第2話

 おれはその日の午後七時に大会議室A1に招集され、臨時役員会に参加した。

 臨席者は草野智久社長、栗原寬司専務、経理部全員の四人、おれを含むシステム部員の二人だ。

 大会議室は七十名ほど収容できるが、この八名だけが鎮座するには広すぎた。間延びした座席がいやに広く感じる。普通、密談は狭い密室で行われるものだが、この会議室はそれには不適当に思われた。それほどこの会議室は空疎すぎた。

 上座に草野社長と栗原専務が座り、その両脇、右側に経理部員、左側にシステム部員が座った。会議室は広いが狭く使った。これは会社の秘匿事項を相談するには自然と会議室を狭く使おうという心理の表れだった。

 草野社長はどちらかと言えば飲み屋の親父と言った風貌の愛嬌のある小男だ。小男といっても性根まで小男にできているのではなく、その裡には年商四百億円を超えるWRAPレコードのリーダーとしての貫禄がある。

 栗原専務は長身痩躯の銀髪の紳士で決して出しゃばるような卑小さとは正反対の豪胆さで社内に知られる人物だ。

 この二人が並んで上座に座ると、何とも言えぬ威圧感がある。それぞれと一対一で話せば良きリーダーであるのは知っているが、役員として会議の場に臨席すると、その相手を射貫くような眼力でもって、つい貫禄負けしそうになる。

 話は播磨部長から切り出した。

「皆様お忙しいところお時間を作っていただきありがとうございます」

 播磨部長はそれこそ小作りにできている六十過ぎの老人だ。老人だけあってサラリーマン歴もそれなりに長い。つまりそれだけ狡猾にもできている筈だ。その播磨部長が下手に出ているのだから不用意な発言は要注意だ。

「臨時でご足労願ったのは、今朝、我が社にとって大きな瑕疵が見付かったからでございます。詳しくは磯田君から説明を」

 嫌に慇懃な言葉から会議が始まった。

 磯田さんは「はい」と言って慎重な姿勢を保った。

「今朝発見されたのですが、何者かが我が社のプール金を暗号通貨取引所へ送金していたのが判明しました」

 草野社長と栗原専務は一瞬息を呑んだ。

 この草野社長と栗原専務、いや、歴代のWRAPレコードの重役は親会社の日邦テレビから出向してきた人物が納まってきた。

 日邦テレビ内の人事の権謀術数は知らないが、どうも権力闘争に負けた者、優秀だが健康に問題のある者がWRAPレコードに飛ばされてくるらしい事は噂に聞いていた。であるから、自身がWRAPレコード在籍時に不祥事が起こるのを、役員は非常に嫌がった。もし事件なり不祥事なりが発生すると、元の日邦テレビへの復帰が危うくなり、他所への左遷の対象となりかねないからだ。

 そこへ来てこの臨時の会議だ。草野社長と栗原専務の腹の内は煮えくり返っているに違いない。

「結果から申し上げますと三月度で約二十五億六千万円、二月度で十億五千万円の不正送金が確認されました。目下のところ、これらの不正送金は複数の仮想通貨取引所に送られており、犯人は仮想通貨でこれらの金額を手に入れたと予想されます」

 竹富部長が言葉を継いだ。

「現状のところ、急ぎ自社内のサーバのアクセスログを精査中です。犯人は何かしらの足跡を残している筈ですので今週中にはどこから社内へ不正アクセスがあったかを確定できる見込みです」

 草野社長と栗原専務は黙ってしまった。

「この件、警察へは通報済みかね?」

 草野社長が追い詰められたように言った。草野社長と栗原専務は事が外部へ、警察へも漏れるのを警戒している。隠蔽体質。この言葉がおれの脳裏に浮かんだ。

 播磨部長が応えた。

「いえ。まだです」

「……そうか……」

 栗原専務が深い溜息を吐いた。その溜息は明らかに安堵のものだった。喫緊の事態でもそういった情報流失を懸念するのが、いかにも出向者らしいな、とおれは思った。

 経理部の奥田希美が口を開いた。

「こんな不正が許される筈がありません。どうしてすぐに警察へ通報しないんですか」

 正論だ。しかしそれは幼い正論であり奥田さんが世間知を知らないのを自ずから暴露するのでもあった。

 この一言で会議室に嫌な溜息が充満した。

 誰も言わなかったが「この小娘め」と誰もが言いたがっていたのはその場の空気ですぐに読み取れた。

 磯田さんが奥田さんに言いくるめるように言った。

「奥田さん、今回の事件はそう単純なものとは思われないんだ。なんせ今分かっているだけで二回の不正送金が行われているんだ。間違いなく犯行は計画的に周到に計画したんだろう。そういった人間の相手をするには、すぐにこちらの手の内を見せるんじゃなくて、敢えて泳がして尻尾を掴む、という作戦もあるんだ」

 奥田さんはまだ二年前に新卒で入社したばかりの新米だ。若い正義漢をもって上役にぶつけるのはもっともな行為だが、所謂大人のやり方、大人の喧嘩の仕方を知らないのだ。先制攻撃は犯人からもらった。こちらは手痛い一撃を食らったが、体勢を立て直して反撃に出る。奥田さんはそういった思慮に欠けていたのを露呈してしまったのだ。

「奥田君の言わんとするところは理解できるが、これは社会問題にもなりかねない事件なんだ。ここはまずぐっと堪えて欲しい」

 播磨部長がそう奥田さんを抑えた。

 奥田さんは困惑と諦念の顔色を浮かべて俯き黙った。若造が自分の正義を押し通せなかった悔恨とその理不尽さに対する怒りを抑えているようだった。

 奥田さん、まずは大人になってくれ。サラリーマンの戦い方を見ていてくれ。おれはそう思った。

 そして草野社長が訥々と語りだした。

「この事件、世間に露呈すればマスコミの恰好の餌食だ。それに日邦テレビグループの看板に傷をつける事にもなる」

 そう。そうなれば草野社長も栗原専務も自身の社会的立場、日邦テレビグループ内での立場が危うくなる。不祥事は表立って解決するよりもカーペットの下に潜り込ませて踏みつけて無かった事にしたい筈だ。

 不祥事が起こっても、まずすべきは自身の保身。汚い話だがこれがサラリーマンの常だ。

「我が社は日邦テレビグループ内でも重要な地位にある。その点は重々心得ていて欲しい」

 そりゃそうだ。日邦テレビグループの連結決算では実に三十二パーセントがWRAPレコードの売上が占めているからだ。

 こういった具体的な数字を経理部以外で知り得るのはシステム部員だけだ。

 システム部の面白いところは現場と経営サイドの両端の数字を同時に把握できる点だ。

 だがそれだけに今回のような不祥事が発生すると、そのあらぬ嫌疑や責任を負わされるのも事実だ。その点が厳しくもありやりがいでもある。

「何としてでも可及的速やかに犯人を挙げねばならん。こんな事が日邦テレビの幹部に知れたら、何人かの首が飛ぶだけでは済まされんぞ」

 そんな事はここにいる誰もがそう理解している。この言葉は脅しにも受け取れるが、近い未来に起こりえる事実でもある。ここにいる全員がその矢面に立たされているのだ。変な言い方だが、社歴の長い社員は伝手を使って身の振りようを整えるコネもあるだろうが、おれや奥田さんのようにまだ社会人人生が始まったばかりの者にはそんなものはない。つまり、この不祥事の犯人を是が非でも突き止めなければ良からぬ噂を身に纏って社会の荒波に放り出されるのだ。それはいくら何でも酷過ぎるし自分に非がないのに後ろ指をさされるのも真っ平だ。

 この会議室にいる八人の中で、この事件の真っ当な解決を切望しているのは奥田さんとおれの二人で間違いない。

「で、犯人の目星がつくのはいつ頃になりそうかね?」

 栗原専務が竹富部長を見た。いくら何でも早計だ。それが見積もれるなら、そもそもこんな臨時会議は開かれない。おれは竹富部長がどう応えるか、この正念場に見入った。

「こればかりはやってみないと何とも言えませんが、三日四日あればアクセスログの精査も終わる見込みです」

 つまりおれに徹夜で犯人の足取りを探せって事か。それは結構。おれも、おれ自身の身の潔白が証明できるのだから、一週間程度の泊まり込みなり徹夜ぐらいなりはやる価値がある。

「……で、それで犯人が特定できるのかね」

「いえ、そこからアクセス元に情報開示請求をして結果が得られるのは更に数週間かかります。それに犯人が複数のサーバを経由してアクセスしてきた可能性もありますので、そうなると芋蔓式に時間がかかってしまいます」

 竹富部長の言は事実しかなかった。しかし求められた答えではない。

 草野社長が渋面を作って言った。

「竹富部長、播磨部長、この話はくれぐれも内密に。ここにいる人間だけの共有事項にしておこう。一週間以内になんとか犯人を挙げてくれ。もしできなければ警察へ通報しよう。私としてもこういった不祥事はなるべく表沙汰にはしたくない。他の社員の士気にも影響が出るだろうし、何より日邦テレビグループ内でのWRAPレコードの立場というものもある」

 それはあんたら二人だけの立場だろうが。

 栗原専務が重たく口を開いた。

「期限は一週間以内だ。そこだけは何としても死守してくれ。私もこういった事件がマスコミや日邦テレビグループに漏れるのは何としても防ぎたい。あいつらはこういった事には鼻が利くから要注意だ」

 その鼻が利く連中はあんたら自身だろうが。今さら自分たちが取材する側からされる側になると、急に弱気になりやがる。それほどマスコミの取材攻勢は執拗で激しいのを知っての事なのだろう。

「では竹富部長をリーダーとして調査に当たってくれ。播磨部長、竹富部長から協力の要請があったらすぐ応じるように。何か進展があり次第、すぐに経過報告をしてくれ」

 栗原専務が草野社長の方へ向くと、草野社長はゆっくり頷いた。

「一つよろしいですか」

 竹富部長が虚を突いた。全員が竹富部長を注視した

「我々システム部としては私を含め人材が二人しかいません。今回のような事件では、セキュリティに関して全ての方策を練るには人員不足です。正直に言いますと、我々二人だけではセキュリティに関する知識と実績が足りません。そこで提案なのですが、セキュリティの専門家を招聘するのはいかがでしょうか」

 播磨部長は呆気にとられた。ことコンピュータに関してシステム部が白旗を揚げるとは思っていなかったらしい。他も同様で早々に諸手をあげた竹富部長に白い目を向けた。

 確かに竹富部長の言う通り、おれもセキュリティに関してはゼロデイ攻撃をかわすぐらいしか知識も経験もない。恐らく竹富部長もその程度なのだろう。

「そのセキュリティの専門家というのは?」

 草野社長が言った。

「私の元部下が興したセキュリティの専門会社があります。そこに相談してみたいのですがいかがでしょうか」

 播磨部長が竹富部長に釘を刺した。

「予算は?」

 竹富部長は真っ直ぐ返事をした。

「仕事の内容からして予め見積もりを取れませんが、恐らく数百万、多くても一千万はいかないでしょう」

 播磨部長は少し怒った。

「その額でそんな曖昧な数字は計上できませんよ」

「ですが被害額からすると、それでも安いものかと」

「そんな丼勘定の仕事を請け負う会社は信用できませんね」

「世間相場からすれば被害額に相応しい金額かと」

「だったら具体的な金額を示せる筈じゃないか」

「ですからそれが数百万、一千万以下と見積もれます」

「だから……」

 栗原専務が割って入った。

「分かった。話は分かった。システム部の保守費用という項目で計上しよう。システム部がお手上げと言っているんだ。事がこれ以上悪い方へ向かわないのであれば、安いもんだ。これは私の決済だ。いいね。異論はないね、播磨部長」

 播磨部長の怒りはまだ納まっていなかったが、栗原専務がそう言うのだからノーとは言えない。

 播磨部長は黙って頷いた。

 それを見て栗原専務は落ち着いた。

「竹富部長、金の事は一任する。予算がいくらになるか分かり次第報告して欲しい。しかしそのセキュリティ専門会社とやらの作業期間は一週間以内とする。それまでに犯人を挙げるように。これは絶対だ。日邦テレビグループの関連会社として、こういった事態は許されるものではない。必ず犯人を突き止めるように。これが私が決済する条件だ。できるか?」

 栗原専務の目線が鋭く竹富部長を射貫いた。

「承知しました。事態が判明次第、ご報告します」

 栗原専務も草野社長も頷いた。

「それではよろしく頼むよ」

 その草野社長の一声で会議は終わり解散となった。

 短い会議だったが、会議が終わった後の各人の足取りは重かった。それもそうだ。巨額の不正出金の犯人捜しをこれから始めなければならないのだ。もしかすると会議の参加者の中に犯人、または共謀者がいたのかもしれないし、会議の参加者にあらぬ嫌疑をかけなければならなくなるかもしれない。互いが互いを疑い出す。これは決して愉快な話ではない。しかも期限を区切られてしまった。通常業務の他に不愉快な仕事が増えたのである。決して気分のいいものではない。

 その思い足を引きずって、各人がそれぞれの持ち場に戻っていった。

 もう定時をとっくに過ぎているので経理部の面々と草野社長・栗原専務は帰宅の準備をしているのだろう。

 おれと竹富部長は四階に戻り、自分のデスクに着くとノートPCを前にして

「さっきの、要するに日邦テレビからどんな風にうちの会社が見えるか、そればかり気にしているように見えたんですけど」

 と、おれは竹富部長に率直に訊いた。

 時間も時間なのでフロア内にはおれと竹富部長しかいない。この時、この場所でなら秘密の雑談も誰かに漏れる心配はない。

「まあ、それもそうかな。WRAPレコードと日邦テレビは親会社子会社の関係というより、主従関係に近いからね。頭が上がらないんだよ。草野社長も栗原専務も」

 この歪な関係が草野社長と栗原専務の隠蔽体質の根源なのではないかとおれは予想した。

「親会社と子会社の関係ってそういうものなんですか」

「いや、うちの場合が特殊なんだ。なんせ日邦テレビは在京キー局のトップだし、オンエアされたドラマとか優先的にうちの会社でDVDにして販売させてくれるでしょ? うちの会社は商品開発の投資をしないで親会社の日邦テレビにおんぶに抱っこだから。もしこの関係が崩れると、うちみたいな会社はあっという間に転落するんだ。うちの会社の売上の中で、日邦テレビ関連の作品の占める割合を計算してみれば分かるよ。そりゃ、平身低頭するしかないんだよ」

 なるほど。その計算はおれもやった事がある。そういう事か。現場のディレクターに話を訊いても、どうも日邦テレビの人間はWRAPレコードの人間を下にみる傾向にあるらしい、ともおれは知っていた。

「しかし何で警察へ通報する猶予をとったんですか。奥田さんじゃないですけど、こういった事件はなるべく早く警察に捜査してもらった方が得策に思えるんですが」

 竹富部長は半笑いの溜息を吐いた。

「良いのか悪いのか、うちのトップは元マスコミの人間が就いてるでしょ。だからマスコミの良いところも悪いところもよく知ってるんだ。こういった事件の場合、マスコミは容赦なく突撃取材に出るんだよ。それに約二百人の社員を抱えてる。それだけいると情報統制は事実上無理だからね。目先の謝礼金目当てで口を滑らせるやつだっているでしょ。まあ、レコード会社の人間なんて、饒舌というか喋りたがりが多いから、本当に秘匿したい事はそもそも誰にも知らせないっていうのが一番なんだよ」

 身内すら信用しない。信用できない。これがマスコミ関連会社の不文律なのか。

「ではもし、今回の件が露呈するとすれば……」

「さっき会議室にいた誰かがリークしたとすぐ分かる。それはあまりにも後先を考えない薄っぺらな行動だから、誰も口外したりしないよ」

 おれは咄嗟の考えを口にした。

「でも臨時の役員会が開かれたのは誰にでも分かるじゃないですか。それで色んな憶測が社内に出回りませんか?」

 竹富部長はいつもの笑顔に戻った。

「それはそれ、いつもの事じゃないか。噂レベルの話に尾鰭が付いて話が出回るのはうちの会社じゃ、いつもの事だしね。それは気にしないでいいんだよ」

 なるほど。

「そうですか。調査はあのメンバーだけで内々のうちに済ませろとの事でしたが、それって私に徹夜仕事しろって言ってるのと同じじゃないですか。システム部員がそんな事してたら、余計に怪しまれますよ」

「そう。だから社外の人に協力してもらおうと言ったんだ。表向きはシステム内部のコードのリファクタリングだとか言っておけば素人は納得するよ。あ、そもそもリファクタリングって言葉が通用しないか。それに私も吉岡君も実際のところ、最新のセキュリティ犯罪に対応できる能力がないよね」

 おれは悔しいが頷いた。

「そう。だから本腰入れて捜査するなら外部の協力者が必要って事。しかも警察よりも強力な人材をね」

「竹富部長は元部下が興した会社に依頼すると仰ってましたが、どなたなんですか?」

「いや、言った通りだよ。まだ私が社長業をやっていた時の部下が、独立して企業のセキュリティを監査する会社を始めたんだ。そこに依頼する」

 竹富部長がWRAPレコード入社前に自分の会社を持っていたのは知っている。しかし、普段はおくびにも出さないが、今まで多くの海千山千のいかがわしい連中とも付き合ってきたのだろう。だから音楽業界に自然と吸い込まれてきたとも思われる。いや、竹富部長はその海千山千の連中と同じだったのかもしれない。今現在はユーモアを解し笑顔を絶やさない紳士なサラリーマンだが、かつては魑魅魍魎の一族だったかもしれない。おれはそう思うと竹富部長を何か得体の知れぬ怪物が羊の皮を被っているように思えてきた。

「これからその人員の要請をするから、吉岡君は今日のところはこれで上がっていいよ」

 意外だった。今からログの精査を始める積もりだったのでおれは気分的に担当を外された形になった。

「いいんですか? やる事は沢山ありそうなんですが」

「いいの、いいの。その代わり、明日以降は忙しくなるんだから。徹夜も覚悟しておいてね。今日のところ、今からできる事はそれほど多くないでしょ。それに今から人員要請の電話をするんだけど、なんせ久しぶりの相手だから長電話になるかもしれない。そんな事まで吉岡君を付き合わせる積もりはないよ。さ、さっさと片付けちゃって、今日のところはお終いにしよう」

「そういう事でしたら、今日はお先に失礼させていただきます」

 おれはさっさとPCをシャットダウンさせた。その間に荷物(と言っても筆記用具だけだが)を片付けて帰宅の準備を始めた。

「それではまた明日以降よろしくお願いします。失礼します。竹富部長はこれからどうなさるんですか」

 竹富部長はいつもと違う笑顔になった。

「これからハッカー雇うんだ」

 ハッカー?

 竹富部長の言う「ハッカー」はマスコミで用いる「ハッカー」とは意味合いが違う。

 世間的にはハッカーと言えばネットワーク犯罪者との認識が一般的だが、この老練の強者が使うハッカーとは「コンピュータに関して長けている者」という意味だ。竹富部長はネットワーク犯罪者を「クラッカー」と呼ぶ。

「ハッカーは昼夜逆転してる場合が多いからね。今時がちょうど良い時間帯なんだ」

「そうなんですか」

「そういうもんだよ。明日から忙しくなるから、今日はもう上がっておきなよ」

 おれはその言葉に従って退社した。

 よくよく考えてみれば、これは竹富部長の人払いだ。これからそのセキュリティの専門会社に連絡をして人員の派遣を要請するのだろうが、この時間で今日の明日でその人員を確保できるのだろうか?

 いや、その目算があるから人払いしたのだろう。

 それにそのセキュリティ会社との遣り取りをおれに聞かれたくない、何らかの理由があると予想される。

 おれと竹富部長の仕事上の関係は、今さら隠し事をするような間柄ではない。少なくともおれの方からはそういう壁はない。おれは竹富部長を全面的に信頼している。

 が、竹富部長からすればおれはただの世間を知らない若造でしかなかったのだろう。

 それならそれで構わない。確かにおれはまだ若輩者だ。おれにもその自覚はある。

 ここは一旦退散して明日以降に備えるしかなかった。

 しかし、セキュリティの専門会社とはどんな連中なのだろうか?

 外部の専門家を自社に招き入れるそれ自体がおれは不審に思ったが、そこは竹富部長の判断に一任するしかない。

 なんせこっちはその分野では素人同然だ。

 誰が来て何をするのか、お手並み拝見といこうじゃないか。

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