君の幻影に恋をして

上水

1.再生

 四月一日、幽霊に出会った。


 街灯に照らされた黒い髪、透き通るような白い肌。病室で最後に見た姿と、何一つ変わっていない。自宅の玄関先に座っている彼女を見た瞬間、時が止まったかのような感覚に襲われた。


「……凛?」


 名前を口にした途端、心臓が激しく鼓動するのが分かった。間違いない。彼女は北川凛、僕の幼馴染であり、一ヶ月前に亡くなったはずの少女だ。


「……凛?本当に、凛なのか?」


 喉の奥から掠れた声が漏れる。目の前にいる彼女は、病室で見た最後の姿そのままだ。――すべてが変わらない。でも、死んだはずの彼女がここにいるはずはない。


 凛は少し困ったように微笑みながら、目を伏せた。ほんの一瞬の沈黙。そしてゆっくりと顔を上げ、静かに言葉を紡ぐ。


「……そうだよ。私、幽霊になったみたい」


 彼女の口から出たその言葉に、頭が真っ白になった。妄想か夢かとも疑ったが、目の前の現実はあまりにも鮮明だ。何かが心の奥深くで崩れ落ちていく。


「幽霊……?」


 僕は反射的にその言葉を繰り返した。冗談ではないと分かっていた。凛の瞳は真剣で、その笑みはどこか儚い。彼女が本当に「幽霊」で、既に彼女は死んでしまったという事実を、僕の中にゆっくりと飲み込ませる。


 その瞬間、病室での最後の会話がふと脳裏によみがえった。




 あの日、二月の寒さが残る午後、僕は病室の一角で凛と向き合っていた。大学受験が迫ってきていたので、病室へ行って面と向かって話すのは久しぶりだった。


「試験、どう? 上手くいってる?」


 凛は、心配そうな口調でいった。彼女の顔はやつれていたが、その目には変わらぬ優しさが宿っていた。


「うん。勉強はしてるけど、やっぱり不安だよ」


 自分でも頼りないが、自信があるわけではない。試験まであと一週間だというのに、僕はまだ満足に勉強できていなかった。だが、それより――


「体調、本当に大丈夫?」


 凛は今日いきなり様態ようたいが急変したらしい。病室に着いたとき、彼女の呼吸が荒く、看護師たちが慌ただしく動き回っていた。僕はその場に立ち尽くし、ただ見守るしかなかった。しかし、しばらくしてから彼女の呼吸が落ち着き、看護師たちも少しだけリラックスした様子で作業を続けるようになった。凛は再び目を開け、僕に微笑んでくれた。その笑顔には、辛さを隠そうとする力強さが感じられた。


「ごめんね、ちょっと…調子が悪かったみたい。呼吸が荒くなったり、痛みがひどくなったりして、看護師さんたちも慌ててたんだ」


 その言葉に僕は息を呑んだ。僕が病室に到着したとき、凛の呼吸が乱れていたのを見て、心臓が激しく打ち始めた。看護師たちが急いで点滴や薬を投与し、呼吸器を調整する中で、僕はその場に立ち尽くしていた。凛の無事を祈るしかできなかった。


 しばらくしてから、凛の呼吸が落ち着き、彼女の顔色も少しずつ回復していった。看護師たちの緊張がほぐれ、部屋の空気が少し楽になった。凛はその後、目を開け、疲れたように微笑んでくれた。その笑顔には、痛みや不安を隠そうとする力強さが感じられた。


「今はもう大丈夫そうだよ。」


「うん、大丈夫そうでよかった」


 僕は心から安堵し、同時に彼女の言葉に感謝の気持ちを抱いた。


「実は、勉強がうまく進まなくて、君に会うことで元気をもらったよ」


 凛はその言葉に小さく頷き、穏やかな笑顔を浮かべた。


「それは良かった。勉強も大事だけど、自分の体調にも気をつけてね」


「うん、分かった。試験が終わったらまた来るから」


 と僕は約束した。彼女が言うように、自分の体調に気をつけながら、受験に向けて全力を尽くそうと決心した。


「待ってるよ、ここで」


 それが、僕の聞いた凛の最期の言葉だった。




 試験当日、凛は死んだ。


 試験が終わった翌日、彼女の両親からの電話でそれを知らされた時は心にぽっかり穴が空いたような感覚だった。なんだか、現実味がなくて、遠い誰かの訃報を知らされたようにも思えた。もはや、試験の結果なんてどうでも良くなっていた。


 凛が死んだ。


 その事実だけが、頭の中で繰り返していた。


 最初はその事実を受け入れられなかった。凛の突然の死が信じられず、心の中に深い虚無感が広がっていた。何度もその言葉を噛み締めようとしたが、実感がわかず、ただただ茫然としたままだった。


 そして、葬式の日が訪れた。北川家という看板があっても、それを今から参加する葬式だと理解するのには時間がかかった。家族や友人たちが集まり、凛を見送るための儀式が始まった。その遺影を見て、やっと現実に僕が追いついたようで、途端に涙が溢れ出した。


 凛が微笑む遺影が、あの日病室で見た表情だった。その笑顔が現実に存在していた。凛が死んだ。その時、初めてその現実を受け入れた。


 焼香しょうこうの時は、酷い有り様だった。涙で前が見えなくて、彼女の母親に案内してもらったぐらいだ。そして、やり方を教えてもらった。でも、手に持って額に近づけた砂のようなものは半分くらい床に落としてしまった。よろよろと席へ戻ると、それからはずっと下を向いていた。


 儀式が終わり、参列者たちは少しずつ解散していったが、僕はその場に残り、遺影に向かって静かに祈り続けた。心の中にはまだ多くの言葉と感情が残っており、彼女に最後の別れを告げることができないまま、ただただその場に立ち尽くしていた。凛の存在がどれほど大切だったのかを痛感しながらも、彼女がもうこの世界にいないという現実を完全に受け入れることができず、心の奥底で深い喪失感に包まれていた。

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