2.未練

「なにぼーっとしてるの」


 その声で現実に引き戻された。目の前には凛が座っている。彼女の笑顔が、まるで昨日のことのように鮮明に感じられた。ずっとこの瞬間を待っていたかのように、彼女は自然な姿でそこにいた。


「だって、もう凛は――」


「おっと、言わなくていいよ。私が一番わかってるんだから。」


 凛は僕の声を遮って、冗談めいた口調で続ける。


「私ね、幽霊になったみたいなの。いつもみたいに起きたら、あの病院にいた。でも、誰も私に気づかないし、誰も私の声が聞こえない」


 彼女は少し寂しそうに笑った。


「でさ、気付いたの。あ、私、死んだんだ……って」


 その声と表情には、どこか諦めにも似た感情が込められているような気がした。僕は何も言えず、ただじっと彼女を見つめることしかできない。


「その後は、誰かに気づいてもらえないか必死だった。病院を飛び出して大声を出したり、わざとぶつかろうとしたり。あ、お母さんとお父さんにも声をかけてみたの。でも、全然だめだったな」


 彼女は苦笑しながら話す。


「そこで、病院に戻って君を待つことにしたんだよ」


 彼女はこちらに指を指して言った。なんで病院で、と言いかけたその時、彼女の言葉を思い出す。


『待ってるよ、ここで』


 彼女が言った意味が理解できた。


「待っててくれてたんだ」


 僕の言葉に、凛は小さく頷いた。


「でも、ごめん。行けなくて」


「仕方ないって、それはわかってるから。」


 彼女の笑顔が、優しさと悲しさが交錯したように見える。その笑顔に胸が締め付けられる。


「でも、どうしてここに?」


 凛が僕の家に来たことはなかった。ずっと病院にいたので、彼女に会ったときは決まってあの病室だったからだ。


「直感だよ、ここに優人がいる気がして」


「直感でここに?」


「うん、本能みたいなものが働いたんじゃないかな」


 凛の言葉に、僕は驚きながらも納得しようとした。直感だけでここに来られるとは思えないけれど、彼女の真剣な様子を見ていると、どうしても否定できなかった。


「それで、凛はどうするつもりなの?」


 僕が尋ねると、凛は少し考えるように視線を下げた。


「正直、まだわからない。でも、ここに来て優人に会えて、話ができた事は本当に嬉しかった。だから、今はこれで満足」


 彼女の言葉には、素直な気持ちが込められていた。僕はその気持ちを受け止めながらも、これからのことを考えると少し不安になった。


「それじゃ、今後はどうするか一緒に考えようか。君がここにいる理由がわからないけど、何か手助けできることがあればと思う」


 僕がそう言うと、凛は微笑んで頷いた。


「ありがとう。できるだけ一緒に考えていけたら嬉しい」


 僕たちはしばらく無言でお互いを見つめた後、僕がふと気づいたように言った。


「そうだ、せっかくだし、上がっていく? 外にずっといるのもあれだし」


 凛は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにうれしそうに頷いた。


「うん、じゃあお邪魔しようかな」


 僕たちは家に入り、リビングのソファに座った。いつもと変わらない部屋なのに、凛が隣にいるだけで不思議と空気が違う気がする。


「こうして座って話すの、なんだか懐かしいね。昔はよく、こうやって他愛のないことを話してた気がする」


 凛が楽しそうに言うと、僕もつられて笑ってしまった。


「あ、そういえばさ、どこに行ってたの?」


「大学のオリエンテーションに行ってたんだよ」


「あー、そうだよね。もう大学が始まるんだもんね」


 凛はしみじみと呟いた。そしてそれに続けるように、言葉を重ねる。


「オリエンテーションって、何するの?」


「大学の説明みたいなものだよ。校内の施設やカリキュラムについての案内があって、新しい環境に慣れるための情報がたくさんもらえるんだ。」


 凛は興味深そうに頷いた。


「なるほどね。大学のことはまだよくわからないから、そういうのがあると助かるね。」


「そうだね。あ、でも今日は主に施設の案内と学科の説明が中心だったから、あんまり具体的な話はできなかったけど。」


「それで、友達はできた?」


 僕は少し考えた後、苦笑いしながら答えた。


「うーん、できなかったな。話しかけてくれる人もいたけど、無愛想にしてしまったから、あまり深く関わることがなかったんだ」


「えー! もったいない。なんで無愛想にしちゃったの」


「まあ、僕もそう思うけど、その時は気が進まなくて。なんだか、大学生活が始まる実感が湧かなかったからさ。新しい環境に入ると、どうしても一歩踏み出すのが億劫になっちゃって」


 これは、取ってつけた嘘だ。本当は、凛のことが心に残っていてオリエンテーションでも気持ちが落ち着かなかった。しかし、そんなことを凛に言い出せるわけもなく彼女の前では別の理由をつけるしかなかった。


「話変わるんだけど、私病室にいる時にこんなの作ったんだよね」


 そう言って見せてきたのは、『やりたいことリスト』と書かれた白い紙だった。


 大きく書かれたその文字の下にも、小さく何かが書いてある。目を凝らして見てみると、こんな事が書かれていた。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

1.公園で遊ぶ

2.花見をする 

3.思いっきり歌う 

4.夜の散歩をする 

5.映画館に行く 

6.美術館に行く 

7.美味しいものを食べる

        

9.大学に行ってみる 

10.水族館に行く

11.遊園地に行く

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 なぜか8の項目だけがないのが少し気になったが、それ以外はなんてことない、普通のリストだった。


「すごいね、これ。やりたいことがたくさんあるんだね」


 僕がそう言うと、凛はちょっと照れくさそうに笑った。


「うん、病室にいるときに寂しくて暇だったから、少しでも楽しいことを考えたんだ。でも、最初はこんなことできるなんて思ってなかったから、少しでもやりたいことを書き留めておこうと思って」


「それで、これを全部やりたいと思ってるの?」


「うん、できる限りね。でも、どうしても叶えられないこともあるかもしれないけど、なるべく実現したいんだ」


「なるほど。8の項目がないのはなんで?」


 凛は少し考え込みながら、また笑顔を見せた。


「うーん、それはね、特に決めてなかったから。なんとなく、8の項目が抜けてたの」


「そうなんだ」


「うん。だから、あんまり深く考えないでね」


「分かった。じゃあ、これからこのリストを埋めていこうか。」


 凛は勢いよく頷き、微笑んだ。


「だったら、明日公園に行こうよ! この番号の順番通りにこなしたいんだ」


「そっか、だったら明日だね。準備しておくよ」


「分かった。準備はしておいた方がいいね。もう夜になるし、先にお風呂入っておくよ。」


「えっ?」


 素っ頓狂な声が出た。まさか、このまま泊まっていくのだろうか。


「あ、一応ね、幽霊でもお風呂には入れるよ? お湯が湧いてないならシャワーだけでもいいけど。体はないから汚れることもないんだろうけど、なんかお風呂に入った方がスッキリするじゃん? だから入りたいかなって」


 問題はそこではない。と心のなかでツッコミながらも、僕はどう対応すればいいのか分からず、僕はどう対応すればいいのか分からずにただ困惑した。


「えっと、凛、今夜はどうするつもり? 泊まるつもりなの?」


 僕は言葉を選びながら訊ねた。


「うん、そうだよー。せっかくだし、泊まっていきたいなと思ったけど」


 一人暮らしの男の家に女子が泊まるのは、どうにも危険な香りがする。


「いや、それはダメだよ。」


 僕がそう言うと、彼女は悲しそうな声で声を漏らした。


「……あぁ、そっか。……ごめん、急にこんな事言いだして。急いで病院に戻るから、私の事は忘れていいよ」


 そんなことを言われるとは思わなかった。

 ――そうだ、彼女はずっと独りだった。僕がここで彼女を拒絶してしまえば、彼女をまた独りにさせてしまう。さっきも言っていた。両親さえ気づかなかった、と。その孤独はきっと僕なんかには分かるはずない。だけど、これだけは分かる。

 辛かったのだろう。彼女を追い出すような事は絶対にしない。


「行かないで! ダメなんかじゃない!」


 そう叫ぶと、凛は優しく振り向いて微笑んだ。


「ありがとう、泊まっていくね」








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