第11話

 正午を過ぎるちょっと前、営業マンの大澤がおれの席に来た。

「たまには奢ってくださいよ。先輩なんですから」

 大澤はおれと同じ大学の卒業生だ。

 大学生時代は面識はなかったが、それが社会人になって初顔合わせとなり、急に親しみを覚えた。

 まあ、かわいい後輩君の言う事だ。昼飯ぐらい、何て事はない。

「どこ行きたい?」

「がっつり食いたいです」

「じゃあアンブロシア行くか」

 丁度正午になった。昼休みの始まりだ。

 表に出てみると春先の寒さは消え、穏やかな風が吹いていた。

 イタリア料理店アンブロシアまで歩きで二分で着いた。この店はWRAPレコードの社員が日参しており、マスターも誰がWRAPレコードの社員か見分けがついた。それどころか顔と名前まで覚えている。実質、社員食堂と言ってもいいだろう。

 席に通されるとおれはホタルイカのスパゲッティ、大澤はオムライスを注文した。

 オムライスなんて子供の食べ物、などと言ってはいけない。アンブロシアのオムライスは味は当然絶品なのと、なんといてもその量がデカ過ぎるのだ。卵を何個使っているのか見当もつかない。

「いやあ、大澤もすっかり会社員が板に付いてきたね」

 大澤は後輩とは言え、たかが一つ下だ。おれも大澤には仕事上の大したアドバイスはできない。

「気のせいじゃないですか。まだ社会人二年目ですよ」

「そうは言っても学生の頃とは随分生活が違うだろ」

「そりゃもちろん。講義中に寝てましたけど、社会人は居眠り絶対禁止、ですもんね」

「何だ何だ。まだ学生気分でサボる考えか」

「吉岡さん、営業って、結構サボれるんですよ」

 その話は以前にも誰かから聞いた覚えがある。

「うちの業界だとお店周りするじゃないですか。お店の都合のいい時間でアポ取っておくと、一二時間ぐらいどうしても時間が空くんです」

「そんなときは何してるの?」

「喫茶店でスマホのゲームやってます」

「しょうがないやつだなあ。課長に知れたら、こっぴどく叱られるんじゃないか?」

「そうでもなさそうなんです。課長もみんな、現場を知ってますから、こういう事はお互い訊きませんし言いません」

「課長もそのサボり組だったって訳か」

「課長だけじゃありませんよ。園田部長だってその筈です。あ、あの人は重役出勤で昼寝付きですし」

 そう言われてみれば園田営業部長が居眠りしている姿を何度も見ていた。

「いいなあ。営業マンは。システム部なんか雑用とミッションクリティカルな仕事が同時並行するから、暇もないし油断もできないよ」

「その代わり、営業マンは拘束時間、長いですけどね」

 確かに営業マンは取引先のレコード店の連中をライブにアテンドしたり、土日はイベントに駆り出される。自分の時間を優先したい人間には不向きな仕事だ。

「で、吉岡さんは最近どうですか?」

 どうもこうもない。内心では腸が煮えくり返りる嫌疑をかけられそうで、それでいて雑用もこなさなければならない。心身ともに焦燥感で一杯だ。

「相変わらずコンピュータのお守りだよ。どうして機械は壊れるんだろうね。まあ、そのお陰でおれは食えてるんだけど」

「そうそう。そうですよね。お互い、文句はあってもそれで面白おかしく給料もらってるんですもんね」

 システム部の仕事は面白おかしくない。まあ、先輩社員に聞けば、ライブにタダで行けるのも、DVDやBluーrayが見放題なのも、最初のうちは楽しんだけれども、そのうちやんなっちゃうよ、と言っていた。大澤はまだその域に達していないのだ。

「それで吉岡さんに訊きたかったんですけど……」

 また例の噂か?

「経理部とシステム部に関連して、決算や国税の監査を逃れられないような不祥事が起きている、って聞いたんですけど、それ、本当なんですか?」

 やっぱりそう来たか。

「それ、誰から聞いた?」

「みんな言ってますよ」

「みんなって、営業部の?」

「そうです」

「あのなあ……」

 おれは返答に窮したので説教をするような素振りを見せた。

「その噂がどこから来たのか知らないけど、所詮噂だろ? 社会人としてそういう流言を流すのも、信用するのも、どうかと思うぞ」

「じゃ、吉岡さんはこの噂を知らないと?」

「いや、そういう噂がある、ってのだけ知ってた」

「なんだ。ご存じだったんじゃないですか。はぐらかさないで本当のところを教えてくださいよ」

 だーかーらー、おれがそういう噂の元になってたまるか。

「もしそれほどの大事件だったら、役員レベルの話になるんじゃないかな。おれみたいなペーペーには、そんな話、降りてこないし、もしその噂が本当だったら国税が入れば全て丸裸にされるだろ? 違うか?」

 大澤は意外な顔をして「それもそうですね」と言った。おれがペーペーであるのも肯定しやがった。まあ、実際ペーペーなんだから仕方ないが、大澤に「お前はペーペーだ」と言われた気分になる。

「しかし吉岡さんもご存じないんですから真偽ははっきりしたも同然ですね。誰なんでしょうね。こんな噂を流したの」

 それが草野社長もしくは栗原専務当たりが疑わしい、と言う言葉を飲み込んだ。

 ホタルイカのスパゲッティとオムライスが来た。いつも通り、オムライスの量は圧巻だ。おれたちは昼食にかぶりついた。

「いや、もし噂が本当だったとしたらですよ。次の我々のボーナスも危ういって話だったんですよ」

 計三十億超の横領では、社員のボーナスカットどころでは埋め合わせに足りない。

「しかし、噂にしては妙な話だな。どうして経理部とシステム部が絡んでるんだ? どちらも間接部門だし、そもそも金をちょろまかすなら、営業のキックバックの方が真っ先に疑われると思うんだが」

 あまり大きな声ではいえないが、レコード業界の商習慣として2.67パーセントのキックバックがある。これはどこのレコード会社も横並びの共通で、もう何十年と続いているとの事だ。

「吉岡さん、それ言わないで下さいよ。まるで営業マンが悪者みたいですし、どこで誰が聞いてるか分からないじゃないですか。内緒にしてくださいよ」

 おれは自分の油断を知らされた。

「おっと。口が滑った。失礼」

 それだけ言ってスパゲッティを頬張った。

「いや、確かにレコード業界事態、全体的に金にルーズなところはありますよね。他のメーカの営業マンと飲んでも、ああすれば横領できる、こうすれば横領できる、なんて話はいくらでもありますから」

「まあ、そういう緩いところもこの業界がギスギスしてない良いところなんだけどな。IT業界は金には厳しいんだってさ。あいつら、普通の給料取りじゃなくて時給で人を雇ってるし、そもそも数字には滅法強いから、コスト意識や管理は凄いんだってよ。そういう点では音楽業界も見習ったほうがいいかもしれない」

 大澤は巨大オムライスを既に半分食べ終えていた。

「そうですね。IT業界がどういうものなのかよく知りませんが、年商や利益率でいったらまだまだ音楽業界は稼げてると思いますよ。いくらCDやDVDの売上が落ちたとは言え、年間の売上を社員の人数で割ったら、一人当たり一億超えてますもんね。こんな健全な経営、他の業種じゃあんまりないんじゃないですか」

「やっぱりそう思う? そこなんだよね。この業界のもう一つの魅力は。テナントビルの経営とかだと、最大の年商がどうしてもそのビルの大きさで決まっちゃうじゃん。でもこの業界は売れれば青天井で売上が立つもんな。そういう魅力は経営側にも、とっても魅力な業界に見える」

 大澤はなるほど、そういう見方もあるんですね、と頷きながらオムライスを食べ続けた。

「どうして吉岡さんはうちの会社に入社したんですか? 今言った話、みんなこの業界に入ってからじゃないと分からない話ばっかじゃないですか。そこまで学生が業界研究できるとは思えません」

 大澤のオムライスは残すところあと一口だ。

「ああ。おれ、情報工学科だから普通にSEなりプログラマなりになる積もりだったよ。で、OB訪問でIT業界の実態を知ると、みんな早く現場仕事を離れたがってたんだよ。好きでコンピュータを触ってんじゃなくて、結局時給のために黙々と作業してるんだってさ。で、みんなが一様に言うのは三十代のうちに社内SEに転職するか、独立するか、そんなところにみんな落ち着くんだって。だからおれは最初から社内SEを募集してたWRAPレコードを志望した訳。それに音楽好きだしね」

「そういえば吉岡さん、音楽サークル入ってたんでしたっけ」

「うん。ドラム叩いてた」

 自分の事なのにすっかり忘れていた。ちょっと昔の自分の趣味を思い出し、もう一度あの音楽を創る感触を試してみたくなった。

「なるほど。納まるべきところに納まった、という感じですね」

「それはどうかなあ。この業界、人の流入が激しいだろ。おれだって昇給目当てでいつ転職するかもしれないよ」

 大澤の目の色が変わった。

「何か具体的なお誘いがあったりします?」

 やはりそこが気になるか。

「いや全然。意外と社会人になってから人との交流は少なくなったよ。基本内勤だし、業種が業種だから取引先も数件しかないし」

 大澤はオムライスを完食した。

「あ、そういえば思い出した」

「何だ?」

 また良からぬ事を言い出すつもりか?

「この三四日、うちのサーバルームに美人さんが出入りしてるって」

 なんだ。そんな事か。相原さんは基本的にうちの会社にいる時はサーバルームから出てこない。しかしその僅かな隙であってもその事はしっかり営業マンの耳に入っているのか。

「ああ。相原さんの事ね」

「相原さんて言うんですか」

「しかし、よく知ってるな」

「うちの会社、噂はすぐ広まりますから」

 だからもう大人なんだから噂話は止せって。

「吉岡さんも何だかんだいったって仕事で出会いのチャンスがあるんじゃないですか。それをコンピュータのお守りばっかりだなんて」

「それが相手は手強いんだな」

「もう手、出したんですか」

「いや。一回だけ夕食替わりに飲みにいっただけ」

「手が早いですねー」

「おいおい、勘違いすんな。おれの手には納まりきらない才媛なんだ。おれなんか相手にされないよ」

「だったらなおさら」

「いや無理だって」

「そこをなんとか!」

「できないんだなこれが」

 おれたちは昼食を平らげていた。

 入り口付近に二三人並んでいるのが見えたので、そそくさと会計を済ませ(勿論おれの奢り)仕事に戻った。

 大澤はそのままお店周りに行くと言って市ヶ谷駅方面へと向かった。

 社へ戻りサーバルームに目をやると竹富部長と相原さんが端末に向かって作業していた。相変わらず二人の作業内容はおれには不明だった。

 自席に戻って何となしスマホを見ると相原さんからメールが届いていた。

「予備のノートPCにLinuxをインストールしてください。ディストリは何でも構いません。インストールが終わったらIPアドレスとrootのパスワードをご連絡ください」

 何だ? おれはすぐ返信した。

「分かりました。Fedoraをインストールします。が、竹富部長には何と言えばいいでしょうか?」

 Fedoraを選んだのはRHELのオープンソース版だからだ。違うディストリだと/etc以下のファイル構成が違っており、偽物のサーバだと気付かれないためだ。

 チャットのように相原さんからすぐ返信が来た。サーバルームを見ると何事もないかのように端末に向かう竹富部長と相原さんの姿が見えた。

「予備のPCの動作チェックとか、誰かのPCが不調でその代替とか、適当に言っておいてください」

 よくそういう嘘がホイホイと出てくるな、と関心した。

「今からサーバルームに行きます。そういえばどうやって今相原さんはメールを打ってるんですか?」

「mailコマンド直打ちです。世界最古のMUAよ」

 なるほど。ハッカーらしいやり方だ。

 おれは早速サーバルームに入った。

「あれ? どうしたの」

 竹富部長がおれに訊いてきた。こういうところに竹富部長の目敏さを感じる。

「浜山さんのノートPCが不調なのでその代替機をもっていきます」

「あっそう。じゃ、よろしくね」

 竹富部長はそれだけ言うとまた端末に向き合った。相原さんはおれを完全に無視していた。

 自席に戻るとおれは早速言われた通りFedora Linuxのインストールに取りかかった。

 社用のUSBメモリにインストールイメージをダウンロードして、今もってきたノートPCに差す。電源を入れるとLinuxのインストールが始まった。

 地域や言語の設定をして簡単にインストール作業は終わった。しかし、結局作業時間は1.5Hほどかかった。

 おれはまた相原さんへメールした。

「Linuxマシンインストール終わりました。IPアドレスは172.16.0.97。rootのパスワードはqwertyです」

 おれは今出来たてのLinuxマシンを電源を入れたままデスク下の床に置いた。

 こんな子供騙しが竹富部長に通用するとは思われないが、そこは案外心配しなかった。

 目の前の小さな瑕疵は意外と気付かないものなのだ。

 相原さんがいつおれのメールに気付くかが気掛かりだった。

 雑用をこなしながら時々Linuxマシンのログイン状況を確認していった。

 おれがインストール完了のメールを出した三十分後に相原さんがログインしてきた。

 相原さんの作戦はここまでは成功した。

 そういえば相原さんがこのLinuxマシンで何をやるのか聞いていなかった。

 相原さんの作業ログを監視してみると、MariaDBとApacheをインストールしていた。

 その後、大量のデータがMariaDBへ放り込まれ、ウェブサイトが立ち上がった。

「今どんな作業をしてるんですか?」

 おれの相原さんへのメールを送信してから五分経ってから返信が来た。

「御社のLinuxサーバのクローンを作っています。用途は後日報告します」

 何? 何故そんな事を?

 その理由を書いていないのはやはりおれを信頼していないのか、それとも竹富部長にこのメールがバレそうなのか……思惑は疑惑へと変わった。

 なぜ竹富部長も相原さんもおれに事の成り行きを隠すのか?

 ただのペーペーではあるがそうそう秘匿されると疑心暗鬼になってしまう。蚊帳の外にされた疎外感ではなく不審だけが募っていった。

 いくらおれが不審に思っても雑用仕事は減らないし時間だけが無為に過ぎていった。

 サーバルームを見ると竹富部長と相原さんがいつものように二人ちょこんと並んで端末に向かっていた。

 その二人の距離はほんの僅かだったが、お互いが敵味方に分かれているのを、おれは見て取った。

 竹富部長も何かあると察しているに違いない。その竹富部長が相原さんの翻意に気付かないと考える方が不自然だ。

 そもそも相原さんは竹富部長に選ばれて雇われた人材だ。その相原さんの、竹富部長との決別は、竹富部長にとって飼い犬に手を噛まれるようなものだ。あの竹富部長がそうそう噛まれるとは思われない。

 二人ともかなりのやり手のハッカーだ。

 その二人が隣り合いながら対峙している。

 その光景を見て、おれは相原さんに抱いた第一印象を思い出した。

 隠しきれない殺気――。

 どんなにメイクをしようと、どんなに服装を替えようと、どんなに笑顔で接しようと、その人の持つ本性はどうしても初対面の一撃で見て取れるとおれは思っている。

 きっとおれは詐欺師を詐欺師だと一目で見抜けるだろう。その自信はある。

 初対面ではその人の顔の筋肉一つ一つを動かし、なるべく好印象を与えようとするのが社会人としての礼儀でもあり、慣習となっている。

 しかし本心を現すその人の体臭は隠しきれない。

 もしおれが竹富部長の立場だったら、明日の土曜日も出社して隠し事を内密にこなしていくだろう。それが今回の横領犯がとる最善の方策だからだ。

 即ち、相原さんという敵が出現し攻撃を始めた以上、返り討ちに討ち取るしか方法がない。

 闘いを挑まれたなら相手になる。殴られたら殴り返す。そうしないと竹富部長は自分の犯行を隠しきれないからだ。

 隠蔽工作はまず身内から騙すところから始まる。そしてその身内に絶対の信頼を勝ち得てから外堀を埋めていく。そういう方法はサラリーマン的な常套句だ。

 ふとおれはサーバルームに目をやった。

 室内で動きがあったのだ。

 竹富部長がサーバルーム内の電話を使っている。どこへ掛けているのかは不明だが、三回ほど受話器を置いて掛け直しているところをみると、複数箇所へ相談なり連絡なりしているのが分かった。一通話でそれほどの時間をとっていないところをみると、どうも一方的な連絡であるらしかった。

 相原さんのいる中での電話なのでシステム関連の連絡であると予想される。が、サーバルームから電話しているところから想像すると、その通話内容は秘匿すべきもののようだ。

 電話が終わると、竹富部長は相原さんと一言二言遣り取りをして竹富部長はサーバルームを出た。

 珍しく真っ直ぐ自席に着いて直ぐさまノートPCに何か入力した。

 その直後にTeamsにチャットが入った。勿論、竹富部長からだった。

「明日、土曜日だけど出勤してください。緊急の役員会を開きます。午前十時から会議室

A3です。」

 おれはすぐに返事をした。

「承知しました。相原さんも同席するんですか?」

「します。彼女にも証言してもらいたいので」

 証言? ついに真犯人の尻尾を掴んだのか?

 おれはそれを問い質そうとしたが、直ぐさま竹富部長はサーバルームへと戻って行った。

 ついにおれの首が飛ぶ時が来たか。無実の罪で断罪されるのはご免だが、おれにもその役員会の参加を命じたところをみると、申し開きのチャンスが与えられたとも取れる。

 しかし、実際はおれは無罪だ。何も臆する事はない。正々堂々としていればいいのだ。

 しかし相手は草野社長であり栗原専務であり、何よりも竹富部長が相手だ。どんな手を使ってくるのか分かったもんじゃない。

 恐らく竹富部長はそれなりの落とし所とその証拠をもって役員会に臨むだろう。その手筈が整ったから、おれに明日出席するように促したのだ。という事は、相原さんもその手中に収めたのだろう。

 相原さんをもってしても、竹富部長の詐謀偽計の前には太刀打ちできなかったか。

 いや、まだ勝機はある。

 出たとこ勝負になってしまうが、おれには自分が無罪である自信と事実がある。これは誰が何と言おうと揺るがない。

 しかしだ。証拠主義という恐ろしい考え方もある。

 主にアメリカで通用する概念らしいのだが、証言よりもその物証に重きを置く考え方だ。

 コンピュータの場合、それはアクセスログなりメールやチャットの遣り取りがその物証に当たる。だがしかし、コンピュータの世界では、そんな物証はいくらでも捏造・改竄できる。それを理解してもらえない人物に当たった場合、おれはどうすべきか?

 そうなれば、役員会の席でその物証の捏造・改竄のデモンストレーションをするまでだ。

 コンピュータの素人である草野社長と栗原専務を納得させるには、実際にその証拠が改竄であると現場の力でねじ伏せるより他の手がない。

 逆に言えば、その手練手管を見せればおれの身の潔白・無罪を勝ち取れるのだ。

 サーバルームの中でまた動きがあった。

 竹富部長がまた電話をしている。

 勿論声は聞こえないが、何か怒鳴りあっているように見えた。

 よっぽど急ぎの重要な案件を遣り取りしているらしい。竹富部長には珍しく口角泡を飛ばしている。

 竹富部長は狭いサーバルームをうろつき始めた。

 どうも議論が紛糾しているようだ。

 声が聞こえないのは残念だが、その様子は普段の竹富部長からは想像できない仕草だった。

 しばらくして竹富部長は受話器を相原さんに渡した。

 相原さんは先ほどの竹富部長とは違い、サーバルームの中にすっと立って冷静に話の受け答えをしていた。

 しかし、長電話だった。

 電話の内容は相原さんにも受け入れられないものらしく、その会話は長く続いた。

 話が長引くにつれて、相原さんは俯き加減になっていった。どうも相原さんにとって不利な方に話しが展開しているらしい。

 そして相原さんは受話器をまた竹富部長に返した。

 竹富部長が二三言話して受話器を置いた。

 それから竹富部長と相原さんは長い間、サーバルーム内で話し合っていた。相原さんは俯いたままだった。どうも竹富部長が相原さんを何か説得しているらしかった。

 何を今さら説得する事由があるのか? おれには不思議だった。

 竹富部長がサーバルーム内で電話をしてから二人の動きがおかしい。何か大きな力で物事をねじ伏せようとしてるように見えた。

 が、それが何で何のためにどうしてそんな事をするのか、今のおれには皆目見当が付かなかった。

 事の発端は竹富部長が明日土曜日の臨時役員会を招集してからだった。だからそれについての参加者への至急の電話連絡に思われたが、どうも竹富部長の所作がおかしい。

 役員会への参加要請の連絡だけなら、ほんの一言二言で用が済むはずだ。それがこの体たらく。何かあると踏むほうが普通だろう。

 サーバルームでは相原さんが自分の荷物を纏め始めていた。

 何をする気だ?

 相原さんがサーバルームから出てきた。

「お先に失礼します」

 そう言って相原さんは足早に出て行ってしまった。

 遅れて「お疲れ様です」の声がちらほらかかった。

 一体何があったのか? おれは相原さんにLINEを送った。

「何があったんですか? 詳細を教えてください」

 相原さんの返事まで二三分かかった。

「私。臨時でたった今、解雇されました」

 解雇⁉

「何故ですか? どうもサーバルーム内の様子がおかしいと思ってずっと見ていたんですが」

「竹富部長とうちの社長、やっぱりグルだったみたいです。明日、臨時役員会があるそうですが、社長から私にその会議には出席するな、と指示がありました」

 という事は、逆に相原がそれほど今回の横領事件調査でのキーパーソンである、という証拠だ。

「解雇の理由はなんですか?」

「真犯人と目される人物が判明したので、これ以上の捜査は不要になったから、との事です」

 真犯人が分かった? つまり、おれのアリバイ全てを覆す準備が整った、というのか?

「さっき竹富部長が明日の役員会には相原さんも参加すると言ってましたが」

 これは一体どういう事態なんだ。

「そうですか。それはそれで、そういう事なんでしょう。それがどういう意味なのか、察してください」

 竹富部長の騙し討ち。つまりはそういう事か。

「これからは相原さん、うちの会社とは全くの不通になるんですか」

「それは吉岡さん次第ですね」

 どういう事だ? おれは相原さんは味方だと思っていたのだが、その味方が急におれに対して反故にしようとしている。

「私としては是非相原さんに役員会に出席していただきたいです。捜査は竹富部長と相原さんとの二人で行ってきたじゃないですか。ですからその報告も両翼が揃って初めて有効な報告ができうるかと判断します」

「そうですね。しかし私も会社員ですので社長命令を無視する訳にはいきません」

「よく考えてください。御社の社長が今回の横領事件に関与している可能性があると、相原さんが仰ってたじゃないですか。そうなればERテクノロジー社も何もあったもんじゃなくなりますよ」

「そこ、詰めます?」

 その一言がおれには重く感じた。

 何せ相手は海千山千のERテクノロジー社だ。こういった事態に備えて既に策を講じているかもしれない。その手の内はおれには推量できなかったが、このままではおれは有罪認定されてしまうかもしれない。

「相原さんには真実を語っていただければ、それだけで結構です。ギャラはお支払いします」

「いくら?」

 要するに金か。確かに相原さんは「金で動く人間がいる」と言っていた。相原さんもその口なのだ。

 金で三十億円超の横領の疑惑を晴らしてくれるのなら安いもんだ。

「五万でどうです? 私個人が支払います。会議は一時間かそこらでしょうから、相原さんの時給から考えれば破格でしょ」

「切りよく十万で」

 人の足下を見るとは正にこの事だ。おれは一瞬苛ついたが選択肢がない。

「分かりました。それでお願いします」

「場所と時間を教えてください」

「明日午前十時、WRAPレコードのA3会議室です」

「ちょっと遅れて参加します」

「何故ですか」

「役員会開始前に姿を現すと、出て行けと言われてしまいますので」

 なるほど。闖入者を予め排除するのを予見していたのか。

「では明日お願いします」

「私はこれから社に戻って社長と今後について相談します。相談の結果次第によっては、またWRAPレコードさんと関わりをもつかもしれません」

 それでLINEは途切れた。

 おれは溜息を吐いた。

 おれが明日の役員会で何を言うべきか、何をプレゼンすべきかを考えて見たが、どうも頭が回らない。いや、有罪宣告を受ける被疑者の気分だ。おれの弁護士役を演じてもらう相原さんも、結局金で動く人間なのだ。

 これから定時までの数時間、相原さんがERテクノロジー社の社長に籠絡されるとも限らない。

 本当の勝負は、今日中に決するのかもしれない。

 そうは頭で理解できても、手が回らない。頭は真っ白だ。

 こんな時は普通、上長に相談して指示を仰ぐものなのだが、その上長の竹富部長が敵なのだ。

 まざまざ「自分は無策です。どうしましょう」なんて間抜けな相談はできない。

 竹富部長はまだサーバルームにいた。

 一体この期におよんで何の作業をしているのだろうか?

 いや、おれへの引け目からおれと距離を取りたいがためにサーバルームに籠もっているのだろう。

 おれはそこを詰める。

 サーバルームに入っていき、竹富部長に「一体何があったんですか」と真正面から問い質した。

「何もかにも、今回の横領事件の犯行手段が分かったんだよ」

 竹富部長は「犯人が分かった」とは言わなかった。「犯行手段」が分かったに過ぎない。

「どうやったんですか?」

「それは明日の緊急役員会で詳しく話すから、その時まで待っててね」

 竹富部長にいつのも笑顔はなかった。

 それはおれを陥れようとする画策が済んだ鉄面皮なのか、犯行の手段に自分が加担していないのを証明する手筈が整ったからなのか、どちらにしろ、竹富部長の胸の裡は推し量れなかった。

「相原さんはどうしたんです? 急に帰っちゃったみたいですけど」

「ああ。先方の社で急に呼び出されちゃったんだって。あっちの社長と何かあったみたい」

 この言い方では不十分だ。相原さんは解雇を宣告されたと言っていた。その部分が完全に抜け落ちている。

 これはどう考えても謀略の策だ。

「仕事を放り投げて帰社するなんて、外注業者にはあるまじき事態ですね」

 竹富部長はいつもの笑顔に戻った。おれが相原さんの突然の解雇を知らない、と確信したのだろう。

「まあ、外注業者といっても、やっぱり会社組織だから、突発的な事故やらなんやら、色々あるんじゃない? うちだって、急遽の役員会を明日開くんだし」

 竹富部長の笑顔は勝利を確信した笑顔になっていた。

「……そうですか。では明日の準備は何かありますか? お手伝いしますよ」

 竹富部長は笑った。いや、にやけた。

「ああ。特にないよ。吉岡君はそのまま会議室に来てくれればいいから」

 要するに余計なことはしてくれるな、と解釈した。

「取り敢えず今日中に上げなきゃいけない仕事から片付けちゃってくれないかな。こっちもあらかた仕事は片付いたから、今日は定時に帰れそうだよ」

「分かりました」

 おれはサーバルームをすごすごと出て行った。

 仕事は相変わらず山積していた。急ぎの案件はなかった。

 おれは定時までゆっくりと仕事を片付けていった。

 手作業なので手は動かしていたが、頭の中は明日の臨時役員会の事で一杯だった。即ち、頭の中は真っ白。見えるもの、聞こえるもの全てが空寒く感じられた。

 時間はあっという間に過ぎていった。

 定時の午後六時を四分廻っていた。

「それじゃお先ー」

 竹富部長が暢気な風を装って退社した。

 これからの時間は竹富部長の監視がない、という事だ。

 おれは今からAS/400とLinuxサーバを弄くって竹富部長のその自信の根拠となるであろうアクセスログやデータの改竄をしようかとも思ったが、それは止めておいた。

 あの竹富部長の事だ。無策でおれを野放しにする筈はない。

 万事休す。

 おれは自分のノートPCをシャットダウンして退社した。

 オフィスのあちこちから「お疲れ様でした」との声が掛かった。

 その声はおれが本当に辞職なり退職なりになる「お疲れ様」のように聞こえた。

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