第9話
今日もまた定時を迎えた。
いつも通り派遣社員たちは仕事を切り上げ、正社員たちはそれを羨む目線を投げ掛けた。
おれは定時になったのを気付かない素振りをした。
そういう態度をとるのが大人の社会人の対応に思えたからだ。
サーバルームには全く動きがなかった。
自席から身を乗り出してサーバルール内を見ると、いつもの通り竹富部長と相原さんが並んで端末に向かっていた。
横領の犯人捜しが始まって、今日で三日目だ。あと四日で結果を出さなければいけない。
相変わらず竹富部長からおれへの作業の進捗報告や判明した新事実などの連絡はない。
竹富部長ははっきりと捜査担当は自分、通常業務はおれと、割り切っているようだ。
しかし、おれの心情的には会社の一大事に参加させてもらえない疎外感、経過報告をしてくれない不審感は募っていた。
その竹富部長の姿勢は(おれの勘繰りだが)いやに頑なに見えた。
竹富部長の作業内容が見えない、というのは相原さんの作業も見えない、という事だ。
二人で一日中(といっても午後一時からだだが)サーバルームに閉じ籠もって一体何を捜査しているのやら。アクセスログの解析だけなら昨日で終わってるし、今日の回線の不調もよくよく考えてみれば不自然だ。
ひょっとして、二人で何か開発してるとか?
いや、多分それはないだろう。
普通、どんなに小さな開発案件でも最低一ヶ月はかかる。つまり、上から提示された一週間では時間的に無理がある。ログ解析だけならもう終わっている。
新しいアンチウイルスアプリをインストールするなら全社的に行う必要があるので、サーバルームには閉じ籠もっていられない。
ファイアウォールでも作ってるのか?
いや、それなら相原さんのERテクノロジー社ではなくイノダシステムに依頼するだろう。
要するに、おれにとって二人は謎の作業に取りかかっている訳だ。
とすると、まだ容疑者の断定には至らず、その犯行の証拠集めをしているというのだろうか。
分からん。今のは全くのおれの勝手な予想の範疇を出ない。
西原ではないが、今のおれはガキの使い同然だ。
どうもしっくりこない。竹富部長が手の内をおれに明かさないのは、おれも容疑者の一人であるからなのは理解できる。実際、今回の犯行が可能なのはシステム部員と経理部員とを合わせた六人だけだ。
で、本当にそんな犯行をしそうな人物を篩に掛けると、事実上おれと竹富部長しか残らない。竹富部長が犯人なら、まざまざ自分の犯行の証拠集めなんてする筈がない。
となると、やはり最後まで篩に残るのはおれだ。
白状しよう。おれはやってない。
もしおれが「犯人おれじゃないっす。証拠集めしたって全然無駄っすよ」なんて言おうものなら、逆の意味で「あんたらの腕前じゃおれの尻尾は掴めねえよ」と吐き捨てるのと同じだ。
そこであくまでポーカーフェイスを使って温和しく日々の業務を淡々とこなしていくおれを、なんとか追い詰めようとしているのかも……。しかしそれだったら、本当に「吉岡犯人説」で動かれると、ただの徒労に終わってしまう。一週間という期限の中、無駄な時間はない。早くおれがシロだという証拠を挙げて欲しいものだ。
それにしても何故犯人はLinuxサーバのおれのアカウントを知り得たのだろうか?
辞書攻撃? 今時それはないだろう。
社員名簿を入手して当てずっぽう? それは効率が悪すぎる。
スニッフィング? パケット盗聴? それができる社員がいるなら是非システム部へスカウトしたい。
現状、最も困るのがAS/400のアクセスログにも、Linuxサーバのアクセスログにも、おれのアカウントで入った、という記録が残っている事だ。
竹富部長はきっと草野社長と栗原専務にそれをありのまま報告するだろう。いや、ありのまま報告するしかない。
経営陣は基本的にコンピュータ音痴で、コンピュータの専門家でシステム部部長のその言を信用するしかない。
となると、おれが犯人に仕立てあげられてしまう。
それに調査が始まって以来、竹富部長はおれを捜査から外している。
竹富部長が鼻からおれを犯人と決めつけてかかっているのであれば、その証拠隠滅を防ぐためにおれを意図的に外していると考えれば辻褄が合う。
そういう事なんすか? 竹富部長!
おれは自分の身の潔白を示すものを自分で作らなければなるまい。
が、それは最も信頼できる自分の上司を敵に回しかねない。そのやり方は得策ではない。
やはり、竹富部長との間を取り繕ってくれる人間が必要だ。
今夜の相原さんとの面談が勝負となるか。
おれはどうやって相原さんを籠絡するかを考え始めた。
相原さんはその職業柄、理詰めで話すのが得意だろう。いや、職業病と言っていいほど合理性・客観性・論理性に重きを置いていると予想される。
逆に言えば、物証となり得るものさえあれば信頼を勝ち得るだろう。
しかし、どこにそんなものがある?
むしろおれにとって不利な証拠ばかりが出てくるじゃないか。
「お先に失礼します」
考えあぐんで、おれは終業した。
周囲から「お疲れ様でした」との声が所々に湧く。
おれは室を出るとB2会議室へ直行した。
会議室のフロアには別の会議室に先客が三組いた。
その三組を横切ってB2会議室へ入った。
おれの姿、見られたかな?
確かに相原さんとおれだけで密談しているのは見られたくない。が、良いのか悪いのか、おれの終業は午後八時過ぎで相原さんは恐らく午後十一時過ぎだろう。
その間におれはスマホでクラッキングの手法を検索してみた。
まあ、あるわあるわ。ちょっとググっただけで様々なクラッキング方法が出てきた。
世の中には悪い連中が多いもんだねー。
おれはどこか今自分の立たされている状況が、他人事のように感じられた。
ひょっとして、そうでもしないと自分の危機感を真に受けられないという防衛機制が働いたか?
相原さんの終業までたっぷり時間はありそうだ。
相原さん対策の作戦を練ろうとしたが止めた。
そんな小細工が通用する相手ではなかろうし、第一作戦を立てたところで、相原さんはそれを見事に打ち崩すだろう。
今は面接を迎える就活生のような気分だ。
午後十時ちょっと過ぎた。社会人が待つには長すぎる時間が過ぎた。
「失礼します」
ノックと共に相原さん登場。相原さんは仕事の疲れを顔に出さず、その黒いスーツも真っ白なシャツもまだピンとしていた。
「お疲れのところ恐縮です」
「虚礼廃止でいきましょう。で、ご用件は?」
こう言うところが相原さん、いや、IT業界人らしい。
「今回の横領事件の件で不自然なほど、私に不利な証拠があがってきてます。それに竹富部長はその捜査に関して私に何の情報を与えてくれません。相原さん、何かお心当たりはありませんか」
相原さんの顔色がちょっと変わった。困惑の顔色だった。
「吉岡さん、今回、私に任されたミッションをご存じないんですね」
へ?
「いや、ですから横領事件の捜査ですよね」
「違います」
え? え?
「私の今回のミッションはただの竹富部長の作業のお手伝いです。指示は都度都度いただいてます。私もその作業の意味するところを理解しているわけではありません。ですが、アクセスログから特定のIPアドレスの抽出や竹富部長が開発か改造されてるCのプログラムの追記修正をやってます」
開発案件? どういう事だ?
「その修正だか開発だかの仕様書か設計書を見せてもらえませんか」
「それがないんです」
え?
「そういったものは全て竹富部長から口頭で伺っています」
「一体、何のプログラムのコーディングですか。perlで何か書いてらしたようですけど。今時のスクリプトは全部Pythonかと思ってました」
「……内容についてはちょっと……。perlを使っていたのは私の癖です。どうもPythonのネストを括弧ではなくインデントで表すのが気に入らなく……。それに竹富部長から言語の指定がなかったので私にとって最もローコストな言語を使ったまでです」
「竹富部長以外には仕事の内容を口外しない、という契約ですか」
「いえ、部外者への守秘義務だけ負ってます」
「先程も言いましたが、相原さんは竹富部長に雇われてるんじゃない。株式会社WRAPレコードのシステム部に雇われているんですよね」
「ええ。そうです」
「でしたら、そのシステム部員の私に隠し立てする必要はないでしょ?」
「……まあ、契約上は」
「でしたら竹富部長が相原さんに指示した全てを教えてもらえませんか? 横領事件が発生して内部調査が始まって以来、竹富部長は私に何の事情も話してくれないんです。部下として、それはあんまりじゃないですか。捜査の進捗をシステム部で共有すべきです」
相原さんはいたって冷静だが、その目の奥の困惑の色は隠せなかった。
「ひとつ伺ってもいいですか」
「そうぞ」
「横領事件って、何のことですか?」
まさか!
「私には初耳です。竹富部長からの契約書にはごく汎用的な文面で、社内システム内のゴミ掃除とちょっとした改変、としかありませんでしたから」
ちょっとした改変どころではない。おれを犯人に仕立て上げための証拠の改竄ではなかろうか。
「横領事件については何もご存じない?」
「はい」
横領事件自体、社外秘であるのは間違いないが、ほぼ半分、裏社会に首を突っ込んでいると思われるERテクノロジー社にも、それを秘匿していたのか。
その気持ちは確かに分かる。社外秘は社外秘だ。しかし、現場のエンジニアに事態を正しく連絡しないで作業に当たらせるというのは、外注業者すら守秘義務を守らない前提で疑っているのか、とにかく不自然極まりない。
「今回、ERテクノロジー社さんに仕事をご依頼した経緯からお話しましょう」
おれは自分の知っている限りの事、即ち臨時役員会で話題に上った事、全てを相原さんにぶつけた。相原さんは動じなかったが、何か自分の立場が危ういものであるかを覚ったようだ。
「吉岡さん、つまり、私が真犯人の証拠隠滅に利用されたのかもしれません」
やっと相原さんからその言葉が聞けた。
「しかし、こうも考えられますね。真犯人とめぼしい竹富部長と、吉岡さんの生殺与奪の権を私が握っていると」
確かにそうかもしれない。だからといって相原さんに卑屈になる必要はない。事実を積み上げて真実を暴く。それが社会正義でもあり一般社会人のやり方だ。
「アクセスログの改竄はしましたか?」
「してません」
「キーロガーの調査は?」
「しました。どれもシロでした」
「経理部の分も?」
「ええ。誰も怪しい行動はとっていませんでした」
「逆に、今回の横領事件と犯人と目されるのは誰だと思います?」
相原はあっさり応えた。
「竹富部長です」
その言葉はおれには意外でもあり、やっぱり、とも思えた。
「それ、いつ頃から気付きました?」
「最初からです」
「何故?」
「うちの会社は秘匿性の高いミッションクリティカルな案件を専門に受け付けています。企業内の内定調査ですとかタイガーチームを組んでセキュリティホールの発見ですとか。そうは言ってもうちの会社は所詮下請け会社ですから、その仕事がクライアントにとってどんな影響を及ぼすのか、システムのどの部分かまでは立ち入っているのか知りません。IT業界ではよくあるんですが、五次受け・六次受けの仕事をしていると思っていただいて結構です。そこまで下流の案件ですと、自分たちがどんなシステムのどの部分を担っているのか、分からないんです。ですから今回の案件も、仕事内容的には曖昧な条項が多かったんで、ああ、社外秘が多い案件なんだなあと、それしか理解できませんでした」
なるほど。相原さんもガキの使いだったのか。
「ここまでこちらの事情をお話したんですから、相原さんも是非真犯人特定に向けて動いてもらえませんか」
相原さんは冷徹だった。
「会社の上下関係からして、竹富部長の指示が優先されます」
そうきっぱり言い切った。
「ですが刑事事件にまで発展するような案件の場合、私のような者の現場判断で吉岡さんの指示へ鞍替えする訳にもいきません。私の上長である社長に判断を仰いでみます」
「それでは時間が足りないんですよ。今回の案件の全行程は一週間で、今日で三日目です。相原さんも仰っていましたよね。性善説でも性悪説でもなく、事実によって動くと。ですが今までの相原の仕事は性善説を利用した悪事になりかねないんです。真犯人を隠匿して間違った犯人、つまり私ですが、その私を吊し上げようとしている。竹富部長がログの改竄を相原さんに依頼しなかったのは、それをやると竹富部長の犯罪がもろに第三者に露見するのを恐れての事だとすれば合点がいきます。お願いです。社長にすぐ相談していただけませんか? そして真犯人を特定する作業に専念してもらえませんか?」
相原さんはしばらく沈黙した。
「……吉岡さんはご存じないかもしれませんが、うちの会社は所謂裏の仕事、法律的にグレーの仕事も、そうと知っていて引き受けるんです。その代わり契約金は相場より高くもらっています。うちの上司もそれを承知で今回の案件を引き受けたのでしょう。ですから、社長も急に私が心変わりしたところで、竹富部長の側につくのを指示するでしょう」
「そんな悪がまかり通っていいんですか? 御社の看板に傷が付く」
「既にうちの会社の看板は傷だらけです。今さら傷の四つや五つ増えたところで、どうって事ないんです」
おれは呆れた。世の中にはそんな汚れ仕事専門の会社があるなんて。
「しかし、それでは今回の横領事件をERテクノロジー社さんが担いだ事になりませんか? そうすれば傷ところじゃ済まなくなりますよ」
相原さんは冷たく言った。
「うちの会社がどうなろうと、私の知った事ではありません。サラリーマンなんてみんなそうでしょう? 会社が潰れても従業員が潰れなければそれでいいんです。私の場合、会社が潰れてもSESで食べていく自信はありますから」
その通りなのだろう。
「ですがうちは日邦テレビグループの子会社ですよ。これだけ巨額の横領事件が世の中に知れたら、犯人側についた人間は刑事訴追されるでしょう。そうなると『言われた通りやっただけです』『知りませんでした』じゃ済まなくなりますよ。相原さんもご存じでしょうが、最近の事件で組織的オレオレ詐欺グループが捕まったじゃないですか。あの掛け子・受け子も逮捕されてます。相原さんも同じ立場なんですよ。それでも竹富部長についていきますか?」
「ですからそこは社長と相談の上……」
「一週間の契約だって事、お忘れですか? もう契約期間の半分が過ぎてるんです。それに相原さんはもう事件の全容を知っている。
犯人と共謀したとみられてもおかしくない。
会社云々よりもご自分の身の安全を確保するのを優先した方がいいんじゃないですか? それとも御社にはそういった事態に陥っても相原さんを守る準備や実績がありますか?」
相原さんは黙ってしまった。
「私も正直に言いますと、竹富部長が何か問題を抱えている人物だとはすぐに分かりました」
おっと。まさかの発言。
「作業内容に不審な点が多く、私には下請け仕事ばかりをアサインして、ご自身では別の何かの作業をしていました。本来、部長職の人間が現場仕事をするなんて、そもそも変だな、きっと竹富部長は人には任せられない仕事をしているのでは、とすぐ分かりました。それに加えて今教えていただいた横領の件……全てに辻褄が合うんです。竹富部長が真犯人で単独犯であるのが」
「ご理解いただけて光栄です」
「うちの会社にも内緒、竹富部長にも隠れて行動しなければなりません。恐らくですが私はサーバルームで竹富部長と並んで作業していますので、もし私が竹富部長の指示以外の作業をすれば、竹富部長はすぐ気が付くでしょう。ですから真犯人と目される竹富部長を追い詰めるには吉岡さんのご協力も必要です。良いのか悪いのか、吉岡さんはサーバルームから引き剥がされていますよね。つまり竹富部長の目の届かない場所にいる。私にはできない作業をお願いしますがいいですか」
「もちろん!」
「うちの社長には事後報告という形にしておきます。私も自分の身の上がかわいいですから。犯罪の片棒を担がされるのはご免です。ひょっとしたら、うちの社長もグルかもしれませんね。アリバイ作りのために不明瞭な契約内容で仕事を受注したのかも。それに……」
「それに?」
「あの性善説の言葉しか言わない竹富部長らしいですね。自分はこっそりと悪を重ねるなんて」
相原さんの顔に不遜な笑顔が浮かんだ。
「性善説に基づいて行動していれば、自ずとセキュリティホールをいくつも作ってしまいますから。竹富部長は自分で作ったその穴を利用したんでしょう。その穴がどこにいくつあるかを知っているのは竹富部長だけです。それだけで状況証拠としては充分でしょう。一番の悪が実は一番の善人の皮を被っている。まるでスターウォーズですね」
「映画はご覧になります?」
「配信で少々」
「じゃ、相原さんの腹も決まったところで、夕飯にお付き合いしてもらえませんか」
「……はい」
おれと相原さんは同時に席を立ち、おれの案内で夜の市ヶ谷の街に出た。
日テレ通りを市ヶ谷駅に向かって神田川を渡り、二十四時間営業の餃子居酒屋へ行った。
この近くに会社行きつけの「遊泳禁止」という酒場があり、そっちのそうが利便なのだが、相原さんと二人でいるところを社の誰かに見付かると、竹富部長の耳に入った時に面倒になるので、それを避けたのだ。
店内は居酒屋善として客も八割方入っていた。
店員がおれと相原さんをカウンター席に誘導した。
着席すると二人並んでメニューを見た。
「決まりました?」
「ええ。生で」
「すいませーん」
おれが店員を呼んで生ビール二つ枝豆・川海老の唐揚げ・鶏肉の唐揚げを注文した。ビールはすぐに来た。
「それじゃあ、乾杯」
「乾杯」
おれも相原さんも落ち着いてグラスを合わせた。
「私は新卒で今の会社に入社したんですけど。相原さんはどうなんですか。会社が会社だけに普通の就職とは思えないんですが」
相原さんは心なしか少し笑った。
「新卒でプログラマになったんだけど上流工程でセキュリティホールが沢山見付かって、それを一々指摘してたら、仕事を干されたの。それならいいやと思ってフリーのSESをしばらくやってたわ」
相原さんも元はSEだったのか。
「で、仕方ないから下流の案件ばかり受けてたんだけど、どこもセキュリティがガバガバだったのよ。今時SQLインジェクションにも対策をとらない案件だったわ」
相原さんの話が何年前の話なのか見当が付かないが、それほど昔の話ではないらしい。
「その案件が終わって、いざ納品してから一ヶ月もしないでクラッキングにあって、そもそもの詳細設計段階での穴を全部指摘してやったわ。で、その案件からは外されたわ」
以前から相原さんはセキュリティに関してはその機微に敏感だったのか。
「その話を今の社長が聞きつけてスカウトされたの」
なるほど。
「この業界、コンピュータを動かす仕事ですけど、人間の出入りもかなり流動的ですもんね」
「そう。それに今までとは比べものにならないくらいギャラがよかったのよ」
時給一万五千円。そんな高時給は普通ならあり得ない。何か裏があるんじゃないかと判断するのが普通だ。
「そのときは、それだけの価値が自分の腕にはあるんだと勘違いしてたわ。でもね、実際に案件を取ってきてもらってアサインされると、グレーな仕事ばっかりだったのよ」
「どんな仕事ですか?」
「防弾サーバ内の画像データファイルのデータベース構築とかアップロードされてきた音楽ファイルの自動フォーマット変換とか。要するに違法サイトの構築だったみたい。中には有名企業の裏帳簿らしいデータベースの構築もやったわ」
「みたい、というのは?」
「それがどの案件も仕事の全貌を明らかにしないのよ。最も、それを知られたら違法だ、脱法だって言われてどこのSI屋も引き受けてくれなかったんでしょう」
「そういう事ですか。通りでセキュリティには厳しい方だと思いましたよ」
「違法サイトはね、セキュリティを厳しくしないと、すぐ模倣犯の餌食になるのよ」
「というと?」
「例えば漫画の違法サイトで誰が一番閲覧してると思う?」
「え?……一般ユーザでは?」
「一番アクセスしてくるのが、他の違法漫画サイトなのよ。要するにスキャンする手間を省いて自分のサイトに再掲載するの」
「呆れたもんですねえ」
「蛇の道は蛇よ。お互い様だわ」
「相原さん、よく捕まりませんでしたね」
「最初は私も内心ビクビクだったわ。でもそこは社長の手腕でなんとかくぐり抜けられてきたの」
「その社長って、元竹富部長の部下の?」
「そう。社長は竹富さんから色々学んだって言ってたわ」
多分「恐らく悪い事もね」という一言を省略したとおれは推測した。
「それじゃあ、うちの会社のセキュリティはどう見えました? 専門家として」
相原さんは軽い笑顔で息を吐いて言った。
「ないも同然ね。あ、外からの攻撃にはそこそこ気を配っているみたいだけど、内側からの攻撃には、まるで丸裸よ」
やっぱりそうか。
「私、不思議に思ったんだけど、あれだけセキュリティに厳しいうちの社長の元上役の竹富部長が、何故そんな状態で野放しにいてるのかしら」
「これは僕の予想ですけど、前任者から引き継いだ通りにしてるだけなんじゃないでしょうか」
「そうとも限らないわ」
「何年も前から横領を計画していたのかもしれないわ」
言われてみればその通りだ。ターゲットの懐の中に飛び込んで、数年かけて信頼を得てその中枢をコントロールできる座に上りつめ、その頂点に達した時に一撃の犯行に出る。ハイリスクだが最もリターンが大きくなる方法……。
この時間と手間のかかるやり方が、海千山千のやり方なのだろうか。
「本当にそんな事があるんでしょうか? 僕は竹富部長に全幅の信頼を置いてきました。ですが、金で人の信頼を裏切り、社会的にも地位を失墜するような事を、わざわざ何年もかけて……」
相原さんは不適な笑みを見せた。
「吉岡クン、まだまだ社会勉強が足りないようね」
おれは酒の酔いもあってキョトンとしてしまった。
「世の中にはね、お金だけもらえれば何だってする人が沢山いるのよ。吉岡クンだって会社員なんだから、自分の生活の糧を得るために毎日わざわざ通勤して会社勤めしてるわよね? でもね、そういう生活をせずに生きている人も沢山いるのよ。だから、そういう会社勤めをしていない人を見ると、時間とお金に自由があっていいなあ、って思う時が来るの。吉岡クンも一度フリーランスで働いてみれば分かるわ。世の中はお金だけを求めて動いている人が沢山いるのよ。なかには自分のやりたい事で稼げてる人もいるし、やりがいや使命感で動いている人もいるわ。でもね、そういう人は少数派なの。大半はまずはお金よ。しかも大金であればあるほど、群がってくるの。大金の前では信頼とか信用とか、そういったものは通用しなくなるの」
漫画や映画じゃあるまいしとも思ったが、目の前の社会人の先輩がそう言っているのだ。それにここのところの竹富部長の行動を思い返してみれば相原さんの話はまんざら嘘とも例外とも思えない。
「ずっとサラリーマンの世界だけで生きていける人は、そういう意味では幸福なのよ。今はそうでもないけど、終身雇用の時代は自分の周囲の人間関係が大切だったけど、もうそんな時代は終わったの」
言葉では終身雇用の時代ではないのは知っていた。が、その終身雇用サラリーマンの正しい生活から逸脱した人間が目の前にいると、その説得力は確かにあった。
「……そうですね。竹富部長もあと五年で定年ですし、ご自身の身の振り方や老後を考えると、金銭面での不安があったのかもしれませんね」
相原さんは大仰に笑った。何がそんなに可笑しいのか理解できなかったが、相原さんがおれの未熟さを嘲笑しているようにも、惨めなサラリーマンを続けてきた竹富部長を笑っているようにも見えた。
「お説教はこれぐらいにして、帰りましょうか」
「あ、はい」
「そうだ。プライベートのLINEとメアドと電話番号、交換しましょ」
それはナンパに成功したからではなく、明日以降の業務の連絡のためであるのはすぐに分かった。
相原さんを食事に誘ったのは半分ナンパ目的だったが、それは果たせず終いになった。が、不思議と後悔はしなかった。
相原さんを口説くには、おれは未熟すぎたのが理解できたからだ。
勘定を割り勘で支払い、居酒屋を出た。
霧雨が降っていた。
雨は神田川の川面を揺する事なく静かに降っていた。ただ点々と外灯を反射していた。
相原さんと二人で市ヶ谷駅に着き、それぞれの帰路についた。
おれは新宿方面の、相原さんはお茶の水方面の総武線に乗った。
別れ際に「また明日から仕事よ」と言ってた相原さんの温和しい笑顔だけがおれの目の裡に反芻された。
恐らく、相原さんは明日も黙々と竹富部長の隣で粛々と作業をこなすのだろう。
相原さんはおれの味方をしてくれるだろうか? おれの事を見くびるかもしれないし、おれの話に乗ってくれるかもしれない。期待はするものの、今の態度では判然としなかった。
結果は明日になれば自ずとはっきりするが、薄ぼんやりとした不安が残った。
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