第4話 ジレンマの正体

 迫水が、自分のことを、

「一匹狼」

 だと思うようになったのは、ごく最近のことだった。

 しかし、そう感じた時、

「実は、ずっと昔から、自分が一匹狼だったのだということを自覚していたのだ」

 ということが分かっていたような気がする。

「分かっていた」

 という表現をすると、まるで、

「一匹狼だということを前から自覚していた」

 ということの方を認めたという感覚になり、これもおかしなもので。

「何かを考えた時、自分で理解すると、その時に、以前から分かっていたことだったと思う」

 ということを感じることが往々にしてある。

 それを、まるで、

「デジャブのようだ」

 と感じることも珍しくもない。

 デジャブだと思うと、その時に、デジャブで思い出したことの方が、実は新しく、そして、新鮮な感覚になるのだった。

 そのおかげというか、そのせいというか、

「新しい感覚で、古い感覚を、覆いかぶせてしまう」

 とおう感覚になってしまうと感じるのだった。

 だから今回のように、

「昔から思っていたのが、正解だったように思うのは、ある意味、堂々巡りのようなものであり、いたちごっこのように感じる」

 というのであった。

 確かに、子供の頃から、

「一匹狼」

 であったが、それはあくまでも、

「孤独である」

 ということが、照れ臭いのか、それとも、悪いことだという自覚が強かったからなのか、その気持ちを否定しようとする自分がいるのであった。

 その自分が、自分の過去の意識を否定しようとすることで、言葉を、

「一匹狼」

 と言い換えることで、

「孤独」

 という過去の思いを打ち切ろうとしているのかも知れない。

 ただ、自分の中で、

「一匹狼」

 と名乗ることで、

「孤独」

 というマイナス面を補うことができるのだろうか。

 時間が経っているだけに、

「マイナス面を補う」

 だけでは足りない。

「補ってあまりある何かがなければいけない」

 ということである。

 それが何なのか、迫水には分かっていない。

 そう、

「孤独で、一匹狼のこの俺に分からないのだから、他の人に分かるはずがない」

 という自負のようなものがあったが、少なくとも、前述の理論だけは、間違っていないような気がする。

 だから、

「一匹狼」

 というものが、

「孤独」

 というものを凌駕すると考えているのであった。

 孤独な時というのは、

「これほどマイナスに考えることはない」

 と思っていたのも事実。

 これは、子供の時だけではなく、就職してからすぐにも感じたことであった。

 大学時代にも、友達はたくさんいたが、その間に、孤独を感じたことがないわけではなかった。

 どんなに、まわりに人がいても、

「マイナスに考えるということから、逃れることはできないんだ」

 ということを絶えず考えていた。

 大学時代、友達が多かったが、

「絶えず、誰かがそばにいないと辛い」

 ということが頭をもたげていたので、それが、孤独ということでなくとも、下手をすれば、

「夕方まで、友達と一緒にいて楽しかったのに、友達と別れたっ瞬間から、急に寂しさがこみあげてきて、気づけば、マイナス面ばかりを考えていた」

 ということもあった。

「そんな、別にまた次の日になったら、友達に会えるじゃないか」

 といって、こんな話をすれば、笑い飛ばされるだけのことになるのを分かっているのに、言わずにはおられないほとになるのだった。

 確かにその人の言う通りで、そこまで、

「孤独」

 というものが恐ろしいわけでもない。

 むしろ、それが、孤独というものなのかということも怪しいもので、

「たった一日、いや、反日が我慢できないなんて、ただのわがままだ」

 と言われるだろうが、本人にとっては、重大な問題だ。

 重大な問題を、一言で、一刀両断に、茶化されると、

「やっぱり俺が悪いんだ」

 という感覚になることであろう。

 何が重大なのかということを、他のやつに分かるわけがない」

 という意識がある、

 だから、決して分かり合えるはずのない、

「交わることのない平行線である」

 ということを、自分の方だけが分かっていて、相手には分からないと思うのであった。

 しかし、これは逆に、

「相手もこの平行線の理屈は分かっているはずで、ただ、その相手が、こちらであるはずがない」

 ということで、

「見ている線」

 の方向や角度が違っているのだ。

「同じ物体を見ているのだから、同じに見えるはずだ」

 というのは、その人の思い込みで、ひょっとすると、

「傲慢なのかも知れない」

 と考える。

 ただ、そう考えている場合は、決して傲慢ではなく、

「自分の考えは正しい」

 として、相手に。無理矢理押し付けているということを分かっていないというのが、

「本当のわがままではないだろうか?」

 それが、集団の中においては、

「マウントを取っている」

 ということにもつながるものであり、

「今の世の中、コンプライアンスと言われるが、どこにそれがつながっているのか?」

 ということを、考えているつもりで、実は。

「まったく違う、明後日の方向を向いている」

 という自覚がないことで、

「平行線が交わらないのが、直線をお互いに描いているからだ」

 という当たり前の理屈すら、分かっていないということになるのだろう。

 確かに、

「ブレない気持ち」

 という、一本筋が通った考え方というのは、学ぶべきものなのだろうが、マイナスに考えてしまうということが、孤独と同じだと思うのは、少し違っているのではないだろうか?

 そんな孤独を感じている頃、その瞬間だけは、

「否定からなんでも考えが入っているように思っていた」

 ついさっきまで、友達と一緒にいて、何も考えなくても、

「ただ、楽しい」

 という感覚だったのだ。

 それなのに、あっという間に、テンションが落ち込んで、一時間も経っていないのに、ここまで、自分を否定するようになるということを、自覚するに至って、そこで考えたのが、

「自分は、躁鬱なんじゃないか?」

 ということであった、

 躁鬱だと思うようになって、最初に思ったことは、

「目の前に見えていることが、違って見える」

 ということで、目の前に煮えている同じ光景であっても、精神状態が違うと、見え方が違ってくるという考え方であった。

 その根拠としては、

「身体の疲れ方が違っているからだ」

 ということであった、

 これは、時間帯で感じているものと似たところがあり、朝の時間帯であれば、爽快に思えることなのに、昼下がりはそうでもないのに、夕方になってくると、身体が急に動かないというような感覚になるのだった。

 それが、小学生の低学年の頃の思い出に繋がるもので、小学生の低学年の頃は、学校から帰ってきて、友達と遊びにいく。子供なので、

「疲れ」

 という感覚はあるのだが、疲れているということが、自分にどう影響するのか?

 ということが分からない。

 小学生の頃は、疲れるというのを当たり前とは感じない。疲れというよくわからないものが、自分を襲っているとは思うのだが、それが毎日のことであれば、

「いちいち気にしてのしょうがない」

 という今であれば、

「諦めの境地」

 という感覚が、自然と湧いてくるのであった。

「疲れ」

 というものを意識するくせに、その疲れが、いいことなのか悪いことなのかを分かるすべもないくせに、そんな状態であきらめの境地を悟るというのは、それが中学生になった時、子供の頃に、意識的に感じていた感覚を、今度は、無意識に感じるようになったということで、どう考えればいいのかを、感じている気がしてくるのだった。

 だから、

「夕方という時間帯には、疲れという枕詞がついてきて、一緒に条件反射のように、空腹感が一緒に湧いてくる」

 ということであった。

 その時に匂ってくる香りとしては、

「ハンバーグが焼ける匂い」

 であった。

 だから、

「ハンバーグの匂いを感じると、空腹感が、最高潮になる」

 というもので、それが、

「条件反射に繋がる」

 という、一種の、輪廻のような感覚に襲われるのだ。

 もちろん、小学生や中学生で、輪廻などという言葉を知るはずもなく、漠然と、

「循環」

 なのだろうと思っていた。

 それも間違いではない。普通に正解なのだが、

「だったら、輪廻と循環とは、何が違うのだ?」

 と、まるで、段階を踏んで、物事を考えるようになってくる。

 自分が、

「躁鬱症なのではないか?」

 と考えるようになった時、

「何が躁で、何が鬱なのか?」

 ということを考えること自体が、何か無意味なことではないか?

 とも考えるようになっていたのだ。

 中学生の頃は、

「いじめられっ子予備軍」

 であった。

 といっても。

「いじめられっ子予備軍」

 というのは、たくさんいた。

「下手をすると、いじめっ子といじめられっ子以外は、すべて予備軍」

 といってもいい。

 よほどの危ない人が、本当の予備軍といってもいいのだろうが、実際には、

「いじめっ子でもいじめられっ子でもないという第三者的な人間は、いじめっ子と同じだ」

 といってもいい、

 逆に、

「よほどの危ない人というのは、あくまでも、口外まではしていないが、いじめっ子というものを、許せないという気持ちでいる人間で、いじめっ子である人も、いじめられっ子である人にも、感情移入はするかも知れないが、少なくとも、肩を持つということはない」

 ということである。

 それが、迫水だったのだ、

 どうして、自分が、危ない方の予備軍なのかということを感じているのかというと、

「自分が、勧善懲悪だ」

 と感じているからである。

 勧善懲悪」

 というのは、人間関係そのものに感化されるもので、人間そのものではない。

 だから、自分が、

「善だとか、悪だとか決めた」

 というものが、そのすべてである・

 という考え方である。

 もっといえば、

「途中で、考え方が変わることもない」

 ということで、

「考え方を変えるくらいであれば、自分にとっての否定というものが、人に対してではないということを自分で証明できなければいけない」

 と思っているということである。

 というのも、

「自分がいじめっ子でも、いじめられっ子でもない」

 ということは、基本は、

「中立でなければいけない」

 というのが、本当の理屈であろう。

 しかし、世間では、

「いじめというののを目撃して、それを黙って見ているふりをしている人は、いじめっ子と同じことだ」

 と言われるが、それは、本当のことであろうか?

 あくまでも、

「いじめっ子が悪い」

「いじめられっ子は、正義だ」

 という凝り固まった考えによるものではないだろうか?

 確かに、いじめは褒められたことではないが、絶対に、何かの理由があるはずだ。

 それを吟味することもなく、

「苛めイコール悪」

 という考えは、

「勧善懲悪」

 というものの、悪い部分ではないかといえるのではないか?

 そんなことを考えていると、

「勧善懲悪」

 という言葉自体が、猜疑心の強いものに感じられ、正義を振りかざすための、大義名分に使われてしまうといえないだろうか。

「勝てば官軍」

 という言葉があるが、大義名分があり、その後ろに、

「勧善懲悪」

 がついていれば、それこそ、

「錦の御旗」

 を獲得したのと同じ、大義名分となるのだろう。

「人から狙われている」

 という感覚は、

一種の、

「被害妄想」

 というものと、

「猜疑心の強さ」

 などからくるものであろうか?

 たいていの人は、今までに、誰かに、

「自分が狙われている」

 あるいは、

「恨まれているのではないだろうか?」

 ということを、一度でも思ったことがないというような人はいないだろう、

 ほとんどの人は、

「自分が誰かに恨まれている」

 という発想を持っているのが普通だと思っているので、逆に、そう思うことで、いきなり、自分が人から恨まれているということでショックを受けないようにするという、一種の防衛本能のようなものを抱くようになったのかも知れない、

 人間というのは、

「下等動物から進化していき、次第に高等動物になった」

 ということで、地球上の生物の中で、

「選ばれた種族だ」

 と思っているのかも知れない。

 だから、人間は、

「今度は、その発想を人間世界という範囲に絞って考えるようになると、動物界でいうところの人間というのが、今度は、人間界の中での、種族ということになるのではないだろうか?」

 考えてみれば、差別問題であったり、奴隷制度というのは、

「太古の昔からあった」

 ということではないか。

 特に、

「十戒」

 で有名な、モーゼの話などで、この話は、エジプト王である、

「ファラオ」

 になるべき人間である、モーセが、実は、エジプト王朝で、奴隷として扱われているヘブライ人であり、神の下で、自分が率先し、奴隷解放を行うという使命があることを、神から教えられ、

「奴隷解放」

 を行うという話であった。

 だから、元々奴隷であった人たちとの葛藤の中で、行う奴隷解放というところが、物語性があり、

「聖書の中の物語」

 と比較しても、引けを取らない話になるということであった。

 だが、そもそも、奴隷という発想は、

「自分が、選ばれた人間」

 という独裁的な発想であり、これが個人であれば、

「独裁者」

 となり、これは民族的なものだと考えれば、

「奴隷制度」

 という発想になるだろう。

 あくまでも、個人といっても、一人で何もできるはずもなく、民衆を巻き込むという意味での、

「ナチスの台頭」

 というのは、演説などによって、洗脳したりするということに長けていることが、

「独裁者」

 たりえることであり、それが自分の存在意義だと思うことで、独裁国家ができあがるというのは、これは人間だけではなく、他の動物にもありえることで、それを思うと、

「本能のたまもの」

 といってもいいのではないだろうか?

「いじめられっ子でもなく、いじめっ子でもない」

 ただ、そんな自分が嫌だったというのは、

「そのどちらにも、ジレンマというものを感じていたからではないだろうか?」

 ジレンマというのは、いわゆる、

「板挟み」

 ということで、言葉とすれば、

「三つの関係性」

 という意味で、他に考えられることとして、

「三すくみ」

 というものと、

「三つ巴」

 というものとに分かれるといってもいいだろう。

「三すくみ」

 というと、それぞれに関係しあう、優劣関係がしっかりしていて、それぞれの相手に、優劣を持っていることで、

「お互いに動くことのできない」

 という、

「抑止力」

 になっているというものである。

「三つ巴」

 というのは、その三つが、優劣をつけることのできないほどに、実力が均衡していて、三つの角をしっかりと形成している場合をいう。

 しかし、スポーツなどで、必ず、優劣をつけなければいけない時、

「優勝決定戦」

 という形で競う場合に、

「巴戦」

 というものを行うのだ。

 戦う順番というものを、くじであったり、じゃんけんなどで決めるわけだが、ちなみにいえば、そのじゃんけんは、三すくみの一つである。

 そして、決まった形で、競い合うようになるわけだが、結果として、

「先に、2連勝した人間が、優勝ということになる」

 ということだ。

 これは、

「巴戦での決まり事」

 ということであり、理屈でもその通りのことだということになるのである。

 その方向から考えれば、

「三すくみ」

 というのも、

「決着」

 という形でつけようとするならば、結論は決まっている・

 というのは、

「先に動いた方が負けだ」

 ということである。

「三つ巴」

 のように、優劣が決まっていない均衡している場合は、

「先に2連勝した方が勝ち」

 ということで、勝ちが決定する。

 しかし、

「三すくみ」

 のように、優劣が決まっていて、そのせいで、

「働いている抑止力」

 に対抗するには、先に動いた方が負けという、一種の、減算法という発想になるのであった。

 それでは、

「ジレンマというのは、どうであろう」

 どれか一つに焦点を当て、左右からの力の均衡やバランスを考えるというのが、

「三つの関係性」

 としての、

「ジレンマ」

 というものではないだろうか?

 ジレンマというのは、

「自分の左右に、ほぼ同一の力が働いていて、その二つの力が、自分に対して、異なる力を加えることで、自分が、どうしていいのか分からなくなる」

 というような関係ではないのだろうか?

「同一」

 という言葉を使ったが、

「まったく同じような、均衡を保つ」

 というような意味ではないのかも知れない。

「距離感」

 であったり、

「力の強さ」

 というものが、いかに、同一の影響を与えるのか?

 それが問題なのではないだろうか?

 日本語では、

「板挟み」

 と言われるもので、これを、サンドイッチのようなものだと考えると、この三つに距離感はなく、まるで、

「おしくらまんじゅう」

 のようなものではないということではないだろうか?

 ただし、本当のおしくらまんじゅうというのは、まったく違っていて、二人でやるものではない。定義としては、

「4人以上で、身体をすり合わせるようにして行うものだ」

 ということであった。

 だから、あくまでも、分かりやすいというか、イメージとしてのものだと解釈していただきたい。

 ただ、本当のジレンマという言葉を調べてみると、

「自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち,一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場」

 のことをいうのだという。

 イメージしていたものとは、実際の意味が違っているが、納得のいくものであり、ただ、違うイメージで考えられていたということから、

「いかに人間の感覚とは、曖昧なものなのか?」

 ということになるであろう。

「いじめっ子」

 と

「いじめられっ子:

 の間に挟まれるということで、

「いじめっ子に忖度した場合、いじめられっ子を無視したようになり、いじめられっ子を忖度すれば、いじめっ子から恨みを買う」

 どっちに歩み寄っても、自分の立場がよくなるわけではない。そうなると、

「どちらに歩み寄った方が被害が少ないか?」

 と考えるようになる、

「それが、ジレンマというものであり、その対処法ではないか?」

 ということになるのだろう。


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