3.公園

 四月二日。


 昨日は一睡もできなかった。元々一人暮らし用のワンルームしかない狭い家だったので、同じ部屋で眠ることになった。僕はベッドで寝て、凛はソファーで寝た。

 こういうときにはだいたい女の子がベッドで寝るのだろう。もちろん僕もそのように提案した。が、凛は頑なにソファーから動くことはなかった。

 色々と要因はあったが、結果的には凛の強硬姿勢が勝利を収めた。僕が弱かっただけかもしれないけど。


 眠りにつこうとして、僕は天井を見上げながら考えていた。凛が幽霊としてこの部屋にいること、やりたいことリストの内容、大学に行くようになること。それらの事を考えている内に、夜が明けてしまっていた。おかげで今は意識が朦朧としている。


「おはよう、優人」


 凛の声が隣から聞こえてきた。目を開けると、ソファで眠っていた凛が起きているのが見えた。目をこすりながら、視線を横に向けた。


「おはよう、凛。眠れた?」


「うん、ぐっすり。ちゃんと眠れた」


 僕はベッドから身体を起こし、まだ眠気が残る頭を少しずつはっきりさせていった。凛はソファに座って、リラックスしている様子だ。眠れなかった夜を思い返しながら、やりたいことリストのことが頭に浮かんだ。


「今日は、公園に行くんだよね?」


「うん、そうだね。天気もいいし、外で過ごすのは気持ちいいと思う」


 僕はその言葉に頷きながら、ベッドから降りて身支度を整えた。凛が眠っていたソファーには、軽く折りたたまれた毛布が残っている。昨日、僕はソファー争奪戦に敗れたが、せめてもの紳士さをアピールしようとしてベッドにあった毛布を譲った。それは受け取ってくれたので、僕の完全敗北というわけではない。


 そんな僕の言い訳をよそに、凛はもう既に身支度は整えたという顔でこっちを待っている。


「あのさ、病衣のまま公園に行くの?」


「だって仕方ないじゃん。私の服これしかないし」


「うーん、まあ、そうだけど……」


 と僕は言いながら、服を貸そうかと思ったが、結局そのまま受け入れることにした。ずっと見ていた凛の姿は病衣だったので、別にそこまで違和感はない。僕にとっては、病衣も彼女の一部に思えた。


「ううん、なんでもない」


「それじゃ、行こうか」


 僕は立ち上がり、軽く伸びをしてから部屋を出た。凛も立ち上がり、僕のあとに続いた。玄関を開け、朝日を浴びる。こんなに気持ちの良い朝は久しぶりだ。


「今日の天気は最高だね。」


 僕は晴れ渡った空を見上げながら言った。


「本当にね。」


 凛は頷きながら、空気を深く吸い込むようにしていた。彼女の表情には、朝の爽やかな空気に満ちた喜びが溢れていた。


 二人で歩きながら、公園へ向かう道すがら、静かな街の風景が広がっていた。春の陽気が心地よく、僕たちの足取りも自然と軽くなっていった。




「ついたね。ここの景色、今見ても綺麗だな」


 凛がそう言うと、昔もそんなことを言っていたなと思い出す。まだ凛が元気で活発だった頃、二人でよくこの公園に来ていた。とはいっても、誘うのはだいたい凛だ。「あの公園の景色が見たい」なんて言われてよく連れ出されていた気がする。正直に言うと、僕はなんでその景色が見たいと思うのかは分からなかった。綺麗という感想は分かるが、何度も見に来るようなものではない。少なくとも、僕はその景色には飽きていた。その後の滑り台やシーソーの方が楽しかった記憶がある。


「凛は、なんでそんなにこの景色が好きなの?」


 僕はふと、前から思っていた疑問を口にした。昔は何も考えずに付き合っていたのだけど、今となっては理由を知りたくなった。


「それは、ここが町を一望できる高台だから。この町が好きなんだ」


 彼女の言葉は、どこか懐かしさと愛着が混じっていた。僕はそんな感情を持ったことがなかった。僕にとって、この町はただの日常の一部で、特に愛着なんて抱いたこともない。それでも、凛にとっては特別な場所だったんだろう。


「そっか…凛にとって、この景色は大事なものだったんだね」


 僕はそう呟きながら、景色を見る凛の横顔をじっと見つめた。その横顔は、昔と同じように優しく穏やかで、変わらないけど、今では僕の中で特別なものになっていた。


「この景色を見ると、なんだか安心するんだよね。ここに来ると、いつも気持ちが落ち着くの」


 凛の声が少し遠く感じる。その言葉が、今の僕にとってどれほど意味を持つのか、分かるようで分からない。だけど、僕たちが共有している時間が、昔よりも大切なものに感じるのは確かだった。


「ここに来たら、なんか昔の自分に戻ったみたい」


 凛がそう言いながら、振り返って歩き出した。彼女はブランコに近づく。僕もそっと凛の後ろをついていき、ブランコの方へ向かった。


 彼女はブランコに座り、両手で鎖を掴む。僕もその隣に座り、ブランコの鎖を掴む。少し錆びた金属の感触が、昔の記憶を呼び覚ます。


「久しぶりだね、ブランコ」


 僕が呟くと、凛が笑顔で頷いた。その笑顔は、どこか懐かしさを感じさせる。


「本当に。昔、ここでよく遊んだよね」


 凛がそう言いながら、ブランコを軽く揺らし始めると、僕もそれに合わせて少しずつ前後に揺れる。風が心地よく吹き抜け、髪が優しく揺れる感覚が、心に安らぎを与えてくれる。


「風が気持ちいいね」


 凛が目を閉じながら言うと、僕もその心地よさを感じながら、静かにブランコを押し続けた。ブランコの鎖は、手に触れると少し温かく、陽射しを受けてほんのりと暖かさが伝わってくる。穏やかな風が、僕たちの周りを優しく吹き抜け、草の香りが微かに漂ってきた。ブランコが揺れるたびに、軽やかな音が周囲の静けさの中で響き、時間がゆっくりと流れているような気がした。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思いながら、僕は静かにブランコを押し続けた。


 その時、視界の端にこちらに向かって歩いてくる人影を見つけた。最初はぼんやりとした影だったが、徐々にその輪郭がはっきりしてきた。


「おー! 優人じゃん!」


 そこには、中学からの友人、武山清太がいた。


「清太、久しぶり。ここで会うとは思わなかったよ」


 僕はそのままブランコを漕ぎ続け、笑いながら答えた。


「いやー、偶然だね! 俺もたまたま散歩に来たんだよ。そいうえば、今一人?」


 清太は軽く尋ねた。彼の問いに、ふと現実に引き戻されるような感覚があった。思わず漕いでいた足が垂直になり、ブランコの勢いが泊まる。隣には凛が座っているが、その姿は清太には見えていないのだ。


「うん、一人だよ」


「そっか、じゃあ一緒に散歩しない?」


 清太の提案は嬉しかったが、今は凛と過ごす大切な時間があるので、その提案には乗ることができない。


「今日は、ちょっと自分の時間を大切にしたい気分なんだ。だから、また別の機会に散歩しようかな」


「おー、そんな気分もあるよな。そんじゃ、また今度!」


「うん、ありがとう」


 そういうと、清太はそのまま歩いていく。「じゃあなー!」と大きい声で言いながら手を降っていたので、僕もそれに応じて手を降った。


「……良かったの? 断って」


 凛の問いかけが、僕の心に響く。僕は清太との再会が嬉しかったが、凛との時間を優先する決断をした。


「うん、良かったよ。今、凛と過ごすこの時間が大事なんだ」


 僕はブランコを再び軽く揺らしながら、空を見上げた。清太の提案は魅力的だったけれど、凛とのこの瞬間が、今の僕には何よりも大切だった。


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