第5話 狙う連中

 その関係を巧みに利用しようとしたが、失敗したという例として、イソップ寓話の中にある、

「卑怯なコウモリ」

 という話があり、まさにこのジレンマという言葉を具現化したような話ではないだろうか?

 というのは、このお話は、

「獣と、鳥が、戦をしているところに、コウモリが通りかかった」

 というところから始まり。鳥に遭遇すれば、鳥に向かって、

「自分は鳥だ」

 といい、獣に向かっては。

「自分は獣だ」

 といい、自分の肉体的な特徴を使って、逃げ回っていたという。

 しかし、いずれ、鳥と獣が和解し、お互いに話をしていると、コウモリの話題が出てきて、

「コウモリというのは、逃げ回ってばかりいて、卑怯なやつだ」

 ということで、コウモリは、

「暗く陰湿なは所にいることしかできず、しかも、行動は誰もいない夜行性になってしまった」

 ということである。

 つまり、

「逃げ回ってばかりいるのは、卑怯だ」

 ということの戒めを込めたお話だということである。

 ただ、よく考えてみると、ここでいわれるコウモリの行動というのは、

「糾弾されるべき話」

 なのだろうか?

 動物にだって、

「生きる権利」

 というものはある。

 しかも、

「鳥と獣の戦」

 というのは、コウモリにとってみれば、

「まったく関係のないものであり、迷惑千万だ」

 といってもいいのではないだろうか?

 しかも、

「自分は、鳥でも獣でもある」

 ということは、

「逆も真なり」

 ということで、

「自分は鳥でも獣でもない」

 といえるのではないだろうか。

 どちらでもない自分とすれば、中立であれば本当はよかったのだろうが、下手に肉体が、それぞれに似ていることで、それを理由に逃げ回っておりと思われたのだろう。

 しかし、これこそ、動物の本能のようなものであり、外敵や天敵から逃げるために、

「保護色」

 であったり、

「身体に棘」

 がついていたり、さらには、究極として、

「毒をまとっている」

 という動物もいるではないか。

「もって生まれた特徴が、自分を守ってくれる」

 というのが、

「その動物の特徴である」

 ということであれば、この時のコウモリは、

「自分を守った」

 ということで、卑怯どころか、

「褒められてしかるべき」

 ではないだろうか。

 しかも、戦を仕掛けるわけでもなく、誰も傷つけずに、実に平和に解決できる頭も持っているということで、

「えらい」

 と言われこそすれ、鳥や獣から、村八分にされる理由などないということだ。

 それを、あくまでも、

「卑怯だ」

 というのであれば、それこそ、

「鳥と獣は、自分たちだけが、この地域で生きていることができるんだ」

 という発想であり。この発想というのは、どこかで聞いたことがないだろうか?

 そう、

「民族主義における、単一民族の優位性」

 といってもいいだろう。

「自分たちの民族が一番偉いんだ。だから、それ以外の民族で、害になるものは、抹殺しないといけない」

 という発想から生まれた、

「ホロコースト」

 と呼ばれる、

「ナチスドイツのユダヤ人迫害」

 などがそうである。

 まさかと思うが、

「ヒトラーのホロコーストは、この卑怯なコウモリという発想を、正当化したものではなかっただろうか?」

 とも考えられる。

 これは恐ろしい発想であるが、

「それが人間の根本的な性格の一つだ」

 と考えると、人間には、必ず、

「仮想敵」

 というものを頭の中に抱いている。

 といってもいいかも知れない。

 戦争において、このような

「仮想敵」

 という発想を持っていないと、いつどこから攻め込まれるかも知れない。民族や隣国の中には、絶えず、

「どこかを侵略し、領土を増やす」

 という

「領土的野心」

 というものであったり、

「まわりに対する猜疑心から、防衛というものを、最優先にすることで、普段からの国防に対しての意識を高めるため、仮想敵を作ることで、その士気を最大に高めておく必要がある」

 というものであった。

 そんなことを考えると、猜疑心の強さから、

「いかに自分を守るか?」

 ということを、動物は、本能として持っているものだ。

 よく言われることとして、

「人間は、自分の欲望のために、人を殺す」

 と言われたりする。

 確かにその通りで、それは、動物の中で、

「人間だけが行うことだ」

 と言われるが、それも本当なのか、疑問というものだ。

 そもそも、

「人間以外の動物が、何を考えているのか?」

 ということが分かるわけはない。

 言葉にしても、

「同じ言葉を繰り返しているようにしか聞こえないので、それが、言葉なのかどうか、今ほど科学が発達していて、しかも、その研究をずっと続けている人にも分からない」

 ということである。

 これは、あくまでも、人間というものが、

「地球上の生物の中で、一番優秀で、高等な動物だ」

 という考えが基礎となっているからだろう。

 蓋を開けてみると、人間には、

「優秀なところ」

 というものもあれば、

「これほど残虐なものはない」

 と考えられるものもある。

 そんな人間を、

「地球上で一番の高等動物だ」

 ということにするのであれば、

「人間を最高にできない」

 ということであれば、

「他の動物と、人間よりも、さらに下等にする必要がある」

 ということで、

「そのどちらも比較しながら、その優劣をハッキリとせしめる」

 ということになり、それが、

「ジレンマ」

 ということに繋がっていくのではないだろうか?

 だから、

「人間だけが、自分たちの欲望のために、人を殺す」

 という、

「発達したがゆえの弊害」

 ということで、言われていることなのかも知れない。

 ただ、

「人間だけが」

 という発想が伴っているだけで、結果としては、

「人間は、自分の欲望で人を殺す」

 ということを証明する結果になった。

 だからといって、これを

「野蛮だ」

 ということで、

「他の動物のように、生きるために殺す」

 という自然の摂理とは違っている。

 という考えになるのは、あくまでも、

「人間を中心に考えたこと」

 であり、これを自戒ということで考えると、前述の、

「モーゼの十戒」

 で考えた時に、最初の戒律が、

「人を殺めてはいけない」

 ということが、人間の戒めにとっての最優先課題だということになるのだろう。

 人を殺めるということは、その中には、欲望が含まれる。

 つまりは、

「動機」

 というものだが、

 そこには、人間が持っているとされる欲望というものが働いているとすれば、

「食欲」

 によって、人は殺しあうというのは、分かり切ったことでもあろう。

「領土的野心」

 としては、そもそも、

「人口が増えてきて、食料がままならない」

 ということで、他の土地を手に入れて、食料を確保するというのは、

「戦争の動機」

 としては、ごく当たり前のことであろう。

「征服欲」

 というものは、まさにそのもの、

「なんでも、まわりのものを征服できる立場になると、手に入れたいと思う感覚は、人間のそれこそ、本能だ」

 といってもいいだろう。

 そして、もう一つの、

「性欲」

 というもの。

 これも厄介で、

「さすがに性欲のために、戦争を起こす」

 というのは、まれではあるが、まったくないというわけではない。

 そもそも、性欲の正体が、

「種の保存」

 ということで、民族の繁栄を考えると、その究極が、

「ホロコースト」

 ということを考えると、

「性欲が、民族迫害に繋がる」

 と考えるのも、突飛であるが、無理のないことなのかも知れない」

 と感じるのだった。

 世の中において。動物にも共通して、

「思春期」

 というものが人間にあるように、動物には、

「発情期」

 というものがある。

 それは人間を含んでのことであるが、発情期というものが、人間から見れば、恥辱的なイメージに見えてしかたがないのだろう。

 そんな迫水は、

「自分が誰かに狙われている」

 ということを感じるようになったのは、いつ頃からであろうか?

 あくまでも、

「感じている」

 というだけで、そのような兆候があったわけでもない。

「誰かに付け回されている」

 であったり、

「怪しい電話がかかってくる」

 ということもない。

「何かが怪しいと考えるようになったのは、中学時代にいじめられっ子を意識していることから身に着いたものなのかも知れない」

 それは、一種の、

「被害妄想」

 であったり、

「猜疑心の強さ」

 というところからきているのではないだろうか?

 被害妄想の強さというのも、猜疑心の強さというのも、最終的にはあくまでも、

「自分が感じている」

 ということであおうが、その中でも、

「被害妄想の強さ」

 というのは、自分が受動的に考えていることであって、逆に、

「猜疑心の強さ」

 というのは、自分が能動的に考えていることに相違ないだろう。

 つまりは、被害妄想というのは、自分が受けることの被害を、勝手に妄想してしまうのだから、相手からの攻撃があってこそのものである。

 逆に猜疑心というのは、

「相手がどうであれば、自分が思い込んだことの方が強く、妄想であっても、前提として、その妄想は、思い込み以上であり、被害よりも大きなもので、誇大妄想といってもいいのかも知れない」

 ただ、この二つが融合すれば、

「1+1」

 というものが、

「3にも、4にもなってしまう」

 という、一種の相乗効果を生むのではないだろうか?

 この二つが、一種のバイオリズムを形成しているのだとすれば、もう一つ何かが存在していてもおかしくない。

 普通のバイオリズムのグラフは、3つであり、それぞれに、同じような、上下の限界に向かってのカーブを描きながら、半永久的に、同じ動きになることで、その三つが、0の地点で重なるということから、

「バイオリズもが身体や精神におよぼす力関係を考えることができる」

 というものなのかも知れない。

「ここでも、3つのものの関係」

 である。

 前述のような。

「三すくみ」

「三つ巴」

 そして、

「ジレンマ」

 という関係に、今回の、

「バイオリズムの関係」

 これは、他の三つのどれかに含まれるのか、それとも、これはこれで単独のものだといえるのか、これまでの三つとは、どこか一線を画しているようで、その正体が、なかなかつかめないということであった。

 迫水は、自分の中に、そんな変な、

「相乗効果」

 というものを背負った中で、大人になると、それが、

「自分が誰かに狙われている」

 という感覚になるなどと、誰が考えたことだろう。

 それこそ、妄想であり、幻覚でしかないといえるものだろう。

 迫水を狙っている人間は、実は数人いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る