第2話
2
私はその子のことを忘れた訳では無かった。それどころか私の女装は日に日にエスカレートしていった。ワイシャツ姿でスーツは着ていたが、その下はすべて女性の下着で、キャミソールやストッキングまで身に着けていた。ただ、仕事が忙しかったこともあり、その子のことは意識的に考えないようにしていた。そして、女装生活に明け暮れた五月の連休も終わり、世の中が平静を取り戻すと、またいつもの日常に戻った。
そんなある日の帰り道、私はまたあの子を見つけた。同じ街にいるのだから出会っても不思議はないが、私にはとても新鮮だった。また前のように彼女の後を付けていくと、そこはあの店の前だった。今日は、勇気を出してドアを開けようと思って私は店の中へ入って行った。それまでニューハーフという存在自体は知っていたが、そこがどういう店なのかまるで分からなかった。
「いらっしゃいませ」という声と共に身体の線が全て見えてしまいそうなセクシーなドレスを着た女の子が出てきた。「ご指名はありますか」と聞かれ、私はあの子の顔が浮かんだ。でも、名前を知らないので、「いいえ」と答えると私を席に案内してくれた。私はビールを頼み、少し待っていると、いかにも女装していると分かる女の子? がビールをトレイに乗せて現れた。
「お一人のようですけど、こういう店は初めてですか」
と彼女が聞いた。仕草がぎこちないその子に私は「はい」と答えた。女装なら私の方が綺麗かも、と思いながらその子をよく見ると、私よりかなり若く見えた。二十四歳になったばかりの私には、そこは初めて経験する別世界だった。私がビールを飲みながらその女と話をしているとあの子が着替えを終えて店に出てきた。
「いらっしゃいませ。やっぱり来てくれたのね、ありがとうございます」
私はドキマギしながら頷いた。その子は微笑みながら私に言った。
「前にも私の後をつけて来たの知っていたわ。今日もそうだったけど、来てくださって嬉しいわ。とても可愛い方だったので、お話したかったの。私はヒカル、よろしくね」
「ヒカルちゃんすごいわね。声もかけずにお客さん連れてきちゃうんだもの。羨ましいわ」と横についた女が言った。声は少し低かったけれど、男の声とは思えない。女装だということは分かっていても凄く奇麗だった。私は何も言えずに見とれていた。
「ところであなたのお名前は?」
「歩って言います」
「歩さんね。私はこの世界に入ってまだ二カ月目。駆け出しのシーメールよ」
「シーメール?」
「ニューハーフのことよ。私男なの」
「本当に男の子? 信じられないな」
分かってはいたが、私は驚いて見せた。
「女の子だと思っていたのね。騙してごめんなさい。でもこの店はみんな男ばかりなのよ。ママもお姉さん方も」
私が信じられないというような顔で見つめていると、その子は私の手を自分のスカートの中へ導きショーツの上に置いた。そこには男性器のふくらみがあった。私はあわてて手を引っ込めた。
「ワー、かわいい。赤くなってる」
私は年下のヒカルにひやかされ、恥ずかしくなった。実は私もスラックスの下には女性のショーツを着けている。でも、それをヒカルに知られたくなかった。
「ヒカルさんがあんまり可愛かったので、ついてきてしまいました。でも、分かっていたのは驚きだな。でも、僕はヒカルさんが女でも、男でもどうでもいいんです。お話がしたかっただけだから」
「ホント? 私を抱きたかったんじゃないの。キスしても触ってもいいのよ」
と言うとヒカルは私の唇にキスをした。
「ワー、ヒカルちゃん本当にキスしちゃった。お店でお客さんにキスしたの初めてだよね」とほかの女が言った。
「ママ。ヒカルちゃんが初めてキスしたよ」
ママと呼ばれた女がやってきて、私に言った。
「いらっしゃいませ。妙子です。ヒカルちゃんの初めてのお客様。これでヒカルちゃんも一人前ね。わたしも嬉しいわ。でも、あなたも女の子みたいに奇麗ね。あなたもヒカルちゃんみたいに可愛いシーメールになれそうよ」というと私の頬を触り、確かめるように、
「お化粧してないのに肌がすべすべで女の子みたい。あなたなら可愛い女の子になれるわ。ヒカルちゃんもそう思うでしょ」
と言うとママも私のおでこにキスをした。私は下着女装していることを見破られたようで、胸がどきどきした。
※
私の女装は高校生の頃から始まった。学校に女性のショーツを穿いて行ったり、女性の下着を着けてベッドでオナニーをするのが、誰にも言えない自分だけの秘密だった。ただ、最初はかわいいピンクの洋服が着てみたいという私の女の子への憧れだったのかもしれない。
柔らかく肌触りのいい女の子の下着を着けてオナニーしたらどんなに気持ちいいだろう? と思い、スーパーでドキドキしながら女性の下着を買い物かごに入れたのを思い出す。休みの日に女装して外を歩いてみたいという衝動に駆られたこともあったが、さすがにそれは恥ずかしくて出来なかった。でも、女装は大学に入ってからも続いた。一度はやめたものの、ヒカルに会ってからまた始めてしまった。今日も下着は女性のショーツ、キャミソール、そしてメッシュのストッキングを履いていた。それを今、ママに見破られたのではないかと、とても恥ずかしい気持ちになっていた。
3
ママとヒカルの出会いは三か月前の、お店を閉めた後の深夜のラブホテルの前だった。男の大きな怒鳴り声で妙子は振り返った。男は怒鳴り散らしながら叫んでいた。
「男だったとはな。すっかりだまされた。可愛い顔をしてオカマだったとはお笑いだぜ。裸で放り出されなかっただけでもありがたいと思え」
ヒカルは頬を平手打ちされ、さんざん足蹴にされてホテルから放り出された。タンクトップにジーンズのミニスカート、サンダルを手に持った裸足の女の子が歩道にうずくまっていた。偶然通りかかった妙子は駆け寄り、ヒカルの血のついた唇をハンカチで拭き、タクシーに乗せて自分のマンションへ連れて帰った。
「もう痛くない?」
「ハイ」
「血は止まったみたいね」
「もう大丈夫です。有難うございました」
「いつも男と寝てるの」
「今日が初めてです。今日、初めて東京に出てきたんです」
「その格好で家から出てきたの」
「こちらに来てから着替えようと思って、鞄に入れてきました。どうしても女の子になりたくて、東京に来ればなれると思って」
「ずいぶん無鉄砲なことするのね、今の子は。東京はそんな子たちにとっては危ない街よ。殴られたくらいで済んでよかったわ。怖い人たちに騙されて、ひどい目に遇った子がたくさんいるのよ」
自分のことを思い出した妙子は、まだ震えているヒカルにはそれ以上何も聞かず、シャワーを浴びさせ、替えの下着や服も何も持っていないヒカルに自分のまだ使っていない下着やネグリジェを着せてベッドで寝かせた。それから自分もシャワーを浴び、一つしかないベッドの横に入り、ヒカルをそっと抱きしめた。まだ、寝ていなかったヒカルは妙子にしがみつき、震えながら泣いていた。
4
妙子は自分がこの街に来た時のことを思い出していた。もう二十年近く前のことになる。まだ、十八歳だった妙子は男に騙され、無理やり体を奪われた。女の子の格好をしていたわけではなかったが、仕事を紹介してあげるという男に連れられ、男に抱かれる仕事をさせられた。その趣味の男たちにとって若い男は格好の獲物で、何も知らないノンケの男が重宝される。そんな男の子たちはウリセンと呼ばれ、ゲイや外国人相手の男娼が仕事だった。
妙子は男にしか興味のない性癖の男や黒人男性の相手をさせられ、常に心が癒されない日々を過ごしていた。私はこの街で女の子として仕事がしたかったのに、いつも男たちに奉仕をさせられ、男がイクまで責められる。口から精液を吐き出すと男たちから酷い仕打ちを受けた。それから無理やり後ろから犯され、なかなかイカない男に長い時間責められ続けた。SM好きの男たちには、縄で後ろ手に縛られ、天井から吊るされて鞭で叩かれたこともあった。
「こんな生活から逃げだしたい」と思っていたが、組織の男たちからは逃げられなかった。
そのころから女性ホルモンを飲んでいたので、胸は膨らみ始めた中学生くらいの大きさになり、乳首も少し大きくなってきた。でも、顔の輪郭が丸くなり、幾らか女っぽくなったという程度で、腰から下はまだ少年のままだった。でも、気持ちはだんだんに女の子に変っていき、声も高い声が出るように心がけていた。
縛られて興奮すると女のような高い声を出すので、男たちは面白がって鞭で叩く、体中に赤いミミズ腫れの線が浮き、それがみるみる広がっていく。痛くて、苦しくて叫び声をあげているのに、気持ちと相反して身体は興奮していく。それを見て「勃起するほど感じているのか、変態女め」となじられ、射精するまで鞭で叩かれた。叩かれるだけでイッてしまうほど身体を慣らされてしまった自分が悲しかった。
そんな奴隷のような生活から救ってくれたのが、この辺りには顔のきくニューハーフ倶楽部のママだった。身も心もボロボロになっていた私を「何も心配することはないから、私のお店においで、私の所なら女の子として生活できるから」と言って自分の店に連れて行ってくれた。
「私はある人にあの子を助けてやってほしいと頼まれただけよ。あなたの知っている人かどうかわからないけど、あなたに酷い仕事をさせていた人たちにはきちんと話をつけてくれるって言ってたから、もう安心しなさい」とママはいった。
いつの間にか準備はすべて整い、私の名前は「妙子」に決まった。誰が決めたのか、誰が準備のお金を出してくれたのか、何も分からないまま妙子になり、その日からニューハーフとして働き始めた。お店に着ていく服もホルモン注射を打つお金も全部誰かが出してくれた。次第に人気が出てきた妙子は指名もつくようになり、好きな男も出来た。綺麗になりたい一心で去勢手術を受けて、だんだん女らしい身体になると一人の男と暮らすようになっていた。
「性転換してあの人と結婚するの。そうしたらお店は辞めます」
そうママに言ったのは十年程前のことだった。
「あなたがそうしたいのは分かるわ。あの方は許してくれるかしら。あなたの面倒はすべてあの方が見て下さったのよ。あなたは誰だか知らないかも知れけれど」
「お会いしてちゃんとお礼を言います。彼と結婚させてくださいっていいます。だから会わせてください」
そういってもママはその人にあわせてくれなかった。そして、妙子は何も告げずにその後、男と逃げるようにこの街を去った。
けれど、男と暮らしていたのは最初の半年くらいで、すぐに男は若い十代の男を見つけて妙子の前から去って行った。それからは、ホステス、ヘルスはいい方で、売春まがいのことにも手を染めた。やっと見つけた次の男にもお決まりのように貢がされ、遊ばれた末に捨てられた。
「ママのいる街に帰りたい」と思い、何度も電話を掛けようと思いダイヤルを回したが、途中で止めた。やはり帰る訳にはいかなかった。みんなを裏切って出てきた私には帰るところなんてないんだと諦めた。
そんなある日、勤めていたお店に電話が掛かってきた。相手はママだった。どうしてこの店が分ったのか、その時は分からなかったが、嬉しくて涙が止まらなかった。
「もう我慢しないで帰ってらっしゃい。もう誰も怒ってなんかいないから。もう苦労は充分したし、あなたも帰りたいんでしょ。すぐに帰ってらっしゃい」
ママはそう言うと、私の返事も聞かず電話を切った。私は次の日、ママのいる街へ戻った。誰が探してくれたのか分らなかったが嬉しかった。
十年近くこの街にいないと知っているお店の名前も変わり、分からないことばかり。でも、ママの勧めもあって独立することにした。ママのお店のビルオーナーが持っている別のビルに新しい店を出すことにした。
「前にお店をやっていた人がそのままにしているので、居抜きで使ったらいい。たいして手を入れずにそのまま使えるから」とオーナーが言ってくれたので、まだ新しそうなその店をそのまま借りることにした。ママの紹介で働いてくれる男の子も決まり、一月もたたないうちに新しい店「妙子」はオープンした。前からのお客さんもいくらか居たし、ママやオーナーの力もあり、順調にお店は滑り出した。
そして、お店を始めて一月がたった頃、妙子はヒカルに出会った。傷だらけで、身も心もボロボロになった十五年前の自分がそこにいたのだ。
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