第6話
ログチェックが終わった。午後四時四十二分だった。
いやに疲れた。
ログチェック作業には慣れてはいたが、約四週間分ともなると、流石に堪えた。
やってみて分かったのだが、ログチェックは結構神経を使うし、今回のような事案ではその一行一行を読み飛ばす訳にもいかない。
犯人はどこで、どこの一行だけにその足跡を残しているとも分からないからだ。
おれはTeamsのチャットで竹富部長へ『ログチェック終わりました。異常なし』と報告した。
おれは背もたれを使って伸びをした。
『お疲れ様。次の仕事があるんでサーバルームへ来て』
と、竹富部長からすぐに返信が来た。
おれは社内の自販機で缶コーヒーを買ってちょっと休憩した。
そうそうすぐに返信に気付くのを大前提にしてもらっちゃ困る。こっちも人間なんだから休憩は必要だ。
IT業界のエンジニアは基本的に時給で動いている。だから休憩時間は昼休みの四十五分か一時間だけと契約書に書かれている。が、こっちは音楽業界の正社員で社内SEだ。月給で動いてるんだから、ちょっとぐらいはサボらせてくれ。
それを考えると、相原さんはタフだ。流石時給一万五千円だけの事はある。相原さんは全くサーバルームから出てこない。きっとずっと作業中なのだろう。
しかし、そういった無理無茶がきく年齢は業界的には「三十五歳定年説」がある通り、そうそう長くは保たない。相原さんがどう考えてるのか知らないが、そんな勤務態度じゃ、いずれ心身を壊すんじゃなかろうか。
おれは缶コーヒーを飲み終えると、溜息を吐いてサーバルームへ向かった。
また仕事か。
そう思うと気が滅入った。サラリーは増えないのに仕事が増えると、何か損をした気分になる。システム部所属という立場上、とにかくコンピュータには「なんにもトラブルを起こさず、普通にいつも通り動いてくれ」と檄を飛ばしたい。しかし、相手はコンピュータ。人間のように聞き分けてくれない。
コンピュータを動かすのは、ひょっとして暴力的なのかもしれない。コンピュータはコーディングした通りに動く。その指示書たるプログラムを(通常は)一切の妥協なく、素早く、言われた通りに遂行していく。考えようによっては御しやすい相手だ。そういった連中ばかり相手にしていると、本物の人間に対しても、自然と同じような行動を求めがちになってしまわないだろうか? 自分の吐く言葉もコーディングのように理屈で固めた指示書の朗読になってはいないか? ひょっとしたら、さっきの長谷川課長へののおれからの言葉は、おれがあまりにコンピュータ慣れしすぎて、長谷川課長に非礼を働いていなかっただろうか?
思い当たる節は度々ある。
おれも社会人三年生だ。ちょっとはコンピュータの事ばかりでなく、人間の事も学ばなければいけない社歴なんじゃないだろうか。
サーバルームに入ると竹富部長と相原さんが二人ちょこんとならんで端末の前でモニタと睨めっこしていた。
おれが入室したのに気付いたのは相原さんだった。
そのちょっとした振り返りの仕草に女の色気を感じた。しかし、相原さんは時給一万五千円の雇われエンジニアだ。職場恋愛なんてしてる余裕はないだろう。相原さんには寸暇も惜しんで働いてもらうしかない。
「あの……」と相原さんが竹富部長に声をかけた。竹富部長は振り向いておれを見た。
「おお。待ってたよ」
「で、どんな仕事でしょうか」
「ちょっと表に出て調べて欲しい事があるんだ。スマホ一台あれば充分だから」
何だ何だ?
「うちの会社のWi-Fiが、どこまで届いてるか確認して欲しい」
「どういう事ですか?」
「いや、クラッカーがWi-Fi経由で攻撃してきてるか、確認したくてね。社外のどこまでうちの電波が届いてるか調べて欲しいんだ」
「なるほど。そんな手口があるんですね」
珍しく相原さんが補足した。
「オフィス街では無数のWi-Fiポイントが社外に漏れてるんです。そこを狙ったクラッキング方法があるんです。車でオフィス街を巡回して、攻撃先を探すんです」
ほう。竹富部長が言葉を継いだ。
「うちのルータのパスワードはデフォルトから変更してあるから問題ないだろうけど、ちょっと言い辛いんだが、そのパスワードはWi-Fiを導入以来、変更してなくてね。あ、パスワードは知ってるよね」
「ええ。と言いますか、パスワードの在処を知ってます」
「じゃ、そのパスワードを持って、社外から試しにアクセスしてきてくれ」
「分かりました」
という訳でまたおれはサーバルームを追い出されてしまった。
おれは自席に戻り、ルータのパスワードが書いてあるファイルを開いた。パスワードをスマホのメモ帳に書き写し、Wi-Fiを繋いだ。
この状態で、どこでWi-Fiが切れるかを調査しだした。
WRAPレコードは四番地ビルの三階と四階を借り入れている。一階は日邦テレビが借り入れてスタジオにしている。二階はIT企業が入り、五階は外国の通信社等々海外向けのマスコミが四社ほど入っている。五階は何をしているか知らない(入社して三年にもなるのに、ご近所を全く知らなかった!)。六階と七階はレコーディングスタジオになっている。
おれは階段を使ってWi-Fiの受信状況を確認していった。
意外だったが、それほど遠くまで電波が届いていなかったのだ。加えて、どこへ行っても十箇所以上のアクセスポイントがあったのだ。
ビルの二階・五階ではWi-Fiは繋がっていたが、一階・六階になるとWi-Fiの接続は切れた。これを三回ほど繰り返して再現性を確認し、スクリーンショットを撮っておいた。
おれは試しに二階と五階で自社のアクセスポイントへ接続してみた。
パスワード入力画面になった。
こりゃマズいな。
パスワードが入力できるという事は、社外からアクセス可能であるという証明になる。
おれはそのままパスワードをコピペした。
よし。ちゃんとWi-Fiは繋がった。
ではちょっと疑似攻撃を。
ルータの管理画面のIPアドレスを入力する。
うん。ちゃんとアカウントとパスワード入力する画面が表示された。
パスワードを入力。
よし。ちゃんと管理画面が表示された。
これはおれがWRAPレコードのシステム部の社員で、ログインに使う情報を正式に知っているから、こんなにあっさりと侵入できたのだ。
しかし、必要な情報はルータのIPアドレスとパスワードの二つだけ。
たったこれだけでクラッキングできてしまうのはあまりにも脆弱だが、普通の会社もこの程度のセキュリティ対策しかしていない筈だ。
安心材料があるとすれば、Wi-Fiが圏内になるのが、四番地ビルの二階から五階だけという点だ。つまり相原さんが言っていたような「車で巡回してアクセスポイントを探す」という手は使えない。
四番地ビルは雑居ビルで一階の受付には一応ガードマンが守衛室に詰めている。
しかし、このビルに入っている会社の特性上、不特定多数の人間が自由に出入りできる。もし、万が一、WRAPレコードへ攻撃を加える目的でビルに入ってくる者がいても、全くのフリーパスで侵入できる。しかもWRAPレコードの四階には七十平米超の来客用ミーティングスペースがあり、誰でも自由に出入りできる。
もし犯人がWRAPレコードの社内ネットワークへ侵入しようとすれば、その手段はあっさり手に入る。
しかし、だからといって、今回の不正送金の手段に使われたと決定するには尚早だ。
おれはまたサーバルームへ戻った。
おれがサーバルームへ入るやいなや、竹富部長は「いま侵入したでしょ」とおれに言った。
「あ、見付かっちゃいましたか」
「そりゃそうだよ。リアルタイムで監視してたから」
おれは調べた状況を竹富部長に報告した。スクリーンショットも見せた。
竹富部長は呻吟した。
「そうかあ……認証を通すのはそんなに簡単だったかあ……」
「まあ、侵入するのに必要な情報は知ってましたからね」
「これからはルータのパスワード、真面目に定期的に変更するしかないかなあ……」
竹富部長が嘆息する理由はおれにもよく分かる。とにかく面倒くさいのだ。
「しかしルータのログには侵入の記録はなかったんですよね」
「うん。なかった」
「それに悪意をもってこのビルに侵入しても、IPアドレスとパスワードを見付けるのに、それなりの時間がかかりそうなもんじゃないですか。そうなれば不審者がいるって、すぐ気付くと思うんですけど」
竹富部長はまた唸った。
「うーん……それは一応、希望的観測ってことになっちゃうんだよなあ……」
「現実論、あり得ないと推察されませんか」
「そうだねえ」
「このビルの警備会社に防犯カメラの記録の提出を求めるのはどうでしょう。犯行のあった日の分だけでも」
「それを目を凝らしてチェックするのは、それこそ現実論、無理じゃないかな」
「あ、そうですね……」
相原さんが口を開いた。
「一階まで回線が届いていなかったという事は、少なくともウォードライビングの可能性はなくなったといっていいんじゃないでしょうか。これで犯人の手口の可能性の一つは消えたと」
竹富部長は頷いた。
「ではやはり犯人はうちの会社の関係者であると」
そこまで言っておれは口を閉じた。だが竹富部長の笑顔が消えた。
「ついに、身内を疑うしか道がないのかなあ……」
たしかに自社内の犯行の可能性は、そもそも非常に高かった。
まず不正送金を行うにはAS/400が操れて、そのうちの会社のAS/400内の物理テーブルの詳細まで精通していなければ犯行におよべない。単にどこともしれぬクラッカーの犯行にしては仕事が丁寧過ぎるし、予備知識も必要だ。
考えてみれば、こんな犯行が可能な人材がどこにいるかと言えば、それはシステム部か経理部に限られる。OB・OGも含めれば容疑者は数十人に上るだろう。その一人一人を精査していくには「一週間以内で」という草野社長と栗原専務の意向に反する。不可能だ。
どうします? 竹富部長。白旗を揚げますか?
「あまり疑いたくないが、外注業者の線もまだ消えてない」
おっと。それもあった。
WRAPレコードのシステムはAS/400の管理にJBD社、Linuxシステムの管理にイノダシステムを採用している。
「やむを得ない。その線も調べてみよう。相原さん」
「はい」
「Linuxサーバの調査をお願いします。特に正規のssh意外にバックドアが仕込まれていないか、その点を調べてください」
「かしこまりました」
相原さんは端末の画面を切り替えてLinuxサーバにログインした。
「竹富部長。御社のLinuxにはzchはインストールされていますか」
「いや。bashとデフォルトでインストールされる古いシェルだけ」
「zshをインストールしても構いませんか」
「いいですよ。でも何故?」
「私、もう手がzshに慣れ切っちゃってるんです」
「ああ。そういう事。構いませんよ」
「ありがとうございます」
相原さんにはrootのパスワードも教えてある。うちの会社のLinuxはRHELだ。相原さんはsuしてrootになりyumツールでzshをインストールし、シェルをzshに切り替えた。
それからの相原さんのキーボード捌きは見事だった。自分で「慣れきっている」と言うだけあって、指の動きに一切の無駄がない。キーを打つ手も上手く脱力できている。
案の定、相原さんもAS/400は得意分野ではなかったらしい。
やっぱどんなに高給取りのエンジニアでも得意不得意はあるんだ。
「まずはログイン記録から調べてみます」
そう言うと相原さんは/var/log以下のファイルを六個の仮想コンソールでlessして閲覧していった。
相原さんの目がモニタに釘付けになる。
その目が仮想コンソールの一行一行を走査していく。
/コマンドで時折検索しながらログイン記録を目で追っていく。
それが一段落するとログファイルを自分のホームディレクトリへコピーし、sedで整形してログイン時間ごとにsortした。
なるほど。業務時間外のログインを調べようという事か。
「竹富部長、御社の提示は十時六時ですよね」
「そうです」
「なら、それ以外の時間でのログインはありえますか」
「基本的にはありませんね。ただ大体一日当たり一時間か二時間の残業がありますから、そこは除外してもらって大丈夫です。それに徹夜組もいますから。」
「rootの多重ログインは?」
竹富部長がおれに目線をくれた。おれは頷いた。
「多重ログインはない筈です。因みにrootのパスワードを知っているのは私と吉岡君、それに開発と管理を外注しているイノダシステムの吉川部長とその部下の川崎君だけです」
「経理部の方は?」
「経理部はLinuxシステムを使っていません。使っているのはAS/400だけです。もちろん経理部用のユーザも作っていませんし、rootのパスワードも教えていません」
相原さんはモニタを凝視したまま「ありがとうございます」と小さく言った。その仕草は正にIT業界の人間のそれだった。
「二月十六日の午前二時三十分丁度にユーザ名ryosukeでログインの記録が見付かりました」
それ、おれのアカウントじゃないか!
「その時の入力されたコマンドのhistory追ってみますね」
何が出てくるんだ?
「ログイン後、すぐにrootにsuしてますね」
竹富部長は怪訝に言った。
「リモートログインの時は直接rootでログインできないようになってますから、攻撃者はそれも知っていたようですね」
IPスプーフィングだ! このままではおれが犯人にされてしまう!
「ちょっと待ってください……おかしいですね」
竹富部長とおれは息を呑んだ。
「きっかり一分ごとにコマンドを入力してます。恐らくリアルタイムで操作してたのではなく、タイマーをかけていたのでしょう」
おれは恐る恐る訊いてみた。
「で、攻撃者は何をやってたんですか」
「……それもおかしいですね。ただ自分のホームディレクトリ内でlsしてcdを繰り返していただけです」
「では攻撃らしい事は?」
「一切何もしないで午前二時三十二分にログアウトしてます」
竹富部長は唸った。
「不正ログインは認められたが、攻撃らしいことは一切せずに引き下がったと?」
「ログではそうなっています」
「ログの改竄の可能性は?」
「あります。rootにsuしてますから、やろうと思えば可能です。しかし、きっかり一分ごとにコマンドを入力しているところをみると、ログの改竄みたいな面倒な作業には時間が足りないかと」
「なるほど」
おれは二人に言った。
「そんな時間に私はログインしませんよ。それにsshのアドレスとパスワードは私は知りませんし」
おれにはそういうアリバイがあった。
竹富部長は困惑の溜息を吐いた。
「じゃあ、疑わしいのは吉川部長と川崎君か……しかし、外注業者が犯行におよぶ動機が見付からないなあ……そんな事をしたら会社の信用問題になるし。被害額も甚大過ぎる」
おれは竹富部長に向かった。
「どうします? この不思議なログインの件、イノダシステムに報告してみますか?」
竹富部長は一瞬悩んだ。
「いや、まだいいだろう。証拠がまだ揃いきれてない。今回の件はなるべく迅速に、正確に事を進めないと大問題になるからね」
隠蔽体質。その字句がおれの頭の中に浮かんだ。
おれは相原さんに訊いてみた。
「相原さん、相原さんの経験上、こういった事態は過去にもありましたか」
相原さんは一呼吸してから応えた。
「私の仕事は秘匿事項が多いので、過去の実績については多くは言えませんが、謎の攻撃者がブラフで無駄なログインを行う事はありますね」
やっぱり。そういう手合いもいるか。
相原さんはさらに続けた。
「今見付けたログイン記録は、ご依頼の件とは別の攻撃者かもしれません。御社の場合、知名度が高いので誰からも攻撃対象になりえますので。特に御社は知名度がありますから、不特定多数の別の攻撃の可能性も高いと思われます。例えば銀行のオンラインシステムは世界中から常に攻撃されているんです。それと同じようなものかもしれません」
なるほど。そういう見方もあるのか。
竹富部長が悩み顔になった。
「どうもはっきりしませんね。AS/400側には不正アクセスのログが残っている。そのアクセスを許すには会社内部から直接AS/400にアクセスするか、社内に通じるLinuxサーバのssh経由以外には考えられません。実際、社内からAS/400にアクセスできて、不正送金ができる人材は、私を含めてほんの極僅かしかいない。その中に犯人がいる、というのも現実味がありません。なんせみんなで稼いだ金ですからね。それに社内でそんな大問題を起こしたら、何人かの首が飛ぶだけでは済まされないのは周知の事実です。ですから内部の犯行とは思われない。相原さん、あなたの意見はどうですか」
相原さんは冷たい声で言った。
「竹富部長、こう言っては失礼かも知れませんが、あまりに性善説に偏り過ぎていると思います。三十六億一千万円もの横領ですから、人間の欲を満たして悪事に走らせるには充分な金額です。それに相手はクラッカーです。法律や倫理に悖る行為でも可能ならばやってしまう。それがコンピュータを使う人間の習性です」
技術を正しく使ってハッカーになるか、暗黒面の誘惑に負けてクラッカーになるか。その差は紙一重でしかない。
「私も今は正義面して仕事をこなしていますが、いつお金の魅力に負けて悪事に走るとも限りません。元を正せば、そういった巨額の不正が実行できる環境を作ってしまったコンピュータ社会が元凶なんです。自分で言うのも何ですが、私は今は高給取りです。ですが何かの弾みで今回のような悪事を働くようになるか、それははっきりお約束できません。今回の案件が終わったら、私が御社のシステムに侵入して横領するかもしれません。ですから自戒の意味も込めて、会社組織に入って、会社に連絡すればちゃんと身元が割れるようにしてあるんです。私の相原葉月という名前は今回の案件のための偽名ですが、それは私の身を会社が守るための方便なんです。そういった身の安全が保証できない危険な仕事も受ける事もあるんです。コンピュータは社会の奥底にまで根付き過ぎていて、誰でもネットで検索すれば、それなりに悪事を働く方法が学習できるんです。ですから私は性悪説の上に立つようにしています。今だって竹富部長も吉岡さんも犯人じゃないかと疑ってますよ。先入観なしに事実だけを信じてます。ですから今の段階では犯人について申し上げる事はありません。それは自分の手の内を明かす事にもなりかねませんし」
相原さんはただのハッカーではない。そう宣言したように見えた。
確かに竹富部長の話は性善説に基づいている。が、現実はその性善説に基づいた発想で構築されたシステムに、誰かが悪の芽を蒔いたのだ。性善説は悪に負けた訳だ。
システム設計で厄介なのが、どこまでセキュリティを優先するか、利便性を優先するか、その二律背反を迫られる時が多々ある。
もちろん仕事で使うシステムなのだから利便性、即ちコストが低くなる方を優先すべきと思われがちだ。が、それはシステム開発側の発想でありシステム運用側としてはセキュリティを強化の方が優先度が高い、と申し入れなければならない。
自動車の交通に例えてみよう。
通行の少ない夜間は全車線を一方通行にした方が便利だ、というのがシステム開発側の発想だ。しかし、それでは時間帯によって双方向の通行なのか、一方通行なのか分かり辛い。それに最悪のケースとして車同士の正面衝突のリスクが発生するじゃないか、というのがシステム運用側の見解なのだ。
最悪なのはこれらの案の折衷案だ。
平日は双方向通行、土日祝は一方通行とすると、開発側・運用側共に不便なのだ。
ルールは少ないほど誰のためにも利益になる。
いっそのこと、一方通行のだけの道路を量産する方が実は開発側・運用側の両方にとって最適解だったりするのだ。
しかし現状のWRAPレコードのシステムは性善説で設計されている。悪がつけ込む隙だらけなのだ。そこへ今回の横領事件だ。
本来ならシステム設計者に責を負わせるべきなのかもしれないが、歴史のある会社だけに、今となっては誰がシステム設計をしたのか、誰が責任を取れるのか、もう分からなくなっている。
恐らくだが、昔は手作業でやっていた事務作業を都度都度そのままコンピュータ化して、システムA、システムB等々、それぞれが独立して開発されてきたのだと思われる。その開発者は、もうとっくに定年を過ぎて退職しているだろう。
システム部がいつ創設されたのか、竹富部長がいつ就任したのか、おれは知らない。
竹富部長の性行からして、恐らく竹富部長が設計したシステムではないだろう。竹富部長も、やれと言われればシステム設計もできるし、実際にコーディングもできる筈だ。何せ元システム屋の社長だ。現場仕事を知らない筈がない。
しかし、竹富部長は敢えてシステムの刷新をしなかったと予想される。
というもの、竹富部長は現状で問題なく稼働しているシステムを、一から再構築するような怖いもの知らずではないからだ。
だから二十世紀も二十年以上経っているのに、未だに八十年代製のAS/400にしがみついているのだろう。
竹富部長が現状のシステムにどんな影があるのか知悉して、敢えてそのままにしていると踏んだ方が理に敵う。
それに刃向かっている自分がいるのに、今さら気が付いた。
竹富部長は人当たりも良く、普段は笑顔でユーモアも解する好漢だ。
だが、こと仕事に関してはとにかく古い。
それは年齢がそうさせているのか、新しい技術を習得できない言い訳に年齢をもちだしているのか、それとも現状のシステムに手ひどい痛手を食らった経験があるのか、そこの真意がおれにはまだ見抜けない。
いずれにしろ、竹富部長が定年するまでは現状のシステムを維持していくのは間違いない。だが時代も変われば人間も変わる。その時までの辛抱のしどきなのか?
喫緊では相原さんの不遜とも思える言動に合理的に対応するのが先決だろう。
何せたった今、竹富部長とおれも容疑者として見られているのだから。
「そんなおっかないこと言わないでくださいよ。私と竹富部長はシステムを攻撃する側じゃなくて守る側なんですから」
「それは職務分掌の話ですよね。私が言っているのは一個人がどんな犯罪を犯しても不思議ではない、という事です」
相原さんは手厳しい。
「でも、お二人が犯人である可能性は極めて低いとは思ってますけどね」
相原さんの精悍な顔にモニタの光が反射する。
この人を相手に論戦は無用だ。
相原さんの信用をかうには、事実を提示して、そこから過去に何があったかを証拠として陳列するしかない。
こりゃまるで刑事さんか裁判官だな。
おれはその両方と一緒に仕事をした経験はないが、恐らくそういうものだろう。
竹富部長はいつもの笑顔に戻っていた。
「今日のところはLinux側の調査を中心にしよう。相原さん、よろしくお願いします」
「こちちらこそ」
「吉岡君、いつもの仕事に戻っていてくれ。
システム部の二人がいつまでもサーバルームに閉じ籠もってちゃ、何かあったのかと勘繰られる。それとキーロガーの結果を調べてみてくれ」
意外だった。だれもそんな事を思うもんかと考えたが、これは部長の指示だ。部下として従うしかない。
おれはサーバルームを出て自席に戻り、キーロガーが集めたデータをつらつら眺めていった。
こうしてみると、文章を入力している記録が結構多い。
各種報告書・アーティストの宣材・映画の売り文句・プレゼン資料の作成……。それらの割合が多かった。気になるパスワード入力は、まずはそれらしき入力を一旦Excelに集め、一列に並べた。これがかなり時間を食う作業だった。なんせ約百五十台分のキーロガーの記録から、パスワードらしき入力を手作業で拾い集めてくるのだ。面倒で仕方ない。
やっとの事でその作業が終わると、おれはゴミ箱からパスワード一覧のファイルを復活させ、先程のキーロガーのパスワードとVLOOKUPで照合してみた。
パスワードの入力間違いが散見されたが、肝心のAS/400のパスワードは、経理部員と印税管理部員が入力しているものだけだった。
やはり疑うべきは身内、しかも肝心の経理部の中にいるのかもしれない。
こうして会社の最重要秘匿事項の塊のAS/400へホイホイとログインするのは経理部と印税管理部の人間しかいない。
印税管理部は三人しかいない。だが直接AS/400にアクセスしているのは事実だ。
おれはその経理部員四人分と印税管理部員三人分のキー入力を追ってみた。
結果はシロ。皆既存のキューリー(AS/400の場合はクエリをこう呼ぶ)の実行しかしていない。もっと言えば既にあるRPGを書き換えたり、新規に作成したりもしていない。
どちらの部署も年度末の最終段階なのだから、もし犯人がこの中にいたとしても、業務時間中はその犯行を匂わせるオペレーションはしないだろう。
捜査はまた振り出しに戻ったか。
しかしそれは良い事なのだが。
結局、全てのログをチェックし終わる頃には午後八時四十二分になっていた。
おれはもう今日は退散しようと思った。
フロアにはもう誰も残っていなかった。
おれは終業の挨拶をしにサーバルームに入った。
「お疲れ様です」
竹富部長が端末から振り向いた。
「おお。お疲れ。もう今日は上がりかな」
「そうさせてください」
そんな会話がまるで聞こえていないかのように相原さんの後ろ姿は、黙々と何かの作業をしていた。
「キーロガーの結果はどうだった?」
「めぼしいものは見付かりませんでした」
「AS/400へのアクセスは?」
「ありました。ですが皆キューリーの実行だけでした」
「そうか。まあ、それもそうか。調査を始めてまだ日が浅いから、犯人もそうそう尻尾を出さないんだろうなあ」
「これ、続けます?」
「うん。続ける」
「このテキスト処理、自動化できるものじゃないんで全部手作業なんです。何とかなりませんか」
竹富部長は即答した。
「なりません」
「はあ……」
「犯人はいつか尻尾を出すよ。それが期限の一週間以内とは限らないけど、やってみて無駄な作業じゃない」
「そうありたいです」
「じゃあ、今日のところはお疲れ様。明日もまたよろしく」
「竹富部長と相原さんはまだ帰れそうにないんですか」
竹富部長は苦笑いした。
「うん。なんせ未知の相手と闘ってるんだからね」
「お疲れ様です」
「それじゃあお疲れ」
おれはサーバルームを出て真っ直ぐ帰宅した。
そういえば竹富部長は「未知の相手と闘ってる」言っていた。
本当に未知の相手なのだろうか?
こうも調査の網を掻い潜れる相手が、未知の人物、即ちWRAPレコード社のシステムを知らずに犯行におよんだとは考えにくい。
やはり、敵は身内にいるんじゃないだろうか。
おれはそんな事をぼんやり考えながらとぼとぼと市ヶ谷駅へと向かった
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