第十五話 わかってるなら聞くんじゃねえ


 天上音羽はノートに走らせていたシャーペンを止めて、軽く伸びをした。

 そこには今回の二年生の期末テストで出る教科と、進捗度が書かれていた。

 それぞれの教科には箇条書きで計画が書かれており、ページを捲ればそのスケジュールも綿密に書かれている。


 もしこのノートを如月凪也が見れば、「そこまでしなくてもいいぞ」と驚いた調子で止めることだろう。

 それくらい細かく書き込まれていた。


 ノートのタイトルは『如月くんの勉強計画』であり、まだそのノートの進みは五ページほどだった。


(……如月くんの地頭はすごくいい。これならすぐに、テストの点数も取れるはず)


 今回のテストに限れば、平均でも四十点前後が限界値だろうが。

 このペースであれば、次の中間や期末では六十点以上を狙える。まだ可能性だが学期末テストは平均八十点も夢ではない——、


「……ッ、」


 そこまで考えて、天上音羽は首を横に振る。

 それは、ただの妄想ありきだった。変わらず自分が、隣で彼のことを教え続けているという、妄想があっての想像だった。

 だけど自分の命は、長くとも十月までなのだから。

 想像するだけ無駄なのだ。


 机を横に並べて、彼の体温が近くで感じられる距離で、彼の横顔がいつでも眺められる場所で、テスト前になったら毎回勉強を教える…………そんなことができるのは、あと数回だけなのだ。

 その先は、いくら望んでも叶わない幻想なのだ。


 わたしが異能に目覚めれば、あるいは——、


 頭に浮かんだ考えは、すぐに自身で否定した。

 目覚めることがなかったから今があるのだ。今更目覚めるなんて都合が良すぎるし、仮に目覚めたとすれば、きっと自分は高校になんていられなくなる。憎むことすら止めてしまったあの研究者どもの、望み通りになる。

 それだけは、嫌だった。


 結局、どうにもならないのだ。

 だから、ちっぽけな復讐を果たすため、人間として生きられない未来から逃れるため、自分の命を投げ出そうと思っているのだから。


(……すこし、こわいな)


 死神の鎌が段々と首元に迫っていくような息苦しさを感じる。

 学校の屋上から身を投げ出そうとしていた時は、ようやく楽になれると安堵すらしていたのに。

 今では、目を逸らすこともできず、ただ後退りしてしまうような恐怖があった。

 背を向けて逃げ出せば、そこにあるのは生き地獄。


 それもこれも、全て如月くんのだった。

 だから、死ぬ時はそばにいて欲しい、と考えるのは傲慢だろうか。

 あわよくば、手を握っていて欲しい、なんてわがままだろうか。

 そうすれば、きっと怖くないから。


 次の人生では、普通の女の子になって、如月くんと友達になりたい。


 そんな純粋な願いを抱えたまま、穏やかに死ねると思うから。


「……あと三ヶ月」


 まだ覚悟はできていない。

 だけど今は、如月くんのためにできることをするのだ。


(……それに)


 と、天上音羽は胸に手を当てる。

 自身の心の動きを捕まえるように。

 二人でどこかに出かけたり、一緒に歩いている時とは違う、けれどとてもよく似た感情をそっと掬い取る。


 これはたぶん、『楽しくて嬉しい』という感情だ。

 如月凪也のために何かができるということ。その行動一つひとつが、少女にとって馴染みのなかった感情を呼び起こしていた。

 だから、ノートにシャーペンを走らせるだけで、こんなにも『楽しくて嬉しい』んだ。


 明日の如月くんの反応が楽しみで、自分の行動でそうなってくれるのが嬉しい。


 今日、近づきすぎた時は如月くんの顔も見られなくなるくらいドキドキした。

 難しい問題に頭を抱える如月くんを、かわいいと思った。

 クラスメイトに噂されることはすこし恥ずかしい。でも、ちょっとだけ誇らしい。


 毎日が、初めて知る感情の連続だった。

 とっくに壊れていたはずの心が、如月くんが光をくれるたびに虹色の変化を見せる。


 こんなにも。

 自分の内側にたくさんの感情が眠っていたんだ。


 だから、もう少し。

 もう少しだけ、この夢のような日々を。


 知らず口元が緩んでいる天上音羽は、如月凪也が見れば一発で上機嫌とわかる様子で、ノートに次々と計画を書き込んでいく。


 …………そんな時だった。


 机の脇に置いていたスマホが、振動する。

 着信だ。

 それもトークアプリからではなく、通常の電話で。


「…………、」


 しばらく、その画面を眺めた。

 電話番号には見覚えがなかったけれど、ひどく、嫌な予感がした。


 手が震えている。

 取るべきか、取らないべきか。


 どれだけ逡巡していただろうか。

 あるいはその迷いは、取らないための言い訳だった。


 電話は鳴り止んだ。

 天井音羽はほぅ、と息を吐いて。


 ——再び、コールが鳴る。


「……ッ」


 スマホの電源を切って、この電話を無視し続けることもできるかもしれない。

 だけどそうしたら、もっと恐ろしいことが起こるような気がしてならなかった。


 少なくとも向こうは、こちらが出るまで電話を掛け続けるつもりのようだった。


 三度、スマホを触ろうとして、静電気でも触れたように離して。

 ようやく天上音羽は、スマホを持ち上げる。

 恐る恐る、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『私だ』


 端的に告げられた声。

 その声が耳に入っただけで、目の前が真っ暗になった。


 知っている。

 忘れることもできない。


『一度目で出ろ。煩わせるな、この無能が』


「……ぁ」


 心の最も脆い部分を串刺すような口調に、どうしようもなく震える。

 思考に靄がかかっていく。

 否応なく記憶がフラッシュバックする。


 耐久実験と称して無限に痛みを与え続けられたこと。

 無理矢理異形と戦わされて、何度も死の淵を彷徨ったこと。

 幼い頃に、連れて来られたらしき子供と仲良くなって。異能に目覚めるかの実験と嘯きながらその子供を目の前で惨たらしく殺されたこと。


 お前が無能なせいだ。


 何度も何度もそう言われた。

 笑うことも怒ることもなく、虫けらを見るようにただ苦しむ自分を眺めていた。


 数えきれないほどに与えられた苦痛は全て、この男が主導で進められたことだ。

 ただの一度も自分は人間として扱われず、彼らのモルモットとして実験と称した虐待を受け続けていた。


 どれだけ嫌だと言っても無視されて。

 それが気に障れば暴力を受けて。


 自分にできることといえば、ひたすらに心を閉ざして苦痛を受け入れるだけだった。


 いつの日か泣くことさえなくなった。泣いてしまえば、更に暴力や実験が過酷になるからだ。

 いつの日か声を出すことがなくなった。声を出したところで、助けなんてなかったからだ。

 いつの日か考えることをやめた。考えてしまえば、変わらず来る明日に耐えられそうになかったからだ。


 あの時の絶望が、天上音羽の心を縛り付けていく。


 呼吸が上手くできない。

 考えがまとまらない。


 逃げ出したい。

 逃げ出したい。

 逃げ出したい。


 ——だけど逃げ出せないのは、自分が一番よくわかっていた。


『普通の学校にいて、自由になったと錯覚していたか? そんなはずがないと理解していないから、お前は無能なんだ』


「……………………、」


 ……ああ、そうか。


 逃げられないのなら。

 またあの地獄に戻るというのなら。


 だったら、諦めた方が楽だ。


 考えることをやめてしまえばいい。

 そうしたら、痛くても、辛くても、苦しくても、ほんのちょっとだけマシだ。


 部屋の電気をパチンと消すように。

 天上音羽の瞳から、光が失われる。


『実験だ。改めて言う必要もないが、お前に拒否権はない』


「…………、」


『返事は』


「…………はい」


 天上音羽には、今の返事が自分の意思によるものだったのかさえ、わからなくなっていた。

 一切の感情が伴わない電話の向こうの声は、天上音羽の様子に頓着することなく——本当に、至極どうでもいいことなのだろう——続ける。


『外に出て車に乗れ。通話は繋いだままにしろ』


「…………、」


 天上音羽は外に出た。

 もう既に、考えることをやめていた。


 目の前に、黒塗りの車が止まっていた。


 自動で後部座席のドアが開く。

 そこに天上音羽は乗り込む。

 その顔には抵抗するという考えさえ、浮かんでいない。夢遊病者のような様子で。


 車は静かに発進する。

 人形のように天上音羽は微動だにしない。





 昼休み。

 俺は屋上でタバコを吸っていた。


 柵に身体をもたれさせて、右手に缶コーヒー、左手にタバコという布陣。

 前までの俺だったら、それを完璧だとか最強だとか思っていたけれど。


「…………、」


 後ろを振り返って、屋上の出入り口近くの日陰を見る。

 少し前からそこにいるようになった、小さな口でパンを齧る小動物のような女の子が、今日はいない。


「…………はぁ」


 なんだかそれだけでシケた気分になって、缶コーヒーの残りを一気に飲み干す。

 天上さんは、今日は休みのようだった。

 スマホを見ても何もなし。連絡してみようか、一瞬だけ迷う。


「…………まあ、後でいいか」


 昼休みも残り少ない。放課後になっても連絡がなかったらそうしてみよう。

 俺は取り出したスマホをポケットにしまって、屋上を出た。


 天上さんとの勉強会のおかげで多少はわかるようになった授業も、今日に限っては全く耳に入ってこない。

 結局気もそぞろなまま放課後を迎える。


「凪也ぁー、今日なんか元気なかったけど、大丈夫か?」


「気にすんな。そういう日もある」


「お前のお姫様が休んでるからか?」


 からかうように絡んできた龍に、ため息を吐いた。

 お姫様という表現を指摘する気さえ起きない。


「わかってるなら聞くんじゃねえ」


「お、おう。すまん」


 素直に認めたことが意外だったのか、少し驚いたように龍は目を開いた。

 その様子をチラリと見ながら言う。


「お前は何か知ってるか? 休んでる理由」


「いんや、何にも」


 肩を竦める龍に、嘘をついている様子はなかった。

 本当に知らないのだろう。

 少しだけその茶色い瞳を眺めてから、俺はカバンを肩に背負う。


「じゃ、帰るわ」


「おう、また明日な」


 部活に向かう龍と廊下で別れて、学校を出た。

 家の近く、天上さんといつも別れている場所のそばにある公園のベンチに座って、タバコに火を点けた。

 一応、顔を見られないよう住宅の方に顔を向ける。

 紫煙を吐き出して、ぼんやりと空を見ながら、思考を巡らせていく。


 ……天上さんの身に、何かがあった。


 俺は確信した。

 スマホを見ても、やはり連絡は来ていない。


「昨日の襲撃の狙いは、俺だった」


 小さく声に出して、思考を整理していく。


「短期目標は俺の誘拐。長期目標は不明。構成員に異能者はなし」


 これは恐らく、俺という戦力を見誤っていたのだろう。

 奴らは実力で言えばそこそこ。例え異能者でも、多少腕に覚えがある程度ではドアの近くに潜んでいた奴で終わっていた。

 構成員も少なかったことから、俺の情報はそう多く持っていなかったのだろう。

 そこまでのイレギュラーを想定していなかったと言うべきか。


「恐らく、それで標的を天上さんに変更した。理由は人質か」


 そう考えれば、ひとまずの辻褄は合う。

 ここからわかることは、天上さんが殺されるような事態はすぐには起きないこと。


「奴らは、あの後に俺の情報を調べただろう。そうなると人質の価値は上がる」


 如月凪也は、盤上遊戯を挑んでくる相手に、盤を支えるテーブルごとひっくり返すことができる手合いかもしれない。

 昨日の襲撃の結果を見れば、よっぽどの馬鹿でもない限り相手はそう考えるだろう。


 となると、相手にとって俺の身柄を確保する最適解は、天上さんを傷一つつけることなく人質にすること。

 俺に、テーブルをひっくり返すという選択肢を封じさせるのだ。

 要は『何をしでかすかわからない』状況にならないようにするわけだ。

 天上さんの身に傷の一つでも付けようものなら、俺は躊躇なくテーブルをひっくり返す。

 それが奴らもわかっていることを祈る。


「重要なのは、なぜ目的が俺なのか」


 タバコが消えそうだった。

 もう一本取り出して咥え、消えかけのタバコをその先端に押し付ける。

 口の端から煙を吐き出しながら、ほとんどフィルターだけになったものを携帯灰皿に押し込む。

 …………そろそろ一杯になってきたな。


「国も一枚岩じゃねえだろうけど……、俺にそこまでの価値があるか?」


 正直、俺に何かをさせたいなら、瑠美さんに話を通した方がずっと楽だ。

 よっぽどのことでなければ、まぁ聞くだろう。どうせ、よっぽどのことだったのだろうけどさ。

 そうだよな。高校に侵入するだけの準備ができるのだから、偽の依頼をウチの事務所に出すなりの根回しもできたはず。


「……うぅむ」


 前提が間違っている気がした。

 煙を吐き出して、一旦思考をリセット。


 タバコを吸いながら頭を捻ってみても、これ以上はわからなさそうだった。

 瑠美さんも、昨日の件は間に合わなかったみたいだし。


「ま、しゃーねえか」


 最後に一吸いして、タバコを消そうと——


「……お?」


 俺の手がタバコを握り潰していた。

 吸いきれなかった葉っぱが、千切れた紙と共にはらはらと地面に落ちる。

 へしゃげたフィルターを携帯灰皿に詰め込む、その手が震えていた。


 抑えきれなかった煉獄のような怒りが、外側に出てきてしまったように。

 ニコチンをいくら肺に入れたところで、魂が燃え上がるような激情は一切収まることがなかった。


「…………、」


 ああ、そうだな。

 平静を保っているけど、認めよう。

 俺は今、ブチ切れている。


 天上さんが何をした?

 ただの、普通の、一人の女の子じゃないか。

 なんで天上さんばかり、こんな目に遭わなければならない?

 ふざけんじゃねえよクソが。

 てめえらの勝手な都合に巻き込むなよボケが。


 全員、ブッ潰してやる。

 覚悟しやがれカス共が。


 俺はお世辞にも褒められた人間じゃない。

 人殺しに何かを感じることはとっくになくなった。拷問まがいのことをしても心は動かない。

 化け物と言われることにはもう慣れた。

 きっと、その通りだろうよ。


 俺は、血の海で生まれた化け物だ。

 心葉をこの手で殺し、異能に目覚めたあの時から。


 誰かの幸せを願うなんて、こんな化け物には不相応だってことも、わかってるさ。

 それでも、願わずにはいられないんだ。

 俺という化け物にも、一欠片でも良いから、誰かを幸せにできる光が残っているって信じたいんだ。

 血塗れの両手で誰かを抱きしめることはできなくても、血塗れの両手に更に血を重ねることで、誰かを救うことができるのなら。

 躊躇う理由はない。


 ……ごちゃごちゃ考えても仕方ねえか。

 シンプルに行こう。


「俺は、天上さんを助けたい」


 呟いて、立ち上がる。

 頭の芯が冷えた感覚があった。

 身を焼くような怒りと、焦り。それらは凪いだ水面の下に押し込められる。


 ——奴らは、俺の住所も知っているだろう。

 学校のデータを調べれば簡単にわかることだ。侵入までできた奴らが調査できないとは思えない。

 そして、奴らの目的が俺だとすれば。

 準備ができた段階で、迎えを差し向けるはずだ。


 そんな、俺の考察が正しいことを示すかのように。

 家のそばに、黒塗りの車が止まっていた。


 スモークガラスで中の様子は伺えないが。

 俺が近くまで来ると、ドアが開く。


 サングラスをかけたスーツの男が二人出てきて、無言でスマホの画面を見せてきた。

 画面の向こうには、制服姿の天上さんがいた。

 パイプ椅子に座って、両手足をバンドで拘束されている。

 見たところ怪我などはないが、座るその姿に生気がないようにも見えた。

 ビデオ通話なのだろう、時折画面の端で影が動いている。


「乗れ。でなければ彼女が無事である保証はない」


「構わない。だが、通話は繋いだままにしろ」


「…………、」


 男は無言で鼻を鳴らして、運転席に滑り込む。

 アームレストにスマホを置いた。

 これなら確認できるだろう、と言いたげに。


 俺は後部座席に座った。

 すぐさまもう一人の男が乗り込んできて、俺は男二人に挟まれる。

 慣れた手つきで、二人は俺の両腕と両足にゴツい拘束具を付けた。

 試しに動かしてみるも、ビクともしない。

 異能の力の流れが阻害されている感覚もある。強引に破壊するのは無理そうだった。


 スマホやタバコ、カバンも没収され、黒い袋に入れられる。発信器とかを阻害するものだろうか。少なくとも壊されないのはありがたかった。


「標的を確保。今から帰投する」


 運転席に座る男は短くそう言って、車を発進させた。

 さて、何が待っているやら。


 俺は目を閉じて、その時が来るのを待った。

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