第5話

 寒さは残っていたが、もう春の薫りは流れていた。

 通勤電車の中央線の車窓からは、柔らかい好天の朝日が見えた。

 もう今年は寒さも来ないだろう。そんな予感がするほど、季節ははっきりと衣替えしていた。

 おれも上着は軽いジャケットだけ羽織って電車の中に乗り込んでいた。

 暑くもなく寒くもなく。だからと言って朝から倦怠に悩まされず、これから来る春の桜の萌芽に備えての、どこか浮き足だった浮遊感がおれの胸の裡に湧き起こっていた。

「おはようございます」

 社に着いてシステム部のフロアに入ると、他部署の面々が少々眠たげに返事をくれた。

 竹富部長と相原さんはまだ出社していない。

 昨晩は何時まで仕事をしていたのか知らないが、夜は遅かったのは確実だ。

 定時を迎えた。竹富部長はまだ姿を現さない。

 Teamsには竹富部長からも、相原さんからも何のメッセージも来ていなかった。

 連絡がないのは良い事だ。やっている事がやっている事だけあって、朝イチから緊急の連絡が入っていないのは作業が順調な証拠だ。

 おれは毎日の通り、各サーバのログをチェックし、毎日の夜間バッチが正常に行われたのを確認した。ついでに昨日から今朝にかけてのアクセスログもチェックした。

 Linuxサーバへsshでのログインがあった。時刻を見ると、午後十時二分にログインし、午後十時三分にログアウトしていた。

 これはちょっと気になる。

 外注業者からのログインであれば時間帯的に不自然だし、何かしらの作業をしたなら少なくとも三十分はかかるだろうから、この短時間でのログインは不審だ。

 竹富部長が出社したら、ちょっと相談してみよう。

 それ以外は全く普段通りの平和な一日の幕開けだった。

 おれは昨日の続きで、新人社員用のノートPCのキッティングを始めた。

 ボロは着てるが心は錦。そういう状態へノートPCを設定し始めた。

 作業が一段落した頃、「おはようございます」という覇気のない声で竹富部長が出社してきた。

「おはようございます。昨日は帰れたみたいですね」

「ああ。十一時過ぎちゃったよ」

「で、遅出にしなければならなかったと」

「そういう事」

 日邦テレビグループ内の規約で「退勤後、十二時間以上過ぎてから出社する事」というのがある。今朝の竹富部長の場合。昨日が午後十一時過ぎ退社というのであれば、早くても今朝の十一時過ぎでないと出社が許されない。

 こういった規約があるのも、親会社の日邦テレビが、昔は散々過重労働を強いてきたため、東京労働局から手厳しい申し付けを受けたからだ。

 その甲斐もあって、WRAPレコードの事務方に就いてしまえば、極めてホワイトな職場環境が約束されている。

 しかし、現実には現場に近いディレクターほど、そんな事はお構いなしに深夜作業・土日出勤を強いられている。

 強いられている、と言うと語弊があるのだが、我々エンターテインメント業界の人間は、基本的に普通の人が娯楽に興じる時間帯が仕事時間だ。

 所属アーティストのライブツアーがあればもちろん帯同するし、打ち上げにも参加する。一応上下関係的には上の方に分類される立場なので「勘定はうちで持つよ」と言わなければならない場面も多い。そうなると接待交際費も馬鹿にならない金額に膨れ上がる。基本的には会社に所属するサラリーマンなのだが、実態は半分はフリーランスに近い。中には月の出社日が一週間に満たないディレクターもいる。そうなると月末の精算の申請を滞らせるディレクターも多数出てくる。中には会社への精算を諦めて「その分、給与で補填してくれ」などと無茶な要求をするディレクターもいる。

 映像関連ではディレクターは映画・ドラマの撮影にも立ち会う。中には「木更津に午前四時集合・翌午前三時解散」なんて事もある。これでは労基も何もあったもんじゃない。

 そんな現場に比べれば、今回の案件は一週間と区切りが付いているだけ、徹夜・泊まり込みも先が見えているだけまだマシなのだ。

「アクセスログを調べてたら午後十時二分にsshでログインして一分後にログアウトした形跡があったんですが、これって変ですよね」

「何だろう?」

「何でしょう?」

「でも異常はなかったんだよね」

「ええ」

「念のためイノダシステムに連絡して、パスワードを変更してもらってみて」

「分かりました」

 イノダシステムはうちのLinuxシステムの管理・保守を依頼しているSI屋だ。

 おれはイノダシステムの吉川部長へメールで事情を説明し、パスワードの変更をお願いした。

 その後、おれはTeamsのチャットで竹富部長に訊いてみた。

『結局夕べはどこまで調べられたんですか?』

 すぐ隣の人にチャットで会話を投げ掛けるのはIT業界では普通だ。しかし、今回の場合は他言無用の仕事の話なので、誰かに聞き耳を立てられるのを回避するためにそうしたのだ。

 竹富部長からの返事はすぐに来た。

『取り敢えず不正出金のあった日から、全部のアクセスログを解析を始めたよ。まあ、全部は終わらなかったんだけど』

 となると約三ヶ月分のログを相手にしていてのか。

『全部じゃないんですか』

『うん。流石に全部は無理だった。CSVに吐き出してgrepすれば済むような作業じゃないからね』

 日頃は毎日のログをチェックし慣れているが、流石に約三ヶ月分を目視でチェックするのは時間がかかるか。

『お手伝いしましょうか』

『時間ある?』

『午後からなら。新人用PCのキッティングで午前中は潰れる予定です』

『よろしく頼むよ。相原さんも午後一時までには出てくる筈だから』

『かしこまり!』

 そのチャットが終わると、おれは黙々と新人用ノートPCの設定を続けた。

 竹富部長はサーバルームに閉じ籠もった。

 恐らく一人で昨晩のログチェックの続きをやっているのだろう。

 作業を進めていると、午前中はあっという間に過ぎていった。新人用PCの設定は全台数済んだ。

 これで新人たちを迎入れられる。

 新人には新しいノートPCを使わせてやりたいのは山々だが、しばらくはお古のノートPCで我慢してもらおう。

 というのも、WRAPレコードではノートPCの刷新は全社一斉に行うからだ。結局、その方がボリュームディスカウントで安くつくのだ。

 その原資があるだけ、まだ会社としては裕福な方だと思う。

 おれの同級生の職場では、全社一斉更新の費用が捻出できなくて、古いPCから順に更新を進めているという。

 それはOSのバージョンとOfficeのバージョンがまちまちになるのを意味する。となると、結局管理コストが増えるのだ。それにOfficeの下位互換性も完全ではない。とくにマクロを使っている業務で問題が発生し易くなる。

 貧しい会社はその辺を現場の手作業で何とか凌いでいるのだが、そのコストを鑑みれば、結局高くついてしまうのだ。

 経営側は基本的に職場環境やPCには無関心な場合が多い。

 一生懸命そのバージョン違いの差を埋め合わせようと現場の人間が働いていると「一生懸命に仕事してるな。頑張れ」と勘違いしたエールを送りがちなのだ。そしてその社員も「おれは仕事を達成した」と、これまた勘違いした充実感を味わってしまうのだ。

 そういう会社の社員たちは自分たちの手で問題を解決するのではなく、その不合理を経営陣に怒りをもってぶつけた方が良いと思う。そういったコスト感覚を磨けていない会社には、おれは長居したいとは思わない。

 おれの場合、そういったコスト感覚は直属の竹富部長から入社時早々から叩き込まれてきた。何せ竹富部長は元エンジニアだ。時間=コストというのを肌身をもって知っている。それは業務上の幸運な躾だったと思う。

 しかしどういう訳かWRAPレコードは世間並みよりちょっと下の給与しかおれに与えてくれない。

 社歴三年というのもあるだろうが、勤務地が市ヶ谷で物価が高く、昼食代も馬鹿にならない事情も汲んで欲しいものだ。

 何て思いながら、今日もまた千円以上もするランチ定食を食べに出掛けてしまうのだ。

 今日は第一営業部の長谷川俊之課長と出掛けた。会社から歩いて三分のインドカレー屋へ行った。

 長谷川課長はIT業界出身の、音楽業界では変わり種だ。その経歴から、おれの業務にも理解が深く、IT業務流儀の対人スキルも持ち合わせているので何かと馬が合うのだ。

「いやあ今度の四月で、新人が欲しいんだよね」

 長谷川課長はホウレンソウカレーを食べながらおれに言った。おれはタンドリーチキンカレーに食らいつきながら応えた。

「人事の事はよく分かりませんけど、レコード店が減っている現状、会社として営業マンは増やせないんじゃないでしょうか」

 おれはそう言ってからちょっと後悔した。あまりにストレート過ぎたし、そんな事は現場の肌感覚で長谷川課長も感じていただろう。

「それもあるんだけどねえ。計算してみると営業マン一人当たりの交通費と拘束時間との対比でみると、結構コストがかかってるんだよね」

 なるほど。レコード店の総数と営業マンの頭数が比例していないという訳か。

「そうですか。そういうコスト計算でしたら、経理部と相談して人事に直談判してはどうですか」

「いやあ、それはどうだろうなあ……。会社としては目先の出銭の勘定しかしてないみたいだから、経理部が私の意見に賛成してくれるとも思われないんだよねえ。その点でいくと、システム部は竹富部長の跡取りとして吉岡君がいてくれるから何の心配もないんだろうけど」

 そう。確かにその通り。おれは竹富部長の跡取りとして採用されたのだ。竹富部長が定年するまでのあと五年間が引き継ぎ期間だ。おれもそうそう悠長に構えていられない。今は二人で業務を回しているが、それが五年後には一人で回さなければならなくなる。

 本当におれ一人で仕事を回せるだろうか?

 その心配はおれにはあったが、周囲にそんな弱気な視線は感じられない。むしろ「ちゃんと後継者が育っている」と判断されているようだ。

「やっぱりこの業界、先細りですか」

 口に出して訊いてはいけない事を訊いた気分になった。

「そうだねえ……実店舗は毎年減ってきてるし、ネット通販は大手に牛耳られてるし、そもそも円盤自体の需要が減ってきてるし。でもね」

 長谷川課長は真っ直ぐおれを見た。

「音楽そのものの需要は減ってないんだよ」

 意外な言葉だった。

「昔はレコードがあって、それがCDに取って替わって、今はサブスクでしょ? メディアが替わっただけで音楽そのものは生き残っているんだよね。で、原盤権はちゃんとレコード会社がもってる」

 なるほど。

「今後はそっち方面、権利関係のビジネスモデルに転換してくんじゃないかなあ」

 ごもっとも。

「もしそうなっちゃったら、営業マンそのものが要らなくなっちゃいませんか」

 おれはできるだけオブラートに包んだ言い方をした積もりだったが、実際に口にしてみると端的過ぎた。

「いや、その心配はしてないよ」

「どうしてでしょう?」

 長谷川課長は最後の一匙を掬いながら言った。

「それこそ大昔の音楽は楽譜の出版から始まったでしょ? それが蓄音機が発明されて一般の家庭にも普及して今に至る訳だけど、音楽業界も原点回帰というか、そっちに向かうんだろうけど、やっぱりマニアは絶滅しないと思うんだよ」

 うん?

「やっぱりモノとして音楽を持っていたい人たちもいる訳。そういう人たちに向けて商品開発していく必要があると思うんだ。そりゃ九十年代みたいにミリオンがバンバン出る時代はもう来ないだろうけど、どうしても円盤で持っておきたい、円盤の音が聴きたい層がいるんだよね。だからこの業界、どこまでで下げ止まるか、そのチキンレースの最中なんじゃないかな」

 なるほど。納得がいく解釈に思われた。

「そういえば芝居もそうですよね。百年前は劇場でしか芝居は観れなかったですけど、それが映画館になりテレビになり動画サイトになり、芝居の見方は変わりましたよね。でも今でも劇場はありますし映画館もあります。まあ、どちらも不況だ不況だと言いながら、ちゃんと生き残っているところは生き残ってますね」

「そうそう。だからレコード会社も最終的には権利ビジネスとマニア向けの円盤が残ると思ってるんだ。円盤を売るにはどうしても営業マンが必要。まあ、極少数になるかもしれないけどね」

 現場の肌感覚を知っている長谷川課長の言葉だ。それだけで説得力がある。

「じゃ、今のうち、私も権利ビジネスの勉強しといた方がいいんですかね……」

 長谷川課長は笑った。

「君の立場だったらその必要はないと思うよ。ちゃんとシステム運営のスキルをもっていれば、君の立場は安泰だよ。ところでさ」

 何でしょう?

「システム部と経理部である問題に取りかかってるって、本当?」

「なんすかそれ? ある問題って」

「どうも横領があったらしいとか」

 そこまで話が漏れてるのか。一体誰が漏らした?

「私みたいなペーペーにまでそんな話は降りてきませんよ。本当にそんな事件があったんですか?」

 おれは嘘を吐いた。いやおれなりの処世術を使った。

「吉岡君も知らないか。いやね、うちの会社、毎年国税の監査が入るでしょ」

 その通り。というのも親会社の日邦テレビの昔の連中が、脱税とまではいかないが不透明な金の使い方をしまくっていた影響で、未だに関連子会社のWRAPレコードにもその悪弊が残っているのではないか、と勘繰られているのだ。

「その国税の監査に申し開きのできないぐらいの大金に纏わる不祥事が起きた、って噂があるんだよ」

 もうそんな噂が出ているのか。

 それにしてもあれだけ箝口令が敷かれていたのに、その禁を破るとはどういう了見か。

 おれは誰にも喋ってない。竹富部長がそんな軽はずみなミスを冒すとも思われない。経理部の連中は年度末の繁忙期で軽口を叩く暇もない。いや、女同士の噂話で奥田さんが話を漏らしたか? 待てよ、女同士の口裏合わせが、男の、しかも課長職の長谷川さんにまで届くには早すぎる。

 まさか栗原専務か草野社長が漏らしたか?

 噂話の源泉は責任ある立場の人間の、ほんの一言に尾鰭が付いた場合が多いと聞いた事がある。どうもその辺が怪しい。

「それってただの噂レベルの話ですよね。私は仕事柄、事実のある数字しか見てませんので、どうも人の噂話には疎いんです。逆に、そんな噂が経営側に聞こえたら、それこそ問題なんじゃないですか」

 またおれは嘘を吐いた。

「そうか……そうだよなあ。噂話にしてはスケールが大きすぎるよなあ」

 おれはちょっと慌てた。

「でも私の意見としては経営上の瑕疵があるなら近いうちに経営側から何らかのアナウンスがある筈じゃないですか。私はその噂の真偽を知りません。と言いますか真偽を判定する材料をもってません。ですから否定も肯定もできません。ちなみにどこから聴いた話なんですか?」

 その質問に長谷川課長は唸るだけで回答をしなかった。

 長谷川課長の側に立ってみれば、おれの質問はあまりにも酷だ。自分で口にしてみてその結果がこの様だ。

 ここがおれの社会人としての欠点かな。相手が返答に窮する質問をしてしまう。これでは厄介者扱いされてしまうかもしれない。

 WRAPレコードの対人関係の中では、温和しくサーバのお守りに徹するのがおれには性に合っているのかもしれない。おれには対人スキルが不足していると、唸る長谷川課長はその無言の返答で教えてくれた。

 昼休みを終え、システム部のフロアに戻ると、サーバルームに竹富部長と相原さんがいた。

 おれは相原に朝の(実際には午過ぎだが)

挨拶をしに行った。

「おはようございます」

 二人がおれに向き合った」

 二人にとっておれの登場は突然の珍客だったらしく、二人は一瞬呆気にとられた顔をした。

「おはようございます」

 相原さんが返事をした。竹富部長は「お疲れさん」とだけ言った。

「今どんな作業をしてるんですか」

 竹富部長は苦笑いで応えた。

「今日はLinuxサーバの点検」

「点検というと?」

「アクセスログのチェックと不必要なサービスの停止。それとphpがメモリリークしていないかの過負荷実験」

 phpの過負荷実験? そういうものは導入時にやるもんじゃないか?

 恐らく竹富部長はphpで再帰呼び出しでどれぐらいまでスタックが保ってくれるかを試しているのだろう。それはphpの設定でいくらでもバッファを増やせるのだから、あまり有効な実験には思われないのだが……。

「昨日までで調べきれなかったAS/400のアクセスログの解析、お願いするよ。Teamsのチャットに送っておいたから」

「失礼しました。まだ未チェックでした」

「それじゃあよろしく」

 二人はまた48uラックに組み込まれた端末に向き合って作業を始めた。

 昨日もそうだったのだが、竹富部長と相原さんはサーバルームで仕事をしている。つまり、サーバラックに備え付けの端末で作業している。

 と言う事は、ずっと立ちっぱなしで端末に向かい合っているのだ。

 それじゃ余計に疲れるだろうし、うちみたいなPC音痴しかいない会社なんだから、サーバルームの外からリモートで、どこか座って作業のできるスペースで仕事をした方が良いんじゃないかと思う。

 そう思った瞬間、サーバルームに閉じ籠もる理由もすぐに思い浮かんだ。

 やっている仕事が仕事なので、誰にも見られずにいたい。相原さんとの会話を盗み聞きされたくない。そもそも相原さんという異物を他の社員に知られたくない。できうるなら相原さんの存在を誰にも知られたくない。

 恐らくそういった事情で、無理してサーバルームに立て籠もっているのだろう。

 今回の仕事の締め切りはあと五日。それまでに犯人の目星をつけなければならない。

 と言う事は、それまで竹富部長と相原さんはサーバルームに引き籠もりっぱなし、という事か。

 それも結構だが、システム部の通常業務はおれがやれ、と言われているようなものだ。

 まあ、事が事だけに不満はないが、それならそうと竹富部長も予めおれに指示を出してくれればいいものを。

 もっとも、その程度の阿吽の呼吸は、おれと竹富部長とおれの間柄には構築できていた。

 これを信頼の証としていいのか、上司のズボラの尻拭いとしていいのか、はたまたその両方なのか、おれには判断できなかった。

 目下のところ、おれが見える範囲内ではうちの会社のシステムは正常に稼働している。

 幸い、再現性のない不具合も、もう出ていないし、今までトラブった経験があるとすれば、AS/400の電源モジュールの一部が破損して、一時サービス停止になった時ぐらいだ。

 その時はなんとうちのシステム部が不具合を発見する前にJBD社の顧客サービスから電話が入り、「御社のAS/400に異常が見付かったので、至急パーツ交換しに行きます」と、サービスエンジニアが午前中のうちにモジュールを持ってきて、故障箇所を直ぐさま特定・モジュール交換して事なきを得た。

 おれはその交換モジュールを見せてもらった。手のひらサイズの小さめの基板で、電解コンの頭が膨らんでいた。恐らく長年、熱に曝された結果、所謂「電解コンの妊娠」状態になったものと予想される。

 それをIBMはリモートで原因究明したのだ。流石IBM系列会社。すげー。

 という事は、AS/400はユーザーサイドだけでなく、ハードウェア的に何かの不具合があれば、直接IBMのサービスセンターへ異常箇所のレポートを発報するようになっているのか。

 その方法は顧客としては有り難いが、その程度の管理ぐらいは顧客側で発見できなければシステム部失格だとおれは判断する。

 近年ではミッションクリティカルな業務をLinuxサーバで運用するのも多い。Linux関連のソフトウェアはGPLライセンスのものが殆どだ。

 つまり「ご利用は自己責任で」だ。

 おれの経験則からすると、Linuxはもう商用に耐えうる堅牢性を持っていると判断している。

 実のところ、おれの自宅PC二台のうち一台がDebian GNU/Linuxだ。

 デスクトップPCとしての簡潔さもあるし、もちろん旧来のCUIも備わっている。

 極一般的な使用では――つまり、ウェブが見れてSNSが見れて動画サイトが観れてDVDが観れて、メールの読み書きができて、Excelファイルが扱える――何も問題が起きない。むしろ体感速度としてはWindowsのPCよりサクサク動く印象がある。

 自己責任は付き纏うが、その性能はもう商用OSと遜色ない。困った事や「こんな事ができないか」といったリクエストがあれば、ググれば大抵既に他の誰かがその解決策を提示してくれている(もっとも、そういう情報は英語で書かれてるので、英語が苦手な人はウェブの翻訳に頼るしかないが)。

 だからおれはLinuxに全幅の信頼を寄せている。

 そんな自宅Linuxも、一度だけ飛んだ事がある。

 その前兆は数週間続いていた。どうも動作がもっさりしてきた。起動にも時間がかかるようになっていた。

 ある日、突然その日は来た。

 シングルユーザモードでしか起動しなくなったのだ。

 何なんだと/var/log以下のログを見ていった。

 原因はすぐに分かった。

 HDD周りでエラーが出ていた。その時初めて、最凶と言われる「signal11」をカーネルが吐いていたのを見た。

 おれは急いでネット通販でHDDを購入し、リカバリーした。

 それ以降はまた何事もなかったかのようにLinuxマシンは稼働している。

 このときおれは確信した。「Linux最強!」と。

 もし竹富部長が定年を迎え、おれが社内システムの刷新を任されたのなら、躊躇なくAS/400をLinuxへリプレースするね。

 JBD社の保守の腕前は高く評価する。

 だがその仕事は本来顧客のシステム部がやる仕事だ。それにJBD社との保守契約料金が高すぎる。

 その金があるなら、おれのサラリーにつぎ込んでくれ。そうすればより良いシステムを開発してやるぞ。

 加えてAS/400はRPGという、これまた化石化した言語を使っている。

 今時はPython全盛だというのに、未だに古色蒼然とした言語を使う理由が思い当たらない。それに実務の経験上、ワンライナーでサクッと仕事を終わらせる要件が結構ある。この手の作業はLinux(と言うかシェル)は大得意だ。しかしRPGでは事実上不可能だ。

 おれはAS/400と心中する積もりはない。

 竹富部長が引退したら、うちの会社のシステム刷新をおれの最初の仕事にしようと思っている。

 あと五年だ。竹富部長が定年するまでの辛抱だ。その時は必ず来るのだ。

 だがしかし、今やるべき事はそのAS/400のログチェックだ。

 これもいつかは不要になる。今は辛抱だ。耐える時だ。

 犯人が捕まってしまえば、如何に大IBM様のAS/400をもってしても、悪意あるユーザの手にかかれば、セキュリティを突破して事件を起こされる。そういう証明にもなるのだ。

 そこでLinuxの安全性・堅牢性・導入実績・管理コストの安さを役員にプレゼンすればいい。

 おれが三十になる頃にはAS/400見たいな骨董品とはおさらばだ。

 そのために今は耐えるしかない。

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