第3話 狙われる
今の国家としては、そんな人手不足の時代に、ちょうど、
「世界的なパンデミック」
というものが発生し、市民生活は、急変していた。
特に、
「緊急事態宣言が発令されていた時期」
というと、
「街は、完全なゴーストタウン」
という様相を呈していた。
何といっても、緊急事態宣言において、
「ほとんどの店がしまっているのだから、それも当然だ」
といえるだろう。
普通であれば、
「飲食店などで、食中毒を起こした」
ということで、数日の営業停止を食らったことで、結局、破綻してしまうというくらいであった。
もっとも、信用がガタ落ちだったことで、影響はその時だけではなく、それ以降もあっただろう。
しかし、
「人のうわさも75日」
というではないか、
その頃になると、
「人はわすれてくれる」
ということで、
「どこまで持ちこたえることができるか?」
ということが問題で、今回の、
「世界的なパンデミック」
が起こり、
「緊急事態宣言」
が発令された時、誰もが、
「零細企業など、ひとたまりもない」
と考えていたことだろう、
さらには、大企業だって同じことだ、
零細企業よりも、危機意識というものを、部として研究してるという意味で、零細企業とは別の意味で、危機を感じていたことだろう、
ただ、冷静企業よりも、内部留保を持っていたりして、
「いざという時の体操はしていたので、ギリギリのところで、持ちこたえているところが多かったことだろう」
しかし、日本政府としては、
「緊急事態宣言を出さないわけにはいかない」
ということで出すわけだが、そんな宣言に対して、
「各企業では、完全に、カウントダウンが始まった」
といっても過言ではないだろう。
いつ終わるとはいえない、
「緊急事態宣言」
が出されてしまった以上、政府も、中途半端なところで解除はできない。
確かに、経済への打撃は、計り知れないものがあるだろうが、そのために、
「国民の生命」
を犠牲にするわけにはいかない。
中には、
「伝染病は罹らない可能性があるが、経済不況によって、襲ってくる不安は、絶対のものだ」
ということで、
「このまま経済を抑えてしまうと、結果、遅かれ早かれ、自殺者が増え、伝染病で死ぬ人の数よりも、会社関係で自殺した人の方が多い」
という社会問題になりかねない。
と言われるのではないだろうか。
それを考えると、
「一体どっちを優先すればいいのか?」
ということであった、
ただ、やはり、
「命が大切」
ということで、伝染病を抑えることが先決だ。
経済を復旧させて、自殺者を抑えることができたとしても、そのために。患者が爆発的に増えるというのは、本末転倒であった。
「自殺をしないとしても、結果、伝染病に罹って死ぬかもしれない」
というわけである、
もっといえば、
「自殺を免れた人が、伝染病に罹らないとは限らない」
ということで、
「遅かれ早かれ、理由は違っても、死ぬことに変わりはない」
となれば、本末転倒のいいところである。
日本のように、狭い国に、
「一億二千万が暮らしている」
というのだから、それは、
「バタバタと人が死んでいく」
という意味で、
それこそ、
「国破れて山河在り」
ということの二の前になってしまう。
日本という国は、
「80年前の地獄」
をまた、繰り返すということになるのだろうか。
そんな
「世界的なパンデミック」
は、奇しくも、
「第二次大戦後最悪な事態」
と言われたほどではなかったか。
日本だけではなく、世界的にも、同じような発想があったということで、これは、非常に大きな問題だったといえるのではないだろうか?
ハッピーフライデー」
というものが、忘れられてしまったようになっているが、実は日本でも、いくつかのところで、まだまだ、そのイベントが行われているところがある、
「そうだよ、そういえば、そんなイベントがあったよな、はるか昔のように思えるけど」
ということをいう人が多かった。
それでも、時代に逆行するわけではなく、
「パンデミック」
に、
「負けない時代をつないでいく」
ということで、政府が言っている。
「パンデミックに打ち勝った」
というような、寝ぼけた言い方ではないのだ、
政府は、
「パンデミックは終わらない」
ということで、
「共存」
という言葉を国民には、言いながら、対外的には、
「日本は打ち勝った」
という虚勢を張っていたいのであろう。
それは、
「前ソーリ」
も
「今のソーリ」
も同じことで、
「それこそ、二人とも、ただのバカではないか?」
という人もいるが、まさにその通りだろう。
時代は、政府が思っているよりも、
「国民を強くした」
というのか、それとも、
「内部留保」
といういざという時のための蓄えが、日本企業を救ったのか、今のところ、何とかなっているところが多い。
ただ、戦争から遠ざかっていることでの、
「平和ボケ」
ということには、いかんともしがたく、
「すでに、パンデミックっは終わった」
という、
「勘違い野郎」
が多いことには、困ったものである。
「マスクもせずに交通機関に乗り込むなど、半年前では、
「ありえない」
ということであった。
今は懐かしい、
「自粛警察」
と呼ばれる連中も、当時は、
「行き過ぎ」
という批判もあったが、今となってみると、今のような時期にこそ、あの時のような、
「自粛警察」
と呼ばれていた人たちの出現があってもいいのではないだろうか?
と考えるのであった。
「国家というもの」
そして、
「政府というもの」
をそれぞれ、モラルや倫理に照らして、彼らなりの
「正義」
というものを正しいものとして、
「ブレない行動」
というものをしていたのだった。
迫水が住んでいる街では、ここ最近、
「ハッピーフライデー」
が復活した。
それmで、まったくどこも気にしていなかったのに、一つの店が、
「金曜日の午後、ご来店の方、生ビール二杯目のみ、半額」
と書かれていた。
そして、営業時間も、
「金曜日のみ、開店は、午後2時」
と紙に書いて、横に貼っていたのだ。
いきなりであることは、一目瞭然であった。
そんなビールにつられてか、それとも、
「まだ、ハッピーフライデーということで、午後から、休みという会社が多い」
ということなのか、それとも、
「昼から飲めるようになるのを、待っていた人が一定数いて、その人たちは、
「昼から年休」
という形にしたのかも知れない。
そういえば、
「ハッピーフライデー」
というものができたその頃ではなかったのか、
というのが、国が定めた。
「一年間に5日の年休消化を義務付ける」
というものであった。
それだけでは、到底毎週の金曜日の午後を休みにするのはやりないが、一月に一度くらいは、それで充てることができるだろう。
しかし、普通の会社であれば、年間、最大40日の年休が用意されているわけで、それだけあれば、かなりの回数、金曜日の午後を休みにもできるというものだ。
考えてみれば、
「年間40日の年休」
といっても、使う人はほとんどいないだろう。
国が定めた、
「年間5日使うことを義務付け」
でもしないと、普通は誰も使わないだろう。
しかも、それに違反した社員がいたり、すれば、会社が国から責任を取らされる。
「国からの義務」
ということは、そのまま、
「会社からの命令」
といってもいいだろう。
それだけ、国家とすれば、国民に、
「休みをやることで、その分、金を使ってもらおう」
という、
「経済政策」
というものに対して、政府は限界を感じてきたということであり、考えることとすれば、
「いかに国民に金を使わせて、経済を活性化させるか?」
ということに、方針をシフトしたということであろう。
それだけ、国民は、
「政府が休みをくれた」
ということに、素直に喜んでいるのかも知れないが、別にそれは、政府が、
「国民のため」
などと思っているわけではなく、むしろ、
「国民を利用して、経済を活性化させる」
ということでのことであり、
「国民は、騙せばいい」
ということで、
「ただ騙される、バカな国民」
というのが、我々だったのだ。
もちろん、そんなことくらいは、
「百も承知」
という人も多いだろう。
しかし、それで、少しでも経済が活性化すればいいと、誰の何も言わないということなのだ。
パンデミックが終わっても、なかなか昔のように飲みに行くという人は少し減っているようだった。店の方も、少しくらいは覚悟をしていたようで、
「しょうがない:
といっている人も結構いるが、
「店の方では、想像以上に人が減った」
といっているが、
「一般の人が、街の賑わいを見ている限り、
「以前よちも、結構な数ではないか?」
と思っているようだった
その知友として、これは、実際に数字に基づいてではなく、あくまでも、
「街の賑わい」
という目視によるというものでのことであるが、店の方では。
「営業できる期間だけを見ているので、緊急事態宣言中の休業期間、マンボー中の時短期間だけを見ていると、それに比べれば、かなり増えたと見えるのは、当たり前のことであった」
ちなみに、
「マンボー」
というのは、
「蔓延防止措置法」
というようなもので、
「緊急事態宣言ほどの強いものではないが、緊急事態宣言は、国全体で統一して、例外なく行うものであった。つまり、国家全体で行わないと、一部だけを止めても、結果、全国に広がるのが、伝染病というものである。つまりは、その中には、他府県への移動を禁止ということも含まれているが、マンボーでは、都道府県という自治体の判断で決めることができて、局地的に絞ることもできる。つまり、汎用性を持たせたもので、蔓延し始めた地域を絞っての、初期処置ということであった」
だから、営業も、一律で休業ということではなく、
「営業時間を、絞って、酒の販売を行わない」
という、若干、緩い汎用性のあるものであった。
ただ、相手は伝染病ということで、
「本当にそんな中途半端なことでいいのだろうか?」
と思えた。
本当は、ある程度のピークを越えた今、そのことをすべてが、過去になっているこの時期に、
「つまりは、まだ、パンデミックが残っているうちに、ちゃんと検証し、それを、
「次回のパンデミックの教訓として残しておかなければ、また新しいパンデミックを起こせば、また同じパニックになる」
というのであれば、それこそ、
「無能な政府が、また露呈されるだけ」
ということになり、
「なぜ、政府は検証しなかったんだ?」
といって、攻撃されるだけである。
ただ、その頃には、
「政府が変わっているはずなので、今の政府には、責任がないとばかりに、全責任を、後任政府に押し付ける形で、検証もしないのであろう」
つまり、まだ政権を握りたいのであれば、検証はキチンとするはず。ソーリ本人も、
「どうせダメだろう」
と思っているに違いない、
それは、前ソーリの、
「国民の反対を無視して、オリンピックを開いた」
ということと同じであろう。
最近の政府は、
「一期だけでいいだろうから、その間、思い切りやりたいようにやる」
という、そんなでたらめなソーリばかりなのではないかと思える。
「やりたいことができないのであれば、ソーリになんかならない」
ということであろう。
それに、ここまで国民から攻撃されたり、矢面に立って、いろいろ言われたりするのだから、
「かなりの利権が絡まなければ、やってられない」
ということになるのだろう。
この街でも、、
「パンデミック禍」
の間は、他の街と歩調を合わせる形をとった。
正直、
「他の街との差別化」
という方法であっても、街において、いくらでも、いろいろしようと思えばできたのだろうが、下手なことをして、客が増えすぎると、当時の、
「自粛警察」
なる連中が黙っていないといってもいいかも知れない。
彼らは、
「政府に雇われているわけでもない」
というのは、昔、平安末期の、武士が台頭し始めた時、ちょうど平家が権力を握っている時であった。
ちょうど、平野忠時という男が、
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉を言ったと言われる、いわゆる、
「平家の天下」
だったという時代、この平野忠時という男が、
「平家の悪口」
を言ったり、陰謀を企むような人を取り締まるという意味で、
「禿(かむろ)」
と呼ばれる、少年たちを、京の街に放ったということである。
おかっぱ頭の、女の子なのか、男の子なのか分からない、年齢とすれば、小学生くらいの子供である。
その子たちは、戦災孤児であったり、親が病で死んだりして、天涯孤独となった子供で、それを平家が養う形で、平家のための、
「子供警察隊」
とでもいえばいいのか、
「子供を洗脳して、平家のための部隊に仕立てる」
という、今でいえば、大問題であるが、当時は、
「養ってもらえる」
ということで、
「飢え死にするよりはましだ」
ということだったのだろう。
洗脳されているので、感情もなければ、一切の、
「情」
というものがないということなのだろう。
そんな彼らに対して公家というのは、危機意識も欠如していて、自分たちよりも、下の連中に、
「何ができるか」
ということを思っていただろうから、ましてや、相手が子供だというっことであれば、平気で、悪口を言い合ったりしたものだ。
それを聞いていた禿が、平家に通報し、そこで、平家が、その公家を言及し、最後には、財産没収や島流しにするのだ。
さすがに、当時の平安京で、公家を処刑するというのは、できなかっただろうから、処刑まではできなかった。
それでも、
「平家の天下」
のために、禿と呼ばれる、
「平家専属の子供警備隊」
がいることで、京の治安は、守られるのであろうが、それはあくまでも、
「平家のための治安」
ということであり、その正体は、
「恐怖政治」
に他ならない。
恐怖政治が、世の中に蔓延っているというのは、時代としては、
「暗く陰湿な時代であり、先の見えないそんな時だったといってもいいだろう」
今の自粛警察も、禿と同じなのだろうか?
ただ、禿には、平家に洗脳されてのことであったが、
「自粛警察」
というのは、何かに洗脳されているのだろうか?
実に不思議な団体である。
そんな自粛警察というのは、
「トップがいるわけではない」
一種の、
「同士が集まった集団」
と言えばいいのか、言ってみれば、
「勧善懲悪な仲間」
が集まっているといってもいいだろう。
実は、迫水にも、
「俺にも、勧善懲悪なところはあるんだよな」
と思っていた。
ただ、そんな勧善懲悪というものが、いかに、他の人たちと考え方が違うのか?
ということを考えていた。
というのも、一つ言えるのは、
「人とつるむのがいやだ」
と思っていたからだ。
なぜかというと、
「勧善懲悪といっても、人それぞれで微妙に考え方が違っていて、それが同じ勧善懲悪の中であれば、表から見て、ちょっとした違いでしかなく、その違いが分からない世界であっても、その中に入ると、その見え方は、完全に違っているというものだ」
といえるのではないだろうか。
それを考えると、
「自分にとっての勧善懲悪は、同士にとっては、ただの悪でしかない」
という風に見えることもあるということであった。
それを考えると、
「自粛警察」
というものが、
「勧善懲悪だ」
と考えるのは、迫水にはできないことであった。
それを認めるとすれば、
「自分には、自粛警察というものはできない」
といってもいい、
ここでいう、今回のパンデミックにおける、
「自粛警察」
というものは、あくまでも、
「団体行動」
というものが主であり、個別に行動する人もいるが、その人まで、
「同じ自粛警察だ」
ということにはならないと思うのだった。
「個人であれば、ただの勧善懲悪であり、決して自粛警察というものではない」
と言い切ってもいいだろう。
つまりは、迫水は、
「俺は、勧善懲悪であり、自粛警察にはなりえない」
と思うのだった。
だから、ひょっとすると、同じような考えであっても、自粛警察としいぇ行動している人から見れば、迫水のような、ただの、
「勧善懲悪」
というタイプの人間に対しては、
「鬱陶しい」
と思う人もいれば、中には、
「恨めしい」
とまで思っているかも知れない。
「もし、私を狙っているような人がいるとするのであれば、考えられるのは、自粛警察の連中でしかありえない」
と思っていた。
実際に、なんとなく、
「狙われている」
と感じるようになったのは、
「自粛警察というものが現れた。世界的なパンデミックが起こってからだった」
と感じているのだった。
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