五章 白馬の王子様

 恵比寿にある複合商業施設は、休日となると、ラッシュアワー時の東京駅並みに人混みでごった返していた。


 これまで恋人ができたことがない悠司にとっては、縁のないデートスポットだったが、いざ訪れてみると、あまりの煩雑さに嫌気が差してしまう。


 それでも悠司は、人の波に酔いながら、理緒と一緒にいくつかテナントや美術館を回った。


 理緒も人の多さに辟易していると思ったが、彼女は終始、楽しそうだった。手こそは繋いでいなかったが、他者から見ると、二人の雰囲気はそれこそ恋人そのものであろう。


 頭の中に、洵子が教授してくれた『段階的暴露療法』の手法が、ルーレットのようにぐるぐると回っていた。


 理緒とデートに赴く直前までは、自信満々に勢い込んでいたものの、いざその時を迎えると、なかなか実行に移しづらかった。なにせ、こっちは女性経験ゼロの赤面症の男なのだ。


 午後になり、施設の一階にあるレストランで食事を行う。理緒はデートが楽しいのか、ずっと上機嫌だった。


 食事を済ませたあと、二人は、中央広部へとアクセスしているプロムナードへとやってきた。遊歩道内は、家族連れやカップルばかりだ。


 悠司は、理緒と並んで歩きながら、期をうかがっていた。彼女は悠司の思惑とは裏腹に、相変わらず楽しげだ。特になにも変わった様子はない。時折、いちゃいちゃとスキンシップをしたり、人目も憚らず、キスを行っているカップルを見て、渋面を作っていたが……。


 一体どうやって、『段階的暴露療法』を実行に移そう。あまりだらだらと延ばしてしまうと、きっかけを消失しそうだ。


 悠司がそう考えたとき、ふと、理緒が怪訝な表情をこちらに向けていることに気がついた。


 あまりに頭の中にある画策ばかりが先行し、上の空になっていたようだ。理緒は、なにか質問をしたらしい。


 「え?」


 悠司はきょとんとして聞き返す。理緒は花びらのような形のよい目を細め、首を傾げた。


 「悠司、大丈夫? さっきからボーっとしてない?」


 理緒は、風邪を引いた子供を心配するような口調で、言葉を投げかけてくる。


 「い、いや、なんでもないよ」


 計画を実行に移すよりも前に、相手に悟られてしまっては、元も子もない。


 「ただ、人が多いなって思ってて」


 悠司は、プロムナードを歩く人々を眺めながら、そう弁明した。実際、人混みに辟易していたのは事実だ。


 「ふうん」


 理緒は、納得したのかしてないのか、曖昧な表情で頷いた。


 「それで、なにか質問したよね? なに?」


 話を変えたくて、悠司は先を促す。同時に、すぐ横を一組のカップルが通り過ぎた。


 悠司はその時、目にする。すれ違う瞬間、カップルのうちの男のほうが、理緒へ視線を向けたことを。男の表情には、性欲と好奇が入り混じっていた。


 理緒とデートしている時に、頻繁に目にする光景だ。理緒は平均の女性よりも容姿が優れている。眉目秀麗という言葉が相応しい存在だ。今のように、男から衆目を集めることは当然の帰結であった。と同時に、彼女は、男から常に、劣情にも似た視線に晒されていることにもなるだろう。


 理緒は、男の視線に気づいた様子をみせず、平然としたまま、悠司の質問に応じた。


 「えっとね、悠司は漫画家を目指してるんでしょ? 一体、なにがきっかけなのかなって思って」


 「あー」


 悠司は頭を掻く。少しだけ、気後れする。正直、自身の漫画について、あまり掘り返されたくない本音があった。極秘のアダルト漫画家である事実もさることながら、この年で漫画家志望という点を触れられるのは、けっこう恥ずかしいのだ。


 だが、漫画家を志すきっかけについて、嘘をつく必要もないため、悠司は事実を話すことにした。そもそも、大したきっかけでもない。


 「単純な理由だよ。好きな漫画があって、感銘を受けたから自分も漫画を描きはじめただけだよ」


 「好きな漫画って?」


 悠司は、理緒に作品名を伝えた。彼女は知らないらしく、首を捻る。国内外問わず、かなり有名な作品なのに、知らないとは悠司は面食らう。


 理緒は、漫画にすら興味がないのか。そういえば、前に悠司の作品を読んだ際も、特に内容についての所感はなかったが。


 「まあ、悠司が好きなことだし、私は応援するね。ただ、くれぐれも変な作品やエッチな描写はしないでね」


 「わかってる」


 やはりというべきか、あくまでも、理緒の価値観はそこに集約されているようだ。もっとも、それを解消するために、今日はこうしてデートをしているのだが……。


 その時だった。一陣の風が吹いた。冬の到来を予期させるような、冷たく強い風。


 理緒の髪が、海草のように揺らいだ。理緒はさっと、自身のセミロングの髪を押さえる。


 悠司は、そこではっと閃く。洵子の言葉が頭に蘇った。今がチャンスなのかもしれない。やってみよう。


 風が止んだあと、悠司は唾を飲み込み、さり気なさを装って、理緒に言った。


 「あ、髪になにか付いてるよ」


 そして、理緒の反応を待つことなく、彼女の艶のある髪に触れた。記念すべき、彼女の体に触れた初めての瞬間だ。


 髪に触れられた理緒は、一瞬だが硬直をみせた。だが、すぐににっこりと笑うと「ありがと」と穏やかに言う。


 悠司の背中に、電流のようなものが走った。これは喜びだ。激怒か説教が出てくる覚悟をしていたが、意外なほど彼女の反応は優しかった。


 やはり、洵子が提案した『段階的暴露療法』は、理緒に通じる可能性があるのだ。


 いけるかもしれない。


 悠司は手応えを感じた。



 そのあと、悠司はデートの最中、折をみては、何度も理緒に軽いスキンシップを図った。


 『段階的暴露療法』を本格的に始動させたのだ。


 軽く肩に触れたり、物を渡すついでに、手に触れたり。『段階的暴露療法』の第一段階を実践した。


 理緒は、体に触れられる度に、小さな反応をみせたが、最初と同じく、拒否する姿勢は示さなかった。微笑んだり、穏やかな表情を浮かべるだけである。


 もしかすると、案外すんなり理緒の『性嫌悪症』は解消されるかもしれない。悠司は希望を持った。


 いっそのこと、段階をすっ飛ばし、キスやハグまで試みようかと考えたが、洵子のアドバイスを思い出し、堪える。今はまだ時期尚早だろう。


 やがて夕方が近づき、二人は悠司の部屋へ向かうことにした。事前の約束通りに、理緒が料理を作ってくれる予定だったからだ。


 JRを乗り継ぎ、根岸駅へ。途中、理緒と共にスーパーに寄り、食材を購入した。その最中も、軽く手や腕にスキンシップを行うことを忘れない。理緒はやはり嫌がらなかった。これは吉兆だ。


 この調子なら、あわよくば、今夜『段階的暴露療法』の最終段階であるセックスにまで、持ち込める可能性すらあり得た。そもそもが、成人した男女のカップルが、彼氏の部屋に赴き、夜まで滞在するのだ。男女の仲になるのは、必然とすらいえるだろう。


 そして、そこまで到達できれば、洵子が説明したように、もう理緒の『性嫌悪症』は克服したも同然である。


 『白馬の王子様』の面目躍如といったところだ。大人のお姫様は、王子と肌を重ねることにより、眠りから覚めるのである。


 スーパーから歩くこと十分ほどで、二人は悠司の住むアパートへ到着した。途中の談笑も盛り上がっており、雰囲気も良好。流れとしては、悪くはなかった。


 おまけに、現在、部屋は理緒が望む『健全』な状態が保たれている。パソコン内部に保存してあったエロ動画の類は、すでにUSBに移し、エロ本やポルノビデオと同じく、駅のロッカーに叩きこんである。


 作成中のアダルト漫画も、クリップスタジオの保存領域の下層に配置し、隠しフォルダ化してあった。先日のやり取りから、理緒はパソコン関係に疎いと思われるので、発見される心配は皆無であろう。


 理緒を迎え入れるのに、最高の環境が揃っているということだ。なんだか、全てが上手くいきそうな気がする。


 悠司は、期待に胸を膨らませた。


 アパートの階段を上りきり、悠司は理緒と一緒に、部屋の前に立った。鍵を開け、中に入る。


 すでに日は落ち、中は暗かったので、電灯を点けた。


 「さあ、入って」


 悠司は、背後にいる理緒にそう促した。理緒は頷き、パンプスを脱いで部屋へと上がる。


 理緒は、手にしていたスーパーの袋を台所の天板の上に置くと、ゆっくりとこちらに向き直った。彼女は微笑んでいた。


 悠司は不思議に思う。料理を始めないのだろうか。もう夕飯の時刻は近いはずだが。


 「どうしたの? 料理はしないのか?」


 悠司が尋ねると、理緒は淑女のように、しなやかな仕草で首肯する。


 「うん。作るよ。でも、その前に」


 とっさの出来事だった。理緒は、テニスのレシーブをするかのように、手を横に伸ばした。


 直後、目の前が一瞬、真っ白に染まる。左頬がじんじんと痛みを発し始めたことで、理緒から叩かれたのだと気づいた。


 「ど、どうして?」


 悠司は左頬を押さえ、唖然と呟く。なぜ自分が叩かれたのか、理解できなかった。


 理緒の顔は、憤怒の色に染まっていた。


 「どうしてですって? わからないの? 今日あなたがずっとやってた『セクハラ』について怒っているの」


 「セクハラ……」


 『段階的暴露療法』によるスキンシップのことを言っているようだ。だが、あまりにも態度の豹変が劇的すぎるじゃないか。


 理緒は、悠司の疑問を見透かしたように答える。


 「周りに人がいたから、怒るのは止めていたわ。二人きりなるまで我慢しようって」


 「でも、いきなり叩くなんて」


 理緒の目尻が吊り上がった。


 「悪いのはどっち? あなたでしょ?」


 理緒の声が部屋中に響き渡る。会社のオフィスにて、部下を叱責している光景と、今の姿が被った。


 悠司は押し黙る。何も言えなかった。事情があるとはいえ、実際、セクハラめいたことをしたのは事実だからだ。


 「まさか悠司がそんな汚らわしい真似をするなんて思わなかったわ。『教育』が必要みたいね」


 理緒は、射殺するような視線をこちらに注いだ。


 「そこに座りなさい!」


 理緒は、顔から火を吹きながら、居間にあるテーブルを指差した。



 理緒の『教育』はそのあと、実に二時間近くも及んだ。


 悠司のしでかした『セクハラ』への非難にはじまり、性欲を発揮する男の愚かさや、清純であることへの重要性を説いた。


 悠司はテーブルの前で正座し、じっと黙って聞いていた。まるで、不良行為により、教師から呼び出しを受けた生徒の気分だ。


 理緒から叱責を受けながら、悠司は、洵子が提案した『段階的暴露療法』について考えを巡らせていた。


 どうやら、理緒には、姦計が一切通じないらしい。徹底的に性的なものを拒絶し、蟻が入る隙間さえないほど、彼女の貞操観念は堅牢なのだ。病的といえるくらいに。


 これで振り出しに戻ったことになる。


 気が遠くなるような時間が流れ、二時間ほどが経過する。そこで、ようやく理緒は口を閉じた。悠司が上目使いに顔色を伺うと、彼女は、一段落したような落ち着いた風情をみせていた。


 『教育』が終わったのだ。そう悠司は思った。心底ほっとする。あとはこれから夕飯か。すでに食欲はなくなっているが……。


 しかし、考えが甘かった。本番はこれからだったのだ。


 理緒は立ち上がると、パソコンのほうに目配せした。


 「ちょっとあれを調べさせて」


 「え? どうして?」


 悠司は困惑する。


 「この前も調べたはずだよね?」


 理緒はこちらをきっと睨みつけると、強気な口調で言う。


 「今日のあなたはどこかおかしかったわ。女性と話すだけで赤くなる純粋な悠司が、あんな恥ずかしい真似をするわけがないんだもの。多分、自分で気がつかないうちに、なにか悪いものの影響を受けているに違いないわ。その原因を確かめるの。そして、探し出して排除しなきゃ。もちろん、パソコンだけじゃなくて、スマートフォンもね」


 理緒は信じられないことを言う。悠司は目を丸くしながら反論した。


 「もう『教育』は終わったはずじゃあ」


 「なに言ってるの。これから先ずっと『教育』は続くのよ」


 「どういうこと?」


 「今日から私が悠司の情報を管理するわ。邪な情報に触れたせいで、今日みたいな失態を犯したんだから」


 悠司はたじろいだ。とてつもなく厄介な展開になりつつあることを、肌が感じ取っている。


 「必要ないだろ。俺は、大人だぞ?」


 「大人でも子供みたいに純粋な心を持っている人が、悠司、あなたなのよ。エッチなことには少しも関心を持たず、少年のようにまっすぐに生きてきた奇跡の大人。誇りに思っていいわ」


 「……」


 悠司は混乱していた。どのように言い逃れしようか、頭をフル回転させるが、ろくに抗弁の言葉が出なかった。


 「だから、少しだけ道を外れたあなたを、私が管理していつもの純粋な悠司に戻してあげるね」


 理緒は立ち上がると、パソコンのほうへ歩いていく。悠司は慌ててあとを追った。


 理緒はどすんと、勢いよくアーロンチェアに座り、悠司の了承を得ることなく、パソコンへ手を伸ばした。


 「待てって。勝手に触るなよ」


 悠司が咎めても、理緒は聞く耳を持たなかった。筐体の電源を入れ、マウスで操作を行う。ほぼ個人用なので、PINコードを設定していなかったことが仇となっていた。


 悠司は理緒の行動を見ながら、歯噛みする。


 こういった状況の場合、一体、男はどうすればいいのだろう。怒鳴りつけて止めさせる? それとも、いっそ暴力に訴えるのか? そのいずれもやる勇気はなかった。


 だが、と思う。実際問題、パソコン内部のエロ画像やエロ動画の類は、すでに消去しているのだ。探られても問題はなかった。スマートフォンも同じく、以前からエロ系は入れていない。


 唯一の懸念は、クリップスタジオ内に保存してある日向出版関係のアダルト漫画だが、ちゃんと対策を施してあった。パソコン素人同然の理緒に、たどり着けるはずがないのだ。


 つまり、このまま好きにさせれば、理緒の憂慮は、すぐに解消されと言ってもいいだろう。


 悠司の清廉潔白を確認すれば、理緒の言う『教育』のほとぼりは、すぐにでも冷めるだろうと、淡い期待を抱いた。


 だが、その希望的観測は、すぐに打ち砕かれる結果となる。


 悠司は眉根を寄せた。パソコンを操作する理緒の手付きが巧妙だった。以前とはまるで違う。パソコンに詳しい人間の動きだ。


 操作内容にも目を見張った。コントロールパネルを起動させ、ハードディスク内の画像や動画のデータを全て表示させると、一つ一つチェックしていった。


 それだけではない。再びコントロールパネルを呼び出すと、デスクトップのカスタマイズを選択し、フォルダーオプションを実行している。これは、他でもない、隠しフォルダを表示させる手法だった。


 「よし、隠しフォルダはないわね」


 理緒は、満足気に呟いた。それから、素早くデスクトップにあるクリップスタジオのアイコンをクリックし、画面上に展開させる。


 製作途中の原稿が、キャンバスに表示された。新人賞に応募するための少年漫画だ。自動呼び込みにしてあるため、最初に表示されるのだ。


 理緒は手際よく、画面の最上にあるメニューバーにカーソルを持っていった。


 メニューバーは、クリップスタジオ内の機能を利用できる項目欄だ。『ファイル』や『編集』、『設定』などの名称が表示されており、エクセルやDTPといったソフトウェアには、ほぼ標準装備されてあるシステムだ。ツールバーともいう。


 このメニューバー及びツールバーからは、保存を行ったり、設定を変えたりすることが可能だ。全ての原稿を収納してあるファイルを開くことも。


 理緒は、メニューバーの『ファイル』項目をクリックした。


 それまで、唖然として成り行きを見つめていた悠司は、慌てて制止する。


 「ちょっと待てよ。なに勝手に開いてんだ」


 理緒は、逆に非難する視線をこちらに向けた。


 「なにって、あなたが描いてる漫画を全てチェックしないと、管理していることにはならないでしょ?」


 理緒は、まるで車に乗るには、免許が必要だと言うような調子で、至極当たり前の出来事のように答える。


 「前に原稿は全て確認しただろ?」


 「言ったでしょ? 今のあなたは、悪いものの影響を受けているの。全て調べて原因を発見しなきゃ」


 「必要ないって。それに、どうしてそんなに手際がいいんだ? 前はパソコンの操作下手だったじゃないか」


 「勉強したのよ。あなたのことをもっと知りたくて。クリップスタジオについても。まさか、こんなすぐに役に立つとは思わなかったわ」


 理緒は、誇らしげに微笑んだ。覚えたての料理を披露したかのような風情だ。


 悠司が呆気に取られ、立ち竦んでいると、理緒は操作を続けた。


 『ファイル』の項目をクリックし、プルダウンを表示させる。そして、内部に保存してある原稿のデータを開こうとしていた。


 我に返った悠司は、まずいと直感する。アダルト漫画の原稿は、そのデータの下層に配置してあった。あとは単純に、内部に潜ってさえいけば、容易くたどり着ける位置にいるのだ。


 もっとも、問題の原稿は、隠しフォルダ化してあるため、簡単に確認は出来ないが。


 さきほど理緒は、隠しフォルダをパソコン内のシステムメニューから解除したが、悠司はクリップスタジオのアダルト原稿のデータを、Attribコマンドにて非表示にしてあった。そのため、システムから変更を行っても、影響を受けないのだ。元々、上書きや消去のミスを防ぐためのコマンド操作であった。


 しかし、それでも解除方法は存在する。もしも、理緒が、その方法を掌握しているとしたら、アダルト漫画を描いていることが完全に知られてしまうだろう。


 『段階的暴露療法』の軽いスキンシップですら、あれほど怒りにとらわれる彼女だ。もしも、悠司がアダルト漫画の作者であり、何冊も出版していると知ったら、理緒は一体、どのような行動に出るのか。


 それは、地震の前触れのように恐怖感を想起させた。


 とにかく、それは避けないと。


 悠司は唾を飲み込み、理緒に声をかける。


 「理緒、時間の無駄だって。前と変わらないだろ?」


 悠司は、ファイルが表示されているウィンドウを指差した。


 「理緒が言うような、変な原稿があるわけないから」


 だが、理緒は黙ったまま操作を続ける。少年漫画の原稿を展開させ、読んでいく。この前と同じ状況だ。


 だが、今回は目が真剣そのものだった。眉間に皺を寄せ、犯罪の証拠を調べる刑事のような眼力で読み進んでいる。編集者の洵子ですら、こんな剣幕で原稿を読むことなんてなかった。


 悠司は、圧倒され、押し黙る。この調子なら、もう何を言っても無駄だろう。隠しフォルダが発覚しないよう祈る他なかった。


 やがて、理緒は全ての原稿を読み終える。探していたものは発見できなかったようだ。


 悠司は安堵しながら、理緒に伝えた。


 「言っただろ? 何もないんだってば。今日の件は、魔が差しただけだよ。ちゃんと反省するから、もう終わりにしよう」


 悠司は理緒を諌めようとする。早く今の状況から脱却したかった。ストレスにしかならないのだ。なぜ、恋人のストーカー同然の行為に、付き合わなければならないのか。


 だが、悠司の言葉は、理緒の耳には届いていなかった。彼女は釈然としない様子で、モニターをじっと見つめている。


 理緒は、そこで、ふとなにかを思いついたような口調で質問を行った。


 「ねえ、悠司。システムを操作しても隠しフォルダを表示させない方法ってあるの?」


 クリティカルな部分を突かれ、胸の鼓動が激しくなる。


 「知らないよ。多分、ないんじゃない?」



 悠司は、とっさに誤魔化す。下手をすると、真実が発覚する恐れが出てきたため、弁明する必要に迫られた。


 「システムの変更を行ったのに、影響を受けないファイルなんてないと思うよ。クリップスタジオのデータも、ハードディスクに保存されてるんだし。そもそも、隠しフォルダなんて存在しないから」


 悠司の嘘を聞いた理緒は、しばらく思案に沈む。そして、表情を軟化させた。


 「そうね。わかったわ」


 理緒は納得した様子をみせた。


 次に彼女は、スマートフォンの開示を要求してくる。悠司は素直に理緒へ自身のスマートフォンを渡した。


 結局、『変なもの』は一切発見されず、理緒の懸念は無駄に終わった。


 理緒は浮かない顔で、首を傾げている。


 「変ね。なにかあると思ったんだけど……」


 悠司は、何も言わず、理緒の様子を見守る。下手なことを口走ると、墓穴を掘ってしまいそうだった。


 やがて理緒は、静かに肩をすくめた。


 「確かに、悠司の言うように、今日の件は魔が差しただけみたいね」


 理緒はようやく諦めたようだ。悠司は頷く。終わりが見えてきた。


 理緒は続ける。


 「それでも許される行為じゃないから、予告したとおり、これから先、あなたの情報を管理するわね」


 「え?」


 悠司は耳を疑った。てっきり見逃してもらえると思ったのだが、そう上手く事は運ばないらしい。


 「俺の疑惑は晴れたんじゃあないのか」


 「確かに変なものは持っていなかったけど、これからどうなるかわからないわ。それに、まだ隠してることがあるかもしれないし」


 悠司は、どきりとする。一瞬だけ、アダルト漫画のことについて言及しているのかと思ったが、もちろんそんなわけがない。理緒は、徹底的に自分の『性嫌悪症』を押し付けようとしてきているのだ。


 「俺は子供じゃないんだから、管理なんて必要ないよ」


 理緒は、眉根を寄せた。


 「あなたが悪いんでしょ。今日の悠司は、どう考えても『教育』が必要な真似をやったわ。私が納得するまで継続するからね。これもあなたのためよ」


 理緒は、全く取り付く島を与えてくれなかった。


 かくして白馬の王子様は、お姫様からやっかいな管理を受けるハメになったのだ。


 彼女が最も嫌悪する『アダルト漫画家』という爆弾を抱えたまま。

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赤面症の男に彼女ができたところ、その彼女は性嫌悪症でした 佐久間 譲司 @sakumajyoji

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