第三話 無駄となんか思ってねえよ


 少女は、作られるべくして作られた。

 少女は、最強となるべくして生まれ、そのように教育された。


 少女はガラス管の中で生まれた。


 異能と科学。

 この二つを組み合わせ、秘密裏に進められた国家最大のプロジェクト。


 その最高傑作が、少女となるはずだった。


 そう。


 


「何故だ……何故、覚醒しない!? データに不整合はない! プロセスも完璧だ! なのに…………なぜ……?」


「所長…………実験体に、致命的に異能の才能がない可能性が…………」


「バカをッ…………クソ!! では我々は、何のためにここまでの時間と金を費やしたのだ!?」


 才能というサイコロは、彼らにとって最悪の出目を引いた。

 どれだけ実験しようとも、神秘に目覚めることはなく。


 最強となるはずだった少女は、その身の内に眠る最強の力を、発揮する才能を持たなかった。

 つまり、少女は、どこにでもいるような、ただの女の子に過ぎなかったのだ。


「…………母体だ」


 そうして。

 たった一つの出目で運命がひっくり返った少女は。


「精子のストックはまだ残っているな? クローンでも通常分娩でも構わない。あれを母体に、手当たり次第に子を作るぞ。そうすればいつかは、完成形が生まれるはずだ。あれは異能以外の才能は問題ない。優れた異能の才能を持つ素体が生まれるまでやる。……いや、生まれても続けろ。ストックは多いに越したことはない。それが終わっても実験体としての価値はあるだろう」


 全ての人生を、閉ざされることが決まった。





「……母体が育ちきるまで、仮初の自由が与えられた」


「…………、」


「…………だからわたしは、普通の生活をしてみたいと、願った」


 静かに、女子生徒は語る。


「……でも、それももう、終わり」


 世界の何もかもに絶望し、希望も救いも求めることさえなくなった瞳で。


「……せめて、わたしの人生くらいは、わたしの手で終わらせたい」


「…………、」


 チャイムが鳴る音が、遠くに聞こえた。五限目の予鈴だろう。

 サボっちまってるな。そんなどうでもいいことを考える。


 頭の奥が痺れる感覚がしていた。


 なんだよ。


 なんだよそれ。


 自分ではない誰かが動かしているような感覚で、新たなタバコに火を点ける。

 紫煙で肺を満たしても、空に煙を吹きかけても、頭の奥の痺れは全く晴れない。


「…………、」


 右手を見下ろすと、缶コーヒーが無惨に握り潰されていた。

 残りが屋上のコンクリートに溢れている。


 本当に……ふざけているのか。


「どうして、そんな馬鹿げた計画が……」


「……少しだけ、聞いた。国が異形の討伐を主導することで、野良の異能者に大きい顔をさせなくなる」


「ッ、」


 そん、な……ッ、


 そんな、クソくだらない見栄が理由で。


 一人の女の子の人生をぐちゃぐちゃにしようとしているのか……?


『おにい、ちゃん………………』


 蓋をしていた記憶の底から声が聞こえた。

 たったひとりの大事な家族だった妹は、鉄のベッドの上であらゆる暴行を受けた姿で横たわっている。


 路上でただぶつかっただけ。

 それがちょっとムカついたのだと、何が面白いのかずっと笑いながらクズ共は言っていた。

 たかがそんなことが理由で、妹は壊されたのだ。


 この世には、どうしようもない奴らがいる。

 誰かの人生をさも当然のように踏みにじって弄んで、何が悪いのだと嘯く奴ら。

 弱者になら何をしてもいいと、暴力や権力を振りかざして笑いながら理不尽を強いる奴ら。


 目の前の女子生徒も。

 そんな奴らに、最初から最後まで理不尽に人生を奪われているのだ。


「ッ、」


 頭が沸騰する感覚。

 明確に首謀者とそれに関わる奴らを殺したいという意志。

 ああ、この感情は覚えている。クソみたいによく覚えている。

 『怒り』ってやつだ。


「…………最悪だ。本当に、最悪の気分だ」


 震える声で、何とかそれだけを呟いた。

 肺一杯にフィルターからヤニを吸い込んでも、ちっとも怒りが収まりやしねえ。


 無意識に異能で強化していたのか、缶コーヒーだったものはスクラップになっていた。


「……あなたは、優しい」


 そう言った女子生徒の目は、俺の右手に向いている。

 俺の激情を表すような、ただの鉄屑となった缶コーヒーを見ていた。


「優しくなんかねえよ。ただ、どうしようもなくムカつくだけだ」


 人を、俺たちを、何だと思っていやがる。

 命ってのは、人生ってのは、決して誰かが弄んでいいものじゃねぇんだよ。

 そんな、簡単なことすらわからないのか。これが正しいことだと、本当に思っているのか。


「……お願い、わたしを止めないで。できるだけ苦しくない方が嬉しいけれど、どうか死なせてほしい」


 女子生徒は、最後にそう、はっきり望んでいるとわかる声で、締めくくった。

 

 死にたいと。

 絶望しかない未来を目の前にして、死にたいと願う。

 これでいいのか。こんなこと、あっていいのか。

 彼女の目に映る世界は絶望に溢れていて、そこにほんの少しの救いの欠片もない。

 それは正しいことなのか。


『……おねがい…………ころして……おにい、ちゃん』


 まただ。蓋をしていてもなお夢にすら見るあの日の光景。

 鉄を飲み下すような過去がフラッシュバックする。


 地獄の底に沈んだ大切な妹を、俺は救い上げられなかった。


 あの日、あの時。

 虚空を眺めていた妹の、闇で濁り切った瞳が。

 目の前の女子生徒と、被る。


 昔の俺は、何もできなかった。


 だったら、


 今の俺なら……何かできるのだろうか?


 …………そんなことをしても、妹は——心葉ここはは、戻らないのに?


 俺は、俺自身は、どうしたいんだ?

 黙って彼女が飛び降りるのを見届ける?

 異能者の伝手で安楽死できる場所を紹介して、その命を静かに終わらせてやる?


 それとも————?


「………………、」


 俺は息を吐いた。

 確認したいことがあった。


「普通の生活とやらは、楽しめたか。どこかに遊びに行ったり、いろんな話をしたり。そんな思い出は、作れたのか」


「…………」


 女子生徒は何も答えなかった。

 思い出す素振りすら見せず、乾き切った表情が緩むこともなく。

 それが答えだった。


「次。死ぬのは、今すぐじゃなきゃダメなのか」


「…………あと、四ヶ月くらい。わたしが十八歳になるまで」


 てことはこの人、三年生か。

 今更に気づいた。


 天を仰ぐ。

 タバコの煙を最後に大きく吸い込んで、携帯灰皿に入れた。ついでに、落としていたらしい最初に吸ったのも入れる。


 遠くに見える入道雲に向けて、細く、長く、紫煙を吐き出した。

 それで、この人に関わる決意を固めた。


 どうしたいとか考えた時点で。

 きっと、俺の中で答えは出ていたのだろう。


「死ぬことは、止めない。何なら、安楽死ができるよう紹介もしてやる。そうしたら、いつもみたいに眠るだけで、君は死ぬことができる」


「……ありがたい」


 ただ。と俺は区切った。

 細い眉を寄せた少女に言う。


「それは、四ヶ月後だ。……それまでは」


 少し、次の言葉は勇気が必要だった。

 今まで、こういったことを言ったことがなかったから。


「……それまでは、遊ぼう。行ったことない場所、やったことがないこと、たくさんあるだろ? それを少しでも埋めるぞ」


 女子生徒は、首を傾げた。

 光のない瞳が、俺をつらぬく。


「…………どうして?」


「どうせ死ぬのなら、その前に少しくらい普通の生活とやらを送ってみてもいいだろう?」


 それに、

 と口には出さず呟く。


 ……この人を救ってみたいと、思ったんだ。


 たぶん、言葉は建前で、きっとそれが全てだった。

 そうすることで、きっと俺自身が救われたいのだろう。


 妹と重ねていた。

 俺が無力なせいで、これっぽっちの救いもないままに、俺が殺した最愛の家族と。


 きっと今なら、それだけじゃない答えが見つかる気がして。見つけたくて。


 だからこれは、ただの俺の我儘だ。

 自分が救われたいから助けさせてほしいという、エゴの押し売りだ。


「……もちろん、無理強いはしないさ。君が望むのなら、すぐにでも安楽死の用意をしてもいい」


 それなら仕方がなかった。俺は素直に諦めて、彼女の最期をすぐにでも手配する。

 でも、そんな、何も救いのない人生なんて。

 あまりにも、あまりにも…………悲しすぎる。


 だから俺は、彼女へと語りかける。


「だけどさ、すぐ死ぬのも、少し後に死ぬのも、変わりねえだろ。それなら、死ぬ前にやりたいことやっちまおうぜ。どうせ死ぬなら、何したっていいさ」


「…………やりたい、こと」


「そうさ。何かあるのか?」


 聞くと、彼女は思案するように視線を上に向けた。

 少し待っていると、緩慢な動作で首を傾げる。


「……むずかしい」


「そうか。————じゃあさ」


 俺は一歩、柵から離れて。

 向こう側へいる女子生徒へと、手を差し出した。


 光のない瞳を、まっすぐに見つめて言う。


「一緒に探しに行こうぜ。君のやりたいことをさ」


 柵の内側から手を伸ばす。

 彼女にとっては、一度は踏み越えたライン。

 何もなければ、もし俺が今日ここにいなければ、きっと戻ることすら考えなかったであろう境界だ。

 

 どうか届いてくれ、と願った。

 俺が無理やり、彼女を柵の内側に戻しても意味がない。

 彼女が自分の意思で、一旦は自死を思い止まってくれることこそが、必要なのだ。


「…………、」


 体育でもやっているのか、気の抜けたホイッスルの音が遠くに聞こえる。

 暑さか、緊張か、カラカラに喉が渇いている。

 眉の上を通った汗が、左目に入る。

 それでも、俺は我慢した。

 彼女がどちらかを向き、決断をその身に起こすまで、頑として動かないと決めていた。


「……、」


 どのくらい時間が経ったか。

 女子生徒は動かない、少しだけ開いた瞳が、心なしか呆然と俺の伸ばされた手を見つめていた。

 一分にも、三十分にも思える沈黙の後。


「……」


 ひらり、と。


 とても軽い身のこなしで、彼女は柵の向こうから。


 戻る。


「…………短い間だけど」


 言って、俺の手を、取った。

 少しつめたい、すべすべした、柔らかい手。


「任せろ」


 俺は頷く。

 できるだけ優しく、その手を握って。


「最高の四ヶ月にしてやるよ」


 そうして。

 俺にとっても、きっと彼女にとっても。

 忘れられない、思い出の四ヶ月が始まった。





 今は五限目の途中だから、六限が始まる前に戻ろうという話になった。

 二人で屋上の入り口近くの日陰に座る。

 人ひとり分離れた距離。ラベンダーのような香りがふっと鼻をくすぐった。


「ところで、名前は?」


「……天上てんじょう音羽おとは


「おっけ。俺は如月きさらぎ凪也なぎやだ。よろしくな」


「……よろしく。…………如月くん」


「っ、ああ。天上さん」


 そっと、囁くように呼ばれる。

 耳にするりと入るとてもきれいな声。


 表情も、瞳の暗さも、平坦な口調も変わらないのに。

 何故だか、今の言葉だけは柔らかい響きがあった気がして。

 少し驚いた。


 もし、表情をどこかに置き忘れてしまったかのようなこの少女が。

 心からの笑顔で、きらきらした瞳で、いっぱいの感情を乗せた声で、俺の名前を呼んだとしたら。

 きっと、今日以上の驚きがあるのだろう。

 そんなことを考えた。


 …………いや、必ずそうして見せる。

 絶対に、天上さんから、笑顔も、光も、心も、取り戻す。

 心葉にしてあげたかったけど、できなかったこと。

 それを取り戻す、というと語弊があるけれど。

 世界の全てが不幸で塗り潰されたような少女を救うと、決めたことだけは揺るがない事実だ。


 そのためにも、まずは。

 彼女のことをもっと、知る必要があった。


「天上さんは、三年生か?」


 確認がてら質問すると、小さな頷きが返ってくる。


「そうか。……今更だけど、敬語の方がいいか?」


「…………?」


「いや、俺、二年生だし」


 天上さんは目をぱちくりさせた。


「……………………意外」


「そいつはどうも?」


 まぁ、上に見えるよね。

 外国の血が混ざってるからか、背もそこそこ高く、顔立ちも悪く言えば老け顔だから、社会人にすら間違われる。

 タバコ吸ってる姿は、どこからどう見てもカタギの人間じゃないと言われたりする。


「……別に気にしない。今になって敬語も、違和感」


「それもそうか」


 背中を壁に預け、視線を空に放る。

 梅雨が明けた空は、日陰にいて太陽が見えなくても眩しいくらいに明るい。

 あと数日もすれば、セミが鳴き始めるのだろう。


「…………本当に、よかったの?」


「なにが?」


「…………わたし、つまらないよ?」


「…………、」


「…………如月くんの気持ちだけでもじゅうぶん、うれしかった」


「…………、」


「…………だから、わたしのためにそんな、無駄な時間を過ごさなくても、いい」


「無駄となんか思ってねえよ」


 空を見上げたまま。

 俺は言う。


 優しい人だ。天上さんは俺のことを優しいと言ったけど、この人も大概だ。

 だから、彼女の誤解を、解いてやらねばならない。

 俺はただ俺のためにやると、伝える必要がある。


「天上さんはさ。『殺してくれ』って大切な人に言われたら、どうする?」


「………………わからない。そうなったことがないから」


「まぁ、そうだよな」


「……?」


 少し間を開けて。

 小さく息を吸う。

 心の奥深く。血塗られた錠をこじ開けて、未だに癒えない傷を晒す。


「俺は、ある。………………そして、俺は殺したよ。妹を、唯一の家族を、この手で」


「…………っ!?」


 今でも覚えている。

 一生忘れることはないだろう。

 妹の動脈をナイフで切り裂いた、あの感触は。

 あれが初めての、人を殺した経験だった。


 右手を見ると、当時を思い出したように震えていた。

 人を殺す時に、手が震えることも、心が動くこともなくなったけど。

 あの時のことを思い出すだけで、馬鹿みたいに震えてしまうんだ。


「一生癒えない、深い深い傷が、心と身体に刻まれた。そんな妹に殺してくれと頼まれてさ。…………俺のために生きてくれなんて、とても言えなかったんだ。殺してあげることが正しいんじゃないかって、思ってしまったんだ」


 だけど、と続ける。


「それは、間違いだった」


「…………間違い」


「ああ、間違いだ。一生傷が癒えないのなら、一生寄り添って支えればいい。それだけだったんだ。…………結局、それだけの覚悟も自信もなかったから、言われるがままに、殺してしまった」


 それでいて、一緒に死んでやるだけの度胸もなかった俺は、ただの臆病者だった。

 今はどうだろう?

 きっと、変わったと思う。

 変わったと、変われたと、自分のことを信じてみたい。

 だからさ。


「妹の代わりってわけじゃないけれど。あの時何もできなかったから、今度はできる限りのことをやりたいんだ」


「……そっか」


「天上さんの瞳は、妹が『殺して欲しい』って俺に頼んだ時と、とても良く似ていてさ。…………放っとけねえんだ」


 天上さんの肩が跳ねる。

 感情の読めない瞳が、こちらを見る。


「だから……無駄な時間なんて、思ってない。俺は俺のために、天上さんに何かしたいって思ってる」


「…………う、うん。わかった」


 返ってくる声は、少しだけか細かった。

 どうしたのかと顔を見てみると、白い耳にほんのりと赤み。


 …………、


 …………、


 …………ひょっとして俺、とんでもなく恥ずかしいこと言った?


「まぁ………その、そういうことだから。そんな感じで」


「…………そういうことなら。おっけい」


 俯いた少女の色づいた耳ちらりと見て。

 逃すように視線を空に戻した。


 五限目のチャイムが鳴ったのは、それからすぐのことだった。

 どちらともなく立ち上がる。


「よかったら早速、放課後に遊びに行こうぜ。何組?」


「…………A組。手腕に期待」


「肩肘張らないくらいで頼むよ。お互いにな」


 やっぱりこの人、たまに言い回しが面白いな。

 もっと会話してみたい、この人のことを、もっと知りたい。

 久しく抱かなかった感覚が、俺の中に生まれていた。

 今まで、妹以外の誰にもそんなことを感じたことなかったのに。


 とても不思議で。


 少しだけ、むず痒かった。


「じゃあ、迎えに行くわ。後でな」


 軽く手を振って先に戻ろうとすると、くい、と袖を引っ張られる。

 振り向くと、天上さんがこちらを見ている。やっぱり、表情はずっと凍ったかのように動かない。


 ……いや、どこか、よそよそしい? 居心地が悪そう? 直感だけど、そんなことを思う。

 言いづらいことでもあるのだろうか。


 次の反応を待っていると。

 天上さんは、ぺこり、と小さな頭を下げた。


「…………その、さっきは謝る。もう無駄な時間とか言わない」


「ああ、そのことか。気にしてねえから大丈夫だよ」


「…………それと。放課後、楽しみにしてる」


 そう言って、天上さんは先に屋上から出ていった。

 たたた、と小走りで階段を降りる音。


 遅れて、ラベンダーに似た匂いが香って。

 すれ違う直前に見えた、僅かに緩んだ桜色の薄い唇が……まるでそこだけを切り取ったかのように、鮮烈に脳裏に焼き付いた。

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