第7話 ファンとサインと土下侍 2
「……という訳でして誠に勝手なお願いで大変恐縮ですが、どうか何卒、照月さんの
ファンの子のためにサインを書いて頂くことは出来ませんでしょうか」
「それは別に構わないのだけれども……どうして高天原さんは土下座をしているの
かしら……?」
レッスンスタジオの床に額を擦りつけた芸術品と呼べるほど美しく完成された土下座
姿になっているヒカリを前に、ヨミも思わず行っていたストレッチを止め、珍しく
戸惑った顔で聞き返した。
「照月さんは仕事とプライベートをきっちりと分けるタイプみたいですし、こういう
お願いはお嫌いかなと思いまして。ならばせめて私が土下座でお願いするのは当然の
ことかと」
「確かに公私混同するのは好きではないけれど、別に何十枚も書くという訳ではない
のでしょ?」
「はい。この1枚だけでいいですので何卒平にお願い申し上げます」
「なら、そんな大げさに頼まなくてもいいわよ。逆にこっちが恐縮してしまうわ」
ヨミは小さくため息をつきながら立ち上がると、それでもなお土下座を続けるヒカリ
の前に置かれた新品の色紙とサインペンを手に取り、慣れた様子で自分のサインを
書いていく。
「送り先の人の名前も書いておくから教えてくれるかしら」
「あっ、はい。奥津島カナちゃんです。漢字はこう書きます」
土下座したまま器用に片手でスカートのポケットからスマホを取り出すと、今日登録
したばかりの連絡先から新しい友達の名前を表示させ、それを両手で持ち直しヨミへ
献上するように差し出す。
スマホの文字を確認しながらヨミはサインを書き終えると、「はい、これでいいかし
ら」とそれをヒカリの前に丁寧に置いた。
「ご確認させて頂きます」
そこでやっとヒカリは顔を上げると、書道家にも劣らぬ達筆な筆跡で色紙に書かれた
ヨミのサインとその横に添えられた奥津島カナさんへという一文を確認し、
「ははぁ!ありがたき幸せぇ!カナちゃんも絶対に喜んでくれまするぅぅ!!」と
再び仰々しく頭を下げた。
(私ってそんなに高天原さんから恐れ多い存在だと思われているのかしら……)
確かに思い返せば、レッスンで一緒になることは多いが会話は必要最低限なことしか
交わしていない。
自分からヒカリに話しかけることはあっても逆はほとんどなく、あったとしても今回
のようにやたら緊張して『業界の大先輩である照月ヨミ』として気を使いまくりなが
ら話しかけてくることばかりであった。
別にヨミはそんな上下関係など望んでも求めてもいないのでヒカリが勝手にやってい
ることなのだが、だからこそヒカリからの明確な距離間とその間に隔てられた壁を
感じざるを得なかった。
(慣れ合うつもりはないと言ったのは私自身だから、高天原さんの態度に口を挟む
権利もないのだけど)
頭では分かっていても少しばかりの寂しさをヨミが感じていると――
「おっはろ~……って何この状況。ってかデジャブを感じるんですけど?」
いつもの調子でアカネがレッスンスタジオに入ってきた。
「またしても天才子役様が事務所の後輩に土下座をさせてる瞬間のスクープ画像ゲッ
トだぜっと」
そして初めてこの三人が揃った時とまったく同じく、手早くスマホを取り出すとカメ
ラのシャッターを切り始めた。
「だからこれは高天原さんが勝手にしているだけで私がさせたわけではないわ」
ヨミは大きくため息を吐き出すとアカネに歩み寄り、スマホを奪って今撮った写真の
データを全て削除する。
そしてスマホをアカネに返すと、先ほどまでいた場所に戻りまた黙々と独りでストレ
ッチを再開した。
「で、ヒカリはいつまでその恰好でいるの?」
「て、照月さんに私の感謝の気持ちが伝わるまで……?」
「もう十分すぎるほど伝わっているから元に戻していいわよ」
「ははぁ!ではお言葉に甘えせていただきまして!」
ヒカリ自身も元に戻るタイミングを逃していたのか、ヨミが出してくれた助け舟に
これだとばかりに飛び乗ると、上半身を起こして「ふぅ~~」と一仕事成し遂げた者
の顔で額を腕で拭った。
「ってかヒカリが持ってるのって色紙だよね。その子にサイン貰ってたの?今さ
ら?」
「あ、いえ、これは学校の友達から頼まれたものでして。昔から照月さんの大ファン
でサインを貰えないかってお願いされてたんです。
それで……実はアカネさんの大ファンの子からも同じお願いをされているんですけ
ど……」
「いいよ。何枚書けばいいの?」
「い、1枚で大丈夫です」
「オッケー。これに書けばいいのね」
言うが早いかアカネは荷物を床に置くと、ヒカリから受け取った新品の色紙にサイン
を書いていく。
ヨミ同様にサインすることには慣れているのか迷いのない筆使いであっさり書き終え
ると、
「そのアカネちゃん様の大ファンだって言う子の名前は?」
「あっ、佐因サヨリちゃんです。漢字はここに書いてあるので……」
「ふむふむ。佐因サヨリさんへ……っと。ほい、できたよ」
「ありがとうございます!サヨリちゃん、絶対に喜んでくれると思います!」
そう言ってヒカリは頭を下げ、先程ヨミに書いて貰ったサインとアカネのサインを
改めて見比べる。
「二人ともちゃんと送る相手の名前まで書くなんてファンサービスがしっかりしてる
なぁ。私も見習わなくちゃ」
「あ~それね。ぶっちゃけ転売対策よ」
「転売対策?」
「もしアタシのサイン色紙が欲しい!って人がいたとするでしょ。で、ネットオーク
ションとかで売ってないか調べた時、自分じゃない名前が書いてあるサインなんて
欲しくならないでしょ?」
「それは確かに……」
「まぁヒカリが言ったみたいに本当に欲しがってくれてる人は自分の名前を書いてく
れて嬉しいって普通はなるからただサインするだけよりもこっちの好感度は上がる
し、もしファンを止めた時にサインがいらなくなっても転売されるのを抑制できる。
相手は喜んでくれてこっちもサインを転売されなければイメージの低下にもならない
し嫌な思いもせずに済む。WIN―WINの関係ってやつね」
「うぅ……それってファンの人のことを信じてないみたいでなんだか世知辛い
です……」
「ファンだって人間だってことよ。むしろ一生ファンでいてくれる人のほうが
レアよ、レア。
まぁ、その辺はアタシなんかよりもあの子のほうが骨身に染み込むまで分かってる
でしょうけど」
そう言ってアカネはストレッチを続けるヨミをチラリと横目で見た。
「ヒカリにもそのうち嫌でも分かる日が来るわよ」
「で、でもでも!私はカナちゃんもサヨリちゃんもずっと二人のファンでいてくれる
と信じたいです。まだ友達になったばかりだからそんなこと言っても説得力なんてな
いですけど……」
「まっ、ヒカリの友達ならアタシも信じるわよ。あくまでそういう人もいるから
頭の隅にでも覚えておきなさいって話」
アカネは頭では理解できても心の中では消化しきれずにいるヒカリの肩を優しくポン
ポンと叩く。
「ってか、ヒカリは自分のサインってあるの?」
「えっ?あ……え、ええっと……」
アカネの質問に対しヒカリは視線を泳がせながら逸らし、
「ワタシニ、ハ、ソウイウ、ノ、マダ、ハヤイ、カナッテ……」
嘘をつく時になる機械的な口調で言う。
アカネもヒカリとはまだ短い付き合いだが、そのあからさまな不審極まりない挙動に
何かを勘ずくと、「はは~ん?」と不敵な笑みを浮かべて床に置かれたヒカリの荷物
へと向かって駆け出した。
「ちょ、ちょっとアカネさん!それ私のバッグ!」
「さてさて~、ヒカリが隠してるお宝はどれかなぁ~と」
持ち主の静止の声を無視してアカネはバッグを開けると、中に入っていた一冊の
ノートを取り出した。
それをペラペラとめくっていくとそこには今日までのレッスン内容が。さらにはそれ
に対して自分がどうしていくべきかが事細かく書き詰められていた。
(へぇ~、真面目というか几帳面というか)
感心しながらさらにノートをめくっていくと、最後の最後でついに【それ】を見つけ
た。
「ダ、ダメですってばアカネさん!それは見ちゃダメ~~!!」
「おっと」
ノートを奪い返しにきたヒカリをアカネは闘牛士のように華麗なステップで身をひる
がえしてかわすと、
「な~にが『ワタシニ、ハ、ソウイウノ、マダ、ハヤイ、カナッテ……』よ。
めちゃくちゃ考えまくってるじゃない!」
わざわざヒカリのモノマネをしてからノートの最後にいくつも書かれていた【サイン
案】を持ち主に見せつけながら、ぷぷぷっと心の底から楽しそうに笑ってみせた。
「ああああああああ!!あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!」
書いた本人からすれば、それは絶対に他人には見られたくない恥部中の恥部である。
心に防御不可能のクリティカルダメージを喰らったヒカリは絶叫と共に目にも止まら
ない神速の動きでアカネからノートを奪い返すと、それで真っ赤になった顔を覆い隠
してその場にしゃがみこんだ。
「いやいや、分かる。分かるよ~ヒカリ。こういうのってついつい色々なパターンを
考えちゃうよねぇ~。アタシもそうだったもん。別に恥ずかしがるようなことじゃ
ないって」
「ア、アカネさんもそうだったんですか……?」
「でも流石に3ページも使いきるほどサイン制作ガチ勢じゃなかったけどね。ぷぷ
ぷ」
「い、意地悪!アカネさんなんて嫌い!バカ!バカバカバカ!」
ヒカリが両手で持ったノートを振り上げぺしぺしとアカネを叩くと、彼女はそれを
右腕でガードしながら、「ごめん、ごめんて」と一応は謝りながらもからかいがいの
あるヒカリのリアクションを堪能するように笑っていた。
「ってかさ、これ次の配信のネタにしようよ。高天原ヒカリが考えに考えぬいたサイ
ン案を公開!視聴者から一番人気があったものを正式採用!ってな感じでさ」
「絶対に嫌です!もしもネタ票が集まって変なのが選ばれたら最悪じゃないですかぁ
~!!」
「ちょっとあなた達、何を騒いでるの?下まで声が聞こえてきてたわよ」
と、そこでアキが呆れ顔で入ってくる。
「ねぇねぇ聞いてよアキさん。実はヒカリがさぁ~」
かくかくしかじかとアカネがヒカリのサイン案を使った配信の件まで説明すると、
「採用」
「即決された!?」
ガーン!とショックを受けるヒカリ。
「とはいってもその配信はフェスが終わった後よ。今は目の前のことだけに集中しな
さい」
パンパンと手を叩いてアキは場の空気を引き締めると、怪我だけはしないようしっか
りストレッチを済ませておくよう指示してから自身も準備をするため一度事務所へと
戻っていった。
【続く】
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