうが!!
「……お前らがまだ、理不尽に天上さんから何かを奪うというのなら」
感情のまま力を入れれば、べきべきべきと拘束具が音を立てて外れていく。
あらゆる指から血が吹き出す。激痛が脳をぶっ叩く。
痛み? 知らねえ。その程度で俺が止まることはない。
血まみれの手を握り締める。
そうして手を開くと、両指に食い込んでいた器具はバラバラになって落ちた。
「俺が、てめえらの全てをぶち壊す理不尽になってやるよ……!!」
『な……に……?』
強引に立ち上がろうとすれば、手足を固定していた器具も思ったより簡単に外れる。
金属が、コンクリートに落ちて甲高い音を立てた。
残りは、異能が使えない原因の手枷足枷だけ。
『……む、無駄だ! それは異能者であろうと強引に外せるものではない!!』
クソ野郎の言うとおり、異能ありきの膂力でなければ枷は外れそうになかった。
だから俺は、左手を右手で握り潰した。
べきばきぼき、と連続する音。
それが実際に耳から聞こえたのか、砕いた感触を脳内で擬音に例えたのかは、俺にはわからなかったけれど。
俺は手を離した。
ふやけたイカのようになった左手は、細く歪に変形している。指から滴り落ちる血も止まりそうにない。
あちこちで内出血を起こしているのかひどい色だ。放っておけば、目も当てられないほどに腫れ上がることだろう。
とはいえ、今は手首と同じか、それ以上に細くなった。
腕を引くと、左手は簡単に手枷から引っこ抜ける。
同時に、両腕が泥の中から解放されたような感触。
どうやら枷は、両方に装着していないと効果がないらしい。
左手が砕けているとはいえ、元に戻った両手があれば、足の枷を破壊することは簡単だった。
『……は?』
そうして、全ての拘束が外れた。
肉ごとめくれ上がり、骨のようなものさえ見える両手を見下ろして、唇が吊り上がるのがわかる。
——まるでゾンビみたいだ。スラムの角、潰れた映画館で垂れ流していたクソつまらない映画に出てきたような。
死なず、殺せず、凄まじい怪力で。
かつての家族や、恋人すらも食い殺して。
何をしても満たされぬまま、世界を彷徨うバケモノ。
あの時スクリーンの向こうにいたのは、そんな奴らで。
悲しむことも、苦しむこともない。
痛みを感じることすらない。
そんな姿を、羨ましく思ったこともあった。
『ありえん! ありえんありえんありえんッ!! 貴様は化け物かッ!?』
「そうさ。知らなかったか?」
スピーカー越しの声に言い返しても、返事はなかった。
黒服の奴らも、何も言わない。
戦慄したような視線だけが、俺に向けられている。
それこそ化け物を見るような目は、かつてよく向けられていたもので。
その時、透き通るような声が耳を打つ。
「…………きさ、らぎくん……?」
「……、」
もしかしたら、これで最後になるかもしれないな。
昔を思い出して、そんなことを考えてから。
「目を瞑って、耳を塞いでて。そしたらすぐに終わる」
それだけを伝えた。
天上さんの顔は見なかった。
周りと同じような目を、俺に向けているかもしれないと思うと。
それを確かめる勇気が出なかったのだ。
——だけど仮に、そうだとしても構わないさ。
だって、泣いていたのだ。
希望も光も失われて、生きることが辛くて苦しくて、表情に出ることもなくなるくらいに心が擦り切れて。
それでも泣いていたのだ。
難しい理屈も、どんな建前も、その事実の前では塵芥に等しかった。
化け物だろうが怪物だろうが、どんなモノにだってなってやる。
『ッ、殺せぇぇ!!』
今更我に返ったらしいクソ野郎の声に、俺を囲む黒服が一斉に武器を抜く。
特殊警棒、サバイバルナイフが中心。全員拳銃を持っているはずだが、仲間に当たりやすいこの状況では使えないはず。
全部で……十二人か。いや、奥に一人いたな。十三人だ。
奥に立つ黒人の大男。外国の元傭兵だろうか、一人だけ明らかに格が違う。
そいつはすぐに戦闘に参加しない様子だった。ひとまずは意識の片隅に入れる程度で良さそうだ。
「じゃあ…………やるか」
スイッチを切り替えた。
異能を全開に。全身を無色透明の奔流が循環する。
カチリ、と何かが噛み合う感覚と共に、世界がスローになる。
最優先は天上さんの安全。次に撮影機材の破壊。最後に敵の殲滅。
状況を把握。タスクの優先度を考慮して、行動が決定されていく。
そこに自分の感情は必要ない。むしろ邪魔だ。
そう、心などいらない。化け物は化け物らしく振る舞えばいい。
人が人であることに心が必要だとしても。
俺は迷わず、それを捧げよう。化け物に身を落とそう。
——化け物がどれだけ強いのかを、その身に物理的に刻んでやるよ。
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