第12話 それぞれの夜――大須佐アカネ――
東京は千代田区の一等地にある高級マンション。24時間警備員が常駐する正門が
あるなど外見だけでなく、セキュリティ面からしても平凡という言葉からはかけ離れ
た造りの建物の前でアカネは漕いでいた自転車を止めて降りると、ヘルメットを脱い
で疲れ切った深い息を吐いた。
そして部屋の鍵と共通になっている正門を通過するためのカードキーを取り出して
自転車ごと中へ入ろうとすると、不意に警備室の扉が開きアカネは反射的にそちら
へと目を向けた。
「ではお嬢様がお帰りになられましたので私はこれで失礼します。ええ、こちらこそ
美味しいお茶をご馳走様でございました」
すると中にいる守衛と何やら仲良さげな挨拶を交わして出てくるタキシード姿の老人
と目が合った。
「えっ?
清潔感のある整えられた白髪の髪と同じ色の口髭。そして両手にも白の手袋を着けた
老執事――草薙とアカネが名前を呼んだ通り、彼女にとってはよく知る者であった。
草薙はアカネに対して敬意を払うように礼儀正しく頭を垂れると、
「お久しぶりでございます、お嬢様。お変わりないようで何より……いえ、最後に
お会いした時よりも少し背が伸びましたかな?」
「そうね。最後に会ったのはアタシが高校に入る前――あの家を出た時だもんね。
1年も経てば少しは大人に見えるようになったかしら」
「ええ、それはもちろん。ますます奥様の若かりし頃によく似てこられました」
「……そう。それは何よりも嬉しい言葉だわ」
優しく微笑んで答える草薙にアカネも気を許した笑みを返す。
「それで、草薙さんがここにいるってことは……」
「はい。旦那様がお呼びでございます。今晩一緒に食事をどうか、との伝言を
預かって参りました」
「まっ……そんなことだろうとは思ったわ……」
「如何なさいますか?お見受けいたしましたところかなり顔色が優れませんようです
し、私からまた後日にでもと旦那様には取りもつことは出来ますが……」
「……ううん。草薙さんに迷惑はかけられないし行くわ」
「私のことなど些細なこと。大事なのはお嬢様の御身でございます」
「だからこそ、よ。お母様が亡くなられた後も私やお兄様を支えてくれたあなたに
これ以上の迷惑はかけれないもの。それこそ私の気が病むわ」
「お、おぉ……なんとお優しい……!この草薙、大須佐家にお仕えして幾十年。これ
ほど嬉しいお言葉などありませんでしたとも!!」
「もぉ大げさすぎ。じゃあ自転車を置いて着替えてくるからもう少しだけ待ってて」
「畏まりました。ごゆるりとご準備を」
再び恭しくお辞儀をする草薙に見送られながら、アカネは一度自分の部屋へと戻って
行った。
「……久しぶりね。この家も」
乗っている黒のロールスロイスが開かれた門をくぐり、敷地の中へと入っていく。
ゆっくりと流れていく見慣れた庭の景色を車内から眺めながら、ワインレッドの
ドレス姿に着替えたアカネは誰にでもなく独りごちた。
やがて車は西洋の城を連想させる巨大な館の前で止まると、運転していた草薙がまず
先に降り、アカネが乗る後部座席のドアを開けた。
「どうぞお嬢様。お足もとにお気をつけてお降り下さい」
「ありがと」
アカネは差し出された草薙の手を取り礼を述べると、言われた通り座席からは段差に
なっている地面へと気をつけながら足を伸ばし、車を降りる。
そして自分の身長の倍はあろうかという巨大な扉の前まで歩くと、そこにはメイド服
に身を包んだ自分よりも一回り以上年上の女性が待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、タマさん。それと久しぶり。元気してた?」
アカネの言葉にタマと呼ばれたメイドは僅かに驚いた顔を見せたがそれも一瞬で、
すぐに元の顔に戻ると、
「はい、お陰様で。お嬢様もお変わりなく……いえ、随分とお変わりになられました
ようで」
「車の中で草薙さんにも言われたわ。こっちのほうがこの家にいた頃のアタシより
生き生きしてて良いってさ」
やはり記憶の中にあるアカネとは違い、まるで友達と話すかのようなフランクな言葉
遣いにタマは戸惑いながらもそれ以上におかしくなったのか口を右手で隠し上品に
笑ってみせる、
「僭越ながら私もそう思います。ですが、旦那様の前ではお止しになったほうがよろ
しいかと」
「わかってるって。TPOはわきまえてるつもりよ」
「出過ぎたことを申し上げました。では――」
タマは一度頭を垂れてからメイド服のポケットから金色の鐘を取り出して鳴らすと、
一瞬の間を置いてから巨大な玄関扉が重い音を立てて館内へと向けて開いていく。
そして扉が完全に開くと、中央に敷かれた汚れ一つ見当たらない紅の絨毯を左右から
挟むようにして並んだタマと同じメイド服を着た女性が二人。
その後ろに今、扉を開けたメイドの二人がさらに並び直して加わり、
『お帰りなさいませ、お嬢様』
同時に一糸乱れぬ動きで頭を垂れ、出迎えの挨拶をしてきた。
「ただいま。タマさんだけじゃなくて皆も元気そうで何よりだわ。わざわざお出迎え
ありがとうね」
頭を下げ続ける見知ったメイド達に社交辞令ではない挨拶をしてから、アカネはその
前を通り過ぎていく。
外観同様に広く開かれた洋式の玄関ホールを進むアカネの数歩後ろをタマが同じ歩幅
でついていく。
「お父様はどこに?」
「すでに食堂の間でお嬢様のお帰りをお待ちしております」
「そう」
自分を呼び出した父の居場所を聞き、アカネは玄関ホールの正面から二階へと繋がる
両階段を避け、その左脇をさらに進んで行く。
そして突き当りの扉の前で立ち止まると、タマは「失礼いたします」と述べてから
アカネが着ているドレスの僅かな乱れを一つたりとも見逃さず手直ししていった。
「ご準備、整いました」
「ありがと。じゃあ……お願い」
「畏まりました」
タマは表情に緊張の色を浮かべるアカネの横で一度頭を垂れると、扉の前に立ち、
コン、コンと二度ノックする。
「旦那様。お嬢様がお帰りになられました」
返事はすぐにはなかった。いや――アカネにだけはそう思えただけなのかもしれな
い。
館の中に入った時からまるで今日のステージ前の時のような面持ちになっていた彼女
にしてみれば、出来ればこのまま返事がないのを理由に帰ってしまいたいと期待せず
にはいられない――アカネにとって父親とはそういう存在であった。
「――入れ」
が、そんな望みが叶うはずもなく、扉の先からは聞き慣れた――しかし聞きたくは
なかった男の低い声が聞こえていた。
アカネは目配せをしてきたタマに頷くとそれを合図にして、
「失礼いたします」
タマが扉を開いてく。そしてアカネは一つ深呼吸をすると室内に足を踏み入れた。
「……お久しぶりです。お父様」
着こなしたドレスだけではなく普段の軽い言動のアカネとも別人のように、まるで
一国のお姫様のように洗練されたカーテシーで挨拶をするアカネ。
その姿勢を保ったまま父親の返事を待つが、いつまでも声は聞こえてこず、代わりに
タマの「お嬢様、こちらへどうぞ」という声を合図にするように体勢を戻すと顔を
上げた。
そして、親子で共に食事をするには大きすぎる長テーブルの上座の席に座る父と
呼んだ初老の男から二席分空けた下座に当たる席の椅子をタマが引き、そこへ腰を
おろした。
そして役目を終えたタマが一礼して退室すると、後はそのまま――無言の時間が流れ
ていく。
どちらからも口を開こうとしない。
父はどう思っているかは知らないが、アカネには居心地の悪さしか感じられない拷問
に等しい時間がこのまま永遠に続くような気がしてきた――そんな時だった。
「すみません。どうやらボクが一番遅かったみたいですね」
再び入口のドアがノックされ、入ってきたスーツ姿の青年男性の声にアカネはうつむ
かせていた顔をハッとさせて上げるとそのままそちらへと向ける。
「お兄様……!」
「久しぶりだね、アカネ。また一段と母様に似てきたんじゃないかい」
「お兄様まで草薙さんと同じことを言うのね」
「それだけ皆がアカネから母様の面影を感じるってことさ。ねぇ、父様?」
息子に話を振られても父は何も答えず、それどころか眉一つ動かさない。
だがその不愛想を極めた反応は今に始まったことではなく、相変わらずの父の態度に
兄はやれやれと肩をすくめてみせた。
アカネにしたようにタマは椅子を引いて兄が妹の向かいの席に着席したのを確認して
から、「それではお料理をお持ちいたします」と三人に向けて頭を垂れると、再び
部屋を出て行った。
「それにしても父様もお元気そうで何よりです。会社のほうも新たな事業に着手し、
順風満帆なようで」
そこでやっと父は、「ああ」と低い声で一言だけ答えた。
「お前のほうこそどうなのだ?」
「こちらは相変わらずですよ。
毎日です」
「中田先生は立派な方だ。あの人の教えに従っていれば間違いはない」
「ええ。ボクもそう思います」
そこで兄は父との会話に区切りをつけると、今度はアカネへと顔を向け話を振る。
「アカネも芸能活動を頑張ってるみたいだね。今日のステージ、ボクもここに来る
まで配信で見たよ。贔屓目をなく見ても凄く素敵だった」
兄に今日のステージの話を持ち出された瞬間、アカネはビクッと体を震わせ硬直させ
た。
「お、お兄様……。そのお話は……」
「結果を気にしてるのかい?勝負は時の運、今日のような結果になる時もあるさ。
それに勝った負けたをいちいち気にしてたらボクなんて……」
「――そのことだが」
そこで突然。父が兄妹の話に割り込んできた。
そして睨みつけている訳でもないのに相手を委縮させるほどの鋭い眼光をアカネに
向け、
「アカネ。お前はいつまであのようなくだらない遊びを続けるつもりだ」
「――ッ!くだらなくなんて――」
反論しようと父の顔を睨みつけようとしたアカネであったが、喉元に刃物を突き付け
られたと錯覚するほど鋭い眼光に圧され、言葉の勢いを途中で失い、
「……くだらなくなど……ありません…………」
父から目を逸らし、か細くなった声で言い返すのが精一杯であった。
「そうですよ、父様。アカネが今やろうとしていることは世界中の人々を笑顔にさせ
る素晴らしい仕事なんですから」
「フン……世界中の人々を笑顔にさせる、か。世界中の人々から笑い者にされるの
間違いではないのか」
「………………」
「いいか。お前も大須佐の人間である以上、その名を傷つけることは許さんと教えた
はずだ。それがアイドルだと?実にくだらん。あのような低俗な見世物になるなど
大須佐の人間として恥さらしもいいところだ。
やはりお前に自由を与えたのは間違いだったようだな」
「……うる…さい…………」
それまで父の高圧的な言葉に耐えていたアカネであったが、
「もういい加減にして!!」
ついに――キレた。
自分のことはどれだけ馬事雑言を浴びせられようが耐えようと思っていた。
しかしアイドルその物にまで及ぶのならば話は別だった。
それは今日まで一緒にアイドルとして頑張ってきたヒカリとヨミも否定されることに
なる。アイドルとしての自分を支え続けてくれるカネトやアキ、それにノリトすらも
否定されることになる。
今の自分にとってRe:SETは最も大切な場所。実の父親よりもずっと家族らしい人達
といられる、かけがえのない場所なのだ。
だからこそ、それだけはいくら父親が相手であっても譲ることは出来なかった。
「お父様はいつだってそう!大須佐の名のため!大須佐の名のためって!!
そんなくだらないことに拘るからお母様の死に目にも会いにこられなかったので
しょ!!」
「アカネ……」
立ち上がり怒鳴り散らすアカネを宥めようと兄が声をかけてくるが、一度爆発させて
しまった感情は止まらない。アカネはバン!と両手でテーブルを叩きつけ、さらに声
を荒げる。
「もううんざり!そんなことのために寂しく逝ってしまわれたお母様が可哀想だ
わ!!」
「アカネ!!」
しかし――滅多に語気を強めない兄の声にアカネはビクッ!と身を震わせ、我に返っ
た。
「それ以上はいけない。お前だって……いや、最後まで母様の傍にいてくれたお前だ
からこそ、あの人がそんなことを思っていなかったと分かってるはずだ」
「そ、それは………」
「それに、アカネにそんなことを言わせたくない優しい人だったってことも分かって
いるだろ?」
「………………」
諭すように優しく語りかけてくる兄の言葉に、あれだけヒートアップしていたアカネ
の頭が一気に冷まされていく。
兄の言う通り自分は言ってはならないことを言ってしまった。冷静さを取り戻した頭
で改めてそう理解すると、アカネは涙ぐんだ目を手の甲で擦りながら、
「……はい……。ごめんなさい……お兄様……」
か弱く、震える声で謝罪した。
「父様もあまりアカネにきつく当たらないで下さい。やっと以前のように笑えるよう
になってきたのですから」
「そうやってお前が甘やかすから、いつまで経っても子供のまま成長できんのでは
ないのか」
「アカネはまだ子供ですよ。それに少なくてもボクがアカネの歳だった頃よりも
しっかりしています」
兄が壁役として父との間に立ちフォローしてくれている間もアカネは立ち続けたまま
で、必死に涙を内に押し込めてながら呟くように小さく口を開いていく。
「……私、今日はもう帰ります」
「逃げるのか?」
「――っ!やっぱり来るんじゃなかった!!」
最後まで父とは分かり合えぬままアカネは部屋を飛び出すと、ちょうど料理を運んで
きていたタマと鉢合わせた。
「お嬢様……?」
「……ごめん、タマさん。私もう帰るから。料理長達には食べれなくてごめんって
伝えておいて」
「あっ!お嬢様!!」
自分の脇を足早に駆け抜けていくアカネを反射的に追おうとしたタマであったが、
背後からその肩にポンッと軽く手を乗せられたことに気づき顔を振り向かせた。
「あっ……若様……」
「タマさんは料理を父様のところへ。冷めてしまってはせっかくの料理が台無しだか
らね」
「……やはりこうなってしまわれたのですね」
「ああ。まったく父様には困ったものだ。母様の件を負い目にしすぎるあまり
アカネに対しても父親としてどう接していいのか分からなくなりすぎなんだよ、
あの人は。……っと、今言ったことは父様には内緒にしておいてくれよ?」
「くすっ。心得ております。では若様、お嬢様のことをよろしくお願いいたします」
「ああ。ボクの料理は戻ってきたら食べるから置いておいてくれ。それと料理長達に
は出来たてを食べてあげれなくてごめんと伝えておいてくれると助かる」
「畏まりました」
最後に同じ気遣いをしてから去る心優しい兄妹をタマは微笑ましく思いながら頭を
垂れて見送ると、言いつけ通り料理が冷めぬうちに主人のもとへと運んで行った。
【続く】
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