第十一話 あ、そういうの間に合ってるんで
振り向くと、天上さんが立ち止まっていた。
俺を呼び止めたその声は、少し驚いていた気がする。
「おはよう、天上さん」
「……おはよ」
ひとまず挨拶。車道側に寄った。
腕一本分の隙間を開けて小柄な体躯が隣に来る。ここからはつむじが見下ろせた。
鼻をくすぐるラベンダーに似た匂い。ああ、天上さんだな、と当たり前のことを思った。
どちらともなく歩き出す。
「……如月くん、散歩でもしてたの?」
開口一番の彼女の疑問。
そりゃ当然の疑問だよな。全然違う方角から俺が出てきたんだもの。
「ま、そんなところ。天上さんはいつもこんくらいの時間なのか?」
適当に答えつつ、話題を逸らした。
「…………いつもより、ちょっと早い。……にしても、ちょっと意外」
「意外って?」
「……散歩とか、しなさそう」
俺もそう思う。
散歩って選択肢を自分の人生に持ったことがないわ。
これからも持つことはない気がする。
「気分だな。たまになら悪くない」
内心とは真逆の言葉。こう言っておけば、また朝に依頼が来ても誤魔化せるだろ。
……他の人に嘘を吐こうが何とも思わないのに、天上さんの前だと罪悪感があるな。
これも全部、異形とクソ公安のせいにしておこう。
話しながら歩いていると、他の人の会話も耳に入る。
そこでテストという話題が出てきていて、目元に皺が寄る。
「……どうしたの?」
「いや、そういや期末テスト近いなって」
「……勉強、苦手なんだっけ?」
「この高校で一番苦手な奴は多分俺だと思ってる」
「……そんなに?」
「進級は怪しいな」
ぴく、と天上さんの眉が動いた。
「…………やばい、ね?」
「おう、やばいぞ」
もはや勉強は諦めている節がある。
わからんもんはわからん。
「まぁ、言い訳をするとだ——」
少しだけ声を伏せた。
あまり他の人に聞かれたくはない。
「三年前まで外国にいたのは前話したっけか。それまで学校すら行ってなかった」
「…………そう、なんだ」
驚いたような、納得したような調子だった。
「…………ちなみに、どこ?」
「知らない。国って体裁があるような状況じゃなかったしな」
五分歩けば異形が十体は遭遇するような地域だ。
その陰で、数少ない住処や食料を、ハイエナのように奪い合っていた。
生きるため、と言う本能の元に、あらゆる道徳や倫理観が失われた場所。
終わることのない死への恐怖に脳はエラーを起こし、人によっては笑いながら異形の前に身を投げ出す。死体の腕やら足やらの残骸をぐちゃぐちゃと噛み砕いて飢えを凌ぐ人々。
そんな、狂気が正気となる終わりきった場所。
「……ごめん、なさい」
「ん? どうした?」
視界が一気に色づいた。
モノクロの情景はとうに過去のもので、今ここには平和という二文字がある。
「…………思い出したくないこと、思い出させちゃったみたいだから」
そう言って天上さんは顔を伏せた。
そんなこと、気にしなくていいのにな。
「もう昔のことだ。天上さんが謝る必要はないよ」
過去は過去。もう変えようのないことだ。
割り切れては……いないけれど。
天上さんの前で飲み込むことくらい、造作もない。
敢えて軽い調子で続ける。
「だからさ、いきなり高校の勉強させられても、正直意味わかんねえんだわ」
「……それは、そうかも」
天上さんは頷いた。
そこから、少し考え込むような仕草をして。
俺の顔を覗き込むように、天上さんはこちらを見上げた。
その、透明な瞳に、心臓が音を立てる。
「……勉強、教えてあげようか?」
「あー……ありがたいけど」
願ってもない、が。
何だかそれは、天上さんの時間を無駄にしているようで申し訳ない。
彼女の定めている四ヶ月という時間は、とても短いもので。
それは全て、天上さんのために使われるためのものだ。
俺の事情に付き合わせるのは、悪い。
そういった内容を手短に伝えると。
天上さんは、俺の袖をきゅっと掴む。
「……気にしないでいい。これはわたしのやりたいことだから」
いつもより強い口調。
掴まれた袖が暖かい。
そのままぐいぐいと押してくるから、距離がどんどん近づいてくる。
「……わたしはいっぱい、いっぱい、如月くんからもらってるの」
ひと束だけまとめられた艶めいた髪が揺れる。ラベンダーの香りが強くなる。安心するような、どきどきするような。
腕が密着していた。細く、柔らかい感触。掴めば折れてしまいそうなほど華奢なのに、力強さを感じる。
頭の奥が痺れてくる。
小さな光が浮かぶ透明な瞳から、目が離せない。
「……だから、如月くんの役に立てること、したい」
吸い込まれるような瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「…………ダメ、かな?」
————俺の脳内から、拒否という選択肢がどっかにぶん投げられた。
断れるわけねえだろ、こんなの。
「………………頼む」
「…………やった」
天上さんの口元がはっきりわかるくらい緩んだ。
それは笑顔と呼ぶにはまだまだ遠いけれど、普段の無表情とはかけ離れたギャップがあって。
ちくしょう。
可愛いがすぎるだろ、こんなの。
まるで新雪に足跡を刻むように、天上さんの新しい表情が見られることが、嬉しいし照れ臭い。
ああ、顔が熱い。心臓の音が聞こえてないかとさえ思う。
「あー、えっと……」
「……?」
小首を傾げる(かわいい)天上さんに、俺は言う。
「い、嫌じゃねえけど……、近くないか?」
最初の腕一本分あった距離は完全にゼロになっていた。
掴まれていた腕は肘の内側まで動いていて、天上さんは俺の左腕にしがみついているみたいになっている。
こういうと変態みたいだが……ほんのちょっとだけ、柔らかい膨らみも、感じる。
なんだこれ、どうすればいい。わかんねえ。
無理に振り解くことは……したくないな。
でも、このままずっとこうしているわけにもいかん。
後ろを歩く女子から、変な歓声まで聞こえてくるし。
車道を走るチャリの集団が、一斉に俺たちを振り向いていた。
おう見せもんじゃねえぞ。どっか行けコラ。
「……!!」
天上さんはようやく自分の状況に気づいたらしい。
弾かれたように俺から離れた。
一気に距離を開いてから、すす……と元の距離まで恐る恐る近づく仕草がいじらしい。
「……やってしまった」
か細い天上さんの声。
耳が熟れたリンゴのように真っ赤だった。
「ま、まぁ……気にしてないさ」
「……うん」
次から気をつけてくれ、という言葉は出てこなかった。
これは天上さんには言えないことだけど…………ちょっとだけ、離れたことを残念に思ってしまったから。
空いた左手で顔を仰ぐ。
七月の始まり。熱を持った顔は、夏のせいということにしておこう。
*
「朝からいちゃついてたらしいじゃん?」
「事故だ」
教室に入るなり、龍がニヤついた顔でこちらを見ていた。
ぶん殴りたいこの笑顔。
「てかお前、朝練じゃないのか」
「今日はミーティングだけだったから、早く終わったんだよ」
「そうかい」
聞いてはみたが、話を逸らす以上の意味も興味もなかった。
「で、どこまで進んだん?」
少し声を抑えて、内緒話のような調子で聞いてくる。
とはいえ普通に声は漏れていて、隣の席の男子がピクリと肩を動かしたのがわかった。
視界から外れているが、前の席あたりで固まって話している女子たちの会話が止まったのも。
最近知ったのだが、高校生って他人の関係性に興味ありすぎじゃねえ?
俺と天上さんがどうこうなんざ、お前らには関係ねえってのに。
さすがにそれを口に出すほど、コミュニケーション能力は終わっていないが。
「どこまでって、進んでも後退してもねえよ」
「ちぇー、つまんねぇの」
「お前を面白がらせるためにやってねえ」
「そりゃそうだ」
何が面白かったのか、龍はからりと笑う。
だがすぐに、龍の表情は神妙なそれに変わった。
「……気をつけろよ。あんま、良く思っていない先輩もいるみたいだからさ」
「へえ?」
そうなのか。
確かに、前に天上さんを迎えに行った時、幾つか睨むような視線もあったな。
「ああ。聞いた話だと、バスケ部の副キャプテンが——」
「如月君はいるかい?」
龍の言葉の途中で、俺を呼ぶ声がした。
全く知らん声。別に無視しても良かったが、視線だけ向けてみる。
一言で表現すれば、長身の茶髪イケメンが立っていた。
制服を若干着崩しており、真面目というよりは軽薄寄り。全体的に色白ながら、半袖から覗く腕は筋肉で引き締まっている。
右手を扉の枠に置いて、ちょっと身体を傾けつつ、なぜか足を交差させていた。
まず思ったのが、同業やそれに類する人間じゃねえな、ということ。
生死の境に身を置いている人間は、独特の雰囲気がある。
自分の中にある研がれた刃物を誇示しているか、鞘の中に隠しているか。その違いはあれど、それは見れば何となく、『わかる』。
あの男は、そもそも刃物自体がない。要は一般人ということだ。
それだけわかれば別にどうでも良かった。
時間を割くべき人間じゃない。ということである。
当のイケメンを見て龍が言った。
「あー、あの人だよ。俺が今言おうとした人」
「すげえ自分に酔ってますよみたいなポーズしてんな」
「ちょ、凪也……ふくくっ」
正直な印象を述べると、龍は喉を揺らして笑った。
隣の席の男子は「マジかこいつ」と言いたげな目でこちらを見ていた。
いや、だって…………ねぇ?
足を交差させるとか、身体を傾けるとか、する意味ある?
俺から見れば「ぼくは隙だらけです。いつでも殺してください」と全身で主張しているようにしか見えない。
それでもあんなポーズをするってことは、そういうことだろう。
「身体の角度とか、鏡の前で細かく調整してたりするのかね?」
「ふふっ……おま、笑わせんなって…………」
純粋な疑問を舌に乗せてみたら、龍はとうとう腹を抱えた。
隣の席の男子はゆっくり顔を伏せた。身体を震わせているところを見るに、笑っているらしい。
「……君、随分と失礼なことを言うね」
おおう、近づいてきた。
イケメン先輩は俺の顔を見下ろす。
きっと睨んでいるつもりなのだろうが……素人に睨まれてもねぇ。
目にナイフを近づけられるとか、口の中に拳銃突っ込まれるとかされたら、まあ怖がってやってもいいけど。
面倒臭そうなのが来たな、以外の感想が浮かばない。
「……まぁいいや。君が如月君かい?」
「いいえ。兵頭龍です」
「……ぶははっ! おまっ、よくここで冗談言えるな……! 山岡先輩違いますよ。こいつが如月です」
龍が笑いながら、俺を指差しながら言う。
余計なことをしやがって。別にいいけどさ。
イケメン先輩は俺を見て忌々しそうに舌打ちした。
「——君、生意気だね」
「ほんとですよね。俺も困ってるんです」
「君のことだよっ!」
イケメン先輩は俺の机を叩いた。
カルシウム足りてねえのかな?
龍は壁を向いてひたすら笑っている。
やっぱりあいつの方が生意気じゃねえ?
「っ、まぁいい。用件に入ろう」
「はぁ」
イケメン先輩は髪を掻き上げた。
いちいち『作ってる』みたいな仕草だなー。
「天上に近づくな。迷惑だ」
イケメン先輩はそう言った。
俺はパタパタと顔の前で手を振った。
「あ、そういうの間に合ってるんで」
「は……?」
イケメン先輩はぽかんとした。
龍はとうとう笑いながら蹲った。
「だ、だとしたら、尚更だ! 他の人に言われるくらい迷惑なら、近づかないでもらおう!」
「…………?」
なーに言ってんのこの人は?
ちょっと第三者の意見が聞きたくて、俺は教室を見回した。
それで気づいたが、誰もが俺たちのやりとりに注目していたらしい。
龍を見るとまだ笑っている。聞こえるのはこいつの笑い声と、そこかしこからの囁き声くらいだ。
こいつは使いもんにならねえな。となると——、
お、いたいた。
意外とすぐ近くでこっちを見ていた、おっとりした雰囲気の女子を見つける。
えーと、名前は何だっけか。
「佐藤さんだっけ?」
「加藤だよっ!」
打てば響けのタイミングで答えが本人から返ってきた。
「そいつは失礼。で、加藤さん。このイケメン先輩はなんで、俺に対してこんな意味わからんことを言ってくるんだ?」
「ふざけ——」
何かを喚いているイケメン先輩は無視。
元々気に留めるような存在でもない。
加藤さんも一瞬気まずそうにイケメン先輩を見てから、俺の質問に答えてくれる。
「私が言っていいかはわからないけど……天上先輩のことが気になっている人がいたとするよ。でも今は天上先輩は如月君と仲良いでしょ? そうなると天上先輩に近づきづらいから、如月君には邪魔しないで欲しいんじゃないかな?」
「そうなのか? 俺と天上さんは学年からして違うし、話そうと思えば難しくないと思うが」
「気持ちの部分じゃないかな? 如月君がいなければ、天上先輩ともっと仲良くなれる! ……みたいな」
そういうものなのか。
納得はしないが理解はした。
「なるほど、助かった」
「それはいいんだけど……私の名前はちゃんと覚えて欲しいかなぁ?」
俺は頷いた。
「問題ない」
きっと今週までは覚えていられる。
視線を戻した。
なんか真っ赤になった先輩が鼻息荒くこっちを見ていた。
「で、えーと、イケメン先輩」
「山岡だ!」
「山岡」
「先輩をつけろ!!」
なんだこの人、面倒臭えなあ。
「山岡先輩は天上さんのことが好きなんすか?」
「そういう話じゃない! 君に天上は相応しくないと言っている!」
「いや、初耳ですが」
「さっき言っただろう!」
さっき? あー、なんか喚いてた時か。
全く聞いてなかった。
「聞いてませんでした。で?」
「で、とはなんだ! ふざけているのか!?」
「いや、俺が天上さんに相応しくないって話が、山岡先輩に何の関係があるんですか?」
「ッ、馬鹿にはわからないだろうが、天上は僕らみたいな人間が相応しいんだ! だから君みたいな人間は迷惑なんだよ!」
へえ、そうなのか。
天上さんはどう思ってるんだろう?
聞いてみよ。
「ちょっと、それは言い過ぎじゃ——」
加藤さんが山岡先輩に何か言おうとしてくれたが、止まる。
トークアプリのコール音が聞こえてきたからだろう。
あ、スピーカーにしとこ。
通話はすぐに繋がった。
『……どうしたの? 如月くん』
「急にごめんな、天上さん」
俺が告げた名前に、息を呑んだ音が聞こえた。
気にせず続ける。
「なんか山岡先輩って人が、天上さんは僕に相応しいって言ってるけど、どうなんだ?」
『……だれか知らないけど、めいわく。そういうひとは生理的にむり』
「そっか。茶髪の、背が高いイケメンの人なんだが」
『…………知ってる。教室で話しかけてきて、すごくいやだった。本当にむり』
「そ、そんなっ——」
一刀両断。容赦無くぶった斬られた山岡先輩が崩れ落ちた。
まぁ、通話越しにも嫌悪感が伝わってきたしな。
好感度が数字で表されるとしたら、既にマイナスの域だろうよ。
「あー、おっけ。了解したわ」
『…………そいつに何か言われたの?』
天上さんの声に、鋭さが乗った。
今まで聞いたことのない口調。こんな声もできるんだな、と思いつつ平坦に返す。
「いんや、何でもねえよ」
『…………そう』
「気にしないで大丈夫だからな。じゃ、また後で」
『……うん。また、後でね』
通話終了のボタンをタップした。
通話が終わる。
イケメン先輩を見ると、異形に故郷を滅ぼされた人みたいに項垂れていた。
ちょっと可哀想にすら思えてくる。
別に同情はしないけどさ。
「早く自分の教室に戻ったらどうすか?」
放っておいたらずっと動かなさそうだったので声をかけてみると、物凄い眼光で睨まれた。
ドロドロした感情が瞳に宿っていて、いい目つきになってきたと他人事のように思う。
もっと怨念だったり殺意だったり、極まった負の感情を乗せられたら、まぁ、悪くはないんじゃねえの?
いや、一般人相手にこんなこと考えても仕方ねえけどさ。
「……それでも僕は、お前を認めないッ……!!」
おう、好きにしろや。
お前呼びになった時点で完全に敵認定されたらしい。俺に舌打ちをしてから、イケメン先輩は去っていった。
んー、天上さんに危害がなけりゃどうでもいいけど。一応警戒だけはしとくか。
異能者が一般人に危害を加えたら、元々が怪しい人権が完全になくなるレベルの厳罰がある。
それでもやりようはあるし、頭には入れておこう。名前はもう忘れたけど。
「如月君って……何というか、凄いんだね」
加藤さんのふわっとした感想の直後に、予鈴が鳴った。
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