第十四話 ……じゃあ、また明日


 今日も今日とて放課後は天上さんとの勉強会である。

 一日置きで開くことになって、あっという間に週末だ。次の週には期末テストである。

 都合三回目となる今日も変わらず、天上さんは俺のルーズリーフに目を光らせている。


「……そこ、間違ってる」


「うっそ、どこだ?」


 途中式をざっと眺めてみても、ピンとこない。

 まだまだハリボテみたいな知識しか入っていないから、改めて自分で記述した数式を見てみても、間違えているのが解き方なのか公式なのかさえ判別できなかった。

 それでも、数学のサービス問題以外でも解答という体裁を整えられているのは、確実に天上さんの指導の賜物である。


 不出来な生徒にも天上さんは感情を乱すことなく、赤のボールペンを持った。

 こちらに向き直り、右側から身体を乗り出して俺のルーズリーフに書いてある数式の一部を横線で引いた。


 …………そう。

 初日は机を挟んで向かい合っていたが、二回目からは机を引っ付けて隣に並んでいる。

 その方が教えやすいよね、と二回目の勉強会開始前にあっさりと決まった。

 数学の教科書をボールペンで指しながら教えてくれる天上さんの横顔を、つい見てしまいそうにはなるものの。


 てか、近い。近いから。

 たまに思うけど、天上さん、距離感バグってる。

 肩がぴったり当たってるんよ。

 お互い右利きだから、身体の向きを変えて近づかないといけないのはわかるけど。


 天上さんの甘い匂いに、思考の歯車が急速に噛み合わなくなる。

 急に汗が出てきた。身体が熱い。

 汗臭いとか思われねえよな。大丈夫だよな?


「……数列はあっているけど、一般項の求め方がちがう。この数列の公比は——」


 あ、気づいた。

 黒い闇の中に、小さな光がある瞳と至近距離で目が合う。

 お互い吸い込まれるように見つめ合って、数秒。

 天上さんの瞳の奥に映る、自分の姿を見つけられたくらいの時間が経って。


「…………、」


 すす、と何事もなかったように天上さんは元の姿勢に戻る。


「……えっと、天上さん」


「……ちがうから」


「何が違うかわかんねえけど、続きは」


「……わざとじゃないから」


「うんまあそれはわかってるから、続きを」


「……ッ、」


 なぜか肩をぺしぺしと叩かれた。


 やっぱりその耳は真っ赤だった。

 …………うん、俺も人のことを言えねえな。


 お互い、ちょっと落ち着く時間を挟んで。


「……解説の続き、する」


「おう、頼むわ」


 今度は天上さんも気をつけているらしく、細い人差し指が俺のルーズリーフを引き寄せた。

 ルーズリーフの上に高級なグラスがあって、そのグラスを倒さないようにルーズリーフだけをそっと抜き取るような、そんなおっかなびっくりの仕草だ。

 無事に二つの机の中央にルーズリーフを引き寄せることに成功した天上さんは、改めて俺のルーズリーフに赤文字で書き込んで行く。


「今の見た?」


「見た見た。すごいカップルっぽかったよね」


「天上さんって、あんな可愛いとこあったんだ」


 …………うるせえぞ外野。

 あ、天上さんが誤字った。思いっきり耳に入っているらしい。


「…………次から、どっか別の場所でやらねえ?」


「……そうする」


 小声で囁くと、真っ赤な耳のまま、蚊の鳴くような声で賛成した。

 とはいえ今日は、このまま進めることに。


 進めていれば集中するもので、その後は淡々と勉強は進む。

 天上さんも自身の勉強を疎かにしていないようで、俺が頭を痛めながら問題を解いている間は他のことをしていた。

 教科書をパラパラと捲りながら、時折手を止めて考え込む仕草。

 ふとそちらを見て——俺はあることに気づく。


「天上さん、その教科書……」


「……これ?」


 天上さんは手を止めて、教科書の表紙をこちらに見せてきた。

 題名を見ると『電磁気の全て』とある。

 分厚さが教科書のそれじゃない。まるで辞書だ。


「どっからどう見ても高校の教科書に見えないんだが」


「…………ん。大学のやつ」


「まぁじでぇ?」


 変な声が出た。

 しかも、もう半分以上読んでるじゃねえか。


「……理解できんの?」


「……当然。中々興味深い」


 うそやん。どんだけ頭いいんだこの人。

 一瞬だけ内容を見せてもらって、すぐやめた。意味わからん文字の羅列が並んでいて、理解不能だった。


「高校の勉強は?」


「……一年あれば充分だった」


「…………?」


 なんか今、とんでもないことを聞いた気がする。

 少なくともわかるのは、天上さんは凄い。


 ………………あれ? でも、なんでだ?


 気になることがあった。

 教室を見回してみると、既に誰もいない。

 窓の外から見えた空の色に、少し驚いた。既にオレンジ色が見えている。

 時計を見ると、六時近い。いつの間にこんな時間まで勉強していたのか。


 ああいや、重要なのはそこじゃない。


「天上さんは、どうして————」


 口を開きかけた、そのタイミングで。

 教室に前の入り口から誰かが入ってくる。

 スーツを着た長身の男だ。


「二人とも、もう遅い時間だぞー」 


 教師か。見覚えねえけど、三年の担当かね?

 ふと天上さんを見ると、小さく首を傾げている。

 見覚えがない人に、馴れ馴れしく声をかけられたような仕草だ。


「三年の教師か?」


「……初めて見る」


 小声で聞くと、そんな返答。

 ポケットに片手を突っ込みながら、その男は人好きのする笑みを浮かべながら近づいてくる。


 しかし、目が笑っていない。細かく動く瞳は、こちらの隙を探しているようにも見えた。

 スーツの内側に不自然な膨らみがある。


 後ろの入り口からも気配。一瞬だけ視線を向けると、ほんの少しだけ影が伸びているのが見えた。

 これは…………恐らく、そういうことか。

 脳味噌の奥が冷えた。凍てついた血が唸りを上げて全身を回るような感覚。


「見回りですか? お疲れ様です」


 立ち上がってその男に声をかけると、乾いた笑いを上げながら男は頭を掻く。

 複数の机を挟んで、二メートルほど手前で男は立ち止まる。


「それも教師の仕事の一つさ。戸締りするから、ほら行った」


 …………後ろのドアの向こうに隠れている奴が本命か。

 影が少しだけ見えていることから、少なくともプロではない。

 ただ、隠れるという行為ができている時点で、三階の人払いは済んでいると見るべきだ。

 学校にも内通者がいる? いや、考察は後だ。


「わかりました。ちょっと区切りが悪くて、あと十分だけ待っていただいても大丈夫ですか?」


「悪いが、ダメだ。この後すぐ職員会議があるから、俺も急いでるんだよ」


「そこを何とか。最終下校時刻の六時には帰りますので」


 今はちょうど六時の十分前。

 、これで折れるはず。

 来るのか、来ないのか。

 弛緩させた両腕は、いつでも目の前の男を殺せるように準備する。


「…………わかった。六時には開けておけよ」


 男は頷いて、教室を出て行った。

 ひとまずは男の姿が消えて、俺は細く息を吐く。


 こちらが気づいたということに、気づいていないのがわかった。

 それだけわかれば、充分だ。


 シャーペンをポケットに入れる。

 荷物をまとめ始めている天上さんに、声を掛けた。


「すまん、ちょっとトイレ行ってくる。ここで待っててもらえるか?」


「……わかった」


 少し不思議そうにしながらも、天上さんは頷いてくれた。

 本当は「絶対に教室から出ないでくれ」と念押ししたいくらいだったけれど、流石に不審がられてしまうので自重する。

 ……どうか、天上さんは何も知らないままに。


 立ち上がって、後ろのドアに向けて歩きながら。

 自分の表情が、枯木にしがみついていた枝葉のように抜け落ちていくのがわかった。


 喜怒哀楽に価値はなく、目的とそれを成すプロセスのみがあればいい。

 他には何もいらない。

 自分自身はただの駒であり、駒に感情は必要ないのだ。


 天上さんに気づかれず、敵を殲滅する。

 それだけだ。簡単だろう?


 後ろのドアから出ると同時。

 俺は右手でドアを閉めつつ、左手を開いて横に突き出した。

 同じくスーツを着た別の男が、喉に迫るそれに目を開く。


「ッ……」


 かヒュ、と呼吸が絞り出された音。強く握りすぎて何かを破壊する感触。

 その音はドアを閉める音に上書きされ、閉め切ると同時に俺は男の首を掴んで引き寄せる。

 シャーペンをポケットから取り出して、俺は一切の躊躇なくその先端を男の瞳に突き刺した。


 びくん、と男は身体を大きく震わせてから、脱力する。

 眼窩から侵入したシャーペンが脳まで到達したのだ。当然、生きていられるはずがない。

 シャーペンを抜きつつ、音を立てないようにしてその身体を横たえる。


 廊下の先には、先ほど教室から出て行った男がいた。

 スマホを取り出している。


 俺の姿と倒れた男を見て、驚愕に目を開く。

 前のドアに姿が映らないように、その上を通るようにして跳びかかった。


「な——!」


「喋るな」


 何かを叫ぼうとした口を右手で塞いでから、左手を貫手の形にして喉を突いた。

 軟骨と気管を潰す感触。音は最小限に。天上さんの耳に入ることはないだろう。


 廊下の左右に視線を持っていくが、他に人は見当たらない。下の階にいるのだろうか。


「人数は? 指で示せ」


 囁くが、男は拳を握り締めただけだった。

 わかってはいたが、すぐには口を割らないか。

 仕方ない。


 近くにあった男子トイレに、男を引き摺りながら入った。


「喋る気になったら手を開け。それまで止めない」


 男を横たえて、素早く四肢の腱を捻じ切る。

 答えられるようにするため、左腕だけは残した。

 この時点で男の左手は葛藤するように力が緩んだり入ったりしているが、無視する。


 左腕と首を両足で押さえつけつつ、男の右の瞼を強引に開いた。

 シャーペンを取り出して、ゆっくりと近づけていく。

 男は俺の意図を察したのか、顔面を蒼白にした。左腕が激しい抵抗を見せるが、足で完全に動きを封じる。


「耳だけ残っていればいい。まずは右目だ」


 囁くと、力なく男は左手を開いた。

 俺はそれを確認した上で、更にシャーペンを近づけていく。


「一度断っただろう? だからお前の右目を潰すことは変わらない」


「ッ————! ッ————!」


 抵抗は無視した。

 今更良心など痛まない。


 処置を終えて。

 全身をガタガタ震わせている男に、俺は囁く。


「次は左目だ。その次は、お前の口内を壊す。で、どうするんだ?」


「…………、」


 男は左手を、指が反り返りそうなほど開いた。


「いいだろう。最後まで嘘を吐かなかったら、選ばせてやる。解放するか、楽に死ぬかだ。だが、嘘を吐いたら……。理解したら左手を握れ」


 血管が浮き出そうなほどに強く握られた左手を見て、俺は頷く。

 情報源、ゲット。

 ああ、瑠美さんにも連絡しておかないとな。


 ……六時まで後七分くらいか。

 問題ない。すぐに終わらせる。


 脳内で流れを描きつつ、俺は男から情報を得るために口を開いた。





「…………遅かったね?」


「いやすまん、急に姉から電話が来た」


「……そっか」


「じゃ、帰るか」


 カバンを担いで、頷いた天上さんと並ぶ。

 人気のない廊下に出て、並んで歩く。


「……そういえば、先生に伝えた方がいいかな?」


「戸締りのことか? 後で見回りに来るだろうし、大丈夫だろ」


 というか、伝えに行かれると困る。

 もうこの世にいないからだ。

 解放して欲しいと願っていたから、望み通りこのクソッタレな世界から解放してやったので。


「……それもそっか」


「ああ。行こうぜ」


 そう言って歩き出した俺の隣に、天上さんは小走りで追いついて。

 ぐ、と顔を覗き込むように近づけた。


「…………何だか、急いでる?」


「っ、悪い。そう見えたか」


 ——動揺するな。抑えろ。

 天上さんに勘づかれたら、何の意味もねえんだ。

 今通り過ぎた教室の向こうに隠した死体のような、血生臭い世界を見る必要はないんだ。


 だから俺は、頬を掻きながら呟くように言う。


「早く帰って復習しねえと、忘れそうな気がしてさ」


「……確かに、大事。たいへん結構である」


「折角教えてもらってるし、点数取りたいからな」


「……その意気」


 俺は頷いた。

 腕一本分空けて並ぶ天上さんは、少なくとも納得した様子だった。


 結局、所々に隠した死体やらは、幸運にも見つかることなく。

 学校を出た。


 よかった。

 表情に出さず安堵する。

 なぜか天上さんも、張り詰めていたものが抜けたような素振りだった。


「どうしたんだ?」


「…………理由はわからないけど、さっきまでなんかヘンな感じだったから」


「そう、か」


 鋭いな。思わず感嘆する。

 言われてから気づくか、そもそも言われても気づかないかが普通だろう。

 驚くべきセンスだった。


「……如月くんは、そんな感じした?」


「んー、どうだろう。いつもより静かに感じたくらいだな」


「……言われてみれば。だからかな?」


「じゃねえの?」


 首を傾げる天上さんに、肩を竦めてみせた。

 この分じゃ、俺が露骨に警戒してたら気づくだろうなぁ。

 

 あれがどんな集団だったのかまで、聞き出す時間はなかったからわからないが。

 学校まで入り込まれて、帰り道が安全と考えるのはあまりにも愚かだろう。

 天上さんに被害が行かないようにしなければ。


「…………、」


 納得しきれなかったのか。

 探るように天上さんは俺の瞳を覗き込んで、やがて諦めたようにふいと逸らす。天上さんほどではないかもしれないが、俺も表情に出さないことには自信があった。


「……そういえば、まだボウリングしてない」


「そういやそうだな」


 テストが近いから、と結局流れてしまったのだ。

 一応できる場所は調べてあるので、いつでも行くことはできる。


「テスト終わったら夏休みだし、そん時に行くか?」


「……うん。行きたい」


「おっけ。ガッツリ遊ぼうぜ」


「……楽しみ」


「だな」


 …………いるな。後ろのマンションの陰と、少し離れたコンビニでタバコ吸っている奴。さっきの奴らの仲間か?

 とはいえ、仕掛けてくる気配はなかった。


「……じゃあ、また明日」


「ああ、またな」


 いつもの別れ道に差し掛かって、天上さんを見送る。

 天上さんが曲がり角を曲がって(その前にチラリとこちらを見て手を振ってくれた)、姿が見えなくなる。


「…………、」


 俺は近くの公園のベンチに座ってタバコを取り出して、火を点けた。

 深く紫煙を吸い込んで、吐き出す。

 最近の天上さんを送った後のルーティンになりつつある。


 脳を過ぎるのは、拷問した男から得た情報。


「まさか、標的が俺だったとはねぇ……」


 そう。


 俺はてっきり、天上さんを狙った襲撃かと思っていた。

 だがどうやら、彼らの目的は俺だったらしい。


 その背景までは、時間も限られていたので聞き出さなかったけれど。


 どこぞから恨みは、まぁ……買っているだろうよ。

 過去には俺が異形討滅の際に助けられなかった人の親類が逆恨みで、暗殺者を差し向けられたこともあるし。

 アウトローの組織を潰した数も両手の指じゃ収まらない。


 けれど今日の襲撃は、何というか…………お行儀のいい奴らだった気がする。

 学校に侵入してきたことも、目撃者を可能な限り排除しようとしていた所も。

 統率が取れていた、と言うべきだろうか。アウトローの組織でよくある、チンピラの集まりでは決してなかった。


「公安か、軍か……?」


 紫煙と共に予想を零してみても、もやもやした感覚が残る。いや、煙だけにってわけじゃねえけど。

 国の子飼いなら可能だろうけれど、俺を狙う理由がわからないのだ。

 暗殺ではなく、誘拐が目的という部分が特に。

 公安の手先が天上さんを狙うとかだったらわかるんだが。最初はそう思っていたし。


 んー、スッキリしねえな。

 違う鍵を鍵穴に差し込んでいるような感覚だ。


 一応瑠美さんに回収をお願いしたけど、間に合わないだろう。

 瑠美さんも急にそれができる人員を動かせるわけじゃない。襲撃犯の仲間が回収するのが先だろう。

 尾行することも選択肢に入れたけど、車での移動を走りで追いかける高校生なんて目撃情報があったら瑠美さんに確実に怒られるし、異能の力を使ったってことで俺には厳罰、事務所にもいらん被害が行くかもしれない。


 さっき見つけた仲間と思わしき奴らを捕まえたところで、きっと大した情報も持っていないし。

 そもそも人の目がある場所でどうやって捕まえるんだって話だ。


 いっそ、わざと捕まってみるかぁ?

 最終手段になりそうだが、それもアリかもしれん。


 つっても、学校の時で捕まるのだったらまだしも、ぶっ殺した後だから油断は期待できそうにない。

 絶対に、無事では済まないだろう。

 異能者だと知って誰かを捕まえるなら、俺なら両手両足を切り落とした上で、その断面を溶接する。ダルマになりゃ流石の異能者も無力化できるし、溶接すれば再生もかなり遅くなる。

 そこまでして、奴らの情報を欲しいかといえば…………ノーだわな。


 結論、できることはねえんだよなあ。

 納得しない気持ちを抱えながら、俺は吸い殻を携帯灰皿に入れて立ち上がった。


 まぁ、今日は大人しく帰るかね。

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