第3話

 翌朝、おれはいつも通り定時前の午前九時四十分に出社した。

 もうちょっと遅く出社しても構わないのだが、どうもギリギリに動くのがおれの性分に合わないので、いつも十分以上の余裕を持って出社するようにしている。

 これも仕事の影響なのか、事前行動に出たがるのがおれの常だ。

 社内はすでにちらほらと人影がある。まあ、おれと似たように早めの行動をとりたがる連中もいるということだ。

 オーディオ制作・映像制作のフロアでは、徹夜組がのそのそと起き始める頃か、午前十時きっかり、またはちょっと過ぎての出社が多い。ディレクターはサラリーマンでありながらその時間が不規則であり、深夜におよぶ残業・早朝の仕事もあるのだから会社側もコアタイムなしの完全フレックス勤務を敷いている。しかし、なんとなく朝は午前十時が仕事始め、という共通認識はある。

「おはようございます」

 竹富部長がフロアに入ってきた。

「竹富部長、昨日仰ってたセキュリティの専門家というのは?」

 竹富部長は事もなく言った。

「ああ。今日の午後、一時から来てもらうから」

 午後一時? 普通のサラリーマンなら午後の仕事始めの時間だ。

「また凄い時間帯の出社ですね。重役出勤どころじゃないじゃないですか」

「まあ、ハッカーはそういう人種だからね。それでも昨日の今日で人員が確保できたのはラッキーだったよ。丁度先方の別プロジェクトが終わったばっかりで切りよくうちの仕事を引き受けてくれたんだ」

「そんな簡単なものなんですか」

「いや、オンラインで面接して私がオーケーを出したんだ」

 誰でもいいから構わない、という訳にはいかないのは竹富部長も重々承知していたか。

「で、その専門家が来る前にやっておくべき事、ありますか? それとも一任しちゃっていいんでしょうか?」

 竹富部長はいつもの笑顔で言った。

「各サーバやルータのアドレス・アカウント名・パスワードの一覧を用意しておいてくれ」

 何⁉ それは秘中の秘じゃないか。

「いいんですか。そんなもの作っちゃって。もし漏洩したら、うちのシステムは全部パーですよ」

 竹富部長は全く怯まなかった。

「もし社外に流出したら、犯人は吉岡君か原田さんのどちらかでしかないから。あ、原田さんていうのは、これから来てもらうセキュリティの専門家の事ね」

 竹富部長が「さん」付けで呼ぶぐらいだからそれなりのベテランが来ると予想される。

 しかし、いくら守秘義務があるとはいえ(その辺も事前にちゃんと契約書を取り交わしているかどうか、おれはまだ未確認だ)、社外の人間にアカウントを開示するのは憚られた。いや、その前にアカウントの一覧を作成するのが憚られた。

「本当にいいんですか」

「いいよ。むしろ、お願い」

「……分かりました」

 おれは竹富部長に言われた通り、Excelでアドレス・アカウント名・パスワードの一覧を作り始めた。

 何なんだ。この背徳感は。

 その一行ごとに書き連ねられた英数字は、最も秘匿すべき情報の羅列だ。

 システム部でこんな事をしていると知られたら、もし竹富部長とおれの立場が逆転していたら、果たしておれはこんな事を許すだろうか?

「それ、あんまり人に見せないでね」

 竹富部長はいつもの笑顔でおれに言った。

 言われなくてもそうするさ。言われなくてもそうするし、そう言われたたった今でも自分のデスクの後ろに誰かの視線がないか、気が気じゃない。ショルダーハックは基本中の基本だ、と竹富部長から教わった。肩越しに目線を感じれば、直ぐさまExcelのウィンドウを隠す準備はできている。しかし、普通の会社であるWRAPレコードに、そんな不審な行動をとるような人物はいない。皆それぞれの仕事にかかりっきりだ。

 大丈夫だな。多分。

 おれはパスワード一覧を書き終えると、印刷して竹富部長に渡し、ファイルはゴミ箱へ入れた。

 それからは通常の業務に当たった。

 各サーバのログチェック、タイマー処理の結果やAS/400のバッチ処理の確認等々。

 問題なし。

 しかし、よくよく考えてみれば、横領犯はこの毎日のログチェックの目を盗んでいった訳だ。いや、毎日の処理とは別の操作をしたのかもしれない。このログチェックをかわす方法、もしくは紛れ込ませる方法。どちらが犯人の行動なのかおれには判別できなかった。

 どちらにしろ、サーバにログインすればその記録は残る。その解析は今日の午後に来る「セキュリティの専門家」にお任せしよう……おれは自分の不甲斐なさを後悔した。

 何せ総額三十六億一千万円の横領事件だ。それほどの大金が動いていたのに、おれは気付かなかったのだ。気付かなかったのはおれだけでなく竹富部長もそうだ。いや、竹富部長はおれからの報告を受けるのみなので、事実上、そういった犯罪を直接監視・チェックする立場にない。

 となると、第一発見者がまず容疑者と目されるように、経理の磯田さんとおれが現在の第一容疑者になっているのだろう。

 堪ったもんじゃねえなあ。しかしおれにはアリバイがなかった。むしろ犯行の動機は多すぎた。薄給で日々汲々としているし、サーバのお守りが仕事なのだから、嫌疑をかけられても反証のしようがない。そして事実上、全社員のPCをコントロールできる権限を持っている。リモート操作でクラッキングしようとすれば、竹富部長以外の誰にも気付かれずに悪さはできる。仕事の範疇が広すぎると、日頃の行いや言動がまず俎上に上げられ、本当に悪さをするかしないか、頭で判断されるのではなく、胸の裡で決めつけられてしまいかねない。

 そういった日常茶飯な事の積み重ねで、いざという時の白黒が決めつけられてしまいかねない。WRAPレコードはそういう社風なのだ。

 だがしかし、ちょっと待った。

 おれはまだ社会人三年目だ。

 自分でいうのも変だが、そんな未来ある若造が早々に自分の手で自分の将来を暗黒へ塗り替えるような真似をするか?

 それにおれの職務はこういった犯行を防ぐ立場だ。犯行を冒す立場じゃない。

 それは経理部の磯田さんにも言えた。

 磯田さんの場合はもう年齢も確か四十過ぎだったと覚えている。定年までは結構ある筈だ。

 もし磯田さんの犯行だとしたら、それはあまりに短絡的犯行としか言い様がない。磯田さんがそこまで大人の分別を弁えていないとは思われない。

 しかし、犯人はそれだけの大金をどう使う積もりなのだろう?

 急に金遣いが荒くなれば犯行が露呈するし、犯罪収益にも税金がかかる。税務署に「三十六億一千万円会社から横領しましたので」なんて確定申告するとは思われない。

 事が金の話なので、誰もが容疑者になり得るとも言える。しかし、その桁があまりに大きすぎた。

 もしおれが犯人なら、恐らく月数十万か百数万円に抑えて、雑費の中に潜り込ませて犯行の発覚を隠蔽しようとするのだが……。

 そう考えると、犯人の行動は大胆すぎる。

 もし磯田さんが犯人だとすれば、もっと巧妙な手口を使う筈だ。なんせベテラン経理マンだ。販売リベートの率を誤魔化すとか、架空会社への送金とか、取引業者への空発注とか、経理だからこそできる犯行手腕というのがある。

 しかし、犯人はそうはしなかった。

 という事は、犯人はもっと短絡的に大金をせしめてトンズラする積もりなのだろう。

 やはりWRAPレコード内部の人間の犯行か?

 おれは想像してみたが、それは現実的ではないと思っている。

 なんせ相手はWRAPレコードの基幹システム、あの古くて融通の利かないAS/400だ。あんなものを自由に操れるほどのスキルを持った人間は、社にはそうそういない。

 外部業者のためのLinuxシステムのsshからクラッキングされたと判断するのが順当だろうが、もしそうなら外注業者相手に会社対会社の大人の対応が求められる。何せ被害額は三十六億一千万円だ。こいつをネコババしたシステム会社が今後生き残っていける筈はない。もし犯人が外注業者だとするなら、申し訳ないがその外注業者には世間から消えてもらうしかない。

 しかし、sshがクラッキングされた線も消えた訳じゃない。あのsshとは言えセキュリティに万全はあり得ない。ソフトウェアに完全はあり得ないのは周知の事実だ。だが、もう一人のおれが「sshがクラッキングされたら、世界中のシステムが丸裸じゃねえか。ありえん!」とも言う。

 さて、真犯人はどこに所属する誰なのか?

 おれの思惑は果てどなく続いていったが、結論は出なかった。

 まだ今の段階では誰でも容疑者になり得るのだ。

 おれは普段の業務をこなしながらも、どこか頭の片隅に今回の横領事件のことが渦巻いていた。

 正午になった。昼飯の時間だ。

 ディレクターのいるフロアは閑散としていた。殆どみんな仕事で出払っていた。残っている者は急ぎの作業中で編集機に齧り付いていた。

 基本、ディレクターには昼夜の区別も土日の区別もない。ただ締め切りがあるだけだ。その締め切りに向けて作業をこなしてゆく。仕事仲間を叱咤激励して事を進めていく。そういう職業なのだ。

 おれは誰かと一緒に昼食を摂ろうと、経理部のある三階へ降りていった。営業のスペースは課長しかいなかった。まあ、それもそうだ。営業マンが昼日中に会社にいる訳がない。

 ということで、おれは経理部の磯田さんと奥田さんとで会社近くの行きつけのイタリア料理屋へ行く事にした。

 WRAPレコードは親会社の日邦テレビのすぐ隣にある。つまり、市ヶ谷の高級住宅地の中にある。そのせいか、物価も全体的に高めで外食すれば千円以上が普通だ。一般のサラリーマンにはちょっと痛い金額だろう。

 WRAPレコードもそれほど高給取りがいる訳でもないが、不思議なもので、家で弁当を作ってくる者は誰もいなかった。そういう無精なところがいかにもマスコミ関連の会社らしかった。

 三人で会社を出ると、花冷えしていた。

「三月って、こんなに寒かったでしたっけ」

 おれが言うと磯田さんも寒そうにしていた。

「いやまあ、ゴールデンウィークまではこういう日もあるもんだよね」

 奥田さんだけはしっかり厚着していた。

「天気予報、見てこなかったんですか? 今日の最高気温、十三度って言ってましたよ」

 十三度? そりゃ寒いわ。

 得てしてありがちなのだが、マスコミ関連の会社員はマスメディアが放送する番組を見ていなかったりする。自分たちが何をして何を世間に問うているのかを知らなかったりもする。マスコミの不祥事があった時にだけ、伝聞でその話題を知っているのみだったりする。

 マスコミ関連の会社に勤めていると、テレビで信用していいのは時計と天気予報だけだと思うようになる。

 今日のおれはその天気予報も当てにしていなかったのだ。

「それにしてももうすぐお花見の季節なのに、今年は本当に桜、咲くのかしら」

 奥田さんはいたって暢気だ。まあそれももっともだ。これから昼食だ。深刻ぶるような話題は避けたい。

 それからは例の横領事件について、おれたち三人は一言も口にしなかった。

 昼食時に社外で口外するのが憚られたのだ。

 この近辺には日邦テレビの関連会社がごまんといる。

 そんな中で、不用意に自社のトラブルを話題に載せるほど、三人は軽率ではなかったのだ。どこに目と耳があるか分かったものではない。こういった不祥事の噂はすぐに尾鰭が付いて出回るものだ。しかし、その発信元が特定の八人であるのが確実である以上、その八人は必ず口を閉ざす。これもまた上長からの命令でもありサラリーマンの処世術でもある。

 三人は束の間の安息と食事を得て、また仕事場へと戻っていった。

 WRAPレコードの場合、草野社長と栗原専務を除いて、サラリーマンとしての上下関係はあったが、こういった人間関係の上下関係はなかった。

 草野社長と栗原専務以外は全員フラットな関係。こういう会社の風土が培われたのは代々の日邦テレビからの出向組が気を使っていたせいでもあり、「どうせ出世できても部長止まり。社長にはなれないんでしょ」という社員たちの諦念から来るものでもあった。

 互いが互いにフラットであるのは対人関係以上、表面的には良い事であった。

 もちろん弊害もある。

 優秀な新人の部下を無能な上司が使役できないのだ。曰く、「あんなできる新人、使いこなせねえよ」なのだ。

 こうした現象は度々起こり、その「フラットな人間関係」に見切りを付けて優秀な新人はさっさと転職してしまう場合がある。

 優秀な人材の漏出は会社にとってマイナスだ。

 そこで上司たちは不定期に飲み会を開いて仕事上の改善点や愚痴を聞いて廻るのだが、いかんせん、もう世の中は「飲みニケーション」の時代ではない。そういった世間の風潮を敏感に察知できていないのもマスコミ関連では非常に多い。自分たちがやってきたコミュニケーション手腕、対人スキルがもう廃れているのに気が付かないのだ。

 これが一見派手に見えるマスコミ関連会社の悪弊なのだ。

 さて、今日来る原田さんという人物は、WRAPレコードのこういった旧弊な体勢に馴染めるかどうか、その懸念は多少あった。

 多少、と言った理由は、田原さんは所詮、一時凌ぎの雇われ人材だ。会社の風土に馴染めなくても、雇用期間が過ぎれば(今回の場合は一週間)ハイ、サヨナラ、だ。

 そのWRAPレコードに馴染めるかどうかより、WRAPレコードに構築されたシステムを、その短期間の間に掌握して今回の不祥事の根源を突き止められるかの方が、おれにはそっちの方が気掛かりだった。

 臨時役員会でも言われた通り、もし真犯人が特定できなければ、来週の今頃は警察の事情聴取になっているかもしれない。さらに言えば週刊誌沙汰になっているかもしれない。そのときには「日邦テレビグループ、巨額横領に打つ手なし」とでも書かれるのだろう。草野社長と栗原専務はそれだけは食い止めろ、と言っていた。

 こっちだって食い止めたいよ。

 全てはその原田さんの双肩にかかっている。もちろんシステム部も経理部も全面的に捜査へ協力する。しかし事態が事態だけに、社の中で隠密に調査ができるのか、それも懸念された。

 もしかしたら、あちこちの社員に聞き取り調査するかもしれないし、あらぬ嫌疑を協力会社にかけなければならなくなるかもしれない。

 いつもと違う対応をとると、何かしらのあらぬ嫌疑をかけられてしまいかねない。こういったマスコミ関連の会社の噂のネットワークは太くて速い。そのくせ嘘・大袈裟・紛らわしい尾鰭が付きやすい。

 竹富部長はそういったこの業界の特殊性を「田原さん」に明確に伝えてあるのだろうか?

 面接をした、と竹富部長は言っていたので、恐らくその点は心配ないと予想されるが、所謂IT業界の連中が、この陽気で良くも悪くもいい加減な業界人に対して適切な対応がとれるのだろうか?

 まあ、その点は蓋を開けてみるまでは分からない。

 竹富部長を信頼していない訳ではないが、今はその「田原さん」のご臨席を待って、そのお手並みを拝見するしか選択肢がない。

 その時はもうすぐだ。

 いや、その時は既に過ぎていた。

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