第十話 もう友達、でいいんだよな?


「これで検査は完了よ」


 白衣を着た女性の言葉に、天上音羽は寝転がったまま小さく頷いた。

 MRIのような機械に全身をスキャンされたところだ。

 既に女性は天上音羽に興味を失っているようで、デスクトップ型のパソコンから目を離す様子はない。

 少女としても慣れたものだ。無言で立ち上がり、スリッパを履いて部屋を出る。


 部屋を出たところに、男性の職員がいた。

 天上音羽は薄緑色の貫頭衣のみで、下着も付けていない。男性の職員はこちらを見向きもしなかったが、妙な居心地の悪さに、背中を向けるようにして部屋に入るその男と擦れ違った。


 部屋の外は、教室が三つ分は収容できそうなほどに広い一室である。

 大学の研究室とかこんな見た目なのかな、と天上音羽は思う。


 様々な場所に用途もわからない大型の機械が配置されており、男女入り混じった数十人の職員がそれぞれの機械と接続されたパソコンを交互に見比べている。

 この部屋と接続している小さな部屋がいくつかあって、天上音羽は二日がかりでそれぞれの部屋を回ったあとだ。


 職員たちは会話こそあるものの、そこに笑顔はない。

 顔を顰めているか、表情がないかのどちらか。

 天上音羽は生まれてから多くの時間をこの場所で過ごしてきたが、ほとんどの人間が笑っているところを見たことがなかった。


 部屋の隅のソファーに腰掛けて、一息つく。

 少し、疲れていた。

 検査はじっと待っていれば終了するものが大半だったが、何もしない、というのも疲れるものだ。


「……わかっていたことだが、覚醒の様子はないか」


「投薬の許可は取れそうか?」


「やはり無理そうだ。母体としての影響が危ぶまれるから、所長の許可は下りないだろう」


「やるとしてもその役目を終えた後、か……」


 ちらり、と職員の一人が天上音羽を見た。

 虫を見るような目だった。


 耳に入ってきた会話の内容は、彼女にとってあまりにもおぞましいもの。

 胃の底が捻り上げられるような気分だ。


 ……どうしてこんなにも、人を人でないように扱えるのかが、天上音羽にはとても理解できなかった。


 職員たちは天上音羽のことを、彼女がそばにいるにも関わらず、まるでいないものとしている。

 そして、少なくとも机上の会議においては、どんなことをしてもいいモルモットのようにも扱っていた。


 いいや……それは、机上の会議だけではなかった。

 少女の脳裏にフラッシュバックする、実験と称した数々。


 ——複数の電極を接続され、身体が焼けるほどの電気を何度も流された。


 ——異形に殺されかけ、それを助ける様子もなく観察する職員たち。


 ——目の前で叫び声を上げる友達だと思っていたモノ。


「……っ」


 ひどい吐き気が込み上げた。


 天上音羽は立ち上がり、早足で更衣室に向かう。

 誰の視線もない、閉じられた空間が今は安心する。

 あの場所で休もうとしたのが間違いだった。そう思った。

 早く着替えて帰ろう。


(如月くん……今、なにしてるかな)


 一人の男の子を脳裏に浮かべた。

 貴公子然と整った顔をしているのに、どこか虚ろで、尖った目つきをしている人。

 まだ未成年にも関わらず授業をサボってタバコを吸う、まるきり不良みたいな人。


 だけど、わたしを救ってくれた、優しい人。


『一緒に探しに行こうぜ。君のやりたいことをさ』


 そう言って、差し伸べてくれた手を取ったあの日から。

 天上音羽の毎日は、灰色からカラフルに色づいたのだ。


 彼のことを考えるだけで、胸に暖かいものが灯る。

 大嫌いな自分を、ほんの少しだけ肯定できる。

 無限に続く砂漠のような心に、緑が宿る。

 それは小さくか弱い芽だとしても、しとりと葉っぱの先の朝露が砂を湿らせるように、天上音羽の心は満たされていくのだ。


 今すぐに死んでしまいたいと思っていた。


 苦しいとも痛いとも悲しいとも辛いとも感じなくなって、ただ自分の内側にあるものが細かく砕かれていく。

 最後に残ったのは、早くこの世界から消えていなくなりたいという願い。

 何も感じなくなる。それだけを望んで、靄がかった思考のまま屋上に向かって。

 そうして果たされるはずだった願いは、びっくりするほどにその色を変えた。


 四ヶ月という、命の期限。未成年という社会の守りが失われるカウントダウン。

 それを過ぎてしまえば、天上音羽の人間としての生活は終わる。

 その先はただ、貴重な母体として使い潰され、それが終わればモルモットとして身体も心も壊されるだろう。

 だから、四ヶ月で、夢のような時間は終わる。

 終わってしまう。

 そうなる前に、せめて自分の人生をめちゃくちゃにした彼らに、精一杯の復讐として、彼らにとって最も価値のあるはずの自分自身を殺してやるのだ。


 大丈夫。怖くはない。

 一度死のうとした身だ。覚悟はできていた。


 ……覚悟は、できていた。


 …………、


 …………だけど。


 …………だけど、少しだけ。


 ほんの少しだけ、惜しいな、と思った。


 四ヶ月だけじゃない。

 もっともっと先まで。


 ほんとうは。


「…………っ」


 天上音羽は首を横に振った。

 自分の中に生まれた感情を、必死に追い出した。

 そうじゃないと、きっと、抑えられなくなってしまうから。


(……如月くんに、迷惑はかけられない)


 もう既に、どうしようもないほどに、彼には迷惑をかけているのだ。

 彼の底抜けの優しさに、たくさん甘えてしまっているのだ。

 だから、これは、言えない。

 自分の中に新しく生まれた願いは、口に出すわけにはいかない。

 『これ』は、あの世まで持っていく。

 ぎゅう、と胸を締め付けるせつなさと共に。


 窓から見える空はオレンジ色。

 日曜日の夕方だ。

 明日は学校。それがちょっとだけ、楽しみに思う自分がいる。

 全て検査は終わっている。後は帰るだけだった。

 更衣室で貫頭衣から制服に着替えた天上音羽は、スマホを確認する。

 一件、通知が来ていた。


「……!」


 恐る恐る、スマホの電源を点ける。

 トークアプリの右上に表示される、『1』の通知。

 それはただの数字であるはずなのに、天上音羽の胸が高鳴る。


 ゆっくりと、トークアプリのアイコンをタップした。

 一瞬のロードの後、表示されるトーク一覧。その一番上。


「…………如月くん」


 少女は囁くように、一人の男の子の名前を呼ぶ。

 一時間ほど前にメッセージが来ていた。


『如月凪也:検査って言ってたけど、大丈夫だったか?』


 短い、けれどこちらを気遣っているとわかる彼らしい文章に、胸の奥が暖かくなる。

 もしかしたら、という期待はあったのだ。

 金曜日の夜にいっぱい話して。恥ずかしかったけれど、素直な心を伝えて。如月くんも伝えてくれて。

 一緒の気持ちだったことに、どうしようもなくうれしくなって。

 あの時に、如月くんからも連絡すると言ってくれて。


 だから、そうだったらいいな、という程度の期待はしていたのだ。

 もちろん、連絡がなかったからといって、裏切られたと思うことは絶対にない。

 その時は自分から連絡すればいいだけだ。

 だけど、如月くんから連絡が来ていた方がうれしいから。


 そんな浅ましい期待だったけれど、如月くんは応えてくれた。

 自分でもびっくりするくらい、うれしい。


 スマホを両手で持って、たっぷり数秒、トーク画面を眺めた。

 一昨日の自分みたいに、何度も打ち込んでは消してとしたのかな、と思う。

 如月くんならそういうことをあまり気にしなさそうだな。でも優しいから、気を遣おうとして色々打ち直したりしていそうだな、なんて。

 少しどきどきする。心臓のペースとは反対に心はふわふわしていて、だけどとても穏やかな気持ち。

 白いフキダシに表示された文字を見るだけでそうなってしまうのだから、なんだかおかしかった。


(…………返さなきゃ)


 ずっと眺めているわけにもいかない。

 既読は相手に伝わっているだろう。無視したとも思われたくない。

 天上音羽はゆっくりと一文字ずつ、文字を打ち込んでいく。


「…………うん」


 これでいいだろう。

 誤字がないことを確認して、最後にもう一度内容を見直して、送信ボタンを押した。


『天上音羽:大丈夫だったよ、心配してくれてありがとう』


 既読はすぐについた。

 心臓が一際音を立てた。


『如月凪也:よかった。また明日、学校でな』


『天上音羽:うん。楽しみ』


『如月凪也:俺もだ』


 打てば響くように返ってくる言葉の一つ一つが、温もりを与えてくれる。


「…………、」


 天上音羽は『また明日ね』と打ちかけた文字を消した。

 なんだか、それで終わりにしてしまうのは、もったいない気がしたのだ。

 もう少しだけ、このやりとりを続けていたい。


 更衣室の椅子に座って、天上音羽はスマホに別の文字を打ち込み始めた。





 朝。空がようやく白み始めた時間。

 俺はベランダでタバコを咥えつつ朝焼けを眺めながら、左手を何度か適当に動かしてみる。


「うし」


 神経の伝達も動きも問題ない。

 こっそり異能の力を通してみても、以前と同じスムーズさだ。

 完治したと言っていい。


 開けっ放しの窓から丸めた包帯をゴミ箱に放り投げて、気分良く煙を吐き出した。


 この時間に高層マンションから景色を眺めながらの一服はたまらねえぜ。

 久々にやっちまった大きめの怪我が完治した直後とあっては、尚更だ。


 世界が俺に味方をしている気分だった。


 ベッドのそばに置きっ放しのスマホをちらりと見る。

 昨日はずっと、天上さんとトークアプリで駄弁っていた。

 止め時を見失って、ついつい二人してちょっと夜更かししてしまったほど。


 友達という関係がこんなに心躍らせるものだとは知らなかった。


「もう友達、でいいんだよな?」


 確かめるように呟く。

 なんだかんだ、ちょっと不安だったので。

 改めて聞いてみるってのも恥ずかしい。


 これでそう思われてなかったら泣くわ。


 公安のクソ組織の検査を思うと、不安で仕方なかったが。

 思ったより天上さんが元気そうで、安心した。


 今日の昼休みが待ち遠しい。


 土日を挟んで会うのは初めてだ。

 トークアプリでのやり取りも悪くはないが、天上さんと対面で会えるのが楽しみなのである。


 強化されている視力が、遠くの公園の時計に止まる。


 現在時刻、五時。

 ちなみに昨日寝た時間は、二時。


 ……全然寝られなかったんだよなぁ。


 まぁ、全然眠くねえし、なんか身体の調子もいい。

 問題なしだ。


 タバコを消して、灰皿代わりの空の缶コーヒーに突っ込む。

 二度寝するほど眠気もないしな、筋トレでもしてるか。

 今日はなんだか捗りそうだ。


 浮かれた調子のまま部屋に戻ると、スマホが震えていた。

 もしかして、という期待感。

 天上さんも普段寝られないって言ってたし、可能性は、ある。

 やっべえなんかワクワクする。

 

 上がったテンションのまま、宛先を確認して。


「…………、」


 通話拒否ボタンを押した。


 立ち上がる。

 スマホを持ってベランダへ。

 タバコに火を点けた。

 示し合わせたようなタイミングでスマホが再度震えたから、今度は通話ボタンをタップ。


『どうして切った。おいコラ』


「世界って俺の敵ですよねほんと。滅ぼしたい」


 わかってたよ、ちくしょうめ。

 そんな都合のいいことが起こらないくらい。クソが。

 思いっきりフィルターから紫煙を吸い込んだ。


「で、何の用すか。瑠美さん」


『依頼だ』


「キレそう」


『寝ているところを叩き起こされて、対応させられているアタシもキレそうだよ』


 めっちゃ平坦な声。

 キレそうって言っておきながら、ばっちりその一線を突破している感じだった。


「とりあえず公安くたばれということで」


『全員去勢した上で目ん玉くり抜きてえ』


 あらやだサイコ。


「女性の場合は?」


『代わりに熱した鉄パイプを——』


「それ以上はいけない」


 この人発想やばすぎだろ。

 ガンギまったマフィアくらいだわそんなことすんの。


 思わずスマホを遠ざけると、通知が来ていた。

 瑠美さんとのトークアプリに、車のナンバーと車種が送られている。

 えげつない呪詛を吐き出しながらも、きっちり仕事は済ませるあたり瑠美さんらしい。


 俺はため息を吐いた。

 口の端から肺に残った白い煙が出ていく。

 どちらにせよ断れるものではない。

 依頼の拒否は、できない。それが国が定めた俺たちへの首輪の一つだ。


「まぁ、行ってきますよ。急ぎですか?」


『そっちに車が着くまで、五分ほどと聞いている』


「りょーかいです」


 一応カバンに制服入れとくか。

 行って帰って着替えて学校は面倒くさい。

 奴らに学校の近くまで送ってもらえないか後で聞いてみよう。


 折角の朝が台無しだわ、ちくしょうめ。





『依頼はどうだった?』


「アホほどしょうもなかったです。俺じゃなくてもよかったですわ」


 通話越しの瑠美さんに嘆息混じりに返した。

 公安の奴らに適当な場所で降ろしてもらって、時間を潰した後に今は高校に向けて歩いている。

 この前スズネさんと話した自然公園を突っ切っている最中だ。


『そうか……悪かったな』


「いえいえ。まぁ、下手な奴を出して死なれちゃ困りますし」


『そうなんだよなぁ……』


「異形の強さが事前に分かればいいんですけどね」


 残念ながら、ゲートの大きさと異形の脅威度は比例しない。

 人ひとりの大きさのゲートから出てきた異形が、一つの街を壊滅させることもある。

 強さが読めないということは、そもそも少ない新人が育ちづらいということだ。


 新人の仕事にはできるだけベテランが帯同するようになっているが、パニックになった新人に巻き込まれて死亡、なんてのもよくあるらしい。

 幸い俺はまだ帯同は未経験だが、もしあったら気をつけねばならない。

 あまりに邪魔だったらその新人を殺してしまいそうなので。


『公安の研究機関が開発してるって話は小耳に挟んだが……上手くいっていないそうだ』


「でしょうねえ」


 そんなことより俺たちの迫害やら非人道な研究で忙しい組織だもの。仕方ないよな死ねばいいのに。


『そういや、昨日大河と美春から連絡が来たぞ。お前に会いたがっていた』


「二人が? 今は福島の方いるんでしたっけ」


 大河さんと美春さん。うちの事務所のメンバーだ。気が合うから俺も二人とは結構仲が良い。

 少し前に、二人の地元らしい福島に行くと聞いていた。

 もちろん里帰りとかの優しい理由ではなく、異形討滅の援軍として。


『今は長野クラスタだとよ。あっちは人手不足が深刻らしく、タライ回しにされているそうだ』


「あー…………」


 ここのような、東京ほどではないが人の動きが活発な場所はまだいい。

 異能者の人員が回せるし、国の手も届くからだ。

 これが地方とか田舎の方になってくると、一気に地獄と化す。

 ゲートの向こうに行って異形を叩くということが、できなくなるのだ。

 圧倒的な人手不足により、こちらの世界に出現した異形を討滅するので精一杯。一体倒す間に、三体の異形がこちらの世界に出てくる。

 そうなってしまえば、地上は人間ではなく、異形のものとなる。

 人間は限られた場所で固まって暮らすことを余儀なくされ、何とか築いたバリケードを異形に壊されないように凌ぐ日々。

 凌げなければ待つのは死。どうしようもなければ地下へ逃げ込んで、しかしやがて食糧が尽きて全滅する。

 そうして幾つもの地方が異形の手に落ちた。


 この街だって今でこそ平和だが、ひとたび異形がこちらの世界に降りてしまえば、待つのはただの終わりだ。

 俺たちは、綱渡りという言葉すら生温い、バランスの悪い平和の上に立っているのだ。


「まぁ、無事ならよかったです」


『下手すりゃ来月になるかもってよ』


 二人は強いしな。この分だとまだまだ異形をぶっ飛ばす旅は続くのだろう。

 その分ウチで対応できる人員が減ったため、さっきみたいに朝から俺に依頼が回されるってのは考えないでおこう。


 自然公園を抜ける。

 大通りに出た。

 ここを左に曲がって大通りをまっすぐ行けば、学校だ。

 後ろから同じ制服を着た生徒の自転車がゆっくり俺を抜かしていった。


「んじゃ、学校着くんでそろそろ切ります」


 異能者の話だから、あまり聴かれたくねえしな。

 俺がぼかすような言い方をすればいいけど、そこまで発言に気を使うのは面倒だし。

 特に他の用件は無かったらしく、『おう、またな』と軽い返事だけが来て通話が切れた。


 スマホをポケットに滑らせて、カバンを担ぎ直す。

 遅刻もせず、早すぎもせずの、ちょうどいい時間で着くだろう。


 大通りに出て、他の生徒に混ざる。

 大体が誰かと一緒に登校しているようで、そこかしこから話し声が聞こえる。少しうるさい。

 平和って証拠かねぇ。俺は大あくび。

 あー、ちょっと眠いな。

 屋上行って一服してくるか、教室で一限開始まで寝るか、迷いどころだ。

 足の向くままに決めるか。ぼんやりとそんなことを思いつつのんびり歩いていると、


「…………如月くん?」


 控え目な調子の、けれど綺麗な声が聞こえた。

 神経にニトロがぶち込まれたみたいに目が覚めた。

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