第4話
昼休みを終えておれは四階の自分の席に着いた。
隣にいる筈の竹富部長がいない。
おれはちょっとだけ不審に思い、サーバルームへ向かった。
竹富部長がいた。そして見知らぬ人が一人一緒だった。
あれが「原田さん」? おれはカードキーでサーバルームの扉を解錠して入っていった。
最初におれに気付いたのは竹富部長だった。
「お疲れ様です。作業中ですか?」
おれが竹富部長に言うと、二人がおれの顔を向いた。
竹富部長とは別の人物は、女だった。
彼女の第一印象は殺気だった。
ショートカットに良く整った顔立ち、スリムな体型。黒いスーツ姿はIT業界の人間と言うより法曹界の人間を思わせた。おれより年上に見えたが十は違わないだろう。彼女は笑顔もなく、愛想を振りまくというより問題を抱えた客を出迎える弁護士のように見えた。その凜々しい姿勢は戦闘態勢そのものだった。しかしよく見てみると結構いい女だ。社会人として必要最低限の礼節だけ持ちあわせ、それでも滲み出る殺気を女の色気で押し隠しているように見えた。
「吉岡君、こちらが昨日言った原田さん」
「相原葉月です。よろしくお願いします」
彼女は一旦サーバの端末に背を向けておれに向き合った。おれはサラリーマンの習性で名刺交換の仕草をした。
「あ、名刺交換はいらないから」
竹富部長に制された。
「あの、今日からいらっしゃるのは原田さんという方では?」
「ああ。その原田さんが、こちらの相原さん」
どういう事だ?
「プロジェクトごとに名前を変えているんです」
元原田さん、現相原さんがそう言った。
事情は飲み込めた。しかし何故変名を使う?
「ああ、こちらの会社の方は秘匿性の高い仕事ばかり請け負うから、客先ごとに名前を変えてるんだそうだよ。だから名刺もなし」
そういう事か。いや、しかしそれで本当にその会社を、この相原さんを信用していいのか?
「吉岡君が不思議がるのも仕方ないけど、稀にこういう会社もあるんだよ」
「ちなみに何という会社からいらしたんですか」
「株式会社ERテクノロジーさんから。ちょっと時間が勿体ないから、相原さんには作業を続けてもらって、ちょっと外で話そうか」
おれには疑問点が浮かんだが、何よりそのERテクノロジーの相原さんという人物が不審に思われた。
おれと竹富部長は応接室D3で対座して事の経緯を竹富部長に問うた。
「あのー、竹富部長を信頼してない訳じゃないんですが、自分の名前も名乗れない人物をサーバールームで作業させちゃっていいんですか」
竹富部長はいつもの笑顔だ。
「大丈夫。この会社は信頼できるから」
「その信頼の根拠は?」
「前にも話したけど、私の元部下の会社の社員だから。それに表立って発表はされてないけど数々のトラブルシューティングの実績があるから。まあ、こういった話はあまり正々堂々と発表できる事案じゃないから、会社のホームページもなし。営業もなし。完全に人伝で仕事をとってきてるんだよ」
怪しい。今時ホームページすら持っていない会社と言えばよほどの零細企業ぐらいで、しかもIT関連以外の業界、例えば飲食業界しか思い浮かばない。
「どうしてその元部下の方をそこまで信用できるんですか?」
「彼ははとても優秀でね、しかし悪戯もしょっちゅう起こしていたんだよ。例えば許可なくどこぞのサーバのroot権限を奪取するとか」
「それ、不正アクセス法違反じゃないですか」
竹富部長は嫌な笑顔を見せた。顔は笑っているが目は死んでいた。
「当時はそういう法律が整備されていなかったんだよ。そこで彼は自分の力量が発揮できる場所を求めて、社会悪になるより良い方向へ活躍できるようにするために独立したんだそうだよ」
要するにハッカー集団を会社組織にした訳か。
竹富部長の言うハッカーは「コンピュータに卓越して精通する人物」という意味だ。もっとも、ハッカーと言えども多少の「悪戯」はするものだから、あらぬ誤解をもたれる事もある。
簡単に言えばスターウォーズと一緒だ。
技術を正しく使ってジェダイの騎士(ハッカー)になる人物もいれば、暗黒面の誘惑に負けてダース・ベーダー(クラッカー)になってしまう人物もいる。
かつての竹富部長の薫陶を経て自主独立し会社組織を持てたのだから、その竹富部長の元部下という人物もハッカーだったのだろう。
「なんていう会社名でしたっけ?」
「株式会社ERテクノロジー。ちょっとググってみれば?」
おれはスマホを取り出して検索してみた。
似たような名前の会社はあるが、企業のセキュリティ問題の解決を提供するようなサービスを提供する会社は見付からなかった。
「どう? 見付からないでしょ」
「ええ。同じような会社名はありますが……」
「会社名の由来はEmergency Response Technologyの略なんだってさ。日本語で言えば緊急事態応急対応技術ってところかな。まあ、企業の技術関連のトラブルを解決するのが仕事だから、そうそう表立って宣伝活動もできないっ嘆いてたよ」
確かに会社組織であれば事故や不祥事はできるだけ隠したがる。そこの目を付けたのは先見の明があるとも言える。
「しかし、派遣されるエンジニアに変名を使わせるほど秘匿しなければいけないんでしょうか?」
「ああ。そこね。仕事が仕事だから、危ない橋を渡ったのも何度かあるそうなんだ。そこで社員を守るために変名を使わせてるんだってさ」
「危ない橋とは?」
「さあ……そこまでは聞かなかったなあ。多分だけど、過去に本名を名乗らせてトラブったんじゃないかなあ。これは憶測だけど刑事裁判も何件か抱えてるみたいだし」
「全ては社員の身を守るため、と」
「そういう事」
「で、その危ない橋もうちの会社にあるんじゃないかと」
「そう。被害金額が相当なものだから、犯人が凶行に出るかもしれないし、なんせ犯人の目星が付いてないから、うちの社内でも『システム部の保守費用』で雇えたのは良かったよ。表向きには犯罪捜査ではなくて、あくまで『システム部の保守』で外部の人間を雇い入れられたんだからね」
栗原専務の鶴の一声は偶然かもしれないが的を得ていたのか。
「それと、Teamsのチャットに我々三人だけのグループを作っておいたから。何かあればそこで連絡するようにしてね。あくまでも外部の人間、例えうちの社員にもこれは秘密ね。多分、相原さんから色々指示が来ると思うから、それにあわせて行動してね」
おれは頷いた。
「じゃあ、概略は理解してもらえたと思うからこの辺で。私は相原さんに社内のシステムの説明をしなきゃいけないから、またサーバルームに戻るよ」
「そんなに急ぎなんですか」
「そりゃそうだよ。役員会で一週間以内に犯人を挙げなきゃならないって言われただろ。それに相原さんの時給が高くてね」
「いくらです?」
「一万五千円」
一万五千円! エンジニアの最低時給は大体三千五百円からが相場だ。高すぎる!
「吉岡君は通常業務を続けてくれ。何かあればTeamsで指示するからそれまでは待機という事で」
「承知しました」
おれと竹富部長は応接室を出た。
竹富部長は真っ直ぐサーバルームに向かった。おれは自席に戻って雑務に戻った。
システム部というのはPCが滞りなく動いてくれれば暇な部署だ。しかし、今現在、犯罪の捜査に当たっている外部業者が作業中ともなると、とにかく落ち着かない。
こういう時に限ってどの部著からも問い合わせが来ない。気を紛らわせるための雑用がないのだ。
おれはちらとサーバルームの方を見た。
相原さんと竹富部長の上半身だけが見えた。
二人がやっているのは、恐らく今のところは社内システムの説明だろう。
たかが社員二百人程度の会社とは言え、その敷設されたシステムの全容を飲み込むにはそれなりに時間が必要だろう。
相原さんがどれほど優秀で飲み込みが良いのか、それは時給一万五千円分の仕事をこなせるぐらいだから、相当に早いだろう。
ちょっとおれは相原さんに思いを馳せてみた。
年齢からすると、エンジニアとしては円熟期だろう。が、それだけに最新の技術は会得していても、うちの会社にあるAS/400のような古いシステムまでその知識のうちにあるかどうかは疑わしい。良く言えばAS/400は枯れた技術だ。悪く言えば骨董品。それに営業部用のシステムはLinuxのLAMP環境でできている。これもAS/400ほどではないが、今となっては古い。それに全社共有フォルダのWindowsシステムもおれが入社して以来、更新はされていない。個人PCのOfficeもまだ2016版を使っている。
これだけ古いシステムで稼働している企業もそう多くはないだろうとおれは予想している。
もっとも、相原さんは経験的にもサラリー的にもおれの技術を遙かに凌駕する技術を持っていると思われるから、それは心配する必要もないだろう。
竹富部長はちゃんと面談して相原さんを採用したと言っていた。その言は信用していいと思う。
こうして職場で間延びした時間を過ごしていると、サーバルームでの動向が気掛かりで仕方ない。
こういう時に限って暇なのが何かの符牒のように思われた。
嵐の前の静けさか?
おれはいたたまれなくなって三階の経理部へ行った。竹富部長はしばらくの間は相原さんへ社内システムの説明に時間をとられて緊急の呼び出しは恐らく来ないだろうと踏んだのだ。
三階までの道のりは、いやに足取りが重かった。
それもそうだ。今現在の進行形で犯罪調査が進んでいるのだ。内部の犯行であればいつも気安く接している人物を槍玉に挙げなければらなくなる。それがおれの胸の裡には苦しかった。
が、犯罪は犯罪だ。罪には罰が必要だ。それに被害金額を取り戻さなければならない。
そもそも犯人は三十六億一千万円もの大金をどうして必要としているのだろうか?
サラリーマンの生涯収入は二億七千万と言われている。良くても三億ちょっとだ。が、今回の被害額はその生涯収入の十倍以上。それだけの大金を必要とする要件がおれには思い浮かばなかった。単に金銭欲を満たすための犯行にしては大きすぎるし、それだけの金を使えばすぐに足がつく。いくらMoneroで使ったとしても、その生活様式を見れば、犯人はどこからそんな大金を手に入れたのか、自ずと周囲から不審の目を向けられるだろう。
そう考えると動機が金銭欲だけとは思われない。
社会的復讐? その線はないと予想される。
WRAPレコードは腐っても日邦テレビの子会社だ。マスコミの一端ではるが、その扱う商品は音楽CDであったり映画DVDであったり、とても誰かの恨みを買うようなビジネスはしていない。むしろ芸能マフィアを相手に世間一般の理屈を押し通す真っ当なサラリーマンたちの会社だ。誰かに恨みを買うような業種ではない。
だが、やはり「ザ芸能界」、つまり裏社会に通じる人間を相手にしているのは間違いない。そういった連中は何をしでかすか分かったものじゃない。彼らには彼ら独自のルールがあり、世間一般の常識が通用しないのだ。
「金のためなら何でもやってやる」……そういった極単純な動機で犯行に走らないとも限らない。
そういう連中とクラッカーが結託したら……まあ、確かに今回のような事件に発展する可能もあるだろう。むしろその線の方が濃厚に思える。たかが一サラリーマンがしでかす犯行にしては、ちと規模が大きすぎるのだ。
おれは営業部のフロアに着いた。
午後四時十五分だった。
ぼちぼちと営業マンたちが帰社していた。早くも営業日報を書いている者もいる。レコード会社の営業は所謂「ルート営業」だ。飛び込み営業はないし、新規顧客開拓のために奔走する必要もない。営業職としては楽な部類に入るだろう。しかし、昨今の音楽業界の衰退は着実にWRAPレコードにもその影を落としていた。今月度、今年度の予算を死守するために各営業所の所長たちは頭を抱え胃の痛い思いをしているのは知れた事だ。
そういった病巣のそもそもの原因は毎年年度末に行われる日邦テレビグループの予算会議にある。
良いのか悪いのか、日邦テレビグループ内の売上の約三割はWRAPレコードが占めている。今時はテレビ局もスポンサー離れが加速し、本体のテレビ事業部も売上減で汲々としている。映画事業部も健闘しているが、扱う商品が映画であるために年にいくつもの映画を公開できるものではない。加えてアタれば大きいがハズれればこれもまた大きい。つまり、映画事業部の売上はそれほど期待できない。
となると、売上が青天井と思われるCDやDVDに期待が寄せられる。
そこで無理な予算を押しつけられてしまうのだ。
昨今では音楽の価値が非常に廉価になった。ユーザの音楽視聴方法はサブスクにシフトしているし、映像作品は動画サイトに移行している。そもそもCDプレーヤ・DVDプレーヤを持っていないユーザも多い。それは大型家電店の品揃えを見れば一目瞭然だ。
これもまた良し悪しなのだが、WRAPレコードは五年前に映像作品で大ヒットを飛ばしたのだ。
その成功体験を上層部はしっかりと覚えており、その規模で今年も予算編成を、という無理難題を毎年押しつけてくるのだ。
母体がテレビ局ということもあり、月毎の昨年対比が重要視されている。
テレビ局であれば、四月期のドラマの視聴率が昨年と比較して上向いているのか、下降しているのか、そういった規定の番組編成で経営判断を下すのだが、音楽業界ではそういった時期によって同じ指標では推し量れないのだ。
音楽業界ではアーティストに「○年以内にマキシシングル×枚、アルバムを△枚」という契約をするのが習慣だ。だから(例えば)去年の六月に大物アーティストのアルバムが発売され売上が好調であったとしても、翌年の六月に目玉商品がある訳ではないのだ。
その辺を理解していないのか、あるいは理解していながら知らない振りをしているのか判断がつかないが、売上推移はテレビ局とレコード会社ではその遷移が全く違うのだ。
もう三月の末に近付いている。
日邦テレビグループの予算会議は終わっている。
今年も無理難題を押しつけられたのだろうか?
営業部長も経理部長も月末には疲れ切った顔を押し隠すのが精一杯の態になる。
しかし時期から考えると、今年度の結果はもう出ているも同然だ。
おれは営業部のフロアを通り抜け、経理部へと向かった。
四人の経理部員たちは書類とノートPCの睨めっこをしていた。
年度末は経理部の繁忙期だ。
そんなときに暢気にシステム部のおれがふらりと寄ってみたところで、誰も相手にはしてくれない。
おれは播磨部長のデスクに近付いて、播磨部長が顔を向けるのを待った。
播磨部長は虚を突かれたように、「おお、吉岡君か」と言った。
おれは播磨部長のノートPCにメモ帳を開いて筆談を始めた。
『例の事件の捜査が始まりました』
『どんな状況?』
『いま竹富部長が外注業者につきっきりです。恐らく社内システムの説明をしているようです』
『じゃ、本格的な捜査はまだ?』
『まだのようです。しかし短期決戦になる見込みです』
『今日を入れて一週間以内に犯人を捕まえられそう?』
『今はまだなんとも。少なくとも二三日中には目星をつけないと』
『できそう?』
『やるしかありません。正直、焦ります』
『草野社長と栗原専務への報告は?』
『まだです。今のところこれといった結果が出ていません』
『それで間に合うのかね?』
『間に合わせるんです』
『捜査に来たエンジニアはどんな人?』
『女性です。恐らく三十代前半か二十代後半の。殺気立ってて声もかけられません。サーバルームに閉じ籠もってます』
『経理部への仕事の要請は?』
『今はありません。明日以降、何かあるかもしれません』
『今は忙しいから前振りしてもらえないか』
『こちらも大至急ですから事前に相談に上がれなさそうです。何かあれば突然になりそうです』
『分かった。取り敢えず待つことにする』
『その時はご協力お願いします』
『分かった』
おれと播磨部長は同時に溜息を吐いてメモ帳を閉じた。
おれは忙しく目と手を使っている経理部員たちに目もくれず経理部のフロアを後にし、自席へ戻った。
おれはノートPCを眺めてTeamsのチャットに書き込みがあるのを見付けた。
竹富部長からだった。
「サーバルームに来てくれ」
その一言だけだった。
おれは慌ててサーバルームに飛び込んだ。
竹富部長と相原さんが振り向いた。
「吉岡君、三月の不正送金のログが残っていたよ」
事態はあっさり解決へ向かったのか?
相原さんはモニタを見詰めながら言った。
「三月二十一日午前五時丁度、送金のログが見付かりました」
「アクセス元はどこですか?」
「社内のローカルPCからです。IPアドレスは172.16.0.92。時間的に見てもリアルタイムのアクセスではなくタイマーを使ったものと思われます」
うちの会社はDHCPを使っていない。つまり、IPアドレス=個人が紐付けられる。
「そのIPアドレスって……」
竹富部長がいつもの笑顔で応えた。
「そう。君のアドレスだよ」
まさか! おれが真犯人ってことか!
「いや、ちょっと待ってください。私が犯人な訳ないじゃないですか!」
竹富部長は笑顔を崩さなかった。
「証拠がある」
「おれの事、疑ってるんですか」
「いや。君がこんな稚拙なやり方をするとは思われない。偽造だなこのIP」
相原さんが頷いた。
「御社はIPアドレス直打ちなのを犯人は知っていたのでしょう。ですから犯人とは思えない人物、つまりシステム部員のIPアドレスを偽造したのかと」
その一言でおれは落ち着きを取り戻した。
「172.16.0.92が吉岡君のアドレスだと知った上で、このアドレスを使ったんだろうね」
相原さんが不思議そうに竹富部長に訊いた。
「犯人はどうやってこのアドレスを入手したんでしょうか。DHCPを使っていないなら、アドレスの一覧は秘匿されてる筈ですよね」
竹富部長が苦笑いした。
「いや、実はですねえ……社員のノートPCのメンテの時に不便だから、誰でも見える場所にIPアドレスの一覧のファイルを置いてあるんですよ……」
相原さんはその言葉に動じなかった。内心は呆れているだろうが、客先でそういったネガティブな態度をとらないよう教育されているのだろう。会社はそれぞれ何らかの事由によってセキュリティに穴が複数あるのを経験則で知っている。そういう態度だった。
「では吉岡さん、あなたのIPアドレスを偽装して犯行に使われる理由にお心当たりはありませんか」
相原さんは極事務的におれに訊いてきた。
こういった事態にまるで慣れているかのようだった。
「いや、心当たりはありません。一体誰が……」
相原さんは事も無げだった。
「IPアドレスの偽造は初歩的なクラッキング手段です。このアドレスが吉岡さんのものだとしても、犯人が吉岡さんと断定するのは早計です。そうですよね」
竹富部長はいつもの笑顔で頷いた。
「これはうちの落ち度なんだけど、IPアドレスの一覧を誰でも見られるようにしておいたのが原因だね。で、吉岡君のアドレスを使った理由を調べる方が先決かな」
そりゃそうだ。もしおれが不正を行うなら、使われていないIPアドレスを使う。そうすれば誰かに濡れ衣を着せずに済むし、やり方としてもスマートだ。おれが犯行におよぶなら、特定されない人物になりすます。これが犯罪者の鉄則なんじゃないかと思う。
「時刻からいっても夜間バッチが終了した時に送金していますから、御社のシステム運用を知っている者の犯行かもしれません。ですが犯行の露呈を恐れてたまたま日本時間の早朝にアクセスした線も消せませんね」
竹富部長は頷いた。
「うちの会社の入室記録を当たってみよう。犯人が社内で犯行におよんだか、外部からのアクセスで犯行におよんだか、それは判定できる」
竹富部長は相原さんの隣のコンソールから社屋の入出力記録を調べていった。
「三月二十一日の記録は……あった。最初に入室したのは午前九時十分、営業の神崎君だね。それ以前の退出記録は……二十日の午後十一時二十五分、映像制作の堀川君だ」
おれはちょっとした疑問を挟んだ。
「泊まり込みのディレクターもいたんじゃないでしょうか」
竹富部長はそれも調べていた。
「……入退室のペアで見てみると……ああ、いた。オーディオ制作の蜷川君だ。彼しか泊まり込みの記録はない」
「蜷川君ですか。どうもディレクターの犯行とは思われませんね。ディレクターはどいつもこいつもコンピュータ音痴ばかりですし」
竹富部長の笑顔が消えた。
「いや、外部の人間から踏み台にされた可能性がある。そうとも知らずに言いなりになったかもしれない」
「つまり内通者にさせられたと?」
「その可能性はある」
相原さんモニタから目を離した。
「その蜷川さんのノートPC,調査してみましょう」
何を言い出すんだ? この女は。
「いまログインしてますかね」
ちょっと待った。竹富部長もその気になってるじゃないか。
「IPアドレスを教えてください」
「ええと……172.16.0.215」
相原さんの指が素早く動いた。
しばらく相原さんはモニタを注視しながらさっとキーボードを打ち続けた。
「……どうもキーロガーもインストールされてませんし、中継器もありません。アクティビティも調べましたが三月二十一日午前二時二十八分にログアウトして午前十時十二分にログインしてますね」
なになになに? もうそこまで調べたのか?
「と言う事は、蜷川君のノートPCはシロと」
「そういう事になります」
相原さんはともかく、竹富部長は社員を疑って何も感じないのか?
「他にAS/400にアクセスした記録は?」
「見当たりません」
「AS/400の夜間バッチには不審なコードはなかったよね」
うん? 相原さんはRPGも読み書きできるのか?
「ええ。ありませんでした」
「というと、犯人は何かしらの方法でその午前五時丁度にアクセスしてきたと」
「そういう事になります」
竹富部長はおれに笑いかけた。
「吉岡君は朝寝坊だから、そんな時間に起きられないよね」
おれは「ええ、まあ」と不承不承に返事をした。
「吉岡君、よかったねえ。君の潔白は証明されたよ」
笑いかけられても、ちっとも嬉しくない。
おれはシロに決まってるじゃないか。
相原さんはモニタから目を離して竹富部長に提案した。
「社内の全てのPCにキーロガーをインストールするのはどうですか」
「その必要はありそうだね。何Hでできる?」
「1Hもあれば。クライアントPCは全部で約百五十台ですから、数十台単位で作業を分割します。ですが作業者が不在でPCの電源がオフのものは除きますが」
「分かった。やってください。電源オフのものは随時吉岡君に作業してもらおう」
キーロガーを全社に仕掛ける? そんな事までするのか?
それは確かに有効な手立てかもしれないが、倫理的にどうなのか、とおれは思った。
「吉岡君、それじゃあ一時間後、またサーバルームへ戻ってきてくれ。相原さん、その時キーロガーがインストールできなかったPCのリストを吉岡君へ連絡してください」
「承知しました」
おれは呆気なくサーバルームから追い出されてしまった。
サーバルームの密室にはまた竹富部長と相原さんだけの密室作業が続けられた。
おれは竹富部長を信頼していない訳ではないが、感情的にはおれより相原さんを頼る竹富部長に軽い嫌悪感を抱いた。
これがWRAPレコードに新卒で入社して以来の竹富部長との信頼関係は、竹富部長の元部下の手下の方が上だ、と言われたような気がした。
それに、ついさっきまではおれもシロクロの判別がつかない嫌疑をかけられていたのだ。
これは面白い話じゃない。
ひょっとしてあの二人は以前にも面識があって、何かしらの阿吽の呼吸ができており、おれがまだその呼吸を会得していないからサーバルームからはじき出されてしまったのか?
それならそうと正々堂々と言ってくれればいいものを。
いや待て。今のおれにはそういうネガティブな感情に支配されている猶予はない。
おれは感情に流されない人間でありたい。
ならば今やるべき事をきちっとやらなければなるまい。
おれはまた雑務をこなしていった。具体的には四月入社の新入社員用のノートPCのキッティングだ。
計六台。こいつらを何とか業務に耐えられるように設定するのがおれの今の仕事だ。
六台とも新品ではなく社内に転がっていた中古のノートPCだ。
これはよくある事なのだが、長年の使用に耐えてきたせいか、キートップがテカっている。なかには「S」キーや「A」キーなどの、よく使うキーの印字が磨り減って消えてしまっているPCもある。
まあ、仕方なし。新人はそれほどの高スペックのPCを必要とする業務を割り振られないので、しばらくの間はこのオンボロPCで我慢してもらおう。
キッティング作業はそれほど難しいものではない。が、待ち時間が非常に長い。
HDDのクラッシュセクタのチェック・マーキング、Officeのインストール、Teamsの設定、前使用者が勝手にインストールした(一応そういう事は禁止されているのだが)アプリの削除、場合によってはキーバインドの初期化等々、たかが「普通のノートPC」にするだけなのに、いくつもの工程が必要だ。加えて作業場所がないため、一台一台を順番に作業していくしかない。こういう時に限って大きめの会議室は予約で埋まっているものなのだ。
これが六台全部横に並べて並列作業できれば効率もかなり良いのだが……。
定時の六時になった。
派遣社員たちは退社していった。
正社員たちは残った。大体正社員たちは午後七時ごろまで残業していた。
たかがレコードメーカの事務作業員に残業するほどの仕事が割り振られているとは思えないが、これはいつもの光景だ。
ノートPCのセットアップ作業も丁度残り二台になった。
おれは帰宅する準備を始めた。
竹富部長と相原さんはまだサーバルームから出てこない。
おれは終業の挨拶でも、と思いサーバルームへ入っていった。
「お疲れ様です。私の作業も切りのいいところにきましたのでお先に失礼します」
竹富部長はちょっと疲れた顔だったが、いつもの笑顔だった。
「ああ。お疲れ」
「まだ作業を続けるんですか」
「ああ。なんせ一週間以内にって期限を区切られちゃってるからね」
「徹夜ですか」
竹富部長と相原さんが目を合わせた。
「現状では終電までには帰る積もりだけど……」
相原さんが言葉を被せた。
「私、徹夜慣れしてますんで」
竹富部長は苦笑いした。
SEと言おうかエンジニアと言おうか、そういう連中は徹夜ぐらいは当たり前だと聞いた事がある。そのくせ出社は遅い。
生活習慣が夜型にシフトしているのではなく、生活習慣がグチャグチャなのがこの手の人種なのだ。
ディレクターもそうなのだが、ディレクターは待ち時間が長いがエンジニアはずっと作業しっぱなしだ。
この点において、体力的に「エンジニア三十五歳定年説」が誕生したものと思われる。
IT業界と音楽業界はやる気と実力のある若者の、体力と才能を浪費させて成り立つ業界なのだ。
世の中が音楽に溢れ、スマホのアプリが充溢し、いつでもネットに繋がっていられるのは、こういった人材がいるお陰なのだ。
「でも夜間バッチ実行中は作業できないんじゃないですか」
竹富部長の苦笑いは続く。
「あれは三十分以上一時間以内で終わるからね。まあ、その時間帯は仮眠……かなあ……。それに吉岡君も向こう一週間はいつ徹夜になるか分からないから、帰れるうちに帰った方がいいよ」
徹夜覚悟の上司を残して退社するのは気が引けるが、外注業者の相原さんを残して帰るのが、いかにも受注元の特権であるかのように思えて、おれは少し気兼ねした。
「あんまり無理しないでくださいね。いくら期限を区切られているとはいえ、不可能なものは不可能なんですから」
竹富部長は溜息を吐いた。
「部長職になるとね、役員の命令は絶対になるんだよ。これがなんともしようがなくてね……」
返す言葉が見付からなかった。
「それじゃあ、すいませんが今日のところはお先に失礼します」
「ああ。お疲れ様」
おれは先程からの「なんとなし気兼ねする」感を拭い去れないまま社を出た。
社屋を出て振り返ってみると、まだあちこちから室内灯の明かりが漏れていた。
まだみんな仕事が終わらないのか。
世の中の、所謂「普通の会社員」は午後七時には飲み屋にいて午後九時からは二次会の時間だ。
だのに、その間でも黙々と仕事をこなしている人々は沢山いる。
そういうおれも、何度も終電帰りはあったし、徹夜もあった。
こんな労働環境で日本は本当に先進国なのだろうか。そうも思った。
他の先進国と言われる国での労働環境は全く知らないが、フランス人が徹夜で死にそうだという話は聞いた事がないし、イタリア人が仕事に追われている、という話も聞いたことがない。
日本が先進国でいられるのも、こういった過重労働のお陰なのかも知れないな、と思った。
そんなの嫌だなあ。
しかしおれは海外に移住して、そこに根を下ろす覚悟はないし、語学は英語がちょっと喋れる程度なのだから、所詮、いくら不平や文句を言っても日本から離れる計画が立てられないのだ。
それに今日おれがやった仕事と言えば、新卒の新入社員のノートPCのキッティングだ。
その新人たちは希望に燃えて入社してくるのだろう。その新人たちの意欲を削ぐような事だけはしたくなかった。だから真面目にノートPCをセットアップしたし、妙な小細工はしなかった。
悲しいかな。これが日本のサラリーマンの現状なのだ。
おれはとぼとぼと市ヶ谷駅へと向かった。
多分、猫背で覇気のない後姿だったと思う。
こんな姿を新入社員たちには見せらんなあ、と思った。
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