1 僕のシーメール白書

@toshiko1955

第1話

 二十年ぶりに会ったヒカルは、容姿は以前とさほど変わっていなように見えたが、年相応に歳を取ったように感じた。スーパーの店頭に売っていそうな吊るしのワンピース姿で、すっかりおばさんという身なりだった。ただ、何処から見ても女性で、二十年前は男だったという面影は既にない。でも、私一緒に暮らしていた十代のころとは違い、寂しそうな風貌で当時のような溌剌とした感じはなく、やつれた様子でゆっくりと私の方へ歩いてきた。


 私が「お帰りヒカル」と言っても何も答えず、ただ立ち尽くしている。

「男とはその後どうしたの」と私が聞くと、

「もうとっくに別れたわ。その次の男とも。私の体をおもちゃにしただけで、新しいおもちゃを見つけて私の前から去っていった」と無表情に答えた。

「今はどうしているの」

「普通のおばさんのようなパート仕事をしているわ。もう風俗では働けないもの。女は歳を取ると寂しいものね。特に私のような中途半端な体だと」

「うちのお店に戻ってくれない。ずっと帰ってくるのを待っていたの。ヒカルなら大歓迎よ。いつ戻ってきてもいいのよ」

 私は昔と同じ口調でヒカルに言った。

「今の私は普通のおばさんよ。私なんかじゃとてもお店の役に立たないわ。歩さんの邪魔になるだけよ」

 そう言うとヒカルは寂しそうな眼をした。


私はブランド物のスーツに身を固め、高級バッグ、高いヒールのパンプスというスタイルだった。四十を超え、水商売が染みついてしまったとはいえ、若さを保つためにお金を使っている私に比べ、五歳も若いヒカルのほうがかなり老けて見えた。なるだけ冷静を保ちながら私はヒカルに言った。


「あの日、あなたが出て行った日のことを覚えている? 私、待ってるって言ったわよね。あなたがどんなに辛い目にあってボロボロになっても、私は待ってるって、あなたに約束したわ。私はあなたに会わなければ、この世界に入っていなかったんですもの。ずっとあなたの帰りを待っていたのよ。おかげで私もこんなおばさん。みんなあなたのせいなんだから、責任取りなさい」

 ヒカルの目からは熱いものが流れ落ちていた。

「男と男の約束よ。忘れたなんて言わせないから」

ヒカルはたまらず、私に抱きついたままいつまでも泣き続けた。


 衝撃的だったヒカルとの出会い。一目惚れだった。私の中には十八歳の時のヒカルがいつまでも脳裏から離れない。あの時、それまで必死に我慢していたものが一気に崩れしまった。綺麗になりたい、みんなに見つめられ、愛される女性になりたいという気持ちを必死に封じ込め、男として生きなければいけないと決意した自分の気持ちが一瞬で崩れ落ちてしまったのだ。


 ブリーチジーンズのミニスカートを穿き、ゴムまりのようにはちきれそうに躍動するヒカルの姿は、私の考えを変えさせるには十分すぎた。私は今までのしがらみの全てをその時捨てた。


                  1

     

 春も半ばを過ぎると汗ばむような陽気で、八重桜で有名な近くの公園は連日見物客で賑わっていた。その賑わいも政府主催の桜を見る会が終わると花も散り、近県から寄せ集められ付近にたくさんいた警官たちもいなくなって、いつもの街に戻った。

ただ、昼間の街は平静を取り戻したが、夜のこの街の賑わいはいささか異常で、この辺りの夜のお祭りになっている四月四日以降も連日の桜祭りは続いていた。私は大学を出た後、父のコネで入った建設業界の業界紙の記者として、昼間はその街で仕事をしていたが、なんとなくいつもとは違う空気を感じていた。


 昭和の三十年代初頭までのこの界隈は青線と呼ばれ、売春の街として賑わっていた。知識のない私にもその街は他と違うということを感じていた。昼間は日本最大のターミナル駅がある中心街とほとんど同じように見えるが、夜になると裏通りは全く違う表情を見せる。華やかさという点では他の街と変わらないように見えるが、やたらと細い露地が多く、行き止まりの道もある。また、店の壁には「店員募集」や「女性募集」の代わりに「男性募集」の貼り紙が出ているのだ。


 そう、この街の主人公は夜の「女」ではなく、どこから見ても可愛くて、美しく、女の子にしか見えない「男」たちなのだ。昼間の時間にしかこの街を見ていなかった私には、そんな夜の世界のことは分からなかったが、いつしかそんな世界に足を踏み入れることになってしまった。


                 ※


 私には他の人にはない特別な趣味があった。それは女装だった。高校時代から始まり、地方の大学に通っていた自分一人の密かな楽しみとしてどんどんのめり込んでいった。ただ、そんな趣味も大学を出て東京に戻るときっぱりと封印し、社会人として働き始めるといつしか忘れていた。でも、その気持ちを甦らす衝撃的な出会いがあった。それがヒカルだった。


 とても美しい少女で私の視線はその子に釘付けになった。春先だというのにタンクトップにブリーチジーンズのミニスカーというスタイル。長い足、編み上げのサンダルを履いている。私はふらふらとその子に吸い込まれるように一軒の店の前に立っていた。その店は二階にあるのでその子は階段を上っていった。私は店の前で立ち止まり看板を見た。店の名は「妙子」。その時はまだ、一人で知らない店に入ってく勇気がなく、しばらくその店の前で立ちすくんでいた。


「何を躊躇っているんだ。すぐに入っていけ」という自分と、「そんな危険な場所に何時までいるんだ。もう帰った方がいいぞ。そのほうがお前のためだ」という自分が戦っていた。階段を上ってドアを開けてしまったらもう後へは引き返せない。あと一歩の勇気がなかった私はそのまま引き返し、駅の方へ向って歩き出した。


 なぜか分からないが、私にはその子が男の子のような気がした。可愛くてどこから見ても女の子だが、私にはそう見えた。そして、その日から私はまたあの趣味を始めた。一年あまり封印していたその趣味は、高校生の頃からずっと続けていた女装だった。何度も捨てようと思っては捨てきれずにいた段ボールを開け、その夜、私は一人の部屋で女の子に変身した。


                 ※


 その子は、この世界に入るために生まれてきたような子だった。名前は「ヒカル」。黒く背中まである長い髪、ノースリーブで、肩をむき出しにした背中がとても眩しく、ストッキングを穿いていない素足はカモシカが跳ねているようにも見えた。背は決して高くはないが顔が小さいので外国人のようにバランスよく見える。そして、化粧をあまりしていないのにやたらと目が大きいのが印象的だった。


 手足が長く、まるで少年のように伸びやかな腕は、タンクトップから生えた天使の羽根のように見える。全身が柔らかい筋肉のようで、くびれたウエストに貼り付くようにマイクロミニのスカートから伸びた細い足が私にはとても眩しく映った。ただ、真っ赤に引いたルージュが不釣り合いで、とてもアンバランスに見えた。膝まで編み上げたサンダルはヒールがとても高く、歩きにくそうで何度もふらついていた。すれ違った私はただ茫然と見送り、吸い込まれるように後を付いて行った。


 その店の名前は「妙子」。ママの名前から取ったようだが、俗にオカマバーやニューハーフクラブと呼ばれる店で、この辺りにはこういうお店がたくさんあった。そんな中でもこの店は比較的新しい店で、ママは老舗のクラブから独立した三十代半ばのニューハーフだった。本当の名前は誰も知らないが、二十代の頃男が出来て一度は引退したが、その男に若い女?が出来て、またこの世界に戻って来たという噂だ。


 しばらくこの世界から離れていたため、女の子集めから、店の準備までを全部一人でこなし、何も分からないニューハーフになり立ての子を一からすべて教え込み、開店に間に合わせたのだという。まだ少年っぽさの残る若い子が三人いたが、その中でもヒカルは群を抜いていた。妙子に拾われたというヒカルは、娘のように可愛がられている一方、厳しく躾けられていた。お客の扱い方はもちろん、女としての生き方から男の悦ばせ方、妙子は自分の知っていることはすべてヒカルに教えた。そして、女が一人で生きていくことがどんなに大変なことか、ただ女の格好をしたいだけでは生きていけないことを妙子は厳しく叩き込んだのだ。


 そして、自分と同じようにならないために男の扱いには厳しかった。ただ、未だ本当に男を知らないヒカルは、男に対しては好奇心の塊だった。乱暴されたことはあるものの、男に抱かれたことのないヒカルは、男に声をかけられたくて仕方がなかった。


 妙子が真剣であまりに厳しいので、ヒカルは何度も飛び出そうとしたが、その度、じっと我慢した。行くところが無かった訳ではないが、これ程自分に真剣になってくれる人はこれまでいなかったからだ。学校も、家も勝手に飛び出してしまった自分を本気で怒ってくれる人は今まで一人もいなかったのだ。


「男の子じゃないんだからそんな座り方しては駄目」

「目上の人にそんな口のきき方をしては駄目よ」

「いつももっと笑顔で、女の子は可愛くしてなくちゃ。自然な仕草が可愛くなければ、男の人に愛されないわ。いくら女の格好をして、綺麗にお化粧してもそんなのすぐに分ってしまうのよ」

と、妙子はいつも真剣だった。何でヒカルを拾って育てようと思ったのか自分でも分らない。でも妙子はそうしなくてはいられなかった。

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