第4話

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 妙子はオーナーのマンションのチャイムを鳴らした。オーナーの名は吉田松平といい、この辺りにビルを何棟か持っている。元は地元の建設会社で周辺の土地やビル管理をしている会社の社員だったが、夜の世界にも通じた男で、コツコツと金を貯めていくつかのビルを自分の物にいていった。ただ、二年前に妻を亡くし、子供もいないことから一人暮らしをしていた。社員だった時代から妥協を許さない厳しい男で、特に金にはうるさいことから、この辺りではこの男のことをよくいう者はいない。ただ、そんな松平も妙子にだけは優しかった。


 オーナーは優しそうな笑顔を浮かべ妙子を迎えた。

「いらっしゃい。よく来たね。あまり元気がないようだけど、大丈夫かい」

「ヒカルが出ていってしまい、がっかりです。私、ショックで立ち直れないわ」

「昔ニューハーフ倶楽部のママも同じことを言っていたよ。お前が出て行った時にね。大丈夫さ、ヒカルちゃんはきっと帰ってくるよ。まだ二十歳だし、少し苦労をさせたほうがいい。お店だって歩ちゃんがいるから心配ないじゃないか」

「私お店をやめようと思っているんです」

「どうしてだい。ヒカルちゃんの帰るとこがなくなっていいのかい」

「歩ちゃんにも同じこと言われました。でも、娘に出ていかれて私、自分の力のなさを思い知りました。もう続けていく自信がないんです」

「それじゃ、辞めなさい。私も長年お前を見守ってきたが、そろそろ、それも終わりにしよう。お前も辛いことがたくさんあったろう。悪い男に騙されて、男娼をさせられていたころ、倶楽部のママに助けてもらい、ニューハーフになった。でも、お前は男と急に飛び出し、それから一人で生きてきた。その十年間は辛かっただろう。あの時、お前を探すのは大変だった。やっと見つけた時は嬉しかったな。ママに電話をさせ、戻ってきた時はほっとしたよ。本当に無事でよかった。


 妙子は驚いた顔で松平の顔を見つめた。

「今まで、不思議でした。いつも誰が助けてくれるんだろうって。全てオーナーだったんですね」

「初めてお前を見た時から、どうしても放っておけなくてね。私がこの街で失ってしまったある女の子にお前がとてもよく似ていたんだ。その子の名前は妙。お前に妙子という名前を付けたのも私だ。お前の本当の名前が福山路夫というのは知っていた。でも、それを知っているのは私と倶楽部のママくらいだろう。ママは路子にしようと言ったんだが、私が妙子を譲らなかったんだ。ママは笑っていたよ。妙のことを知っているからね」

「今のお店もオーナーが用意してくれたんですね。私のために」

「本当は前の人が店を辞めた店じゃないんだ。お前が女の子二人くらいで出来る店を考えて私が用意させた。ヒカルのことは計算外だったがね。そして、歩ちゃんは私が前にいた会社の社長の息子で、彼は覚えていないかもしれないが、小さい時は随分お相手をさせていただいた。この辺りの土地や建物の大部分はその会社が持っている。今は彼のお兄さんが社長になっているが、お父さんは彼がニューハーフになってしまったことをとても心配していた。勘当したと言っているが、私のところには月に一度は必ず電話をしてくる。私も会社を辞めたとは言ってもビルの管理を任されているんで、いつもご報告はしていたんだ」

「オーナーはすべて知っていたんですね」

「お前には黙っていて悪かったと思っている。でも私は妙子、お前が心配だったんだ。何としてもお前を手元に置いておきたかった。二年前に妻も亡くなった。だからこれからは私の傍にいてほしい。妻になってくれないか。私ももう歳だ、これ以上お前たちを助けてはあげられないかもしれない。正式に結婚できないのは解っているが、妙子一緒になってほしい」


 妙子はこれまでのことを思い出していた。どこかで神様が見守ってくれている、そう思っていたのが全部オーナーだった。妙子の眼からは涙がとめどなく流れ落ち、オーナーの前に崩れ落ちながら声をあげて泣いた。

「オーナーありがとうございました。妙子は一生あなたのお傍でお仕えします。名前を付けていただいたあなたのお傍に妻として置いてください」

「ありがとう妙子」

「あなたと呼んでいいですか。いつか男の人をそう呼んでみたかったんです」

「うれしいよ。そう呼んでもらえると。妙子、抱いてもいいか」

「はい。強く抱いてください。息ができないくらい」

その日、妙子はお店にも家にも帰らなかった。そして初めての娘のようにオーナーに抱かれた。


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 次の日、お店に戻ってきた妙子は私に言った。

「私は今日で引退します。お店は全部あなたに任せます」

「ママはこれからどうするんですか」

「私、結婚するの」

「えぇ、誰と結婚するんですか」

「オーナーよ。このビルの吉田オーナー。あの方が、私が十代のころからずっと見守ってくれていた神様だったの。昨日プロポーズされたわ。うれしかった。だから、もう何もいらない。全部歩ちゃんにあげるわ。今日からあなたがこのお店のママよ」

歩はママの言葉に驚かされた。

「そうそう、オーナーはあなたのことをよく知ってたわよ。小さい時のあなたのことも。あなたの実家ってすごいお金持ちなのね」

 私はオーナーのことよりもこれからのことを考えると少し気が重かった。ヒカルとママを一度に失ってしまった上に、この世界に入って一年足らずでいきなりママになるなんて。頭を抱えたくなった。


 大学では確かに経営学を学んだ。いずれは父の会社を手伝うことは解っていたのでその勉強をした。就職も将来実家に戻ることを考えて建設業界の新聞社を選んだ。でも、どこで間違えてしまったのか、この世界に入ってしまった。あの日ヒカルに会わなければ、今の自分はない。私はヒカルの美しさに魅せられてしまった。夕陽のまだ残る街の中でヒカルは輝いて見えた。そして私の生き方まで変えてしまったのだから。


                   ※


 私はこの辺りの商業テナントビルをいくつも手掛けていた中堅の建設会社「三谷建設」の社長・三谷剛平の二男として生まれた。当時はまだ、さほど大きくない建築屋だったが、父の強引な手腕と行動力でどんどん会社は大きくなった。兄の剛は後継ぎとしての期待を一身に受けて育った。兄もそれに応えるように頑張り、勉強もスポーツもよく出来る両親の自慢の子に育った。一流大学を出て父の会社に入り、すぐにその実力を発揮していった。


 兄に比べて私は、小さい時から体も小さく病弱で母にはいつも心配ばかりかけていた。当然のように父は私には期待をしていなかった。兄にもしものことがあった時のスペア程度だったのだろう。成績も兄に比べると劣り、問題を起こすたびにいつも父に呼ばれ「お兄ちゃんの邪魔をしないようにしなさい。そして悪いことだけはしてはだめだ」と言われた。出来が悪いんだからおとなしくしていろと言う意味だった。


 そんな自分を父の片腕だった吉田松平はいつも庇ってくれた。病弱だったので、母に女の子のように育てられた日の当たらない自分をかわいそうに思ったのかも知れない。兄が麻疹になった時は家族が大騒ぎし、医者を呼びつけて看病したのに、私が兄の麻疹がうつって高熱を出した時は、だれもかまってくれず、ただ部屋に隔離されただけだった。


 そんな私が女装趣味に走ったのは、母の下着を盗み出して身につけ、いつも母に抱かれていたいという思いだったのかもしれない。そんな私の密かな趣味を松平は知っていたようだ。Yシャツから透けて見える下着の線を知っているのは松平一人だった。そんな松平もいつか自分のビルを持って独立していなくなった。


 受験を迎えた私は自宅から通える大学ではなく、わざと遠い大学を選んだ。そのころ女装はかなりエスカレートしていき、高校の頃は黙って女装サロンに通う程になっていった。体が小さく華奢な体つきだったので、細い女性物の服がよく似合った。サロンで出会う人たちに羨ましがられるのが自慢だった。


 大学の四年間は東京の街を離れた。生活に刺激はなかったが、一人暮らしは快適だった。もう隠れて女の子の格好をする必要がなかった。さすがに学校には男の格好で出かけて行ったが、そのほかはほとんど女性として生活していた。アルバイトも女の子として働いていた。戸籍も住民票も必要ないアルバイトならとても簡単で、誰ひとり自分を男だと思っていないことに満足感があった。化粧もうまくなり、声も高い声が出るように何度も何度も練習した。


「いらっしゃいませ」

「ありがとうございました」

こんな声を部屋で練習している自分が可笑しかった。男の人に抱かれた時はどんな声を出したらいいんだろうと考えながら、一人で笑ってた。

 休みに時々この街に帰ってくると自宅ではなく、女装サロンに直行した。自分がどんどん変わっていくのが楽しみだった。写真を撮って眺めながらうっとりしている自分がとても可笑しかった。写真は額に入れて部屋に飾ってあったが、遊びにきた友達はそれが私であることを誰も気づかなかった。

 

 そこまで行くとどうしても欲しくなるのが「彼」、男の人と一緒に歩きたかった。四年間に一度そんなチャンスがあった。アルバイトの時に声をかけられて何度かデートをした。それまで女の子と一度も付き合ったことのない私は、男の子の誘いにどう反応していいか分からず困った。自分の身近に女の人は母しかいない。女の子の友達もいない私は途方に暮れ、ちぐはぐなデートは結局三回で終わった。キスを求められ、体を触られそうになった時、本当の女の子のではない私はそれを拒絶した。男だと気づかれてしまうのが怖かった。それからも何度かチャンスはあったが、それ以来足が竦んでしまいあと一歩が踏み出せないままいつも終わってしまった。


 父が今後の会社経営に役立つと考え、就職は経営コンサルタント会社を勧めたが、私は建設の業界紙に決めた。どちらも父の口利きだった。東京に戻ってきた時、「社会人として経営を徹底的に勉強しろ。そして社長となる剛を助けるんだ」と言われた。あくまでも私は兄の補佐役で影の人間なんだ。陽のあたるところには出てはいけないんだと思った。


 家に戻ってから一年間は女装はやめていた。毎日スーツに身を包み真面目に働いた。勉強して少しでも兄の役に立とうとその時は思っていた。でもそれが出来なくなった。あの日以来。ヒカルに会ってしまったあの日だ。一目惚れとは違う、不思議な感覚だった。好きになったのとも違う感覚。心のどこかでヒカルが男の子だということを感じたのかもしれない。それから暫くして私は自宅を出て一人暮らしをまた始めた。もう、自分を止められなかった。ダンボール箱を開けて着替えをすると、鏡の前には一人の女の子が立っていた。

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